第七十九話:人生の勝者
第七十九話:人生の勝者
元亀元年、霜月も末に近い夕暮れ――。
三河と尾張の境をなす高根の村には、冬の訪れを告げる冷たい風が吹いていた。
刈り入れを終えた田には稲株が並び、畦道の脇では、農家の煙が夕空へ細く立ち上っている。遠くから聞こえるのは、牛を追う百姓の声と、家路を急ぐ子供たちの笑い声。戦場で幾度となく耳にした鬨の声とは違う、ありふれた暮らしの音であった。
村外れの小さな庵。その縁側に、鍋蓋翔次は腰を下ろしていた。
粗末な麻の衣に、履き古した草履。かつて数万の兵を動かした男の手には、今では筆の胼胝に加え、鍬を握ってできた硬い皮が重なっている。
傍らには、妻の市姫がいた。
藍染めの小袖に木綿の襷。夕餉の支度を終えたばかりなのか、白い指先には、洗い落としきれなかった米の粉がわずかに残っている。
「あなた。麦湯が冷めてしまいますよ」
「ああ、すまない」
翔次は椀を受け取り、両手で包んだ。
炒った麦の香りが立つ。ひと口すすれば、温かな甘みが喉を通り、冷えた身体に染み渡った。
「うまいな」
「まあ。いつもと同じ麦湯でございますよ」
「同じものを、うまいと思えるようになったんだ」
翔次が笑うと、市姫は不思議そうに夫の顔を見た。
「駿府にいた頃は、何を口にしても、味が分からない日があった。明日の兵糧は足りるか。どの道を退けば兵を失わずに済むか。誰をどこへ遣わすべきか。そんなことばかり考えていたからな」
「……今は、違うのでございますか」
「ああ。今は、この麦湯が温かい。それが分かる」
市姫は目を細め、嬉しそうに微笑んだ。
「それは、よろしゅうございました」
何気ない会話だった。
明日の戦を案じる必要もなく、使者の報せに胸を刺されることもない。夕餉には畑で採れた大根と干し魚が並ぶだろう。夜になれば囲炉裏に火を入れ、二人で語らい、眠る。
それだけの暮らしが、翔次には時折、夢のように思われた。
だが――。
椀を持つ手が、不意に止まった。
西の空に、沈みかけた夕日が赤く滲んでいる。
その色を見ているうちに、翔次の脳裏には、十年前の光景が蘇った。
豪雨に煙る田楽狭間。泥にまみれた旗。怒号と雷鳴。そして、首実検の場に横たえられた織田信長の亡骸。
己の命惜しさに口走った一言が、天下の行く末を変えた。
あの時、別の言葉を選んでいたならば。
あの時、黙っていたならば。
信長は生き延びていたのだろうか。
答えはない。
信長が生きていたならば、どれほどの戦が起き、誰が天下を治め、どれだけの命が失われたのか。それもまた、今となっては確かめようのないことだった。
ただ一つ、確かなことがある。
信長は死んだ。
そして、その死に己の言葉が関わっていた。
それだけは、どれほど年月を重ねても変わらなかった。
(俺は、何を成し遂げたつもりでいるんだろうな)
今川義元は生き延びた。松平元康も三河を支え、家臣たちとともに新たな国を築いている。数えきれぬほどの戦を退け、兵を飢えさせず、民の田畑を守った。
その一方で、西には織田十郎信照がいる。
清須城の奥に座し、天下管領の座さえ望まず、諸国の大名たちが血を流して求めるものを、静かに手放した男。四天王を動かし、民と商人と国人たちの力を結び、武力だけでは成し得ぬ大きな仕組みを築き上げた男。
翔次は東を守った。
信照は西を変えた。
どちらも、信長が生きていた史実にはなかった道である。
だが、天下の大きな流れを変えたのは、己よりも信照の方ではないか。
そんな思いが、胸の底に沈んでいた。
戦に負けたわけではない。領地を奪われたわけでもない。今川の兵は守られ、三河の民も救われた。
それでも、歴史を知る者として、信長を死なせた者として、己が本当に正しい道を歩んだのかという問いだけは、消えてくれなかった。
「……翔次様」
そっと、左手を握られた。
市姫の手だった。
「また、遠いところを見ておられますね」
「そう見えるか」
「はい。わたくしが隣におりますのに、時折、どこか遠いところへ行ってしまわれるのです」
責める声音ではなかった。
それだけに、翔次の胸が痛んだ。
「すまない」
「謝っていただきたいのではございませぬ」
市姫は、握った手に少しだけ力を込めた。
「ただ……わたくしにも、あなたのお心を少し分けていただきたいのです。嬉しいことも、悲しいことも。あなた一人で抱え込まないでくださいませ」
翔次は返事をしようとした。
だが、言葉が出なかった。
この妻にだけは、すべてを話したいと思う。けれど、話せば話すほど、自分がどれほど愚かで、どれほど小さな人間であったかを思い知らされる気がした。
歴史を知っているという驕りがあった。
自分ならば先を読める。自分ならば、誰よりも上手く立ち回れる。そんな思いが、どこかにあったのだ。
けれど、死にたくないと願った一瞬に、その知識は砕け散った。
「お市。俺は……」
翔次は、握られた手を見つめた。
「俺は、信長公を死なせたことを、今でも悔いている」
市姫は何も言わず、夫の言葉を待った。
「信照が天下をどう変えようと、今川がどれほど豊かになろうと、それであの人の死が正しかったことにはならない。あの人が生きていたなら、別の世があったかもしれない。俺は、それを奪ってしまった」
喉の奥が詰まった。
「俺が救った命を数えたところで、あの人の命が戻るわけじゃない。……だから時々、分からなくなるんだ。俺は、本当に勝ったのか。何かを成し遂げたと言えるのか」
市姫の指が、翔次の手を包み直した。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
やがて市姫は、ゆっくりと口を開いた。
「……わたくしには、軍略の巧拙も、天下の行く末も、あなたほどには分かりませぬ」
「ああ」
「ですから、あなたが天下を取ったかどうかで、あなたの価値を決めるつもりはございません」
市姫は、夫の方へ身体を向けた。
「あなたは、たくさんの方々を守ってこられました。元康殿も、岡部殿も、今川の兵たちも。そして、その家族も。あなたがどれほど悩み、どれほど苦しみながら、誰かの命を守ろうとしてきたか……わたくしは、ずっと見てまいりました」
「お市……」
「それに、あなたは今も、亡き信長兄上のことを忘れずにおられる。ご自分の過ちを、都合よくなかったことにしようとはなさらない」
市姫は、少しだけ俯いた。
「それは、苦しいことでございましょう。けれど……わたくしは、そのようなあなたを、恥ずかしいとは思いませぬ」
翔次の胸に、熱いものが込み上げた。
「むしろ……その痛みを抱えたまま、それでも明日を生きようとなさるあなたを、わたくしは誇りに思っております」
市姫はそう言って、微笑んだ。
その笑顔を見た時、翔次は、自分がどれほどこの人に救われてきたのかを思い知った。
けれど、市姫はそこで話を終えなかった。
何かを決意するように、小さく息を吸ったのである。
「……それから、もう一つ」
「もう一つ?」
「はい」
市姫の頬に、ほんのりと赤みが差した。
翔次が不思議そうに見つめると、市姫は目を伏せた。いつもならば、どれほど人の目を集めようとも凛としている彼女が、今は落ち着かなげに小袖の袖口をつまんでいる。
「これは……その……」
「お市?」
「笑わないと、約束してくださいますか」
「何を笑うんだ」
「よろしいですか。決して、笑ってはなりませぬよ」
「ああ。約束する」
市姫は一度、夫の顔を見た。
すぐに目を逸らした。
耳まで赤くなっている。
「……あなたは、天下を望んでおられませぬね」
「天下なんて柄じゃないさ」
「では、名誉も、富も、誰もが羨むような地位も……それほど大切ではないのでございますね」
「暮らしていけるだけのものがあって、お前がいてくれれば、俺には十分だ」
言ってから、翔次は少し照れくさくなった。
市姫は、ますます頬を赤らめた。
「……そのようなことを、さらりと仰るのですから」
「え?」
「いえ。何でもございませぬ」
市姫は小さく首を振った。
そして、何度も言葉を探すように唇を開きかけては閉じ、ついに観念したように両手で自分の頬を押さえた。
「……ああ、もう。わたくしだって、恥ずかしいのでございますよ……」
「お市?」
「ですが、今、申し上げなければ……きっと、後悔いたしますから」
市姫は両手を下ろした。
顔は真っ赤だった。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「翔次様」
「……ああ」
「あなたは、ご自分を敗者だと仰いましたね」
「……そうだな」
「では、わたくしが決めて差し上げます」
市姫は、ぎゅっと小袖の胸元を握りしめた。
その仕草は、天下の大名たちを前にしても揺るがなかった織田の姫君とは思えぬほど、初々しいものだった。
「あなたは……わたくしを得たのでございます」
翔次は、瞬きを忘れた。
市姫はもう一度、息を吸った。
「天下を望む方々が、どれほど大勢おられようとも。どれほどの財を積まれようとも。わたくしは、誰の妻にもなりませんでした」
「お市……」
「けれど、あなたの妻になりました。あなたと一緒に暮らしたいと、わたくし自身が願ったのでございます」
声が震えた。
恥ずかしさに耐えかねたのか、市姫は一瞬、顔を伏せた。けれど、逃げなかった。
頬だけでなく、耳まで赤く染めながら、夫の手を両手で包み直す。
「ですから……その……」
言葉が、喉につかえた。
市姫はぎゅっと目を閉じた。
そして、覚悟を決めたように、勢いよく顔を上げた。
「わたくしを得たあなたが、勝者ですよ!」
夕暮れの庵に、その声が響いた。
言い切った瞬間、市姫は自分の言葉に耐えられなくなったらしい。
「……あ、ああっ、もう……! わたくし、何を申し上げているのでしょう……!」
真っ赤な顔を両手で覆い、俯いてしまった。
「忘れてくださいませ! いえ、忘れていただいては困りますけれど……ああ、もう、どうすればよいのですか……!」
翔次は、呆然としていた。
幾万の兵がぶつかる戦場でも、敵の策を見破った時でも、これほど言葉を失ったことはない。
目の前にいるのは、天下の大名たちが妻にと望み、名門の武家が縁を結ぼうとした、織田の市姫である。
その彼女が、誰に教えられたわけでもなく、自らの意志で自分を選んだのだ。
そして今、恥ずかしさに頬を染めながら、夫である自分こそが勝者だと告げてくれた。
「……お市」
「お返事は、なさらなくて結構でございます……!」
「いや、そういうわけにはいかないだろう」
「な、なぜでございますか!」
「だって……嬉しいんだから」
市姫の指が、ぴたりと止まった。
翔次は、笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
視界が滲んでいた。
「……嬉しいんだ。本当に」
頬を、一筋の涙が伝った。
市姫は驚いて顔を上げた。
「翔次様……?」
「俺はずっと、何かを失ったことばかり数えていた。信長公を死なせたこと。歴史を変えてしまったこと。信照に及ばなかったこと。自分の知識が、何の役にも立たなくなったこと」
翔次は、濡れた目で妻を見つめた。
「でも、お前は……俺が得たものを数えてくれたんだな」
「……はい」
「俺が守った命も、俺と一緒にいたいと願ってくれたお前の気持ちも。俺自身が、見ようとしていなかったものを」
声が震えた。
「……ありがとう、お市」
市姫の目にも、涙が浮かんだ。
「いいえ。お礼を申し上げるのは、わたくしの方でございます」
市姫は、そっと翔次の頬に触れた。
「わたくしを選んでくださって、ありがとうございます。わたくしを、誰かの政略の道具ではなく、一人の人間として見てくださって……ありがとうございます」
翔次は、その手を両手で包み込んだ。
「お前を、誰にも渡したくない」
「……はい」
「これからも、ずっと一緒にいたい」
「……はい、あなた」
市姫は、今度こそ逃げなかった。
涙に濡れた顔のまま、精いっぱいの笑顔を浮かべた。
翔次は妻を抱き寄せた。
市姫の細い腕が、夫の背に回る。二人の間にあった冷たい夕風が、互いの体温に押し出されるように消えていった。
しばらく、二人は何も言わなかった。
ただ、抱きしめ合っていた。
やがて市姫が、翔次の胸元から小さく顔を上げた。
「……あなた」
「ん?」
「でも、わたくしのことを、勝者の証などと思ってはなりませぬよ」
翔次は目を瞬いた。
「え?」
「わたくしは、あなたの褒美ではございませぬ。あなたが何かを成し遂げたから、手に入れたものでもございませぬ」
市姫は、まだ赤い顔で、それでも真剣に言った。
「わたくしが、あなたと生きたいと願ったのです。ですから、あなたがどれほど悩んでも、どれほど過ちを悔いても……わたくしは、あなたの隣にいたいのでございます」
翔次の胸が、強く打った。
「……そうだな」
「はい。ですから、これからも、わたくしを大切にしてくださいませ」
「もちろんだ」
「そして、たまには……今日のように、わたくしを喜ばせることも仰ってくださいませ」
最後の言葉は、ひどく小さかった。
翔次は思わず笑った。
「それは難しい注文だな」
「まあ……!」
市姫が頬を膨らませた。
その顔があまりに愛らしくて、翔次はとうとう声を立てて笑ってしまった。
「すまない、すまない。約束するよ」
「本当でございますね?」
「ああ。約束だ」
市姫は、ようやく安心したように微笑んだ。
その笑顔を見ているうちに、翔次の胸の奥に、静かな思いが広がっていった。
信長の死を、なかったことにはできない。
自分の言葉が歴史を変えたという事実も、消えることはないだろう。これから先、ふとした折に、あの雨の田楽狭間を思い出す日もあるはずだ。
だが、後悔が残ることと、今を生きてはならないことは、同じではない。
失ったものを悼みながら、得たものを大切にすることはできる。
過去への責任を抱えながら、目の前の人を幸せにすることもできる。
そのことを、翔次はようやく理解し始めていた。
「……お市」
「はい?」
「俺は、天下を取れなかった」
「ええ」
「信長公を死なせた。信照殿にも、結局、勝てなかったのかもしれない」
市姫は、静かに頷いた。
「けれど……お前と出会えた。お前と暮らせる。明日の朝も、お前の顔を見られる」
翔次は、妻の手を握った。
「それを、敗北だとは思わない。……いや、もう思いたくないんだ」
市姫の瞳が、優しく潤んだ。
「はい」
「俺は、これからもきっと信長公のことを忘れない。忘れてはいけないと思う。だけど、その後悔だけを抱えて生きるのは、もうやめる」
「……はい、あなた」
「お前と生きる。お前を笑わせる。畑を耕して、飯を食べて、時には喧嘩もして……そうやって、一日ずつ生きていく」
翔次は、夕暮れの向こうを見た。
境川の流れは、今日も変わらず続いている。
西には清須城がある。あの城の奥で、信照は相変わらず沈黙を守っているのだろう。天下を望まぬ男が天下に望まれ、東を守った自分は、こうして一人の妻と小さな庵に暮らしている。
かつての自分ならば、それを勝ち負けの秤にかけたに違いない。
だが、今は違う。
誰が天下を治めるかという問いと、自分がどのような人生を生きるかという問いは、同じではないのだ。
「……お市」
「はい」
「俺は、人生の勝者になれるかな」
市姫は、驚いたように目を見開いた。
そして、今日何度目かになる赤面を浮かべながら、夫の手をぎゅっと握った。
「……もう、なっておられますよ」
翔次は笑った。
「ああ。そうだったな」
今度の笑みには、自嘲も、諦めもなかった。
市姫は夫の胸に身を寄せた。翔次はその肩を抱き、冷え始めた空気から守るように、そっと腕に力を込めた。
やがて、庵の奥から夕餉の香りが漂ってきた。
「……大根が煮えすぎてしまいますね」
「ああ。せっかくお前が作ってくれたんだ。早く食べよう」
「はい。今宵は、少しだけ魚も多くいたしましょう」
「それは豪勢だな」
「勝者のお祝いでございますから」
市姫が、いたずらっぽく笑った。
翔次は、また笑った。
この小さな庵には、天下管領の座も、諸国の大名たちが争う権勢もない。何万の兵も、輝かしい軍旗もない。
あるのは、二人分の椀と、温かな夕餉と、明日も続いていく暮らしだけだった。
それでいい。
いや――それがいい。
翔次は妻の手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
西の空には、最後の茜が残っている。
信長と共に天下を取るはずだった歴史を己自身が狂わせたことを悔いる心は、これからも胸の奥にあり続けるだろう。
けれど、救った命がある。
共に歩む仲間がいる。
そして、自分を選び、愛してくれた妻がいる。
その幸福を、自分の手で守っていこう。
翔次は市姫の手を取り、庵の中へと歩み入った。
戸の向こうでは、囲炉裏の火が赤々と燃えていた。
天下を手にした者が、必ずしも人生の勝者とは限らない。
過去を悔いぬ者だけが、幸福を得るのでもない。
後悔を抱えたまま、それでも愛する人と明日を生きる。
その道を選べたことこそが、鍋蓋翔次にとっての勝利であった。
そして、その勝利を誰よりも先に見つけ、言葉にしてくれたのは――ほかならぬ、彼の妻、市姫だったのである。




