第八十話:晴れやかな空の下で / 衝撃の真相
第八十話:晴れやかな空の下で / 衝撃の真相
後世、東海道ならびに濃尾の歴史を繙くとき、元亀元年の秋より始まる数年間を、まことに奇異の念をもって書き留めるのが常である。
天下がなお血で血を洗う戦乱の業火に包まれていた時代にあって、三河と尾張の境目を流れる境川の流域にのみ、武力と兵火の途絶えた平穏の回廊が現出した。
大軍の激突は跡形もなく消え去り、境目の土手を挟んで両国の民が酒を酌み交わす。街道には諸国の商人が手形一つを懐にして、夜間であっても安心して大路を行き交う。
史家らはこれを、今川治部大輔義元の敷いた仁政と、尾張の織田十郎信照が築いた無税保護圏の均衡による「東海の静謐」と呼び、戦国史上の奇蹟として称揚してやまない。
しかるに――その巨大なる歴史の潮流の結節点、三河国・高根の村の山あいに佇む茅葺き屋根の庵では、後世の記録者が書き連ねる重厚なる大義名分とは、およそ遠くかけ離れた日々が営まれていた。
そこにあったのは、天下の覇権を競い合う武門の威厳ではない。
戦乱の嵐を生き延びた一組の男女が、山里の片隅で肩を寄せ合い、互いの温もりを慈しむ、ささやかな新婚の日常であった。
元亀元年、初冬。
澄み渡る霜月の朝、雑木林の木漏れ日が障子の桟を白く染め、小川のせせらぎが静かに響いていた。
庵の居間、麻の夜着の温もりの中で、鍋蓋翔次は目を覚ました。
枕元に刀はなく、鎧の影もない。
すぐ隣には、妻たる市姫が安らかな寝息を立てていた。
数えで二十三歳。天下の大名たちが競い合って求婚した戦国一の美姫は、いま、乱世の総姫としての気負いをすべて脱ぎ捨て、幼子のような安らぎの中に息づいている。
雪のように白い肌に、朝の光がほんのりと桜色の陰影を落としていた。切れ長の睫毛はかすかに震え、形の良い唇には、心地よい夢路を辿るような微笑が浮かんでいる。
夜着の裾から伸びた細い指先が、翔次の胸元をそっと掴んでいた。
目覚めたとき、夫がどこかへ消えてしまわぬように。
そうしているかのような妻の仕草に、翔次は微笑み、その小さな手を節くれ立った掌で包み直した。
この人が、いま自分の隣にいる。
その事実を確かめるたび、胸の奥に温かなものが満ちてくる。
やがて、お市の睫毛が揺れた。
「……ん……」
ゆっくりと目を開け、眼前に夫の顔を認めた瞬間、その頬がみるみる赤く染まっていく。
「……翔次様」
「おはよう、お市」
「また……わたくしの方が、遅うなってしまいました。妻でありながら、夫より遅くまで褥におるなど……」
「何を申すか。無理に起きる必要はない。庵の朝は長いのだからな」
「いいえ……あなた様のお顔を、朝一番に見つめるのが、わたくしの何よりの歓びでございますもの」
お市ははにかむように俯き、翔次の胸元へそっと額を押し当てた。
朝の冷気が満ちる部屋の中で、二人の間には、初夏の陽だまりのような温もりだけが漂っていた。
しばらくして、お市が身を起こした。
翔次もまた、起き上がろうとして――ふと、妻の横顔を見つめたまま動きを止めた。
「……どうかなさいましたか?」
「いや。少し、昔のことを考えていた」
「昔のこと……?」
「ああ。俺が、ここへ来る前のことだ」
翔次は、庭の向こうに広がる空へ目を向けた。
鍋蓋翔次。
それは、かつての自分の名だった。
歴史が好きだった。書物を読み、合戦の経緯を調べ、名もなき武将の決断にまで思いを巡らせた。
もし自分がその場にいたならば、どう動くか。
敵が倍の兵を持っていたら、どこへ退くか。
味方の陣が崩れたなら、何を捨て、何を守り、どうすれば一人でも多く生きて帰れるか。
そんなことを、幾度も幾度も考えた。
ひとつの策を思いつけば、それが破られた場合を考えた。退路を塞がれた時の手を考え、兵糧が尽きた時の手を考え、味方に裏切りが出た場合さえ想像した。
勝つためだけではなかった。
勝てぬ時に、どうすれば全てを失わずに済むのか。
それが、翔次の思考の癖だった。
けれども、歴史の話を心から分かち合える相手はいなかった。
呪い続けた鍋蓋翔次という名。
世人の間に厚い氷の膜を張って生きていた。群れを嫌い、朋輩を避け、四畳半の自室に籠もっては、誰にも侵されぬ孤独な城砦を築き上げる。
それこそが、彼が身につけた唯一の処世であった。
誰かにひどく傷つけられたわけではない。
それでも、心の内に抱えたものを打ち明けられず、悩みは自分の中だけで巡った。
孤独は、いつしか当たり前になっていた。
あの頃の自分は、何を望んでいたのだろう。
名を後世に残したかったわけでもない。
ただ、自分の考えが何かの役に立つと、一度でいいから信じてみたかったのかもしれない。
そして今、翔次は戦国の世にいる。
空想の中で何度も自らの活躍を思い描いた時代。しかし、知っているはずの歴史が崩れ、頼みとしていた知識が通じなくなり、それでも決断を迫られ続けた世界。
そこで自分を支えたのは、未来の知識ではなかった。
劣勢を想像し、敗北の先に残る道を探し、何を守るべきか考え続けた、あの日々そのものだった。
鍋蓋として孤独に生きた時間も、無駄ではなかったのだ。
悩み、迷い、誰にも話せぬまま考え続けたこと。
何度も劣勢を思い描き、それでも勝ち残る道を探したこと。
全てが、今の自分につながっていた。
「……俺は、俺のまま、ここまで来たんだな」
翔次は小さく呟いた。
転生した理由は分からない。
なぜ自分だったのか。なぜこの時代だったのか。どれほど考えても、確かな答えは見つからなかった。
だが、理由が分からぬからといって、これからの生き方まで決められぬわけではない。
過去の自分を否定する必要はなかった。
この世に来たことを、いつまでも夢か現かと疑い続ける必要もなかった。
ここで出会った人々と、ここで過ごした歳月も、今の自分を形作っている。
ならば、ここを自分の生きる場所としよう。
後悔は消えないだろう。忘れられぬものもあるだろう。
それでも、後悔だけに残りの人生を明け渡すつもりはなかった。
「……俺は、ここで生きる」
翔次は、朝の空を見上げて言った。
「この世で出会った人たちと、この世で得たものを大切にして、ここで生きていくんだ」
隣のお市は、何も尋ねず、そっと彼の手を握った。
その手の温もりが、答えの代わりだった。
やがて二人は起き上がり、朝餉の支度を始めた。
男が井戸で水を汲み、竈に薪をくべて火を熾す。市姫は藍染めの小袖に木綿の襷を掛け、庭の畑から引き抜いてきた大根と蕪の若菜を刻んだ。
土間に響く包丁の音。
羽釜の木蓋の隙間から吹き零れる湯気と、炊きたての麦飯の香り。
お市は味噌汁の味を確かめては小首を傾げ、翔次が一口すすって「実に美味い」と頷くと、天にも昇るような笑顔を見せた。
居間に二つの器を並べ、向かい合って座る。
「いただきます、翔次様」
「ああ、いただこう」
お市は焼き魚の一番脂の乗った身を箸でほぐし、翔次の椀へそっと乗せた。
「こちらをお召し上がりください。畑の仕事で、お身体をお使いになりますから」
「お前が食うといい。お市、少し痩せているのではないか」
「いいえ。翔次様が美味しく召し上がってくださる姿を見るのが、わたくしの何よりの栄養にございます」
他愛もない押し問答の末、二人は顔を見合わせて笑った。
かつて東海道の運命を左右したはずの男女が、一杯の飯を分け合っている。
天下の争乱の気配など、ここには微塵も入り込む余地がなかった。
朝餉を終えれば、野良仕事である。
翔次は麻の野良着を纏い、鍬を担いで庭先の畑へ出た。土に刃を入れ、畝を耕し、大根の根元に土を寄せる。
ふと振り返れば、縁側には必ずお市の姿があった。
破れた単衣を膝に広げ、針と糸を手にして繕い物をしている。陽光が艶やかな黒髪を金色に透かし、畑の夫と目が合うと、恥じらうように小首を傾げ、花が咲くように微笑みかけてくる。
翔次が井戸へ水を汲みにゆけば、お市は手拭いを持って駆け寄り、額の汗を優しく拭った。
「翔次様、少しお休みになられませんか。冷やした麦湯がございますよ」
「すまないな、お市。……お前の手は、まことに温かい」
翔次がその手を取ると、お市は嬉しそうに目を細め、自らの頬を夫の掌へ擦り寄せた。
「翔次様のお手は、大地を慈しむ尊いお手でございますもの。わたくし、このお手が大好きにございます」
大名の娘だからと傅く者はおらず、元軍師だからと警戒する者もいない。
高根の村の民にとって、翔次とお市は、荒れた境目の山里に住み、誰よりも仲睦まじく土を愛する、誇るべき若夫婦であった。
午後、二人は庵の裏手を流れる小川のほとりへ降り立った。
お市が洗濯物を洗い、翔次が絞る。冷たい清流に手を浸しながら、お市はふと、夫の背中にそっと抱きついた。
「……お市?」
「翔次様。わたくし、夢を見ているのではありますまいか」
濡れた小袖越しに、震えるような声が背中に染み込んでくる。
「このような穏やかな空の下で、誰の目も恐れず、愛するお方の背中を抱きしめて暮らせる日が来るなど……思いも寄りませんでした」
翔次は布を置き、振り返って妻を抱き寄せた。
「夢ではない。ここにいる。これからも、お前のそばにいる」
「はい……」
「だが、お市。ひとつ、俺にはまだ望みがある」
お市が顔を上げた。
「望み、でございますか?」
「ああ。この家で、二人で生きていきたい。そして、いつか……俺たちの子を授かれたらと思う」
お市は目を見開いた。
みるみるうちに、その頬が耳まで赤く染まっていく。
「こ、子……ですか」
「そうだ。お市に似た子なら、きっと美しいだろう。心もお市に似て優しい子なら、なお嬉しい」
「も、もう……! そのようなことを、真顔で仰らないでくださいませ!」
お市は両手で頬を覆った。
けれど、翔次の手は離さなかった。
しばらくして、彼女は小さく息を吸った。
「……わたくしも」
「え?」
「わたくしも……あなたとの間に、新しい命を授かれたなら、どれほど嬉しいことでしょう」
声は細く、恥じらいに震えていた。
「その子が、どのような顔をして、どのような声で泣くのか。あなたとわたくし、どちらに似るのか……わたくしも、会ってみたいのです」
言い終えるなり、お市は恥ずかしさに耐えきれなくなり、翔次の胸へ顔を埋めた。
「……ああ、もう。これ以上は、恥ずかしくて申し上げられませぬ」
翔次は妻を抱きしめた。
まだ見ぬ小さな手が、自分の指を握る日。
庭を駆け回る子の声が、家に響く日。
お市と顔を見合わせ、泣き声に慌て、初めての笑顔に喜ぶ日。
そんな未来を、自分は望んでいる。
かつては未来を想像するたび、最悪の結末を想定していた男が、今は未来そのものを待ち望んでいるのだ。
「ありがとう、お市」
「……何のお礼ですか」
「俺と一緒に、未来を望んでくれたことに」
お市は顔を上げ、潤んだ瞳で夫を見つめた。
「わたくしは、あなたと生きたいのです。あなたの妻として。そして、いつか……出来ることなら……あなたの子の母として」
翔次は、その手を強く握った。
「一緒に生きよう。何年も、何十年も」
「はい」
その声には、姫としての務めも、誰かへの遠慮もなかった。
ひとりの女性として、ひとりの妻として、自ら選んだ人と共に生きたいという願いだけがあった。
翔次は、妻の横顔を見つめた。
美しい人だと思う。
心の優しい人だと思う。
人として、なんと気高い人なのだろうと思う。
この人と出会えてよかった。
そして、この人と出会った自分の人生を、もう一度、心から肯定したかった。
夕刻。
茜色の帳が山あいを染め抜く頃、二人は縁側に並んで腰を下ろしていた。
庭の畑からは初冬の夜気が静かに立ち上り、囲炉裏の炭火の匂いが居間から漂ってくる。
お市が温かい麦湯の椀を差し出し、翔次はそれを受け取った。
西の空には、夕焼けが広がっていた。
尾張、美濃、伊勢、近江、越前の五か国に影響を及ぼし、朝廷より天下管領の座を打診されながら、幾重もの御簾の奥から一言も発さず、その大任を退けたという織田十郎信照。
信照が築いた不戦通商圏は西に広がり、今川軍は一歩も領地を奪うことなく、十年にわたって領国を守り抜いた。
大局の盤上において、信照の巨大な歩みを止めることは叶わなかった。
翔次は、その事実を静かに受け止めていた。
勝てなかった。
策を尽くし、考え得る限りの手を打っても、信照の築いた秩序を崩すことはできなかった。
だが、その男の隣には、天下のいかなる大名も手に入れることのできなかった至高の女性がいる。
藍染めの小袖を着て、自らの肩に頭を預け、愛おしそうに目を細めている戦国一の美姫。
いまは、ただ一人の農夫の妻として、日々の粥を炊き、畑の大根を喜び、世界で一番幸せそうに微笑んでいる。
翔次は、手元の椀を置き、西の茜空を見上げた。
「……勝てなかったな、信照」
お市が、ふと小首を傾げた。
「……何か仰いまして? あなた」
翔次は振り返り、最愛の妻の澄み切った瞳を見つめ返した。
そこには、過去の苦悩も、歴史への未練も、何一つ隠す必要のない自分がいた。
翔次は晴れやかに、胸を張って微笑んだ。
「いや、何でもない。……我が名は鍋蓋翔次。この乱世を泥にまみれて生き抜き、お前という無上の宝を得た男だ」
市姫は花が綻ぶように破顔し、翔次の腕に嬉しそうにしがみついた。
秋風が二人の衣を優しく揺らし、小川のせせらぎが、永遠の泰平を祝すように響き渡っていた。
歴史の敗者となり、人生の真の勝者となった男。
鍋蓋翔次の物語は、ここに一つの結びを迎えたのであった。
* * *
――しかるに。
十年間、天下の誰もが「至高の孤高」「人知を超えた沈黙の巨怪」として恐れおののき続けた聖域――尾張国・清須城の本丸最奥へと、視線を移す。
清須城、本丸の深奥。
幾重もの頑丈なる鉄門と、厳重に閉ざされた閂。
昼なお薄暗い一室には香煙が重苦しく立ち込め、四天王や重臣たちの立ち入りすら厳重に禁じられた、厚き白絹の御簾によって外界を遮断された闇が広がっていた。
天下の大名たちが「神仏の如き沈黙」「人知を超えた深謀遠慮」と恐れおののき、朝廷の勅使すらも平伏せしめた、あの「東海の魔王」「不敗の怪異」「百策の覇者」――織田十郎信照は。
……信照は、といえば。
分厚い絹の夜着を頭からすっぽりと被り、畳の上に生まれたての小鹿の如く丸まり、ガタガタ、ガタガタと激しく全身を震わせていたのである。
(いやだ……いやだ……っ! なんでこうなるのぉぉぉぉッ!?)
夜着の暗がりの中、信照は涙と鼻水を洪水のように垂れ流しながら、心の中で悲痛極まる絶叫を上げていた。
(十年間だよ!? 俺はただ『前線に出たくない』『血を見るのが嫌だ』『安全な場所で布団に潜っていたい』って一心で、部屋に引きこもって『余は寝る』『好きにせよ』『兵は減らすな』って言ってきただけじゃん!
今川軍を撃退できたのは四天王のおかげだし、こうして清須城で引きこもれているのも感謝してるよ!? でも、なんでこうなってんの!?
なんで美濃も伊勢も近江も敦賀も、勝手に集まって五か国の大通商圏になっちゃってんの!?
極めつけは、あの恐ろしすぎる歴史のイレギュラー天才軍師・鍋蓋翔次だよ!
清須城に乗り込んできた時は、恐怖で声も出なくて、ガタガタ震えて沈黙するのが精一杯だったのに、お市ちゃんが一目惚れして求婚して、和睦成立とか、意味が分からなすぎるだろ!!)
お市が無事に嫁いでくれたこと自体は、信照にとって飛び上がるほど嬉しい奇跡であった。
現代の一般的な歴史好き大学生であった信照の知識からすれば、お市といえば政略で浅井長政に嫁ぎ、小谷城で夫を失い、柴田勝家に再嫁して北ノ庄城の天守で業火に散るという、救いようのない悲劇の女性である。
その地獄の道筋を完全に回避し、誠実で知的で優秀な名軍師のもとへ、自らの意思で嫁いでくれたのだ。
兄として、これ以上の喜びはなかった。
だが――問題は、その後に残された信照自身の立場であった。
(東の今川との戦争が終わったら、絶対に平和な引きこもり生活ができると思ってたのに……!
なんで今川の脅威が消えた瞬間に、あいつら全員の目がギラギラと血走り始めてるのぉぉぉッ!?
しかも、よくよく考えたらさあ!
お市ちゃんの相手って、あの今川の不敗の天才軍師・鍋蓋翔次だぞ!? 俺の義弟になっちゃったんだぞ!?
もし俺が何にも考えてない、ただ布団を被って震えてるだけの引きこもりだってバレたらどうなるの!?
『貴様、十年間天下を騙していたのか!』って怒られて殺されるんじゃないのぉぉぉ!?)
信照が夜着の中で頭を抱えて錯乱している、まさにその瞬間。
御簾の向こう――大広間に控える重臣たちの、地鳴りのような熱狂の声が、容赦なく障子を突き破って飛び込んできた。
「――殿! 信照様! 本日も軍議のお伺いに参上いたしましたぞ!」
広間の板敷きを揺らすような足音とともに響いたのは、前田又左衛門利家の野太い咆哮であった。
「東海道の今川が永久不可侵を誓い、愛妹・お市様を嫁がせて東の憂いを完全に断ち切られた今! 背後は鉄壁、我が軍の前方を遮る敵はもはや天下にただの一人もおりませぬ!
美濃、伊勢、近江、越前の大回廊を動員すれば、動かせる兵力は優に五万!
殿! 今こそ上洛し、三好や松永の逆賊どもを踏み潰し、日の本を平定して天下人にお成りあそばせッ!」
続いて、木下藤吉郎の甲高い歓声が畳を叩く。
「利家殿の申される通りにございます! 大津の町衆も、草津の商人どもも、みな殿の上洛を首を長くして待ち望んでおりまする!
都の米相場も銭の流れも、すでに我が掌中にございます! 殿がひとたび清須をお立ちになれば、都大路は殿を称える錦の旗で埋め尽くされましょうぞ! さあ、朝廷より打診されし天下管領の座、受諾の号令をッ!」
さらに、滝川一益の冷徹なる囁きが障子越しに滑り込む。
「……御所の警固、ならびに足利将軍家の動向、すでに忍びの手によって掌握済み。山城、摂津、河内への進軍路、一分の隙もござりませぬ。いつでも御下知を」
蜂須賀小六までもが豪快に笑い声を上げた。
「琵琶湖の水軍も、伊勢湾の船団も、殿の御旗を掲げていつでも都の喉元へ物資を運べるぜ! 天下取りじゃあッ!」
(上洛とか絶対無理ィィィィィッ!!)
夜着の中で、信照は白目を剥いて泡を吹きそうになっていた。
(上洛なんかしたら、畿内の三好三人衆とか松永久秀とか本願寺の連中と、本物の殺し合いになるじゃん! 血飛沫だよ!? 鉄砲の弾が飛び交うんだよ!?
俺は天下なんか欲しくない! 天下管領とか絶対にいらん! 清須城の奥で、お菓子を食べて昼寝して、安全に一生を終えたいだけなんだよぉぉッ!!)
だが、部屋の外にいる四天王たちは、信照が恐怖のあまり夜着を被って震えていることなど、夢にも思っていない。
「……しッ。静かにいたせ」
利家が息を呑み、厳粛な声で囁いた。
「見よ……御簾の奥の、あの深遠なる沈黙を。
殿は……天下平定という空前の大業を前にして、次なる百策の布石を、人知れず熟考しておられるのだ……!」
「おお……! 上洛などという目先の勝利に浮かれることなく、天下万民の恒久の安寧を盤上に描いておられるのか! 何という深謀遠慮、何という冷徹なる覇気であられるか!」
藤吉郎が感嘆の声を上げた。
「見よ……! 御簾の奥が、微かに震えておられるぞ!
殿は……天下を手中に収めてなお、背負うべき業火の重さに、人知れず涙を流しておられるのだ……っ!」
「待とうぞ……! 殿の御下知が下る、その天命の刻限をッ!」
(違う! 熟考してない! 天下の業火とか背負ってない! ただビビって布団を被って泣いてるだけなの!
誰か助けてえええええッ!!
お市ちゃん助けて! 俺もそっちの庵に逃げ込みたいよぉぉ!!)
信照は涙と鼻水を垂れ流し、分厚い夜着の中で、魂の底からの悲痛な絶叫を漏らした。
「……お家から一歩も出ずに、安全に暮らしたいだけなのにぃぃぃ……ッ!!」
部屋の外では、四天王と重臣たちが感涙にむせびつつ、深々と畳に額を擦り付けていた。
「おお……殿の深き御覚悟……!」
「我ら、命を捨ててお供仕りますぞッ!」
歴史を狂わせ、人生の真の勝者となった不敗の軍師と。
平穏を望みながら、知らぬ間に天下の魔王へと祭り上げられた小心者の転生者。
神の悪戯が仕組んだ、壮大なるすれ違いの喜劇。
天下が望みし「魔王」の、読者のみぞ知るもう一つの戦いが、いま、幕を開けようとしていた――!
(『俺の知ってる戦国時代と違う!』……織田信照 はじまり)




