第七十八話:天下が望んだ魔王
第七十八話:天下が望んだ魔王
元亀元年、霜月――。
高根の村では、朝の霜が解けるころになると、土の匂いが濃くなった。
鍋蓋翔次は、畑から引き抜いた大根を一本、井戸端に置いた。根についた土を水で洗い落とし、曲がり具合を確かめる。少しばかり形は悪いが、食べるには申し分ない。
「あなた、その一本は夕餉に使うのですか?」
背後から市姫の声がした。
「ああ。煮物にすれば、形など気にならんだろう」
「では、葉も捨てずにおいてくださいね。炒めれば、おいしくいただけますから」
「心得た」
翔次は大根を持ち上げ、妻の差し出した籠に収めた。
それだけのやり取りだった。
かつてなら、朝の刻限から兵糧の集積を確かめ、国境の動静を読み、諸将の報告を突き合わせていた。ひとつの判断が数千の命を左右することもあった。だが今は、夕餉の献立を決めることが、その日の差し迫った務めである。
それを物足りないと思ったことはない。
むしろ、長く忘れていた暮らしの手触りが、日ごとに身に染みていた。
市姫と夫婦になって、三月余り。
朝は畑を耕し、昼には村人の手伝いをし、日が傾けば囲炉裏に火を入れる。戦場にいたころには想像もしなかった日々だった。
ただし、世の中まで静かになったわけではない。
「翔次殿に、お目通り願いたい」
垣根の外から声がした。
振り返ると、馬を預けた男が一人、旅塵をまとって立っていた。岡崎から来た石川数正である。
翔次は籠を市姫に渡し、手を洗った。
「数正殿が、わざわざ高根まで。元康殿に何かあったか」
「殿はご無事にございます。されど、ただちにお耳へ入れたい知らせがあり、参上いたしました」
数正の顔には、急使としての疲れだけではない、説明しがたい戸惑いが浮かんでいた。
翔次は彼を庵へ招き入れた。
囲炉裏のそばに座を設け、市姫が茶を用意する。数正は礼を述べて一口含んだものの、すぐには話を切り出さなかった。懐から取り出した書状を膝の上に置き、言葉を選ぶようにして口を開く。
「都より、尾張の清須城へ使節が参ったそうにございます」
「朝廷からか」
「朝廷と、室町幕府の双方からにございます。将軍・足利義昭公の御内書に加え、朝廷からも格別の沙汰があったとか」
翔次は茶碗を置いた。
「して、用向きは」
「織田十郎信照殿に、天下の武家を取りまとめる新たな重職を引き受けていただきたいとのこと。使節は、その職を『天下管領』と称したそうにございます」
市姫の手が止まった。
「天下……管領?」
「はい。幕府の権威が衰え、畿内の争いも収まらぬ今、都の側は、諸大名に号令を掛け得る者を必要としております。尾張から美濃、近江、さらに北陸へと影響を及ぼす信照殿ならば、乱れた世を鎮められる。そう考えたのでございましょう」
「なるほどな」
翔次は短く答えた。
信照が勢力を広げた土地では、城を落とし、旧主を追い払い、領地を取り上げるという従来のやり方が、必ずしも通用していなかった。土地を治める者たちはそれぞれの立場を保ちながら、白旗のもとで道と市を結び、商いの利益を分かち合っている。
その仕組みが都の目にも明らかになったのだろう。
だが、数正の話には、まだ肝心なところが残っていた。
「信照殿は、何と答えたのだ」
数正は、そこで初めて苦笑に似た表情を浮かべた。
「それが……お答えにならなかったのでございます」
「答えなかった?」
「清須城の広間には、朝廷の使者と幕府の重臣が居並び、前田利家殿、木下藤吉郎殿、滝川一益殿、蜂須賀小六殿をはじめ、各地の諸将も列していたとか。御内書と朝廷の沙汰が読み上げられ、上洛のうえ天下管領の職に就いていただきたいと、重ねて申し入れたそうにございます」
「それで、沈黙か」
「はい。信照殿は御簾の奥におられ、最後まで一言も発せられなかったそうです」
市姫が、困ったように眉を寄せた。
「兄上らしいと申せば、兄上らしいのですが……」
「それで話は済まぬだろう。使者も、返事を持たずに帰るわけにはいくまい」
「その通りにございます。しばらくして木下藤吉郎殿が進み出て、朝廷と幕府への献金を申し出たうえで、こう告げたとか」
数正は、書状に記された言葉を思い出すように、ゆっくりと告げた。
「『我が君は、天下管領の職を望まれぬ。上洛の儀も辞退申し上げる。されど、都の静謐を願う心に変わりはなく、朝廷と幕府への御用立ては、これまで通りお引き受けいたす』と」
囲炉裏で、薪がぱちりと爆ぜた。
「……地位は要らぬが、助力は惜しまぬ。そういうことか」
「はい。使節は、さぞ困惑したことでございましょう」
翔次は、思わず息を漏らした。
信照は、幕府の求めをただ拒んだわけではない。都を見捨てたのでもない。金も物も出す。必要ならば力を貸す。しかし、その代わりに自らを頂点とする新たな政権を築こうとはしない。
差し出された椅子には座らず、椅子を差し出した者たちが困らぬよう、必要なものだけを届ける。
いかにも信照らしい、奇妙な返答だった。
「都では、何と申しておる」
「山科言継卿らも、信照殿の真意を測りかねているとか。天下を治める力がありながら、その座を望まぬ。将軍家を押しのけるつもりもなく、さりとて従うとも申さぬ。あれほどの勢力を持つ者が、何を求めているのか分からぬと」
「分からぬ、か」
翔次は、庭先に目を向けた。
「それは、向こうからすれば当然だろうな」
天下を望む者ならば、天下を治めるために動く。
天下を治めたいのなら、まず人を従わせ、土地を押さえ、軍勢を集め、逆らう者を屈服させる。信長が歩もうとしていた道も、まさしくそれだった。
だが、信照は違う。
いや、違うというより、そもそも同じ道を歩いていないのだ。
数正が帰ったあとも、翔次はしばらく囲炉裏のそばに座っていた。
市姫は、茶碗を片づけながら夫の横顔をうかがった。
「翔次様は、兄上が天下管領になられた方がよかったとお思いですか?」
「いや」
翔次は、間を置かずに答えた。
「信照殿がその職に就けば、今までとは違う争いが始まるだろう」
「争いが……?」
「将軍の名を借りれば、命令を出さねばならぬ。命令を出せば、従う者と従わぬ者が生まれる。従わぬ者を放っておけば、職に就いた意味がないと責められる。かといって従わせようとすれば、結局は兵を動かすことになる」
翔次は、指先で茶碗の縁をなぞった。
「今の信照殿は、誰かの領地を取り上げずとも、人が集まる仕組みを作っている。商人は通行の利を求め、村々は暮らしを守るために白旗を掲げ、国人たちは自分の土地を保ったまま、その仕組みに加わる。信照殿は、すべてを自分の直轄地にする必要がない」
「けれど、兄上が命じれば、もっと多くの者を従わせられるのではありませんか」
「従わせることと、ついて来させることは違う」
翔次は市姫を見た。
「命令に従う者は、命令する者が弱れば離れる。だが、自分の暮らしが良くなるから加わった者は、その仕組みが役に立つ限り、簡単には離れない。信照殿は、その違いを誰よりもよく知っているのかもしれん」
言いながら、翔次は自分の考えを確かめていた。
信照が、そこまで先を見通しているのか。それとも、本人はただ面倒を嫌い、家臣たちがその沈黙を読み取って動いているだけなのか。
その答えは、翔次にも分からない。
分からないからこそ、信照という男は厄介だった。
かつての翔次なら、あの男の動きを読み、次の手を予測し、こちらの備えを整えようとしただろう。だが今は、清須城の奥で何を考えているのかを推し量る必要もない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
信照が天下管領の座を拒んだことで、世の人々はますます彼を特別な存在として見るようになる。本人が望もうと望むまいと、その沈黙は周囲に意味を与えられ、やがて伝説に変わっていく。
「兄上は、昔から難しいことをなさる方でした」
市姫が、懐かしむように言った。
「わたくしには、兄上が何を考えておられるのか分からぬことも多くございました。けれど、わたくしや兄弟たちが困っているときには、いつも、何とかしてくださったのです」
「そうか」
「ですから、天下管領などになられずとも、兄上は兄上でいてくだされば、それでよいのです」
市姫はそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。
その笑顔を見たとき、翔次の胸の奥に、別の顔が浮かんだ。
織田信長。
天下を駆け上がろうとした男。誰よりも速く、誰よりも強く、古い世の仕組みを打ち壊そうとした男。
翔次が知っていた歴史では、信長は桶狭間を生き延び、尾張をまとめ、美濃を攻略し、足利義昭を奉じて京へ上った。やがて各地の敵と戦い、従わぬ寺社を焼き、反旗を翻した大名を討ち、天下統一へと歩みを進めていく。
その道は、確かに速かった。
だが、速く進むほど、後ろには敵が増えた。領地を奪われた者、家を滅ぼされた者、信長のやり方を恐れた者。彼らが手を結び、幾度も信長の前に立ちはだかった。
歴史を知る翔次は、その先に何が待っていたのかも知っていた。
天正十年、本能寺。
しかし、この世では、その未来は訪れない。
信長は永禄三年、田楽狭間で命を落とした。翔次自身の、あまりに軽率な一言が、その死の遠因となった。
どれほど年月が過ぎても、その事実は変わらない。
信照が新たな道を開き、今川が東海道を守り、戦乱の形が変わったとしても、信長が生きていたならば何を成したのかという問いは、消えずに残っている。
翔次は、自分の手を見つめた。
かつて、この手は地図の上で兵を動かし、城を捨て、退くべき時を決めた。戦を避けるために退却し、味方の命を救うために土地を譲り、勝利よりも生き残ることを選んできた。
その判断によって救われた者がいる。
だが、救えなかった者もいる。
信長の死を、歴史の必然だったなどと片づけることはできない。今の世が以前より穏やかになったからといって、あの死が正しかったことにもならない。
自分が生き延びるために口にした言葉。その結果として起きたことを、後からどれほど立派な理屈で包もうとも、消し去ることはできなかった。
「翔次様」
市姫の声が、思考を引き戻した。
「……何か、気にかかることがおありですか」
翔次は、すぐには答えなかった。
市姫は信長の妹であり、信照の妹でもある。そして今は、自分の妻だ。彼女の前で、兄たちのことを語るたび、翔次は自分の立っている場所を思い知らされる。
「少し、昔のことを考えていた」
「兄上のことですか」
「……ああ」
市姫は、それ以上を尋ねなかった。
代わりに、夫の隣へ腰を下ろした。肩が触れるほど近くに座り、囲炉裏の火を見つめる。
「わたくしも、兄上たちのことを思い出すことがございます。信長兄上は、いつも先へ先へと進んでおられました。信照兄上は、何もおっしゃらずに周りを見ておられることが多かったように思います」
市姫は、懐かしそうに目を細めた。
「お二人とも、わたくしには大切な兄上です。どちらが正しかったのかなど、わたくしには決められませぬ」
「……そうだな」
「ですから、翔次様も、ご自分ひとりで答えを出そうとなさらないでくださいませ」
翔次は、妻の横顔を見た。
慰めるつもりで言ったのか、それとも何も知らずに口にしたのか。市姫の表情からは読み取れなかった。
それでも、その言葉は胸に残った。
自分ひとりで答えを出すことはできない。
まして、失われた命の意味を、自分だけで決めてよいはずもない。
「ありがとう、お市」
翔次は、そっと彼女の手を取った。
「俺は、まだ考え続けるのだろう。これから先もな」
「はい。それでよいと思います」
市姫は、握られた手を握り返した。
「ただ、今宵の夕餉は、考え事をなさらずに召し上がってくださいね。せっかくの大根が煮えすぎてしまいますから」
翔次は、思わず笑った。
「それは困るな。畑から抜いたのは俺だから、責任を持って食べねば」
「まあ。では、葉も残さず召し上がっていただきます」
「それは少々、厳しいお沙汰だな」
市姫が声を立てて笑った。
その笑い声を聞きながら、翔次は、ここに戻ってこられたことを静かに噛みしめた。
天下の行く末を考えることも、過去の過ちを悔いることも、明日になればまた始まるだろう。信照は清須で沈黙を守り、義元は東の国々を治め、元康は三河の地を固めていく。世の仕組みは、翔次が刀を置いたあとも動き続けている。
それを見届けることはできる。
だが、すべてを自分の手で正すことはできない。
今は、それを認めることも、翔次にとっての務めだった。
日が傾き、山の端が薄紫に沈み始めたころ、市姫は夕餉の支度に立った。
庵の中に、薪の爆ぜる音が響く。大根を切る包丁の音が続き、やがて煮汁の香りが部屋いっぱいに広がった。
翔次は縁側に出て、西の空を見上げた。
あの彼方に、清須城がある。
御簾の奥で、天下管領の申し出を黙って退けた男がいる。世の人々は、その沈黙に恐れを抱き、知恵を見出し、やがて魔王の名を与えるのかもしれない。
けれど、翔次は知っている。
信照が何を望んでいるのか、すべてを知っているわけではない。あの男の沈黙を、都の人々が語るような深謀遠慮だけで説明できるとも思わない。
それでも、天下を治める座を差し出されてなお、今まで築いてきたものを手放さなかった。その選択が、これからの世に何をもたらすのか。答えは、まだ先にある。
「……天下が、お前を望んでいるぞ、信照」
翔次は、小さく呟いた。
「だが、天下が望む姿になる必要はない。お前が選んだ道を、お前自身の足で歩けばいい」
風が吹き、庭の枯れ枝がかすかに鳴った。
翔次は空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
信長を失ったことへの悔いは、消えてはいない。信照の選択を称えたからといって、自分の過去が許されるわけでもない。
それでも、この世には、あの時とは違う明日がある。
それを作ってきた人々がいる。
そして、自分にも、明日やるべきことが残されている。
「あなた、夕餉ができましたよ」
戸口から市姫が呼んだ。
「ああ、今行く」
翔次は立ち上がり、土間へ向かった。
天下の行く末は、今宵も彼の手を離れて動いている。
ならば今は、目の前の暮らしを粗末にせず、一日ずつ積み重ねていこう。
その先に何が待つのかは、まだ分からない。
けれど、分からぬまま歩くことを、翔次はもう恐れてはいなかった。
囲炉裏の火が、夕闇の中で静かに燃えていた。




