第十二話:寄進という名の怪物
第十二話:寄進という名の怪物
草の者が残した微かな白髪の千切れと、敷き灰の乱れ。
それを知った翔次と、それらがもたらした冷ややかな余韻は、今川陣営の将兵たちの胸中に、重い澱となって沈殿していた。
姿を現さぬ敵、刃を交えぬ謀略。正面から槍を交える合戦であれば、駿河・遠江・三河の精鋭を束ねる今川軍に遅れを取る道理はない。されど、闇の奥に潜む見えざる耳目を力づくで断つ術を、今川の重臣たちはいまだ見出せずにいた。
軍師・鍋蓋翔次は、この不可解なる停滞を打破すべく、武力に代わる冷徹な刃を抜いた。
すなわち、銭と米の流れを締め上げる兵糧攻めである。
翔次は、尾張と三河の境を流れる境川の沿岸、ならびに熱田と津島に通じる主要な街道、荷駄を通す間道に至るまで、関門の設置と物資改めを命じた。
武力で敵の首魁を捕らえられぬのならば、敵の胃の腑を締め上げるまでのこと。
どれほど武勇に優れた将であれ、人である以上、日々の飯を食らわねば戦えぬ。鉄砲の玉薬を購う銭が尽き、兵の腹を満たす米が枯渇すれば、信照を担ぐ勢力の結束など、秋の枯葉のごとく瓦解するはずであった。
古来、戦を制するは兵站なり。
翔次がかつて書物を繙き、古今の戦史から学び取った鉄則である。
街道を封鎖し、物資の往来を絶てば、敵は遠からず自滅する。いかに尾張の民が信照に心を寄せていようとも、食うものがなくなれば、やがてその結びつきも揺らぐであろう。
翔次はそう確信し、冷徹に損得の勘定を弾き、差配を下した。
だが、その確信は、わずか半月を経ずして、見る影もなく粉々に打ち砕かれることとなった。
「……何と申した。もう一度申してみよ」
沓掛城の本陣。張られた幔幕の奥で、翔次は帳面を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
前線より戻った兵糧奉行の武藤丹後守と、検分役を務めた岡部元信が、濡れた藁草履のまま床几の前に立ち、言い知れぬ当惑を顔に滲ませている。
「はっ……。街道筋に設けた関門にて、怪しき荷駄や商人の荷をことごとく改め、津島から熱田へ向かう米積みの舟も十艘余り改め、うち数艘を差し押さえましてございます。されど……」
丹後守は喉を鳴らし、脂汗の浮いた額を拭った。
「尾張北部の村々、ならびに信照方の者たちが兵を置く辺りにおいて……兵糧が尽きる気配が、微塵もござりませぬ。それどころか、日を追うごとに、かの者らの蔵には米や雑穀が少しずつ集まり、兵どもに至るまで腹を空かせず戦えるほどの糧を得ておるとの注進にございます」
「馬鹿な」
翔次は即座に否定した。
「我が方の関門は、抜け道一つに至るまで厳重に兵を配したはず。熱田の米商人も、津島の湊も、今川の印符なき物資の積み出しは一切禁じておる。いかに川並の者どもが夜陰に乗じて舟を操ろうとも、数千の兵と民を養うほどの兵糧を、今川の目を盗んで運び込めるはずがなかろう」
「それが……」
元信が苦々しげに口を開いた。その髭面には、力攻めで敵を破れぬとき以上の、得体の知れぬ苛立ちが刻まれていた。
「荷を運んでおるのは、商人の荷車でも、水軍の早舟でもないのじゃ。……百姓どもよ」
「百姓……?」
「左様さ。近隣の百姓どもが、夜明けとともに自らの背に米俵や雑穀の袋を担ぎ、あるいは痩せ馬の背に塩や薪を積み、三々五々、信照方の陣屋へ向かって歩いてゆくのじゃ。一人二人の数ではない。十人、百人……」
元信は、なおも信じ難いという顔で続けた。
「最初に運び始めたのは、信照の家来から米を施された三つの村でございました。そこから名主同士が話を通し、寺社や市を通じて話が広がり、直接米を貰うておらぬ村からも、僅かな荷が途切れなく運び込まれておる」
翔次の眉がぴくりと跳ね上がった。
「……強制の徴発か。信照の配下が、村々に乱入して米を強奪しておるのか」
もしそうであるならば、話は早い。過酷な略奪を行えば、民百姓の心は離れ、今川への内応者が続出するはずである。
だが、元信は首を横に振った。その双眸には、深い困惑と微かな恐れが宿っていた。
「逆じゃ、翔次殿。略奪などではない。……百姓どもは、笑うておるのじゃ」
「……何?」
「米を奪われて嘆き悲しむどころか、ありがたそうに手を合わせ、嬉々として荷を差し出しておるという。奪われたのではない。百姓どもが己の意志で、信照の元へ米や雑穀を捧げておるのじゃ」
陣屋の中に、静まり返った沈黙が落ちた。
翔次は言葉を失った。
百姓が、自ら米を差し出す。
この乱世において、領主から年貢を取り立てられ、己の取り分を守るためなら土一揆すら辞さぬ戦国の百姓が、見ず知らずの武家に自発的に兵糧を運んでいるというのか。
あり得ない。
年貢とは、領主が土地に対する支配権をもって、村々から定められた米を納めさせるものだ。逃散すれば追及し、逆らえば武力をもって成敗する。その背後には、最後には武力がある。
強制もせず、刀も突きつけず、ただそこにいるだけの武将のために、なぜ民が自らの命の綱である米を差し出すのか。
「……信じられぬ」
翔次は呟いた。声がかすかに震えていた。
「元信殿、その米を運んでいた百姓、あるいは荷駄の差配に関わった者を、捕らえてはおりませぬか」
「街道の脇で、米俵二俵を荷車に乗せて運んでいた尾張愛知郡の名主と、津島の米商人を一人、手勢が捕らえて本陣の土蔵に留め置いてある」
「……会わせてください。この目で、確かめねばならぬ」
本陣の裏手、じめじめとした湿気と土の匂いが立ち込める土蔵の板敷きに、二人の男が縄を打たれて転がされていた。
一人は、日に焼けた浅黒い肌に、継ぎ接ぎだらけの麻布を纏った老名主。もう一人は、小太りの身体を震わせ、上等の木綿の小袖を泥で汚している津島の米商人であった。
背後には長槍を構えた今川の番兵が仁王立ちし、冷徹な視線を注いでいる。
翔次は元信と共に土蔵に入ると、敷かれた莚の上に静かに腰を下ろした。
商人の方は、今川の重臣の威圧感に怯え、額を床に擦り付けて震えていたが、老名主の方は違った。縄で縛られながらも、その濁った瞳には奇妙な落ち着きがあり、恐れの色が薄かった。
「……名主と申したな。名を何と呼ぶ」
翔次は努めて静かな、咎める色のない声音で問いかけた。
老名主は顔を上げ、翔次の質素な小袖と、その怜悧な眼差しを見つめた。
「……甚兵衛と申しますだ、お侍様」
「甚兵衛。そなたが荷車に乗せて運んでいた米二俵、検分させてもらった。いずれも今年の実り、粒の揃った上等の白米であった。……あれを、何処へ運ぼうとしていた」
甚兵衛は淀みなく答えた。
「清須の城下におわす、十郎信照様の御陣屋へお届けするところでございました」
「信照の元へか」
翔次は身を乗り出した。
「何ゆえだ。今川の太守様は、尾張の民より不当な段銭を奪うことを禁じ、境目の村々には平穏を約束しておられる。それにもかかわらず、なぜ信照の陣営へ米を運ぶ? 信照の配下から、過酷な年貢の催促でもあったのか。逆らえば村を焼くと、脅されたのか」
甚兵衛は、ぽかんと口を開けた。
「……年貢? 滅相もねえ、お侍様。信照様からは、年貢の取り立てなど、ただの一粒も言われておりませんだ」
「ならば、なぜ米を運ぶ!」
傍らの元信が、苛立ちを抑えきれずに怒声を上げた。商人が悲鳴を上げて縮こまったが、甚兵衛はただ困惑したように首を傾げた。
「なぜと仰られても……。あれは年貢ではございません。……お返しでございますだ」
「……お返し?」
翔次の喉から、掠れた声が漏れた。
「へえ。先日、信照様より米を賜りました。それで我らは飢えを免れました。されど、幾らか手元に残りましたゆえ……今度はこれを信照様へお返ししたいのでございます。村の衆で話し合って、残った米と雑穀を少しばかり、塩や薪もろとも、お届けするところでございました。その話が隣の村にも伝わり、向こうでも同じように、手元に残った分を差し出すことになったと聞きましただ」
翔次は目を細めた。
お返し――。
施された恩に報いるため、民が自ら財を差し出す。それを寺社への奉納にも似た寄進と呼ぶならば、信照は人心を繋ぐために、これほど奇妙な仕組みを作り上げたというのか。
「なぜ、一介の武将にそのようなことをする。信照がそなたらに、何を施したというのだ」
「何も……何も奪ってくださらねえからでございます」
甚兵衛の口から出た答えは、翔次の予想を遥かに超えていた。
「……何も、奪わぬ?」
「へえ。先だって、信照様の御家来衆……猿のような顔をした小柄なお侍様が、村へ見えられましただ。村の衆は皆、今川様と織田様のいくさで田畑を踏み荒らされ、次はどちらの殿様に米を奪われるのかと、怯えて山へ隠れておりました。されど……あのお侍様は、刀を抜きもせず、ただ村の広場に米俵をどんと積んで、こう仰ったのでございます」
甚兵衛は、かつてその場で聞いた言葉を、噛み締めるように語り出した。
『――信照様は、お前たちから米を奪う気など毛頭ない。信照様が望まれるのは、ただ一つ。兵を減らすな、無駄に死ぬな、ということだけじゃ。田畑を耕し、飯を食い、生き延びよ。この米は、殿からの施しじゃ。好きに食え。もし、腹がいっぱいになり、余るほどの米ができたら、その時は少しばかり、殿をお守りするために分けてくれればよい』
土蔵の空気が、凍りついたように止まった。
元信が信じられぬという顔で目を見張っている。
「……米を、施した……? 年貢を取るのではなく、逆に与えたというのか……!?」
「へえ」
甚兵衛は深く頷いた。その瞳には、素朴な、それゆえに強い敬愛が宿っていた。
「驚きましただ。武士様というものは、米を奪いに来るものとばかり思っておりました。それが……米を置いていき、村の普請を手伝い、『余ったら分けてくれ』と笑って帰っていかれた。……信照様は、戦を好まれぬ慈悲深い御方。あのお方が滅びてしまえば、また元の、米を奪い合いいくさに駆り出される地獄に戻ってしまう。……だから村の衆で話し合って、賜った米で生き延びた上、手元に残った僅かな分を、お返しに参ったのでございます」
「馬鹿な……!」
翔次は立ち上がり、思わず後退りした。
背中が冷たい土壁にぶつかる。
施された米の一部が、恩返しとして戻ってくる。
直接米を貰った村が起点となり、その話が名主や寺社を通じて隣村へ伝わる。直接の恩を受けていない村々までもが、信照のもたらす平穏を失いたくないと考え、手元に残った僅かな米や雑穀を差し出し始める。一つ一つは僅かなのに、多くの村から積み重なれば、予想以上の量になる。
百姓にとって、今川軍は外からやってきて米を徴発し、規律を押し付ける巨大な勢力である。たとえ今川義元が善政を敷こうとも、外から兵を率いて入ってきた者たちであることに変わりはない。
だが、信照は違う。
信照は、村から無理に奪わない。「生きよ」と告げ、米を与えた。
その結果、百姓たちは、この御方を守らねば自分たちの平穏が奪われると信じ、己の身を守るための「お返し」として、手元に残った荷を惜しみなく差し出しているのだ。
翔次には、それが信照による、武力よりも遥かに恐ろしい人心の掌握術に見えてならなかった。
「……商人」
翔次は震える指先で、床に平伏する米商人を指差した。
「そなたはなぜ、その寄進に手を貸す。商人が利なきことに動くはずがなかろう」
商人はびくびくと肩を震わせながら、恐る恐る顔を上げた。
「め、滅相もございません……! 利がないなどと……! わたくしども津島の商人にとりましても、信照様の勢力圏は、この上なき商いの場にございます……!」
「何だと……?」
「今川様は、街道に関所を設け、荷改めを行い、厳しき関銭をお取りになります。されど……信照様の勢力圏では、関銭を取る関所を置いておりませぬ。信照様の御家来が仰るには、『殿は関銭を取ることを好まれぬ。商人の往来を止めるな。荷を止めるな。銭の流れを止めるな』と……」
「関所の撤廃……!?」
翔次は息を呑んだ。
座の特権を排し、関所を取り払って商人の往来を解き放つ策。それは、翔次が知る歴史においても、天下を動かすほどの力を生み出した政策であった。
それを、信長亡きこの世界において、あの異母弟がすでに実践しているというのか。
「関銭を取られぬゆえ、商人は仕入れにかかる銭が少なくて済みます。そして……信照様の元へ米を運べば、あの小柄なお侍様は決して買い叩かず、銭を払ってくださる。その上、帰り荷には、川並の者どもが木曽川の水運を使って運んだ材木や塩を、優先して回してくださるのでございます。……銭と荷が滞らず、米が米を呼び、商人が商人を呼ぶ。関所の役人に頭を下げる必要もない。商人にとりまして、信照様の勢力圏は、まさに極楽浄土にございます……!」
商人の言葉は、翔次の胸に深々と突き刺さった。
物資の流通を巧みに差配する小柄な侍。川並を束ねる者。そして、彼らの上にいる信照。
翔次の脳裏に、幾人かの名が浮かびかけた。
(……まさか、あの猿面の男は木下藤吉郎か。川並を束ねるのは蜂須賀小六……? いや、確かな証拠はない。今は推測にすぎん)
名を当てたところで、何が変わるというのか。
今川軍が街道を封鎖すればするほど、今川領の商いは滞り、商人は不満を募らせる。
逆に、封鎖の外側にある信照の勢力圏では、関所なき自由な往来と、民衆の自発的なお返しによって、荷が動き、銭が回り、人が集まる巨大な流れが生まれていたのだ。
今川軍の兵糧攻めは、敵を締め上げるどころか、尾張の富と人心を信照の懐へと押し流す水路を掘り広げていただけにすぎなかった。
「……連れてゆけ」
翔次は力なく手を振った。
番兵が二人を引き立てて土蔵を出てゆく。
土蔵の中に残されたのは、重苦しい静寂と、冷え切った空気だけであった。
「……翔次殿」
元信が、呻くような声を絞り出した。
「何という敵じゃ。……城を攻め落とすこともできず、敵の兵を討ち取ることもできず、兵糧を干殺すことすら叶わぬ。……あれは、何なのじゃ。織田の残党などという生易しいものではない。まるで……国そのものが、民百姓の姿をして我らに立ち塞がっておるようではないか」
翔次は答えられなかった。
拳を強く握りしめすぎて、爪が手のひらに食い込み、血が滲んでいた。
(……化け物だ)
翔次の脳裏に、清須の奥に座す「織田信照」の姿が、巨大な怪物となって立ち上がっていた。
信長を失った尾張の勢力。
本来ならば、今川の大軍に蹂躙され、跡形もなく消え去るはずだった存在。
だが、信照は正面から戦わなかった。
城に籠もって防戦するだけではなく、民の暮らしに手を差し伸べた。
領地を力で押さえつけるのではなく、物資と富の流れを味方につけた。
年貢を無理に奪うのではなく、「お返し」という奇妙な熱を、民の側から生じさせてしまった。
未来の知識を持つ翔次ですら、戦国の世において、このような政道がこれほどの力を持つとは思わなかった。
武勇に秀でた者も、影に潜んで情報を集める者も、川並を率いる者も、商いを動かす者も、この「寄進」という巨大な流れを支える一つの力にすぎない。
そのすべての中心にいるのは、家来たちの働きを縛らず、自らは姿を見せぬまま、民の心を掴んでいる織田信照その人なのだ。
(あいつは……一体、何者なんだ……!?)
翔次の背筋を、冷たい汗がとめどなく流れ落ちた。
その日の夕刻、翔次は義元の御座所へと向かった。
報告を終えた陣幕の中は、まるで真冬の湖底のように冷え切っていた。
尾張絵図を見つめる今川義元の横顔は、彫刻のように動かなかった。扇を握る指先が、かすかに白くなっている。
「……寄進、とな」
義元の低く、威厳に満ちた声が響いた。
「年貢を取らぬ領主など、古今東西、聞いたこともない。……されど翔次、その結果として、敵の蔵には米が集まり、我が兵站線は麻痺しておる。それが現実か」
「……はい」
翔次は深々と平伏した。
「それがしの見通しの甘さにございました。流通を断って敵を干殺す策……完全に裏をかかれましてございます。敵は、年貢を取り立てるだけの土地と見る発想そのものを捨て、民の安寧と商人の利を味方につけて、我が軍を押し返しておりまする」
「……恐ろしき男よ」
義元は静かに息を吐き、扇で絵図の清須の地をとんと叩いた。
「領地を奪うならば、力をもって奪い返すこともできよう。城を築くならば、大軍をもって押し包むこともできよう。……されど、民の心の中に築かれた城は、いかなる攻城の具をもってしても崩せぬ」
義元は絵図から目を離さなかった。
「信照。織田の血に、これほどの怪物が眠っておったとはな。いや、違うな。取らぬのではない。取らずとも兵を養える仕組みを作ったのだ」
「太守様……」
「翔次。兵糧攻めは取り止めよ。関所での荷改めも、必要以上に商人を苦しめぬよう改めよ。これ以上締め上げれば、尾張のみならず、三河の民までもが信照の寄進に靡きかねん」
「……御意にございます」
義元の判断は、相変わらず冷徹で的確であった。
兵糧攻めを続けても敵は崩れず、かえって民と商人の心を遠ざける。ならば、これ以上の損失を避けるべきである。
だが、その義元をして、敵を力で押し潰すだけでは解決できぬ事実を認めざるを得なかったのだ。
今川という巨大な象が、尾張という底なしの泥沼に、足首まで呑み込まれつつあった。
陣幕を出た翔次は、暮れなずむ尾張の西の空を見上げた。
遥か彼方、清須の空には、血のように紅い夕焼けが広がっていた。
風が吹いていた。
尾張の平野を吹き抜けてくるその風は、土の匂いと、稲穂の匂いを含んでいた。
その風の向こうで、無数の百姓たちが、今も信照の名を呼びながら僅かな荷を運んでいる。
商人たちが銭を数え、笑い声を上げている。
姿の見えぬ魔王。
民に何一つ無理に求めぬことで、かえって民の心を味方につけ、今川を押し返そうとする男。
翔次には、そうとしか見えなかった。
(信照……)
翔次は乾いた唇を噛み締めた。
胃の腑が、焼き網の上に乗せられたかのように熱く痛んだ。
負けるかもしれない。
心の奥底で、決して認めてはならぬその恐怖の呟きが、初めてはっきりと輪郭を結んだ。
その恐怖は、日を追うごとに膨れ上がっていく。
信照という男の姿が見えぬまま、今川の軍勢は、目に見えぬ敵の大きさを思い知らされつつあった。




