第五話:神の如き眼と、三河の疾風
第五話:神の如き眼と、三河の疾風
「幻影の織田軍」という不気味な流言が陣中を駆け巡ってから、十日ほどの月日が流れていた。
その間にも、今川軍の前線を蝕む小さな異変は、止むことなく繰り返されていた。
街道の要所に設けたばかりの継所が夜陰に紛れて襲われ、備蓄していた兵糧が忽然と奪われる。夜半の物見が捕らえられ、翌朝、猿轡を噛まされ縄で縛られた姿で街道筋の立ち木に吊るされている。あるいは、清須方面への進軍路を偵察に出した伝令が、何者かに道標を巧妙に狂わされ、泥沼の深みに誘い込まれて半日も遅参する。
いずれも、将兵の首級を奪うような大掛かりな合戦ではない。だが、大軍にとっては、手足を縛られたまま小刀で少しずつ皮膚を削がれるような、暗澹たる消耗であった。
死者が出ぬことこそが、かえって陣中の恐怖を煽った。
血肉の通った敵であれば、迎え撃って斬り伏せることもできる。だが、姿を見せず、足跡も残さず、こちらの弱点ばかりを突いて消え去る敵に対し、駿河や遠江の武辺者たちは、次第に疑心暗鬼の闇へと落ち込んでいった。
「――これは、桶狭間で討たれた織田上総介の怨霊の祟りではないか」
篝火の爆ぜる夜の陣屋で、兵たちが青ざめた顔を寄せ合って囁き交わす声を、翔次は幾度となく耳にした。
「無念の討ち死にを遂げた信長の生霊が、尾張の野を彷徨うておるのじゃ」
「夜な夜な、田楽狭間の方角から、無念を訴える叫びが風に乗って聞こえてくるというぞ」
最初は末端の兵たちの世迷い言に過ぎなかった流言も、日を追うごとに広がり、将兵の心を蝕みつつあった。
兵が怪異を信じ込めば、夜番の目は曇り、風の音一つに怯えて槍を取り落とす。実体のない幻影が、二万余の大軍を内側から蝕んでいた。
だが、本営の片隅に席を与えられた翔次だけは、そうした迷信に惑わされてはいなかった。
翔次は薄暗い陣屋の板間に尾張の絵図を広げ、墨をすり、筆を執った。
怨霊などではない。少なくとも、今起きている異変は、明確な意志を持った人間の仕業と考えるべきだった。
翔次は、これまでに報告された大小五十余りの被害を帳面から拾い上げ、絵図の上に朱の点を打っていった。
兵糧が奪われた継所。
物見が襲われた街道の屈曲。
今川への協力を渋り始めた村落。
それらを記した点を、街道や川筋、地形の起伏と照らし合わせる。
点を打ち終えた翔次は、筆を止めた。
「――北か」
呟き、絵図を少し手前へ引き寄せる。
「いや、ただ北で起きているというだけじゃない。北の要所を狙い、こちらの動きを縛ろうとしている……」
被害は、南の知多郡や東の三河国境にはほとんど見られない。清須の北方、美濃との境目に連なる湿地帯と山野、その周辺の街道に、驚くほど偏っていた。
偶然では片づけられない。
もし無差別の祟りであるなら、災厄は今川軍の各所に散発するはずだ。だが現実には、特定の地域を起点として、補給や連絡に欠かせぬ場所ばかりが狙われている。
(前田利家の武勇。蜂須賀小六の水運。滝川一益の忍び。木下藤吉郎の人心掌握……)
翔次の脳裏に、これまでの報せから浮かび上がった四人の名がよぎった。
赤槍を振るう武者。川筋を知り尽くした者。人の目を欺く者。そして、人の心と物の流れを動かす者。
それぞれの動きが、どこかで繋がっているように思えた。
しかし、確かな証拠はない。四人が同じ主の下で動いているのか、それとも各々が己の判断で今川軍を揺さぶっているのか。それすら、まだ分からなかった。
翔次は絵図に目を落とした。
敵は、今川の本隊と正面から決戦するつもりなどないのだろう。
大軍を打ち破る必要はない。尾張に留まるために必要な手間と兵糧、そして警護の兵力を際限なく費やさせる。領国を保つための負担を積み重ね、尾張を押さえ続けることそのものを割に合わぬものに変えていく。
(……今川軍が尾張を支配し続けられないようにしているんだ)
敵の狙いがそこにあるなら、個々の襲撃を撃退するだけでは足りない。
襲われた継所を守るために兵を増やせば、別の場所の警備が薄くなる。警備を厚くすれば、前線へ回す兵が減る。兵を増やした分だけ兵糧も要る。補給を増やせば、守るべき道も長くなる。
敵は小さな損害を与えながら、今川軍に選択を迫っているのだ。
どこを守り、どこを諦めるのか。
その判断を誤らせれば、敵は一兵も失わずとも目的を果たせる。
(後世の兵法書に載るような、華々しい戦ではない。だが、これを放っておけば、こっちが勝手に疲れ果てる)
翔次は筆を置いた。
この策を考え出した者が、どれほどの智者なのかは分からない。だが、今川軍の弱点を見抜き、正面からの決戦を避けながら戦の主導権を奪おうとしていることだけは確かだった。
翔次は絵図を畳むと、義元の御座所へ向かった。
「――太守様。陣中に広まる怨霊の噂、惑わされてはなりませぬ」
評定の間。
床几に座す義元の前に絵図を広げ、翔次は頭を垂れた。
居並ぶ岡部元信や朝比奈泰朝らが、若い百姓上がりの言葉に目を向ける。
「此度の異変は、祟りなどではございませぬ。ご覧ください。被害は北方の街道と木曽川の支流に沿って偏っております」
翔次は朱点の連なる箇所を指でなぞった。
「敵の狙いは、我が軍の殲滅にあらず。兵糧を奪い、連絡を遅らせ、見張りを疲弊させることで、我が方に守るための兵を際限なく割かせることにございます。尾張を押さえ続ける負担を増やし、我らが自ら手を引くよう仕向けているのでしょう」
義元は半眼を開き、絵図の朱点を見つめた。
「……兵を討たずして、軍を疲れさせる策か」
「はい。一つ一つの損害はわずかに見えましょう。されど、このまま手をこまねけば、兵糧は前線に届く前に失われ、将兵は姿の見えぬ敵への警戒で夜も眠れなくなります。敵の思うままに守備を増やせば、今度は進軍に回す兵が足りなくなる。いずれは、我が方の動きそのものが縛られましょう」
「そなたは、敵の背後に一人の智者がおると見るか」
義元の問いに、翔次はすぐには答えなかった。
「その可能性はございます。されど、今の段階では断じかねます。四人ほどの名が頭に浮かびますが、いずれも推測に過ぎませぬ。誰かが束ねているのか、それぞれが己の判断で動いているのかも、確かなことは申せませぬ」
元信が腕を組み、絵図を覗き込んだ。
「では翔次、そなたはこの見えざる敵を、いかに防ぐと申す」
「すべてを守ろうとする愚を捨てることにございます」
翔次は絵図の上に、別の小さな印を置いた。
「広大な尾張の全土を、一様に警固することはできませぬ。敵が補給や連絡を妨げる場所は、川渡しや道の狭まるところ、あるいは街道の分かれ目に限られております。まずは、兵糧と連絡を維持するうえで欠かせぬ拠点を選び、そこに守りを集中させるべきです」
「拠点を選ぶと申すか」
「はっ。すべての継所に同じ数の兵を置けば、兵がいくらあっても足りませぬ。川渡し、街道の要所、そして兵糧を集める場所。この三つを軸として守りを固め、他の場所は巡回と見張りで補うのでございます」
翔次は、絵図の上に指を滑らせた。
「また、伝令の道筋を一つに定めてはなりませぬ。主たる道が断たれた際に備え、別の道をあらかじめ定めておく。一本が塞がれても、別の道で知らせが届くようにするのです」
「道を増やせば、守る場所も増えるのではないか」
朝比奈泰朝が、慎重な面持ちで問うた。
「その通りにございます。ゆえに、すべての道を同じように守るのではありませぬ。大事なのは、どの道が使えなくなっても、軍全体の連絡が途絶えぬこと。守るべき要所と、使い分ける道筋を定め、敵が一つの場所を襲っただけでは、我が軍の動きを止められぬようにするのでございます」
言い終えた翔次は、胸の内で小さく息を吐いた。
口にするほど簡単ではない。
絵図の上なら道は何本でも引ける。だが、実際に道を整え、見張りを置き、兵糧を運ぶのは人である。土地に不慣れな兵を配置すれば、地元の者に道を欺かれることもある。守備を固めれば、敵は別の場所へ狙いを変えるかもしれない。
それでも、何もせずに敵の思惑に付き合うよりはよい。
義元はしばし沈思した。
やがて、扇を膝の上で静かに鳴らした。
「……よい見立てじゃ、翔次」
その声には、軽々しい称賛ではない重みがあった。
「諸将が亡霊の影に怯える中、そなたは被害を一つずつ拾い、敵の狙いを絵図の上に浮かび上がらせた。兵の数や武勇ばかりを見ておれば、見落とすところであろう」
義元は絵図を見つめたまま続けた。
「鳥の眼をもって、戦場を見下ろしておるかのようじゃな」
(鳥の眼、か……)
一兵卒の視界に囚われず、領国と戦線全体を一枚の盤面として捉える思考。それが、この時代の武将たちには、並外れた才として映るのだろう。
だが、翔次自身は神仏の啓示など受けていない。
現代で歴史を学んだ知識と、目の前の出来事を繋ぎ合わせているに過ぎなかった。そして、肝心の歴史そのものが、すでに大きく変わり始めている。
「恐れながら、絵図の上で見えたことにございます。実際の地では、思いも寄らぬことが起こりましょう。まずは要所を定め、守りを試しながら改めてまいりたく存じます」
義元は、満足げに頷いた。
「よかろう。北方の守りを見直せ。元信、そなたは翔次を助けよ。兵の差配も、必要な分は預ける。ただし、兵糧も兵も無尽蔵ではない。守りを固めることで別の場所が手薄にならぬよう、逐一、報せを上げさせよ」
「はっ」
元信が頭を下げた。
翔次は深く平伏した。
わずか十日前まで、彼は名もない百姓に過ぎなかった。今や、今川家の太守が自らの見立てに耳を傾け、北方の守備を任せようとしている。
その重さに、背筋が冷えた。
功を立てれば立てるほど、歴史を変えた責任から逃れられなくなる。
信長を死なせたのは、自分だ。
その罪悪感は、いまだ胸の奥に沈んだままだった。
北方の守備を整え始めた翔次の胸には、安堵よりも別の懸念が浮かんでいた。
敵の動きが見えたからこそ、今川という巨大な軍団が、その足元に抱え込んでいるもう一つの亀裂が、はっきりと見えてきたのである。
――三河衆。
松平元康率いる、三河の武士団であった。
翔次は陣屋に戻ると、義元から預かった軍役帳と布陣図を見比べた。
今川軍二万余は、決して一枚岩の軍勢ではない。駿河の本国衆、遠江の諸将、そして今川家に従う三河の国人衆。異なる土地と事情を背負う者たちが、同じ軍旗の下に集められている。
その中でも、三河衆の負担は重かった。
幼少より駿府に人質として置かれていた若き当主・松平元康。彼の家臣たちは、今川軍の先鋒として危険な任務を担うことが多く、戦の最前線に立たされていた。
先日の桶狭間の合戦でも、敵の勢力がなお尾張に残る中、大高城へ兵糧を運び入れたのは元康率いる三河衆であった。敵の目をかいくぐり、危険な道を通って任務を果たした彼らは、少なからぬ犠牲を出していた。
だが、戦の大勢を左右した義元本隊の勝利の陰で、その働きは十分に顧みられていないように見えた。
(このままでは、三河衆の不満が積もる)
翔次は軍役帳を見つめた。
史実では、桶狭間で義元が討たれたのち、元康は岡崎へ戻り、今川家から離れていく。だが、この世界では義元が生きている。それだけで、三河の問題が消えたわけではない。
戦で流した血に見合う報いがない。危険な役目ばかりが回ってくる。駿河や遠江の諸将から、三河衆が軽んじられていると感じることもあるだろう。
それらが積み重なれば、元康自身が忠誠を保とうとしても、家臣たちの心までは繋ぎ止められなくなる。
(もし今、三河衆が前線を離れたら……)
北方の敵に備えるだけでも、今川軍には余分な兵力が要る。そこへ先鋒を担う三河衆の離脱が重なれば、尾張での戦線を維持することは一段と難しくなる。
翔次は唇を引き結んだ。
松平元康を、敵に回してはならない。
いや、敵に回さないというだけでは足りない。彼と三河衆が、今川家の中で自らの働きを認められていると感じられるようにしなければならなかった。
翔次は軍役帳を置き、義元の御座所へ向かった。
「太守様。尾張平定の成否を左右しかねぬ、味方の内にある懸念について申し上げたく存じます」
「味方の内にある懸念とな。申してみよ」
「三河の松平元康殿の軍勢にございます」
翔次の言葉に、義元の眉根がわずかに動いた。
「元康が、いかがした。あの者は幼少より予が手元で育った身。此度の大高城への兵糧入れも、見事に果たしたではないか」
「なればこそ、今のうちに顧みるべきと存じます」
翔次は慎重に言葉を選んだ。
「大高城への兵糧入れをはじめ、三河衆は危険な任務を担っております。されど、その働きに見合う恩賞やねぎらいが十分に行き届いているとは、拙者には思えませぬ。陣中では、駿河の兵が三河衆を軽んじる声も耳にいたしました」
義元の表情が、少しずつ厳しさを帯びた。
「……そなた、元康が謀叛を企てておると申すのか」
「いえ。元康殿にその意志があると申しておるのではございませぬ。されど、主君に忠義を尽くすことと、家臣が報われぬことを黙って耐え続けることは、同じではございませぬ」
翔次は、義元の目を見た。
「三河衆が前線を支えきれなくなれば、我が軍の布陣にも綻びが生じます。まして今は、北方で見えぬ敵が動いております。外からの妨害に加え、内側の不満まで募らせることは、避けねばなりませぬ」
義元は黙っていた。
翔次は続けた。
「どうか、それがしに三河衆の陣所へ赴くお許しをいただきたく存じます。元康殿の苦衷を直に聞き、その働きに見合う報いを整える道を探りとうございます」
しばらくして、義元は静かに頷いた。
「よかろう。元康の心を確かめてまいれ。だが、そなた一人の判断で恩賞や軍役を約してはならぬ。三河衆の訴えを聞き、必要な処置をまとめて予に報せよ。裁きは予が下す」
「ははっ。承知仕りました」
翔次は深々と頭を下げた。
その日の午後、翔次は護衛の小勢を連れ、本営を離れて三河衆の陣所へ向かった。
尾張と三河の境に近い野営地は、今川本隊の陣幕とは様子が異なっていた。粗末な竹矢来に囲まれた陣地には、血と泥に汚れた甲冑を繕う兵たちがいた。傷んだ草鞋を直す者もいれば、黙々と槍の手入れをする者もいる。
誰もが疲れていた。
だが、そこにあるのは、ただ荒廃した敗残兵の姿ではなかった。
陣の中心へ進む翔次を認めた番兵たちは、余計な雑談を交わすことなく、すぐさま来訪を告げた。疲弊の中にも、規律の芯が一本通っている。
この軍勢には、まだ強い結束が生きていた。
陣幕の前では、一人の若い武将が腕を組み、陣外の街道を見据えていた。
年の頃は十八。小柄で、がっしりとした体つき。泥に汚れた具足をまとい、額には幾筋もの汗が光っている。
松平蔵人佐元康――後の徳川家康、その人であった。
眉間には、若武者とは思えぬ深い苦悩の皺が刻まれていた。時折、胃の腑を押さえるように左手を腹へ当てる。その仕草からは、戦と家中を背負う重圧が、彼の身を苛んでいることが窺えた。
「――松平元康殿とお見受けいたします」
翔次が馬を降り、礼を尽くして声をかけると、元康は弾かれたように振り返った。
その眼光は、窮地に追い詰められた若虎のごとく鋭かった。
「いかにも、松平元康でござる。……今川本営の御方とお見受けするが、かような陣所へ、いかなる御用向きか」
「太守様に仕える鍋蓋翔次と申します」
その名を耳にした瞬間、元康の表情がわずかに動いた。
「……鍋蓋殿。桶狭間の豪雨を言い当て、太守様のお命を救うたという、あの知者殿か」
「過分の風聞にございます。元康殿、単刀直入に申し上げます。それがし、太守様の命を受け、三河衆の真情を伺いに参りました」
元康の頬の筋肉が、微かに引き攣った。
「……真情、とな。本営の物見が、我らに謀叛の疑いありと注進でもいたしましたかな」
冷え切った自嘲の響きがあった。
今川の使者が来れば、過酷な先鋒の命令か、忠誠を疑う詮議が待っている。元康は、そうした経験を重ねてきたのだろう。
翔次は首を横に振った。
「滅相もございませぬ。詮議のために参ったのではございませぬ。元康殿、そして三河の将兵の皆様が、この戦で流された血の代償を、正しく知るためにございます」
元康は息を呑み、翔次の顔を凝視した。
「大高城への兵糧入れ。敵の目をかいくぐり、危険な道を通って任務を果たされたその働きは、軽んじられてよいものではございませぬ。それにもかかわらず、三河衆の働きが十分に顧みられていないのならば、それは本営の怠りにございます」
翔次は頭を下げた。
「死地に赴き、任務を果たしても、ただ次の危険な役目が待っている。その苦しみを、拙者は軽々しく語ることはできませぬ。されど、元康殿がどれほどの苦渋を呑み込み、この陣を守っておられるか。それを知りたいと存じております」
元康の瞳が揺れた。
「……鍋蓋殿。そなたは、本気でそう思うておられるのか」
その声は、微かに震えていた。
「今川の諸将は、口を開けば『今川の御恩を忘れるな』『人質の分際で命を惜しむな』と申すばかり。……某とて、今川様の御恩を忘れたわけではござらぬ。されど、三河の兵もまた、親があり、子がある生身の人間でござる!」
元康は拳を握りしめた。
「危険な役目を命じられることは、武士の習い。異論はござらぬ。だが……三河の者が死ぬことだけを当然と思われるのは、あまりにも……あまりにも無念でござる!」
絞り出すような告白だった。
その目には、抑えきれぬ涙が薄く張っていた。
先鋒として散っていった家臣たちの顔。駿府に残した妻子の身。主君への恩義と、三河の者たちを守らねばならぬ責任。その狭間で、元康はどれほどの苦悩を抱えてきたのだろう。
翔次は一歩進み寄った。
「元康殿」
泥に汚れた元康の手を、両手でしっかりと握った。
「貴殿らの流した血を、無駄にはいたしませぬ。それがしから太守様に、正当な恩賞と兵糧の補給を進言いたします。北方の前線警固についても、三河衆ばかりに負担が偏らぬよう、改める道を探ります」
「鍋蓋殿……」
「どうか、今しばらく力を貸していただきたい。今川が尾張に秩序を築くためには、三河衆の力が欠かせませぬ。貴殿の器量も、家臣の方々の働きも、使い捨てにしてよいものではございませぬ」
翔次の言葉には、計算だけではない真情が宿っていた。
乱世の中で、家臣を守るために胃の腑を痛める若き当主。その姿に、現代で孤立して生きてきた翔次自身の魂が、痛烈に共鳴していたからである。
その時だった。
陣地の外で、資材を運んでいた荷駄が泥に足を取られ、積んでいた米俵が崩れかけた。
「危ない!」
兵たちが駆け寄るより早く、元康が振り向いた。
「――支えよッ!」
その声は、先刻まで苦悩を吐露していた青年のものとは思えぬほど力強かった。腹の底から轟く、主君の号令であった。
次の瞬間、翔次は目を見張った。
疲れ切っていた兵たちが、号令一下、疾風のごとく動き出したのである。転がりかけた俵を受け止め、荷を支え、崩れた列を立て直す。誰一人として不平を漏らさず、無駄な怒号もない。
ただ、元康の一声に応えて動いていた。
その連携は、日々の鍛錬と、互いへの信頼なしには成り立たないものだった。
――疾風。
これが、三河武士団の強さなのか。
単に勇猛なだけではない。主君の命を受けた兵たちが、互いの動きを知り、迷わずに動く。厳しい境遇の中でも、彼らは一つの軍勢として鍛えられていた。
元康が一声叫べば、この者たちは火の中へも飛び込むのだろう。
その結束を、恩賞もねぎらいもなく使い潰すことが、どれほど危ういことか。翔次は肌で思い知った。
元康は荷駄が無事に立て直されたのを見届けると、翔次に向き直った。
「……鍋蓋殿。かように我ら三河の苦衷を聞き、真の言葉をかけてくださった御方は、そう多くござらぬ」
元康は深々と頭を下げた。
「某、鍋蓋殿の御恩、忘れませぬ。貴殿が我らの働きを太守様に伝えてくださるならば、某もまた、三河の者たちを率いて務めを果たしましょう」
翔次は、その言葉を胸に刻んだ。
だが、これで全てが解決したわけではない。
元康が信じようとしてくれているのは、翔次の言葉であって、今川家そのものへの不満が消えたわけではないのだ。約束を形にしなければ、今日の信頼は明日にも失われる。
「必ず、太守様にお伝えいたします」
翔次は、固く答えた。
夕刻、本営へ戻った翔次は、直ちに義元へ報告した。
三河衆の苦境。大高城への兵糧入れで果たした働き。前線警固の負担。そして、兵たちの士気が崩れる前に処遇を改める必要があること。
翔次は、三河衆への兵糧三千石の優先配分と、北方の前線警固を駿河衆と輪番で担う案を献策した。
「三千石か」
義元は、差し出された書付に目を落とした。
「兵糧を優先して回せば、他の兵の配分にも手を入れねばなるまい。輪番にすれば、駿河の諸将から異議も出よう」
「承知しております。されど、三河衆の負担を放置すれば、いずれ兵の心が離れます。今ここで配分を整えることは、先々の戦を支えるための備えにございます」
義元はしばし黙していた。
やがて、書付を置いた。
「よかろう。三河衆への兵糧を優先して配分せよ。前線警固も輪番とする。ただし、各隊の負担が実際に減っておるか、兵糧が滞りなく届いておるかを確かめよ。帳面の上で改めたところで、現場に届かねば意味はない」
「はっ。必ず確かめまする」
義元は翔次を見据えた。
「元康の心を聞き、兵の働きを見て、処遇を改める道を示した。敵の策を見抜くだけが軍師の務めではないということじゃな」
「恐れながら、拙者はまだ、見落としてばかりにございます」
翔次は頭を垂れた。
「絵図に現れるものは見えても、人の胸の内までは、尋ねてみねば分かりませぬ」
義元は、その答えに目を細めた。
「その心を忘れるでないぞ、翔次」
「はっ」
その日、三河衆への処遇は改められた。
だが、翔次は自らの働きを手放しで喜ぶことができなかった。
敵の策を見抜いたつもりでも、まだ相手の正体は分からない。三河衆の不満を和らげることはできても、今川家に積み重なった歪みを一度に取り除けるわけではない。
まして、これから何が起きるのか。
翔次は、まだ知らなかった。
茜色に染まる尾張の空の下、翔次は自らの陣屋の縁に立ち、西の空を見つめていた。
北には、姿を見せぬ「幻影の織田軍」がいる。
その背後に誰かがいるのか。四人の名が浮かぶものの、彼らが一つの意志で動いているのかさえ、確証はなかった。
そして今川軍の内側では、三河衆の処遇を改めることで、ひとまず大きな亀裂が広がるのを防いだ。
北方の守りを整え、三河衆の心を繋ぎ止める。今川が尾張で戦い続けるために、必要な手を一つずつ打ったのだ。
これで、ひとまずは持ちこたえられる。
そう考えかけた時、翔次の胸に冷たいものが走った。
自分が一つの問題を解決するたび、歴史はまた別の形へと動いていく。
桶狭間で信長が死んだ。
義元は生き残り、今川軍は尾張に留まった。
その変化の先で、名も知れぬ策が動き、三河の武士たちの心が揺れ、翔次自身もまた、歴史の流れに手を伸ばし始めている。
もはや、元の歴史を知っているというだけでは、先を見通せない。
翔次は、夕闇に沈み始めた尾張の大地を見つめた。
乱世の歴史は、彼の知る筋道を外れ、音もなく深い闇へと進み始めていた。




