第十三話:織田四天王の影
第十三話:織田四天王の影
草木も眠る丑満時、境川上流の鳴海街道から、早馬の蹄音が沓掛の本陣へと迫ってきた。
番兵たちが長槍を構える間もなく、泥と返り血にまみれた伝令が駆け込んだ。息も絶え絶えに陣幕の前へ膝をつき、声を振り絞る。
「申し上げまする! 境川の浅瀬を警固せし三河先鋒隊の糧道、またも遮断されましてございます!」
「何だと……!」
宿直を務めていた岡部元信が、床几を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
「鳴海へ向かう補給路には三河衆の精鋭五百を配し、間道には伏兵を潜ませておいたはずぞ! いかに敵の夜襲とて、五百の備えを一撃で崩せる道理があるか!」
「それが……ただの夜襲ではございませぬ!」
伝令は荒い息を押し殺し、戦況を報告した。
「夜半過ぎ、街道の奥で偽りの合図篝が焚かれました。ほどなく『本陣より退却の命あり』との触れ状が届き、前線が騒ぎ始めたところへ、闇の彼方から鉄砲が撃ち込まれましてございます。隊列を立て直そうとした兵らは、浅瀬の関門へ押し寄せましたが、上流より水が押し寄せ、足場はたちまち泥沼と化しました!」
「水を操ったと申すか……!」
「ははッ! 泥に脚を取られ、足軽どもが右往左往いたしまするところへ、闇を裂いて朱塗りの長槍を振るう騎馬武者が現れました! 五十騎ばかりの手勢を率いて一気に突入し、守備の隊列を両断いたしました!」
「おのれ……!」
「さらに、その直後にございます! 我が軍の兵糧蔵が破られるや、背後の竹林から百姓や町人が現れ、小柄なる猿に似た男の指図に従い、半刻ほどのうちに三百俵もの米を荷車へ積み替え、夜陰に紛れて運び去りましてございます!」
報告が終わると、陣屋に重い沈黙が落ちた。
元信の拳が白くなるほど握り締められていた。怒りを向けるべき敵は目の前にいない。追おうにも、兵は泥濘に足を取られ、道は水に塞がれ、敵の姿はすでに闇の向こうへ消えている。
陣屋の奥で報告を聞いていた翔次は、尾張の絵図に目を落としたまま、文鎮を握り締めていた。
――まただ。
またしても、四つの働きが噛み合っている。
最初に動いたのは、影の男だ。偽りの報せと合図篝でこちらの目を曇らせ、鉄砲の射撃で指揮を乱す。敵の目と耳を塞ぎ、兵が何を信じればよいのか分からぬ間を作る。
次に、川を知る者が動いた。上流の水路に手を加え、退路となる浅瀬を泥沼に変える。兵は進むことも退くこともできず、互いに押し合うばかりとなる。
そこへ朱槍の男が突き入る。身動きの取れぬ敵に対し、少数の騎馬を一点へ集中させ、守備の隊列を切り裂く。
最後に猿のような小男が現れ、兵糧を運び去る。武力で敵を散らすだけでは終わらない。戦場に残された物資を、民の手を借りて自軍の糧へと変えてしまうのだ。
槍を振るう者。
影を操る者。
川を制する者。
人を動かす者。
それぞれが異なる力を持ち、別々に動いているように見える。だが、結果だけを並べれば、まるで一つの手が盤上の駒を動かしているかのようだった。
個々の働きならば、対処のしようもある。朱槍には堅固な槍衾を置き、影には警戒の網を張る。川筋を避けて陸路を選び、兵糧蔵には厳重な番をつける。
しかし、敵は一つの策を破られる前に、別の策を重ねてくる。こちらが対処を考える頃には、戦場そのものが敵に都合のよい形へ変えられている。
翔次は奥歯を噛み締めた。
この十日間、輜重を狙った襲撃は四度に及んでいた。いずれも損害は小さくない。だが、敵は今川勢を正面から打ち破ろうとはしていなかった。兵を疲れさせ、足を止め、食糧を奪い、こちらが戦を続ける力を少しずつ削っている。
「……翔次殿」
陣屋の入口から、低い声がした。
姿を現したのは、三河勢を率いる松平蔵人佐元康であった。肩当には夜露と泥がこびりつき、頬には疲労の色が濃い。それでも、眼差しには消えぬ力があった。
「元康殿……御無事であられましたか」
翔次が立ち上がると、元康は小さく頷き、絵図の前へ進んだ。甲冑を脱ぐ暇もなかったのだろう。荒い息を整えながら、片手で胃の腑を押さえている。
「……三河の若衆を、百人失い申した」
その声には、押し殺した痛みが滲んでいた。
「敵は、我らを討ち果たすことのみを狙ってはおりませぬ。我らがどこへ逃げるかを先に見定め、その道を塞いでから槍を入れてくる。まるで、兵を殺す順序まで決めておるようにござる」
元康は絵図を見つめた。
「次の百人を、同じように死なせるわけには参りませぬ」
翔次は思わず元康の顔を見た。
「……その通りにございます」
「ならば、敵の狙いは我らの首ではない」
元康の指が、境川から鳴海へと伸びる道をなぞった。
「我らの足を止め、疲れさせ、兵糧を奪う。こちらから戦を続けられぬようにすることこそ、敵の望みであろう。敵は我らの命だけでなく、戦う力そのものを削っておるのじゃ」
その言葉に、翔次は深く頷いた。
「此度の夜襲も、ここ十日間の輜重襲撃も、根は同じでございます。敵は戦場を選ぶだけでなく、我らが戦う前から、戦える場所と時を奪っているのです」
元信が眉を寄せた。
「同じ筋道じゃと?」
「はい。まず、影の男が我が方の脆い補給路を探り当て、偽りの報せで守備を乱す。川を知る者が水路を使って足場と退路を奪い、朱槍の男が少数の手勢で急襲する。そして、猿のような小男が周囲の民を動かし、兵糧を回収して持ち去る。四人が別々に動いているようでいて、働きは一つに繋がっておりまする」
翔次は、絵図の上に指を置いた。
「偶然にしては、あまりにも噛み合いすぎております。これは、ひとつの戦いとして組み立てられているのでございます」
元信の顔が険しくなった。
「だが、あの四人は、そもそも何者なのだ。朱槍の男は気位の高い猛将。猿のような小男は素性も知れぬ。影の男は闇に生き、川を知る者は野盗の頭目とも聞く。育ちも、生業も、武の道も異なる者たちが、なぜ一糸乱れぬ働きを見せるのじゃ。誰が指図し、誰がこの戦を動かしておるのだ!」
その問いに、陣幕の空気が張り詰めた。
翔次は絵図の中央、清須の文字を見つめた。
「……信照にございましょう」
元康が、迷いなく頷いた。
「やはり、そう見まするか」
翔次はわずかに目を見開いた。
「元康殿も、お気づきで」
「某とて、いつまでも翔次殿の背に隠れておるわけには参りませぬ」
元康は静かに答えた。目には涙が浮かんでいたが、拭おうとはしなかった。
「されど、泣いておる暇もない。敵は明日の朝にも、また来るやもしれませぬ。ならば、次に狙われる場所を考えねばなりませぬ」
翔次は返す言葉を失った。
信照の姿は、いまだ戦場に現れていない。金銀や恩賞で四人を縛りつけているとも聞かぬ。血筋や家格を振りかざし、威圧している様子も見えない。
それでも四人は動く。互いの短所を埋め、長所を引き出し、今川の大軍を少しずつ削っていく。
姿を見せずとも、ひと言の命で人を動かす。あるいは、四人が自ら考えた策を、信照が認めているだけなのかもしれぬ。今の翔次には、その真相までは分からなかった。
ただ、四人の働きが信照の名の下に集まり、一つの力となっている。その事実だけは否定できなかった。
(……何という男だ)
翔次は背筋を這い上がる寒気を覚えた。
信長という絶対的な求心力が失われた以上、織田家中が揺らぐのは当然だ。主を失った家臣たちは、己の身を守るために散り、領地を守り、先の行く末を探るはずだった。
ところが、あの四人は違う。
まるで、最初から進むべき道を知っていたかのように、信照の名の下で動いている。
(前田利家……)
(木下藤吉郎……)
(滝川一益……)
(蜂須賀小六……)
俺は、四人を知っている。
歴史の書に名を残す武将たちだ。だが、目の前にいるのは、書物の中の名ではない。戦場の泥を踏み、己の判断で動き、勝つために手を尽くす、生身の人間たちである。
未来を知っているのは俺のはずだった。
それなのに、未来を知らぬはずの者たちが、俺の知識をあざ笑うように戦場を作り替えていく。
(俺は……何を知っているというのだ)
翔次は乾いた喉を鳴らした。拳を強く握ると、爪が掌に食い込んだ。
局地の戦術において、今川軍は敗れている。
全滅を避けることはできる。兵を引き、損害を抑え、次の戦に備えることもできる。
だが、敵の思うままに戦場を選ばれている限り、勝ちを掴むことは難しい。
「……翔次」
静かながら、腹の底に響く重厚な声が陣幕を揺らした。
翔次が顔を上げると、幔幕の奥から今川義元が姿を現していた。小豆色の直垂に身を包み、手には白扇を握っている。眉間には深い皺が刻まれていたが、その眼差しには少しの曇りもなかった。
「太守様……!」
翔次、元信、元康の三人は、一斉に平伏した。
義元はゆっくりと歩み寄り、床几に腰を下ろした。白扇の先で、尾張絵図の鳴海と沓掛の境を示す。
「話は奥で聞いておった。三河衆の損害、痛ましきことじゃ。元康、そなたの苦衷、予は片時も忘れてはおらぬ」
元康は額を床に擦りつけた。
「太守様……勿体なきお言葉にございます。されど、退くべき時に退くことと、戦うことを恐れることは違いまする。某は、三河の若衆をこれ以上、無駄に死なせとうはございませぬ」
「よい」
義元は静かに頷いた。
「兵を無駄に失わぬことも、将の務めじゃ。そなたが兵を惜しむ心を、恥じることはない」
その言葉に、元康は深く頭を下げた。
「……翔次、面を上げよ」
命じられ、翔次は恐る恐る顔を上げた。
「敵の四人……朱槍の男、猿のような小男、影の男、川を知る者と申したな。陣中の将兵どもは、早くもかの者らを恐れ、何と呼んでおるか知っておるか」
「……いえ」
「『織田四天王』じゃ」
その名を聞いた瞬間、翔次の背筋が凍った。
「朱槍の男、猿の小男、闇の男、水の男。兵どもの間では、すでにそのような呼び名が囁かれておる。夜番の足軽など、闇の奥に朱槍が見えただけで腰を抜かす者もおるという」
義元は口元をわずかに歪めた。
「信長公の妹君を救い、民に米を施して魔王と呼ばれる信照。その魔王を守る四天王か。まるで軍記物の語り草よな。されど、予は笑い飛ばす気にはなれぬ」
「……太守様も、かの者らを恐れておられるのでございますか」
「うむ」
義元は扇を広げ、ゆっくりと胸元を扇いだ。
「予が警戒しておるのは、四人の知勇だけではない。四人を結びつけておるように見える、信照の器量じゃ。武士は己の家格と手柄に執着するもの。異なる才を持つ者たちが、互いの短所を補い、己の働きを惜しまず尽くしておる。これが信照の差配によるものならば、並の主君にできることではない」
義元は扇を閉じた。
「信照という若者、底知れぬものを抱えておる」
その声音には、侮りも、軽々しい恐怖もなかった。ただ、敵の器量を見極めようとする太守の冷静な警戒があった。
義元は元信と元康へ視線を移した。
「元信、前線の守りを改めよ。突出した陣地はすべて破却し、互いに烽火と早馬で連絡を取り合える距離まで、拠点を引き締めるのじゃ。小部隊のみでの索敵は禁ずる。朱槍の男に、個別の武勇で挑んではならぬ」
「ははッ!」
「元康。三河勢の疲弊は極まっておろう。今宵より、最前線の警固は岡部の手勢と交代せよ。三河勢は沓掛の城内へ引き、傷を癒し、兵を休ませるのじゃ。本国より届いた米と味噌も、まず三河衆へ回せ」
元康は深く頭を下げた。
「太守様……かたじけなきお言葉にございます。某、自ら兵を休ませ、次の戦に備えまする」
「それでよい。兵を休ませることも、戦のうちじゃ」
義元は頷き、最後に翔次へと向き直った。
「翔次。そなたの眼を信じておる。敵の四人が完璧な連携を見せるならば、こちらはその継ぎ目を探るまでじゃ。力づくで勝とうとするな。急いて尾張を呑もうとするな」
白扇の先が、絵図の上を静かに滑った。
「奴らが泥沼を作り、予を焦らせようとするならば、予はその泥沼の手前に腰を据える。兵を損なわず、糧を絶やさず、敵が次の手を打つのを待つ。焦るのは敵の望むところ。こちらまで心を乱して、敵の描いた筋書きに乗ってやることはない」
「太守様……」
翔次の胸に、熱いものが込み上げた。
この男は、本物の大名だ。
局地の敗北に心を乱されず、兵の損害から目を背けず、領国全体の実利を見据えて次の手を打つ。勝ちを急ぐあまり、兵をすり潰すこともない。
桶狭間で命を落とすはずだったこの名君を生かしたこと。それだけは、翔次にとって、己の過ちと後悔の中に残された、確かな救いだった。
「……必ずや、敵の継ぎ目を見つけ出してみせまする」
翔次は深々と頭を下げた。
軍議が引けた後、翔次は一人、陣屋の外の物見台へ登った。
夜風が冷たく頬を撫でていく。遠く北西の空、清須の方角には、濃紺の闇が広がっていた。
織田四天王という名で呼ばれ始めた、四人の恐るべき働き手。
そして、その四人の働きが一つに重なることで、今川の知恵を先回りして封じ続ける、見えざる魔王・織田信照。
(四人そのものに勝とうとしてはならない)
翔次は夜風の中で、胸に手を当てた。心臓は、早鐘のように脈打っていた。
(利家を止めるだけでは足りない。一益の策を見破るだけでも、小六の水を読むだけでも、藤吉郎の流れを断つだけでも足りない)
四人を一人ずつ相手にしても、別の誰かがその隙を埋める。槍を封じれば影が動き、影を追えば水に足を取られ、水を避ければ人の流れに兵糧を奪われる。
ならば、狙うべきは四人の力そのものではない。
(四人が一つになる、その継ぎ目を探す)
翔次は、ようやく一つの方針を定めた。
今川の陣中に広がり始めた「織田四天王」の恐怖。それは、翔次にとっても、己の持てる知恵と経験のすべてを懸けて挑まねばならぬ壁となっていた。
夜の向こうに、四つの影が揺らめいている。
その影を束ねる見えざる手を見極めぬ限り、尾張の泥沼から抜け出すことはできない。
翔次は闇を見据えたまま、長い息を吐いた。
敵の策に翻弄されながらも、兵を失い尽くすことだけは避けねばならぬ。
勝てぬ戦を、負けぬ戦へ。
その先にしか、次の道は開けないのだった。




