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狂った歴史と、不敗の軍師~信長を死なせた男、今川家を支えて魔王に挑む~  作者: チャプタさん


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第十一話:忍びの影と、見えざる網

第十一話:忍びの影と、見えざる網


 三河衆への兵糧配分と陣割りの改編が功を奏し、今川軍の前線がようやく一息をついた頃、沓掛の本営には、また別種の冷たい刃が音もなく忍び寄っていた。


 発端は、夜明けの帳が白み始めた刻限にもたらされた、一本の不気味な注進であった。


 翔次が幾夜も蝋燭の火を灯し続け、尾張北部の山河を徹底して封鎖すべく書き上げた「北方討伐軍略書」。その浄書の巻物が、太守・義元の最終の裁可を仰ぐため、厳重に文書蔵へと納められていたにもかかわらず、一夜のうちに忽然と姿を消したのである。


「……まことに、蔵の奥から消え失せたと申すか」


 義元の低く沈んだ声が、朝露に濡れた御座所の空気を震わせた。


 文書蔵の鍵預かりを務める老臣と、夜番の番頭が、青ざめた顔を泥に擦り付けるようにして平伏している。


「は、ははッ……! 四更の見廻りの刻限には、確かに唐櫃の中に文箱が納められておりました! されど、五更の明かり取りの折、改めましたところ……中身の巻物のみが、煙のごとく失せておりまして……!」


「錠前はいかがであった」


 義元の傍らに控える岡部元信が、佩刀の鍔を鳴らして鋭く詰問した。


「壊された形跡など、微塵もござりませぬ! 扉の閂も差されたままで、錠前にも鉄の疵一つ残っておらぬのでございます!」


 その報告を聞いた刹那、翔次の全身の血が逆流した。


 鍵を壊さず、番兵の目を欺き、施錠された蔵の最奥から特定の書状のみを抜き去る。


 これまで敵が見せてきた、川筋を利用した兵糧の奪取や、朱槍を掲げた将による正面からの突破とは、明らかに趣を異にする草の者の業であった。あれらは武力と地の利を用いた実力行使であり、現場には泥の足跡や血の匂いという生々しい痕跡が残されていた。


 だが、此度の仕業には、人の気配すらない。


 まるで夜の闇そのものが壁の隙間をすり抜け、翔次の頭脳の中身だけを盗み取って去っていったかのような、底知れぬ静謐がそこにあった。


「……草の者の業にございます」


 翔次は喉の渇きを覚えながら、絞り出すような声で言上した。


「太守様。以前、我が陣営より調略の手筈書が漏洩いたしました折、おそらくそれを行なった者……。かの者が、本営の喉元深くまで入り込んでおりまする」


 義元の細い眉間に、深い影が刻まれた。


「近江甲賀、あるいは伊勢の忍びか」


「はい。閂を外さず、足音を残さぬ手練れの業。恐らくは、合鍵を誂えたか、あるいは屋根の隙間などから細き道具を差し入れ、閂を動かしたものと推察いたしまする。……されど、最も恐るべきは、その業の鮮やかさにあらず」


 翔次は床几の前の尾張絵図を見つめ、拳を固く握りしめた。


「その者は、無数にある帳面や雑書には目もくれず、それがしが起草した『北方の軍略書』のみを正確に選び抜いて持ち去りました。我が軍の密事が何処にあり、何が最も重き秘め事であるかを、最初から知り尽くしていた証拠にございます」


 陣幕内が、凍りついたように静まり返った。


 元信が苦渋に満ちた表情で髭を撫でる。


「……陣の内に、手引きする内通者がおるということか」


「その疑いも捨てきれませぬ」


 翔次は冷徹に頷いた。


 義元は短く息を吐き、静かに命じた。


「番の者をすげ替えよ。……騒ぎ立てるな。陣中に無用の疑心暗鬼を生むは、敵の思う壺じゃ」


「ははッ」


 義元の差配は見事な沈着さであった。


 だが、翔次の胸の奥底に打ち込まれた冷たい楔は、日を追うごとにその痛みを増していった。


 己が練り上げた軍略が、敵の手に渡っている。


 何処を攻め、何処を守り、いかなる時機に兵を動かすかという、翔次の頭脳の設計図が、信照の陣営において白日の下に晒されているのだ。


 夜、陣屋の板敷きに横たわっていても、風が幕を揺らすわずかな擦過音に跳ね起きる。篝火の影が揺らぐたび、天井の梁の暗がりに何者かが潜んでいるのではないかという妄執が、翔次の神経を針で刺すように苛んだ。


 姿の見えぬ敵。


 刃を交えることもなく、こちらの知恵を先回りして無力化してくる見えざる耳目。


(……諜報を担う、あの男か)


 脳裏に浮かび上がるのは、かつて古書を繙いて記憶に刻み込んだ、織田家に連なる一人の将の姿であった。


 信長のもとで鉄砲を巧みに操り、忍びを束ねて数々の城を謀略で落としたと伝えられる男。だが、信長亡きこの世界において、なぜその男がこれほど早く、これほど恐るべき精度で信照の手足となって動いているのか。


 答えの出ぬ問いが、翔次の胃の腑を灼き尽くそうとしていた。


「元信殿。夜番の警戒、いかが相成っておりますか」


 二日後の夕刻、翔次は見廻りを終えた岡部元信を陣屋の片隅に呼び止めた。


 元信の顔にも、隠しきれぬ疲労の色が滲んでいた。前線での槍働きには命を惜しまぬこの猛将も、闇に潜む見えざる間者との戦いには、手を焼き尽くしている様子であった。


「見張りを三倍に増やし、文書蔵の周囲には篝火を昼の如く焚かせておる。されど……正直に申せば、手応えがまるでない。煙を掴むような心地じゃ」


 元信は佩刀の柄を軋ませ、悔しげに吐き捨てた。


「草の者というものは、力づくで捕らえようとして捕まるものではない。こちらの守りを固めれば固めるほど、その守りの裏にあるわずかな死角を突いて入ってくる」


「……ならば、守るばかりでは敗れますな」


 翔次の言葉に、元信が鋭い視線を向けた。


「何か、手があるのか」


「力で捕らえられぬならば、その『盗む』という動きそのものを測りの緒にするほかにございませぬ」


 元信が怪訝そうに眉をひそめた。


「測りの緒、じゃと……?」


「敵の耳目が、我が本営のどの深さまで入り込んでいるのか。それを確かめるために、あえて餌を置いてみるのでございます。……本物の軍略とは似て非なる、偽りの書状を」


 その夜、翔次は己の陣屋の奥深く、行灯の油煙が立ち込める中で、一人、筆を執った。


 机上に広げた美濃和紙に、翔次は流れるような達筆で、新たな軍略書を書き連ねていった。


 尾張北部、犬山方面への総攻めの手筈。


 渡河の地点、兵糧の集積所、先鋒を務める部隊の陣割り、さらには出陣の刻限に至るまで、今川義元の朱印が捺されれば今すぐにでも全軍が動き出すかのような、極めて緻密かつ迫真に満ちた作戦書であった。


 だが、その内容の骨子には、翔次によって巧妙極まる細工が施されていた。


 渡河を行うと記された木曽川の浅瀬は、実際には水深が深く、馬の脚を取られる泥濘の淵。


 先鋒が進軍すると記された街道は、両脇を切り立った崖に挟まれた狭隘な隘路。


 実在する地名と地形を寸分の狂いもなく織り交ぜながら、肝心の要所だけを、ほんのわずかに違えてある。


 目的は、敵を討ち取るためではない。


 この書状を敵が盗み出すか、それとも無視するかによって、敵が我が軍の動静を何処まで把握しているのか、その耳目の届き具合を測るためであった。


 さらに、翔次は筆を置くと、袖の中から小さな薬包を取り出した。


 中に入っているのは、白檀の香を極限まで薄めて練り上げた微細な香粉であった。鼻を近づけてもほとんど匂わず、しかし指先に触れれば微かな香気が皮膚に残る。


 翔次はその香粉を、偽の作戦書の紙背と、文箱の紐の結び目の裏に、息を殺して刷り込んだ。


 さらに、作戦書の封緘の折り目には、己の白髪を一筋、目に見えぬ細さで挟み込んだ。


 床板の周囲には、足音を立てずに忍び込む者が踏めばわずかに乱れるよう、極薄の敷き灰を掃き広げた。


 前世に書物から拾い集めた知恵を、己の眼前の戦に合わせて幾重にも織り込んだ、虚と実の網であった。


 翌朝、翔次はこの策を義元に言上した。


「太守様。本物の軍略書は、元信殿の私室の武具唐櫃の底へ密かにお移しくだされ。そしてこの文書蔵には、この偽りの書状のみを、あたかも本物であるかのごとく据え置きまする」


 義元は卓上の偽書に目を通し、静かに頷いた。


「敵が盗むかどうかをもって、敵の目の高さを測るというわけじゃな」


「はい。もし敵がこれを本物と信じて盗み出せば、敵の耳目はまだ表層に留まっておる証拠。逆に、これに触れながらも盗まぬようであれば――」


 翔次は一呼吸置いた。


「敵は、我が軍の本当の狙いをすでに別の道から探り当てておるか、あるいは、この書状そのものが偽りであることを見抜くほどの目を備えておるということになりまする」


 義元は扇を打ち鳴らし、低く命じた。


「よい。翔次、その網を張れ。元信、蔵の警固は平素の通りにしておけ。警戒を強めすぎては、警戒そのものが罠の証拠となるからの」


「御意にございます」


 その日の夕刻、偽りの軍略書は、翔次自身の手によって文書蔵の机の上に置かれた。


 見張りはあえて増やさず、これまで通りの間隔で巡回を行わせた。


 網は仕掛けられた。


 あとは、闇の中から影が忍び寄るのを待つだけであった。


 一日が過ぎ、二日が過ぎた。


 本営の夜は、静まり返っていた。蔵の周囲に立てられた篝火は風に揺らぎ、見張りの足軽たちの足音が時折規則正しく響くだけであった。


 三日目、四日目。


 何も起こらない。


 翔次は陣屋の板敷きの上で、夜ごとに眠れぬ時を過ごした。


(来ないのか……? 罠だと気づいて、近づくことすら避けているのか? それとも、すでに別の場所から密事を吸い上げているのか……?)


 疑心暗鬼が、胸の中で冷たい渦を巻く。


 見えざる敵と対峙する恐怖は、正面から大軍に攻め寄せられるよりも遥かに重く、神経を磨り減らしていった。


 そして、五日目の払暁であった。


 まだ夜の帳が明けきらぬ薄暗がりの中、見張りの番頭が息せき切って翔次の陣屋へ駆け込んできた。


「しょ、翔次殿……! 文書蔵に、何者かが入り込んだ気配が……!」


 翔次は跳ね起き、足袋跣のまま蔵へと疾走した。


 現場には、すでに岡部元信が抜刀の構えで立ち塞がっていた。


 蔵の扉は、外見上、何一つ変わっていなかった。鉄の錠前も掛かったままであり、閂にも傷一つない。


 だが、元信が鍵を開け、扉を押し開けた瞬間、翔次は息を呑んだ。


 床に敷き詰めていた極薄の灰の上に、爪先ほどのわずかな乱れがあった。


 人の足跡と呼ぶにはあまりに微かな痕跡。何者かがそこを踏んだのか、それとも別の何かが触れたのか、ひと目では判じかねるほどの乱れであった。


 そして、机の上。


 文箱の蓋は、静かに閉じられていた。


 翔次は震える指で文箱を開け、中を改めた。


 偽りの軍略書は、そこにあった。


 盗まれてはいなかった。


 しかし、封緘の折り目に挟んでおいた翔次の白髪は、音もなく千切れ、箱の底に落ちていた。


 そして、作戦書の巻物の向きが、翔次が置いた角度から、ほんの僅かに違っていた。


「……触ったのか」


 元信が喉を鳴らした。


「触った……。だが、盗んではおらぬ」


 翔次は机に手をつき、凍りつくような冷気を肺腑に吸い込んだ。


 敵の忍びは、厳重な警戒をすり抜けて潜入した。


 文箱を開け、書状に触れた。


 だが、盗み去ることはしなかった。


 なぜだ。


(読んだのか……? それとも、開く前に違和感を覚えて手を引いたのか?)


 翔次の頭の中で、無数の疑問が嵐のように渦巻いた。


 偽書と見抜いて、無価値ゆえに捨て置いたのか。


 それとも、これが罠であることすら見通し、あえて盗まぬことでこちらの肝を冷やしに来たのか。


 あるいは、最初からこの偽書など目当てではなく、本物の軍略書がここにはないと確かめるためだけに触れたのか。


 香粉の匂いは、闇の中に溶け去って何の痕跡も残していない。


 敷き灰の乱れも、風の悪戯と言われればそれまでの微かなものだ。


 何一つ、確かな答えが出ない。


 敵が何を読み、何を見落とし、何を掴んで立ち去ったのか、翔次には何一つ判じることができなかった。


 その日の昼前、北方の物見台から、さらに重苦しい報せが届いた。


「報告! 尾張北部の街道筋に出没していた敵の物見および怪しき人影が、今朝を境に、忽然と姿を消しましてございます!」


「姿を消しただと……!?」


 元信が眉をひそめた。伝令は恐る恐る頷いた。


「はっ……。伏兵の気配も、夜討ちの兆候も、まるで潮が引くように消え去り……北方一帯は、不気味なほどの静寂に包まれております!」


 報告を聞いた翔次は、冷汗が背筋を伝い落ちるのを止めることができなかった。


 敵は、退いたのだ。


 今川が北方の守りを固め、警戒を強めていると知るや、無駄な接触を即座に断ち、手勢を損なうことなく闇の奥へと姿を消した。


 偽書を信じて退いたのか。


 それとも、今川の動きの重さを見て自ら退いたのか。


 それすらも、翔次には分からなかった。


 ただ一つ確かなことは、翔次が張ったはずの虚実の網は、敵を絡め取ることも、その正体を暴くこともできず、ただ虚しく空を切ったという冷徹な事実だけであった。


「……太守様」


 正午の御座所において、翔次は義元の前に額を擦り付けた。


「仕掛けました網、敵に触れられはいたしましたが……敵が何を掴み、何を捨てて退いたのか、何一つ見極めることが叶いませんでした」


 義元は扇を膝の上に置き、深く静かに翔次を見下ろしていた。


「兵を失ったわけではない。軍略が敵に洩れた証拠もない。……されど翔次、そなたの眼には、晴れぬ霧がかかっておるな」


「……はい」


 翔次は唇を噛み、苦渋を押し殺して答えた。


「姿が見えぬばかりか、敵が我が知恵をいかに見ているのかすら、掴むことができませぬ。……敵の背後に控える忍びの頭領、そしてその者を束ねる織田信照という男……。正面から力で挑むよりも遥かに恐ろしき手練れにございます」


 義元はしばし沈黙した後、静かに立ち上がり、幕の切れ目から北の空を見上げた。


「恐るべき小童よな。姿を現さず、兵を減らさず、我が軍師の眼を煙に巻くか。……されど翔次、怯むには及ばぬ」


 義元の低く重い声が、翔次の震える背中に落ちた。


「敵が影に潜むなら、こちらは光の下で泰然と構えるまで。……尾張の魔王め、予をどこまで楽しませてくれるか」


 太守の揺るぎない威厳に、翔次は辛うじて頭を垂れた。


 その夜、翔次は自らの陣屋の縁側に座り、果てしなく広がる尾張の暗黒を見つめていた。


 槍をもって敵を押し返す将。


 川筋と水運を操り、荷駄を動かす者。


 影に潜み、こちらの密事を探り当てる者。


 そして、人心を掌握し、民と商人を味方につける者。


 それぞれが異なる持ち場を担いながら、まるで一人の将の手足のごとく今川を締め上げている。


 そして、そのすべてを束ねているはずの「織田信照」という男だけが、いまだ暗闇の奥深くに沈黙を守り、その真意の欠片すら見せてこない。


 己の頭脳にある、この時代にはない知識などでは、この生身の英傑たちの暗闘の前に、決して絶対の優位にはなり得ないのだ。


 敵の影は掴めず、知恵の網は空振りを続けた。


 そして、この「見えざる敵」への焦燥が、次なる戦いにおいて今川の軍勢をさらに異形の泥沼へと引きずり込んでいくことを、翔次はまだ知る由もなかった。

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