第十話:三河武士の盾
第十話:三河武士の盾
篠木の砦を巡る撤退戦から、半月ほどの月日が流れていた。
あの一件以来、尾張北部に立つ「織田信照」の名の下、幻影の織田軍が仕掛けてくる攻勢は、日を追うごとに苛烈さと執拗さを増していた。
大軍同士が平野で激突する会戦ではない。夜闇に紛れて今川の小砦を急襲し、火を放ち、守備兵が槍を構える頃には山野へ消える。あるいは、街道を往来する小荷駄を伏兵をもって襲い、兵糧を奪い去っては近隣の村々へ施し、今川の補給路を網の目のように寸断していく。
殺傷される兵の数は、一度の戦につき数十名に満たない。しかし、夜な夜な打ち鳴らされる敵の陣太鼓と、いつ何処から飛んでくるか知れぬ矢の恐怖は、今川の二万の大軍を常に張り詰めた糸のごとく疲弊させ、その精神と体力をじわじわと、確実に削り取っていた。
翔次には、その戦い方の真意が痛いほどに見えていた。
(力でねじ伏せる気はないのだ。今川に、この尾張の地を保ち続けることそのものを諦めさせようとしている……)
そして、その姿なき敵による苛烈な夜討ちと奇襲の矢面に、常に最も過酷な盾として立たされ続けていたのは、他ならぬ松平元康率いる三河武士団であった。
地理に通じ、かつて織田勢との小競り合いを幾度も経験しているがゆえに、本営は危険な前線の警固や夜番の役目を、ことごとく三河衆へと頼らざるを得ない状況に追い込まれていたのである。
その日、翔次は義元からの新たな下命を携え、沓掛の本営から遠く離れた三河衆の陣所へと馬を走らせていた。
竹矢来で囲まれた三河の野営地に足を踏み入れた瞬間、翔次は思わず息を呑み、手綱を引いた。
陣中に立ち込めていたのは、焦土と泥、そして濃厚な血の臭気であった。
前回来た折にも疲労の色は見られたが、いま目の前に広がる光景は、もはや困窮の度を越えていた。甲冑を着込んだまま泥濘の上に座り込み、身動き一つせぬ兵たち。長きにわたる連夜の警戒に睡眠を奪われ、その眼窩は深く落ち窪み、頬は骨が浮き出るほどに削げ落ちている。負傷した腕を汚れた布で縛り、虚ろな眼差しで空を睨む老兵の姿もあった。
「……元康殿」
翔次は馬を降り、陣幕の奥へと足を踏み入れた。
粗末な床几に腰掛けていた松平元康の姿を認めた刹那、翔次の胸に鋭い痛みが走った。
先日まで見せていた若虎のごとき覇気は見る影もなく、その顔色は土色に沈んでいた。額には脂汗が光り、左手で自らの胃の腑を強く押さえつけながら、浅い呼吸を繰り返している。
「鍋蓋殿……。かような泥濘の地まで、よくぞ……」
元康は翔次の姿を認めると、立ち上がろうとして膝を微かに震わせ、辛うじて掠れた声を絞り出した。
「元康殿、無理に立たれるな。……陣中の様子、いささか尋常ではござらぬぞ」
「面目次第もござらぬ。……太守様からの新たな下命でござりましょうか」
「……うむ。北方の山裾へ物見を出し、夜襲に備えて警戒を強めよとのことだが……」
翔次は言葉を濁した。この憔悴し切った兵たちに、さらなる夜番を命じることの残酷さに、喉が詰まったのである。
「元康殿。包み隠さず申されよ。三河衆の真の容態は、いかがなのだ」
翔次の真摯な眼差しに射抜かれ、元康はしばし唇を噛み、沈黙した。
やがて、堰を切ったように、絞り出すような低い声が陣幕の闇に落ちた。
「……鍋蓋殿には、何一つ隠し立てはいたしませぬ。三河衆は、もはや……限界にござる」
元康の拳が、膝の上で白くなるほど握りしめられた。
「連夜の夜討ち、草叢からの狙撃。横になる間もなく、鎧を脱ぐことすら叶いませぬ。兵の半数は弓を引く力すら失い、ただ気力のみで槍を杖にして立っておる有様にござる」
元康は顔を歪め、苦渋に満ちた息を吐いた。
「されど……某は、兵に『耐えよ』と命じ続けてまいり申した。三河の血涙は必ずや太守様に届いておる、鍋蓋殿が取り成してくださった大恩に報いねばならぬ……その一心で、今日まで歯を食いしばって耐え忍んできたのでござる!」
その言葉が、翔次の胸に刃となって突き刺さった。
(俺が……耐えろと言ったからだ)
今川の崩壊を防ぐため、三河衆の離反を押し留めるため、自分があの夜、元康の手を握りしめて説いた言葉。その教えを忠実に守り抜こうとしたがゆえに、この若き当主と三河の武士たちは、命の削れる限界を超えてまで、泥濘の中で耐え続けてしまったのだ。
「元康殿……」
翔次が言葉を紡ごうとした、その時であった。
陣幕の外から、鈍い物音が響いた。
よろめく足音とともに、一人の若い足軽が、空の水桶を抱えたまま幕の切れ目へ倒れ込んできたのである。
「……殿……水、が……」
若武者は土の上に突っ伏し、痙攣するように指先を泥に這わせた。
「これ、いかがした! 誰か、手を貸せ!」
元康が駆け寄り、自ら泥まみれの若者の肩を抱き起こした。だが、若者の意識はすでに朦朧としており、唇はひび割れて血が滲んでいた。
「……水すら、飲ませてやれぬのでござる」
若者を近習に預けた元康が、振り返り、血を吐くような声で告げた。
「敵の伏兵が街道と水場を狙うており、水を汲みに川へ降りることすら命がけ……。井戸の水は涸れ、火を焚けば夜討ちの標的となるゆえ、炊事すらままなりませぬ!」
「馬鹿な……! 太守様より下された三千石の米はどうしたのだ! あれがあれば、飢えに苦しむはずが――」
「米は……届いておりませぬ」
元康の重い一言に、翔次は凍りついた。
「何だと……!?」
「沓掛の蔵から米が出されたとは聞き申した。されど、前線へ至る街道は敵の野伏に寸断され、輜重隊が幾度も立ち往生し、届いたのはわずかに数日分。それすらも尽き果て……兵は日に握り飯一つ口にできぬ有様にござる」
翔次は頭を金槌で打たれたような衝撃を受け、言葉を失った。
悪意による差別ではない。
先日、義元は確かに三河衆への三千石の優先配分を認めた。翔次も帳簿の上で、その差配を整えたはずであった。
だが、戦場の現実は、机上の計算通りには動いていなかったのだ。
信照配下の野伏による執拗な夜討ちと街道荒らしによって補給路が寸断され、輜重の荷駄は前線へ届く前に立ち往生していた。翔次は「蔵から米が出された記録」を見て安心し、それが最前線の三河の兵の口に入っているか否か、現場の末端を確かめることを怠っていたのである。
(俺の落ち度だ……! 蔵から米を出すことと、前線の兵の胃の腑に届けることは、まるで別物ではないか……!)
泥にまみれて倒れた若武者の青白い顔を見つめる翔次の全身を、激しい恥辱と悔恨が駆け巡った。兵站を論じ、不敗を誇っていた己の知恵の、何と浅ましく、何と無力であったことか。
「元康殿」
翔次は元康の肩を力強く掴んだ。その瞳には、かつてない烈火のような光が宿っていた。
「このままにはさせぬ。今宵の下命、直ちに取り消させる。それがしが今すぐ本営へ戻り、兵糧を率いて戻ってまいる!」
「鍋蓋殿……! されど、街道は敵の伏兵が――」
「伏兵など恐れて兵を見殺しにできるか!」
翔次は元康の制止を一喝した。
「三河の兵が飢えと渇きで倒れれば、今川の右翼は消滅し、全軍が立ち往生いたす! 貴殿らを救うことは、今川の命脈を繋ぐことなのだ! 元康殿、今半刻だけ持ちこたえてくだされ。必ずや、水と米を、そして休息を勝ち取って戻ってまいる!」
翔次は陣幕を飛び出すと、愛馬の脇腹を蹴り、沓掛の本営へと疾風のごとく駆け戻った。
本営の御座所では、今川義元が諸将を前に、尾張平定の次なる策を論じている最中であった。
泥まみれの姿で飛び込んできた翔次の形相に、居並ぶ朝比奈泰朝や岡部元信らが眉をひそめた。
「無作法であるぞ、翔次。軍議の最中に何事か」
諸将の咎め立てを無視し、翔次は義元の御前に進み出て、床板が軋むほどの勢いで平伏した。
「太守様! 火急の言上がございます! 三河衆の陣では兵糧の補給路が敵の野伏によって寸断され、水場を断たれ、飢えと渇きにより三河衆が瓦解の寸前にございます!」
静まり返る幕内に、翔次の鋭い声が木霊した。
「何じゃと……?」
義元が扇を止め、目を細めた。
「過日、予が三千石の米を三河へ下すよう命じたはずではないか」
「仰せの通りにございます! されど、太守様の慈悲深き命も、前線へ届かねば絵に描いた餅にございます!」
翔次は顔を上げ、諸将を射抜くような眼差しで見据えながら訴え出た。
「街道沿いに敵の伏兵が出没し、輜重隊が恐れをなして後方に滞留しております! 帳簿の上で米を出しても、前線の兵の喉を潤すことは叶いませぬ! 最前線にて連夜の盾となる三河衆が飢えに倒れた瞬間、敵の刃は一息にこの本営の喉元に届きますぞ! 三河衆を見捨てるは、自らの喉笛を敵に差し出すに等しき愚行にございます!」
翔次の苛烈な弁舌に、諸将は息を呑んだ。
元信が絵図を見つめ、静かに頷いた。
「……翔次の言、道理にござります。補給路の護衛を怠り、前線を孤立させたは我らの手落ち。三河衆が持ちこたえられねば、前進拠点はすべて崩壊いたしまする」
歴戦の元信の援護が、決定打となった。
義元は重々しく息を吐き、翔次を見据えた。
「翔次。では、いかにいたす」
「二つの手立てを直ちに講じていただきたく存じます!」
翔次は絵図の上に身を乗り出した。
「第一に、蔵より直ちに兵糧五百石を供出し、元信殿の精鋭を護衛に付け、それがし自らが陣頭に立って三河陣へ緊急輸送すること! 第二に、三河衆の陣割りを直ちに後方へ下げ、前線の警固を駿河・遠江の部隊と交代させることにございます!」
「三河衆を後方へ引かせるだと!?」
諸将がざわめいた。前線に穴が開くことを恐れたからである。翔次は間髪を入れずに言葉を継いだ。
「全軍を下げるのではございませぬ! 地理に通じた三河の手練れ数十名を案内役として残し、主力を一度後方の安全地帯へ下げて休息を取らせるのでございます! 水場への道筋にも駿河の弓兵を配し、番兵とともに水汲みの道を守らせる。兵を休ませ、腹を満たさねば、真の戦などできませぬ!」
義元は翔次の顔をじっと見つめた後、力強く扇を打ち鳴らした。
「裁可いたす! 翔次、自ら荷駄を率いて行け。そなたの指図の通りに兵糧を届け、三河衆を後方へ下げよ。異存を唱える者は予が許さぬ!」
「ははッ、ありがたき仕合わせに存じます!」
そこからの翔次の動きは、まさに泥にまみれた実務そのものであった。
帳簿の数字を捨て、自ら荷駄蔵に立ち入って米俵の積み出しを検分すると、岡部元信配下の精鋭百名を護衛に付け、自ら馬に乗って三河衆の陣所へと兵糧の隊列を先導した。
途中の街道には敵の伏兵の気配があったが、翔次はあらかじめ元信に命じて側面の森を警戒させ、伏兵の動きを封じながら進ませた。敵の潜む森へは弓を構えた兵を向け、荷駄の進路を守り抜く。こうして一本の米俵も失うことなく、三河の陣地へと荷駄を滑り込ませたのである。
さらに翔次は、自ら陣中を歩き回り、井戸や小川へ至る水汲み道に番兵を配置させた。夜間の水汲みには周囲を警戒する兵を付け、敵の接近を見逃さぬよう備えさせることで、水汲みの安全を確保した。
米が炊かれ、香ばしい湯気が野営地に立ち上り始める。
駿河衆の交代部隊が前線に到着し、三河の将兵たちが泥濘の最前線から、後方の安全な陣地へと引き揚げていく。
温かい粥を口にし、安堵の涙を流す兵たちの姿が、陣中のあちこちに広がっていった。死の淵に立たされていた三河武士団の陣に、奇跡のように生気が満ちていく。
夜の帳が下りる頃、翔次は陣屋の縁側に立つ元康の前に進み出た。
「元康殿。手配はすべて整いました。今宵より三河衆の主力の陣は後方へ移り、前線の責務は駿河勢が引き受けます。……兵たちに、心ゆくまで米を食わせ、泥を落とし、眠らせてやってくだされ」
元康は、運ばれてきた湯気の立つ粥の椀を見つめたまま、微動だにしなかった。
その肩が、小刻みに震えていた。
「……元康殿?」
翔次が訝しんで声をかけた、その瞬間であった。
元康は突如として膝を折り、地面に額を擦り付けるようにして崩れ折れた。
「……元康殿! 何をされます、頭をお上げくだされ!」
翔次が慌てて抱き起こそうとするも、元康は頑として顔を上げなかった。
泥の上に、ぽたぽたと、大粒の涙が落ちて染みを作っていく。
十八歳の若き当主の喉から、押し殺した嗚咽が漏れ出していた。
「……某は……某は、主君面をしておきながら……あまりにも己の兵を知らなんだ……!」
血を吐くような悔恨の声であった。
「『耐えよ』と命じるばかりで、兵が飢え、水を汲むことすら叶わぬ地獄に喘いでおることにすら気づかず……ただ耐え忍ぶことこそが忠義と思い込み、三河の者たちを殺すところにい申した……! 己の無知と無力さが……情けなくて、申し訳なくて、腸が千切れる思いでござる……!」
翔次は息を呑み、泥に伏す元康の背中を見つめた。
かつての歴史書に描かれた、天下を睥睨する冷徹な徳川家康の姿はない。
ここにあるのは、己の至らなさを骨の髄まで恥じ入り、家臣たちの苦痛を我が身の痛みとして泣き崩れる、一個の若き主君の剥き出しの魂であった。
翔次は静かに膝をつき、元康の震える肩に手を置いた。
「元康殿。……知らぬことは、恥ではござりませぬ」
翔次の澄んだ声が、夜気に染み入るように響いた。
「戦の乱れの中、届かぬものを見通せなんだは、それがしも同じこと。恥ずべきは無知そのものではなく、知った後に何をするかでございます。己の至らなさを知り、兵の痛みを我が痛みとして涙を流せることこそ……貴殿が、三河武士団の真の主君である証にございます」
元康は、はっと息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
泥と涙に濡れたその顔には、先刻までの無力感は消え去っていた。
ただ耐えるだけの青年武将から、己の過ちを噛み締め、家臣の命をその両肩に引き受けた「一国の主」としての、鋭利で揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……鍋蓋殿」
元康は袖で涙を拭い、大地にしっかりと両足を踏ん張って立ち上がった。
「もう二度と、三河の者に『ただ耐えよ』とは申しませぬ。大国に翻弄されようとも、理不尽に晒されようとも……三河の者が一人でも多く生きて故郷へ帰れるよう、これからは某自身が、先頭に立って道を開いてみせまする」
その言葉は、己の足で大地に立ち、自らの手で家臣たちを守り抜くという、若き英主の誇り高き独立宣言であった。
翔次は、その凛々しい立ち姿を見つめながら、息を呑んだ。
胸を打つような感動とともに、背筋をまた底知れぬ悪寒が駆け抜けていた。
(……結局のところ俺は、何をしてしまっているんだ?)
翔次は自らの掌を見つめた。
自分が飢えた兵を救い、元康の挫折を受け止め、主君としての覚悟を促した結果、この男は、今川への盲従でもなく、安易な離反でもなく、「三河を守る真の当主」として、遥かに早く、遥かに逞しく覚醒してしまったように見えるのだ。
先日は、信長の死によって未来の天下人を消したと思っていた。
だが、違った。
自分は今、己の知恵と関わりによって、徳川家康という人間の魂のありようそのものを、決定的に造り替えてしまったのではないか。
人を救えば救うほど、己の知る歴史の残滓は消え去り、乱世はより強大で、より未知なる胎動を始めていく。
「……元康殿。良きお顔になられましたな」
翔次は心の中で激しい葛藤に身を焼かれながらも、静かに微笑んで頭を下げた。
元康もまた、深く頷き、力強く微笑み返した。
陣屋を出た翔次は、夜空に瞬く星々を見上げた。
尾張の夜風が、冷たく頬を撫でていく。
北の闇には、依然として姿を見せぬ織田信照の不気味な気配が漂っている。
そして南には、己の手によって覚醒した松平元康が、三河武士団という不抜の盾を率いて立っている。
生きるために戦い、誰かを救うために知恵を絞る。
だが、その一歩一歩が、歴史の闇をより深く、より逃れ得ぬ自縄自縛の深淵へと突き落としていくのであった。




