第四話:幻影の足音
第四話:幻影の足音
桶狭間の合戦から、四日が過ぎていた。
尾張北部、萱津の廃屋が点在する一帯を巡る不穏な噂は、日を追うごとに今川の本営へ広がっていた。
十余騎の物見が、朱槍を振るう一騎の武者に襲われたという一件以来、義元は北方への深入りを控え、物見の配置を見直すよう命じていた。敵の数も、拠るところも、いまだ明らかではない。正体の定かならぬ相手を追って兵を散らすのは、いたずらに損害を招くばかりであった。
その報告を聞いた翔次は、胸の内に冷たいものを感じながらも、何とか冷静さを取り戻そうとしていた。
(前田利家……。あの猛将が一人暴れたところで、戦局の大勢まで覆るはずはない)
史実において、利家はこの頃、主君の勘気を受けて織田家中を離れていたはずだ。信長を失った今、わずかな手勢とともに尾張をさまよっているのだろうか。
無論、そうと決まったわけではない。翔次の知る歴史は、信長が死んだ時点で大きく道を違えている。かつての境遇が、そのまま今の利家に当てはまるとは限らなかった。
武勇は侮れない。されど、局地的な襲撃と、大国の軍勢を相手にした戦は別物である。
信長という主を失った織田家は、いま家中をまとめる者を欠いている。各地の城や国人がどこまで抵抗を続けるかは分からぬが、今川の組織だった軍勢が、兵の数と兵站の力をもって押し進めば、いずれ尾張を平らげられる――翔次は、そう考えようとしていた。
桶狭間という一点で歯車は狂った。だが、国力の差や兵を養う仕組みまで、すべてが変わったわけではない。
そう自分に言い聞かせ、翔次は義元に示した尾張平定の策を、実務へ移すことにした。
まず取りかかったのは、兵糧道の整備である。
駿河・遠江・三河から尾張へ至る道筋を、いかに安全に保ち、兵糧を絶やさず運ぶか。翔次は後世に得た知識を頼りに、街道と川筋、村々の位置を絵図に書き込んだ。
一度に大量の荷を運べば、途中で襲撃を受けた際の損害も大きくなる。そこで、街道の要所や川渡しの近くに、兵糧を一時的に預ける継所を設ける。荷駄を幾つかに分けて運び、人足を途中で交代させれば、一か所で荷を失っても、すべての物資を一度に失うことはない。
また、近在の農民に荷運びや道案内を頼む際には、力ずくの徴発を避け、相応の駄賃を支払うよう提案した。
民を敵に回しては、道も兵糧も守れない。必要な物資を確保するには、武力だけでなく、民が協力する理由を作らねばならぬ。
その考え方は、翔次が後世の知識から学んだ、戦を支える仕組みの一つだった。
翔次が継所の候補地と運搬の手順を説明すると、義元は絵図を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「細部まで考えておるな。兵を動かすことばかりに目を向けず、兵を養う道を整える。そなたの考えは、軍を預かる者にとって大いに役立つ」
「恐れ入ります」
「されど、絵図に道を引くだけでは、兵糧は届かぬ。実際に運び、守り、滞りがあれば改めよ。元信、そなたがこの者を助け、現場に即して進めよ」
「はっ。承知いたしました」
岡部元信は短く答えた。
翔次への疑念は、まだ消えていない。桶狭間の雨を言い当てたことといい、軍議での進言といい、この若者には尋常ならざる知恵がある。だが、どこまで信じてよいのかは分からなかった。
それでも、兵糧を運ぶ道筋を整え、略奪を抑えて民の協力を得ようとする策には理があった。元信は武将として、その点を認めざるを得なかった。
継所の整備は、街道沿いのいくつかの地点から始まった。
兵糧米が運び込まれ、荷駄の往来が少しずつ整い始める。駄賃を受け取った農民たちも、荷運びを請け負うようになった。
すべてが思惑どおりに進んだわけではない。道のぬかるみで荷駄が滞り、馬が疲れ、予定どおりに届かぬ荷もあった。それでも、仕組みを整えれば、いずれは損害を抑えられるはずだった。
(このまま兵站を固め、清須への道を押さえれば、無駄な戦を避けて尾張を平定できる……)
翔次は、わずかな手応えを感じ始めていた。
だが、その見通しは長く続かなかった。
最初の破綻は、木曽川の支流に近い継所で起きた。
夜半、見張りを置いていたはずの兵糧蔵から、数十石の米俵が消えたのである。
朝になり、見張り兵たちは、蔵の近くに残された縄の切れ端と、川辺へ続く濡れた足跡を見つけた。夜の間に何が起きたのか、誰も気づいていなかった。
「何たる不覚だ! 川沿いの警戒を怠るなと命じておいたはずだぞ!」
報告を受けた翔次は、思わず声を荒らげた。
宿直の足軽が、青ざめた顔で答える。
「申し訳ございませぬ。夜半に川面から水音が聞こえた気はいたしましたが、水鳥か何かと思い……。朝になって蔵を確かめたところ、閂が外され、米俵がなくなっておりました」
「船で運び出したのか」
「足跡は川辺へ続いております。おそらくは……」
翔次は絵図を広げ、川筋を凝視した。
陸路を見張るだけでは、川から近づく者を防げない。こちらが街道の警戒を固めたことを知り、別の道を使ったのかもしれぬ。
(木曽川の川並衆……。蜂須賀小六か?)
尾張と美濃の境目には、水運に通じた者たちがいる。蜂須賀小六正勝も、その名を知られた野武士の頭領であった。
だが、翔次には確かなことが分からない。
米を奪った者が本当に小六なのか。それとも、その配下か、別の水運の者たちなのか。
そもそも、米俵を運び出した者たちは、こちらの兵糧道を狙って動いていたのか。たまたま手薄な蔵を見つけたにすぎないのか。足跡と縄の切れ端だけでは、そこまで見定めることはできなかった。
ただ一つ確かなのは、こちらが整え始めた兵糧の道が、すでに何者かに狙われているということだった。
しかも、襲撃はそれだけでは終わらなかった。
翌日、清須方への誘降工作に用いるはずだった書付が、本営の文庫から抜き取られていたことが発覚した。
翔次が起草し、尾張中部の豪族たちへ密かに送る予定だった書付である。そこには、降伏を促す条件や、使者を送る手順が記されていた。
その写しが、清須方へ渡ったらしい。
「我が軍議の秘事が漏れたと申すか!」
義元の声が陣幕に響いた。
文庫には元信の配下が見張りを置いていた。されど、出入りする者をすべて疑うことも、陣中の者を一人残らず縛り上げることもできない。
元信は苦渋の表情で頭を垂れた。
「面目次第もございませぬ。間諜の仕業かと存じます。鍵をこじ開けた跡もなく、いかにして書付を持ち出したのか、いまだ分かりませぬ」
翔次は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(滝川一益……?)
後世の歴史で名を知られた武将であり、諜報や調略にも通じていた人物だ。
しかし、今は永禄三年。翔次の知る一益が、どのような立場にあり、何をしているのかまでは分からない。
この一件が一益の仕業だという証拠もなかった。書付を盗むことに長けた者は、一益のほかにもいる。あるいは、陣中の者が何らかの事情で持ち出した可能性さえ、まだ捨てきれなかった。
それでも、兵糧の窃取と軍議の書付の流出が相次いだことで、翔次は一つの疑念を抱かずにはいられなかった。
敵は、ただ力任せに今川軍へ挑んでいるのではない。
こちらの行動を知り、その隙を突いているのではないか。
そして、追い打ちをかけるように、尾張北部の村々から奇妙な報告が届いた。
「太守様、北方の村々に妙な噂が広まっております」
斥候が困惑した顔で告げた。
「今川が駄賃を払って集めようとしていた米を、何者かが先回りして買い集めているとのこと。村人や商人に銭を融通し、米を別の蔵へ移しているそうにございます」
「奪っているのか」
「いえ、力ずくではないとのこと。『今川の軍勢に米を取られぬよう守る』『商いを助けるための寄進である』などと説き、村人や商人を納得させているようで……」
「寄進、とな」
義元の眉がわずかに動いた。
翔次は、報告の意味を考えた。
武力で米を奪うのであれば、こちらも兵を出して取り返せばよい。だが、村人や商人が自ら米を移し、銭の融通を受けているのなら、単純に敵の略奪とは言い切れない。
米がどこへ運ばれ、誰の手に渡るのか。どのような条件で銭が貸し付けられ、村人たちは何を約束したのか。確かめるべきことは多かった。
(人の心と、銭と米の流れを利用している……。木下藤吉郎か?)
後世に豊臣秀吉として知られる男。その名を思い浮かべたものの、翔次はすぐに考えを戒めた。
今の藤吉郎がどのような働きをしているか、翔次には分からない。まして、この一連の動きに関わっているという確証もない。
だが、もし藤吉郎のように人を動かす才を持つ者が、商人や村人を味方につけているのなら、今川軍は力だけでは対処できない。
米を守るには兵が要る。兵を増やせば、その分だけ兵糧が要る。兵糧を守るために兵を割けば、前線で使える兵が減る。
小さな損害であっても、重なれば軍の動きを鈍らせる。
翔次は、その仕組みをようやく理解し始めていた。
朱槍の武者は、物見を正面から打ち破る。川を使う者たちは兵糧を運び去る。何者かが文庫へ忍び込み、軍議の書付を盗み出す。そして、別の者が銭と米を動かし、村人や商人の心をつかむ。
それぞれの働きと、かつて歴史の中で覚えた名が、翔次の頭の中で結びつきかけていた。
(前田利家、蜂須賀小六、滝川一益、木下藤吉郎……。まさか、あの四人が同じ方向へ動いているのか?)
考えがそこまで進んだところで、翔次は口をつぐんだ。
四人が本当に連携しているのか。それぞれが別の思惑で動いているのか。誰かが指図しているのか、それとも現場の判断が結果として同じ方向を向いているだけなのか。
今の段階では、どれも確かめようがない。
信長が死んだことで、歴史の流れは大きく変わった。
その変化の中で、かつて知っていた人物たちが、翔次の知らない道を歩み始めているのかもしれない。
翔次は頭を抱えた。
自分は一人ひとりの名を知っている。だが、彼らが今どこにいて、誰に従い、何を考えているのかは知らない。
知っているつもりだった歴史は、すでに頼りにならなくなっていた。
「翔次。そなたはどう見る」
重苦しい沈黙の中、義元が問いかけた。
「兵糧を奪う者。軍議の書付を盗み出す者。民や商人を動かし、米の流れを変える者。そして、朱槍を振るう武者。これらが、すべて偶然に起きたことと思うか」
翔次は、すぐには答えられなかった。
それぞれの事件には、それぞれの事情があるはずだ。水運に通じた者は川を使い、忍びに長けた者は警戒の隙を探し、商いを知る者は銭と米を動かす。
その働きが同じ方向へ向いているように見えるからといって、背後に一人の指揮者がいるとは限らない。
しかし、今川軍が受けている損害は、明らかに一つの傾向を示していた。
「……偶然だけとは思えませぬ」
翔次は慎重に答えた。
「ただし、すべてを一人の者が指図しているかどうかは、まだ分かりませぬ。敵がこちらの動きを知り、兵糧や情報の流れを狙っていることは確かに見えます。まずは、どこから情報が漏れたのか、米がどこへ運ばれたのかを確かめるべきかと」
義元は黙って耳を傾けていた。
「敵の狙いが我が軍の殲滅ではなく、進軍を妨げ、尾張にとどまる負担を増やすことにあるならば、こちらも守り方を変えねばなりませぬ。一つの継所を固めるだけでは足りませぬ。川筋と街道を合わせて見張り、兵糧の置き場所を分散させ、書付の扱いも改める必要がございます」
「なるほど」
義元は腕を組んだ。
「敵が少数であるからと侮れば、こちらの手間ばかりが増える。されど、姿も定かでない相手に大軍を動かすわけにもいかぬ」
その言葉には、太守としての冷静な判断があった。
敵の正体を知らぬまま、腹立ちに任せて兵を動かす。それこそが、相手の望むところかもしれない。義元は、報告された被害の大きさだけでなく、それらが今川軍の行動に及ぼす影響を見定めようとしていた。
「元信。まずは被害のあった継所と川筋を調べよ。書付の流出についても、文庫への出入りを洗い直せ。ただし、疑わしき者を手当たり次第に捕らえることは許さぬ。陣中を疑心暗鬼に陥らせては、敵の思う壺じゃ」
「はっ」
「翔次。そなたは兵糧の道を改め、被害を抑える策を考えよ。敵の正体を急いで決めつけるな。分からぬものは分からぬまま、確かなことから手を打て」
「承知いたしました」
翔次は深く頭を垂れた。
その言葉は、己自身にも向けられたものだった。
知っている名を見つけたからといって、すべてを知ったつもりになってはならない。歴史の知識は手掛かりにはなる。だが、目の前の敵を見誤れば、その知識はかえって判断を狂わせる。
その日を境に、今川の陣中では北方の異変がさまざまに語られるようになった。
「北の織田には、姿を見せぬ大将がおるのではないか」
「兵糧蔵を空にし、こちらの策を先回りしているというぞ」
「川を使う者も、忍びも、商人を動かす者も、皆その大将に従っておるのか」
確かな証拠はなかった。報告が重なるにつれ、尾ひれのついた話も増えていく。
兵たちは夜の闇を警戒し、北の空を見上げて囁き合った。
やがて、その噂は一つの言葉にまとまり始めた。
――尾張には、幻影の織田軍がおる。
翔次は陣幕の外へ出て、暗雲の垂れ込める北の空を見つめた。
遠く、廃屋が点在するという闇の向こうに、篝火らしき光が瞬いている。
信長は死んだ。
だが、信長の死によって歴史が終わったわけではない。むしろ、翔次の知らない者たちが、翔次の知らない理由で動き始めている。
その背後に、本当に一人の大将がいるのか。それとも、いくつもの才覚が、それぞれの判断によって同じ方向へ向かっているだけなのか。
答えは、まだ闇の中だった。
ただ一つ、翔次にも分かることがあった。
自分の知る歴史は、もはや未来を指し示す地図ではない。
尾張の北で動き始めた何者かが、今川の大軍を翻弄しようとしている。
力で押し切ればよいと考えていた自分は、敵の姿も見えぬうちから、兵糧と情報の流れを乱され始めていた。
その足音は、まだ遠い。
されど、確かに近づいていた。




