第七十六話:元康との祝杯
第七十六話:元康との祝杯
元亀元年、長月も末に近い頃――。
三河国と尾張国の境に近い高根の村では、秋が深まりつつあった。山あいの棚田では刈り入れを終えた稲束が稲架に掛けられ、夕陽を受けて黄金色に輝いている。
山風が吹くたび、乾いた藁の匂いが村を渡った。小川の水は夏の頃より冷たさを増し、岸辺には色づいた木の葉が流れ着いていた。
かつて幾度も兵馬が行き交い、村人たちが戦の行方に怯えた境目の地である。
今は、田畑を耕す者たちの声が聞こえる。道を行く者が槍を手にしていることも、城兵の怒号が夜の静けさを破ることも、以前に比べればずっと少なくなった。
されど、戦の記憶までが消えたわけではない。
村人たちが新たに築いてきた暮らしを守り続けるためには、これからも互いに心を配り、境目の平穏を保っていかねばならなかった。
雑木林の木漏れ日が差し込む、村外れの小さな庵。
庭先の畑では、鍋蓋翔次が麻の単衣の裾を端折り、木杓を手に大根の畝へ水を注いでいた。
数週間前に蒔いた種は芽を出し、青々とした葉を広げている。まだ根は細いが、葉の伸びを見るだけでも、土の下で確かに育っていることが分かった。
土の匂い。
手桶に満ちた井戸水の冷たさ。
軍配も刀も手にせず、ただ畑に向かう己の手を見つめると、翔次は時折、不思議な心地になる。
長く戦場に身を置いてきた手である。
兵の命を数え、兵糧の行方を追い、退くべき時を見定めてきた。己の判断ひとつで、多くの者の生死が分かれることもあった。
今、その手が触れているのは、柔らかな土と若い大根の葉だった。
ふと視線を上げると、庵の縁先に市姫の姿があった。
藍染めの小袖の袂を白い木綿の襷で結び、糸車を前に静かに糸を紡いでいる。
キィ、コト、キィ、コト――。
糸車の音が、穏やかな間を置いて庭に響いた。
市姫が顔を上げ、畑に立つ翔次と目が合う。すると、何を言うでもなく、柔らかな笑みを浮かべた。
翔次も、つられて笑みを返した。
ただ、それだけの日常である。
けれども、その何気ない一瞬を、翔次はかけがえのないものだと思っていた。
戦場では、明日を迎えられる保証などなかった。今ここにある暮らしも、誰かが守り、誰かが手を動かし続けなければ、たちまち失われてしまう。
だからこそ、畑の芽も、糸車の音も、二人が交わす笑みも、決して当たり前のものではなかった。
――コト、トントン。
不意に、柴垣の木戸を叩く音がした。
「……おや」
翔次は木杓を手桶に戻し、顔を上げた。
村の子供が木の実でも届けに来たのだろうか。それとも、近所の者が何か用向きに訪ねてきたのか。
ところが、木戸を押し開けて庭へ入ってきた人影を認めた途端、翔次は目を見張った。
そこに立っていたのは、一人の旅装の武士だった。
粗末な編み笠を目深に被り、泥の跳ねた藍染めの羽織をまとっている。手には竹の杖を持ち、腰には旅刀を一腰差していた。
馬もなければ、供回りもいない。
身なりだけを見れば、街道を歩く一介の武士にしか見えなかった。
男が編み笠を脱ぎ、手拭いで額の汗を拭う。
その顔を見た市姫が、糸車を止めた。
「……松平殿?」
翔次の驚きの声が、縁先から漏れた。
そこに立っていたのは、岡崎城主、松平蔵人佐元康その人であった。
数え二十八歳。一国の主にふさわしい威厳を備えながら、その顔には気取ったところがない。幾度もの苦難をくぐり抜けてきた太い眉と、見る者をまっすぐに捉える眼差しが印象的だった。
「わっはっは! 驚かせてしまい申したかな、翔次殿、お市様!」
元康は編み笠を脇に抱え、朗らかに笑った。
「岡崎の政務が一段落いたした折、ふと思い立ちましてな。供を連れては、かえって仰々しくなりましょう。道中の有様も見ておきたかったゆえ、供には近くまで控えさせ、ここまでは一人で歩いて参った次第にござる」
「元康殿……!」
翔次は慌てて手足の土を払い、元康のもとへ歩み寄った。
「城主ともあろう御方が、かような姿で境目の村までお越しになるとは。せめて供の者をお連れください。道中、何事が起きるか分かりませぬぞ」
「案ずるな、翔次殿。道中の者たちにも、それとなく気を配らせておりまする。それに、貴殿とお市様の暮らすこの村が、今も安らかであるか、この目で見ておきたかったのじゃ」
元康は翔次の肩を軽く叩いた。
「境川沿いの道も、以前に比べればずいぶん通りやすくなり申した。道端で怯えながら暮らしていた者たちが、今では荷を担いで行き来しておる。……それだけでも、訪ねてきた甲斐がござる」
その言葉に、翔次は小さく頷いた。
平和とは、誰かが声高に宣言すれば成るものではない。
道を歩く者が、明日の命を案じずに済むこと。百姓が、実った作物を誰かに奪われることなく収穫できること。その一つ一つが積み重なって、ようやく形を得るものなのだ。
「ところで、翔次殿。手ぶらで参ったわけではござらぬぞ」
元康は背負っていた包みを下ろし、その中から酒樽と竹の皮に包まれた荷を取り出した。
「三河で醸した酒にござる。それから、道中で手に入れた川蟹と焼き鮎も持参いたした」
「これはまた、ずいぶんと……」
「十年の労をねぎらい、貴殿の祝言を友として祝いたくてな。祝言の日には顔を出せなんだゆえ、改めて盃を交わしに参ったのじゃ。……上がらせていただいてもよろしゅうござるか」
屈託のない笑顔だった。
市姫は草履を履いて土間へ降り、丁寧に頭を下げた。
「松平殿。ようこそお越しくださいました。かような庵ではございますが、どうぞお寛ぎくださいませ。夫の大切な友をお迎えでき、わたくしも嬉しく存じます」
「おお、お市様! そのような麻の小袖をお召しになっても、まことに美しい。翔次殿は果報者にござるな!」
元康が大きく笑うと、市姫は恥じらうように頬を染めた。
「松平殿、そのように申されては、夫が困ってしまいます」
「いやいや、真に思うたことを申したまで!」
元康の笑い声が、秋の庭に響いた。
翔次は苦笑しながら、客人を庵へと招き入れた。
秋の陽が傾く頃、三人は庵の縁先に座を囲んでいた。
板敷きの上には質素な敷物が広げられ、囲炉裏の炭火が赤く熾っている。
市姫が手際よく用意した川蟹は、殻が赤く染まり、香ばしい匂いを漂わせていた。庭の畑で採れた大根は味噌で柔らかく煮られ、小川で獲れた岩魚も塩を振って焼かれている。
元康が持参した酒を素焼きの盃へ注ぐと、米の香りがほのかに立ち上った。
「さあ、翔次殿。まずは一献」
元康が盃を差し出した。
翔次は両手で受け取り、静かに口をつけた。
米の旨味が舌に広がり、酒の熱が喉を通って腹の底へ落ちてゆく。
「……これは美味い酒でございますな」
「そうであろう。三河の百姓たちが、丹精して育てた米で醸した酒にござる。戦のために刈り取られるのではなく、自らの暮らしを支えるために育てた米じゃ。わしには、そのことが何より嬉しい」
元康は自分の盃も干し、満足げに息をついた。
「岡崎の城におりますと、朝から晩まで政務に追われまする。知行の沙汰、田畑の境、道や水路の普請……。いずれも放っておくわけには参らぬが、こうして小さな庵で風に当たっておると、己が何のために政をしておるのか、改めて思い知らされますな」
「民が、穏やかに暮らすためでございましょう」
「その通りじゃ、翔次殿」
元康は大根の煮物を箸でつまみ、口へ運んだ。
「おお、これも美味い。味がよう染みておる。お市様、見事なお手前にござるな」
「お口に合いましたなら、何よりでございます」
市姫は微笑み、元康の盃に酒を注いだ。
「兄上……清須の信照公からも、先だって前田利家殿や蜂須賀小六殿を通じて、尾張の酒や干し柿が届けられました。松平殿のお酒と合わせますと、この庵には東海のあちらこちらから、心のこもった贈り物が集まっておりますね」
「信照殿からも、でござるか」
元康は盃を見つめ、しばし黙した。
「……思えば、十年の歳月。夢のようでもあり、地獄のようでもあった年月にござった」
秋風が雑木林の梢を揺らした。
元康は盃を置き、己の掌を見つめた。そこには、槍を握り、手綱を引き、幾度も戦場を渡ってきた男の痕が刻まれている。
「永禄三年五月十九日。大高城へ兵糧を運び入れた、あの日……」
元康の声が低くなった。
「桶狭間で信長公が討死されたと聞き、今川の本隊が尾張から引き揚げた後も、某と三河の兵は境川沿いの備えを解くことができませなんだ。尾張の情勢は定まらず、いつ敵が攻め寄せるとも知れぬ。城を守る兵も、村々を見張る者も、休む間がござらぬ日々であった」
元康は、言葉を選ぶように一度口を閉じた。
「兵糧は乏しく、傷病人も増えてゆく。夜番に立つ兵の顔から生気が失われ、故郷に残した家族を案じて泣く者もおりました。某は三河の者たちを預かる身でありながら、彼らを救う手立てを見いだせなんだ」
その顔に、かつての苦悩がよみがえっていた。
「夜になると、陣屋の板敷きに突っ伏し、己の無力を呪うておりました。腹の奥が引き裂かれるように痛み、息をすることさえ苦しい。されど、某が倒れれば、家臣たちはなお不安を募らせる。痛みを隠して立ち上がるほか、ござらなんだ」
翔次は黙って元康の横顔を見つめた。
あの日々を、翔次も忘れてはいない。
帳面の上では兵糧がある。だが、道が塞がれ、運ぶ者が足りず、前線へ届かない。数字を並べるだけでは救えぬ命が、境川の向こうに幾つもあった。
夜更け、岡崎の陣屋へ駆け込んできた元康が、己の無力さを噛み締めていた姿も覚えている。
「……あの時、駿府から兵糧を携えて前線へ駆けつけてくださったのが、翔次殿、貴殿でござった」
元康は顔を上げた。
「兵糧五百石を運ぶ手立てを整え、兵の休息を確保し、水場を押さえ、太守様に三河衆の窮状を訴えてくださった。三河の者たちを、ただ使い潰すための兵と見なしてはならぬと、重臣たちの前でも申してくだされた」
元康の目に、熱いものが浮かんだ。
「もし貴殿があの時、手を差し伸べてくださらなんだら……某は、三河の兵を守り切れなんだやもしれませぬ。家臣たちの信頼を失い、今川への恨みを抑えることもできず、三河そのものを破滅へ導いていたかもしれぬ」
「元康殿……」
「その後も、貴殿は某の弱音を聞いてくだされた。陣屋の囲炉裏端で白湯をすすり、苦い薬を口にしながら、明日のことを語り合うた夜もござったな」
元康は苦笑した。
「目付の長谷川元長が無謀な出陣を迫った折にも、貴殿は早馬で駆けつけ、太守様の朱印状を掲げて、某が無用な戦に引きずり込まれるのを防いでくだされた」
そして、真っ直ぐに翔次を見た。
「翔次殿。貴殿は、某にとってただの軍師でも、今川家の重臣でもござらぬ。命の恩人であり、誰にも打ち明けられぬ苦しみを分かち合うてくれた、生涯無二の友にござる」
その言葉には、飾りも誇張もなかった。
市姫は静かに目を伏せ、胸元で手を重ねた。
翔次は手の中の盃を見つめた。
胸の奥に、熱いものが込み上げる。
(元康殿……)
ふと、遠い記憶がよみがえった。
まだ現代にいた頃、狭い部屋で戦国の書物を読み耽っていた自分。そこで知った、徳川家康という男の生涯。
史実の家康は、桶狭間の混乱を機に今川から離れ、信長と盟約を結んだ。三河一向一揆との凄惨な争いを経て、武田信玄の侵攻に苦しみ、三方ヶ原では大敗を喫した。やがて天下の争いを勝ち抜き、江戸に幕府を開く。
長い生涯の果てに、彼が手にしたものは、天下を治める権力だった。
しかし、その道には、数え切れぬほどの犠牲があった。
家康の名を知る者は、天下人としての偉業を語る。けれども、その名の陰で、彼が何を失い、何を耐え、どれほどの孤独を抱えていたのかは、記録を読むだけでは知り尽くせない。
まして、この世界の元康が歩んできた道は、史実とはすでに大きく異なっていた。
天下を争うために三河を踏み台にするのではなく、三河の民と家臣を守るために、戦を避ける道を選んできた。
その選択が、すべての苦難を消し去ったわけではない。救えなかった者も、間に合わなかったことも、元康の胸には残っているだろう。
それでも、今、目の前にいる男は、竹杖一本を携えて友の庵を訪ね、酒を酌み交わして笑っている。
翔次は、その姿を見つめた。
この世界で、歴史は狂った。
その始まりに、自分の言葉があった。
信長が生きていれば、誰が何を成し遂げ、誰がどのような人生を歩んだのか。それを知る術は、もうない。
今川を支え、兵を救い、戦を避けるために知恵を尽くしてきた。元康と共に、三河の民を守る道を探してきた。
それらが無意味だったとは思わない。
だが、誰かを救ったからといって、過去に犯した過ちが消えるわけでもなかった。
「……元康殿」
翔次の声が、わずかに震えた。
「礼を申すべきは、それがしの方にございます」
翔次は座を改め、元康に深く頭を下げた。
「十年前、それがしは己の身を守ることだけを考え、信長公を死なせてしまった。あの日から、胸の内に消えぬ悔いを抱えております」
言葉にするたび、あの時の記憶が胸を締めつけた。
「今川を支え、兵糧を整え、戦を避ける策を講じてきたのも、ただ生き延びるためだけではございませぬ。二度と、己の判断によって人々の暮らしを壊したくない。その思いが、いつしかそれがしを動かしておりました」
翔次は顔を上げた。
「されど、何を成し遂げたところで、過ぎたことは戻りませぬ。信長公が生きておられたならば、どのような世になっていたのか。それを思わぬ日はございません」
元康は口を挟まず、ただ聞いていた。
「……もし貴殿がおられなければ、それがしは己の罪ばかりを見つめ、目の前で苦しむ者たちを救うことさえ諦めていたかもしれませぬ」
翔次は、元康の手を見た。
「貴殿は、幾度も苦境に立たされながら、家臣たちを見捨てなかった。三河の民を守るために、己の面目よりも兵の命を重んじてくだされた。その姿に、どれほど救われたか分かりませぬ」
声が詰まった。
「元康殿。貴殿がそれがしの兵站の理を信じ、三河の者たちと共に踏み止まってくださったからこそ、今川の備えも形を成しました。貴殿が三河の民を守る覚悟を貫いてくださったからこそ、太守・義元公もまた、戦を重ねる道ではなく、領国を立て直す道を選ぶことができたのです」
翔次の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「……元康殿。生きていてくださり、まことにありがとうございます」
元康の顔が、大きく歪んだ。
盃を置き、膝を進めると、翔次の両手を力強く握りしめた。
「翔次殿……!」
元康の声が、嗚咽に震えた。
「貴殿こそ、生きていてくだされた! この乱世にあって、某の手を握り、共に道を探してくだされた!」
元康は目元を拭った。
「某は、これからも三河の武士も百姓も、無用な戦で失いたくはござらぬ。すべての命を救えるなどとは申せませぬ。されど、救える命を見捨てぬために、できる限りのことをして参る」
その手には、確かな力がこもっていた。
「そして、いつの日か、貴殿と共に笑うて生涯を終えたい。三河の者たちが安らかに暮らせる世を残すために、某は生きて参りまする」
「はっ……。それがしも、この高根の村で妻と共に畑を耕しながら、できる限りの力で、皆の暮らしを見守って参りましょう」
二人は、固く手を握り合った。
身分の差を越え、立場の違いを越えて結ばれた友情だった。
かつて、二人は戦のただ中で互いを支え合った。今は、それぞれの務めを異にしながらも、同じ願いを抱いている。
失われた命を取り戻すことはできない。
けれども、これから失われるはずだった命を救うために、なお歩み続けることはできる。
市姫が涙を拭い、二人の盃に酒を注ぎ足した。
「さあ、お二人とも。涙はそのくらいにして、美味しいお酒を召し上がってくださいませ。秋の夜は長うございます。今宵は、心ゆくまで語り合ってくださいな」
「おお、これはお市様に一本取られ申したな!」
元康は袖で目元を拭い、いつもの豪快な笑顔を取り戻した。
「翔次殿、改めて盃を交わそうではござらぬか。戦に明け暮れた年月を越え、今日ここに生きておることを祝して!」
「喜んで、お相手いたしまする」
二人は盃を掲げ、静かに飲み干した。
素焼きの盃が触れ合い、澄んだ音を立てる。
川蟹を食べ、焼き鮎を頬張り、酒を酌み交わすうちに、話題は少しずつ軽やかなものへ移っていった。
駿府の市で商人たちが何を売り買いしているか。刈谷の砦で兵たちがどのように過ごしているか。清須城では木下藤吉郎が帳面と算盤を前に、頭を抱えているらしい。
元康が藤吉郎の様子を真似てみせると、市姫も声を立てて笑った。
かつて、夜ごと胃の痛みに苦しみ、明日の戦を案じていた二人の男が、今は他愛のない話で笑っている。
その笑い声は、秋の夜気に溶けて、静かな山里へと広がっていった。
夜の帳が下り、山の端から月が昇り始めた頃、元康はようやく腰を上げた。
「……翔次殿。名残惜しゅうござるが、そろそろ引き揚げねばなりませぬ。あまり遅くなれば、忠次や数正が案じて、迎えを寄越すやもしれませぬゆえ」
「それは、あまりお待たせしてはなりませぬな」
翔次と市姫は並んで立ち、元康を柴垣の木戸まで見送った。
木戸の外で、元康は竹杖を手に振り返った。
月明かりの下、翔次と市姫が肩を並べて立っている。
かつて今川の軍を支えた軍師と、織田家の姫君。今は小さな庵で暮らし、畑を耕し、互いを支え合っている。
元康は、その姿をしばらく眺めてから、穏やかに口を開いた。
「翔次殿。太守様も、某も、貴殿がこの境目にいてくださることを、心強く思うておりまする」
「それは、少々買いかぶりにございます」
「いや、そうではござらぬ」
元康は静かに首を振った。
「貴殿が戦場におらずとも、これまでの働きが消えるわけではござらぬ。それに、この村で暮らす者たちの姿を見ておれば、平穏を守るために何が必要なのか、改めて考えさせられまする」
元康は杖の先で地面を軽く叩いた。
「東海道の平和は、誰か一人の力で保たれるものではござらぬ。太守様も、信照殿も、各地の領主も、そして村々で日々を営む者たちも、それぞれが務めを果たしてこそ続くもの。貴殿とお市様も、ここで暮らしながら、その一端を担うておられるのでござる」
翔次は深く頭を下げた。
「……そのお言葉、ありがたく頂戴いたします」
「また、折を見て酒を飲みに参りますぞ。次は、三河の新米で握った飯も持って参りましょう」
「いつでもお待ちしております、元康殿」
市姫も微笑んだ。
「次にお越しの折には、温かい粥も用意しておきますね」
「おお、それは楽しみにござる!」
元康は朗らかに笑い、編み笠を被った。
「では、さらばじゃ!」
竹杖が小道を軽やかに打つ音が、次第に遠ざかってゆく。
やがて元康の姿は、雑木林の向こうへ消えた。
翔次と市姫は、しばらく木戸の前に立ち、その背中が去った方角を見つめていた。
澄み切った秋の夜空には星々が瞬き、月の光が高根の村の田畑と小川を淡く照らしている。
「……素敵な御方ですね、松平殿は」
市姫が翔次の腕にそっと身を寄せ、呟いた。
「戦国の武将とは思えぬほど、穏やかで、優しい眼差しをしておられました」
「ああ」
翔次は頷いた。
「あのお方は、真の英主だと思う。天下を取ることだけを目指すのではなく、三河の民を守ることを己の務めとしている。あの覚悟がある限り、三河はきっと、よい国になってゆく」
「松平殿ならば、きっとそうなさるでしょうね」
市姫は、月明かりの中で微笑んだ。
翔次は妻の肩を抱き寄せた。
胸の奥には、今も信長の死にまつわる悔恨が残っている。元康と酒を酌み交わしたからといって、それが消え去るわけではない。
それでも、今日という日を、無意味なものだとは思わなかった。
己が過去に何をしたのかを忘れず、目の前にある暮らしを守るために、これから何をすべきかを考える。
その歩みだけは、止めずにいられる。
庵の庭では、大根の若葉が夜露を受けていた。
小さな葉の一枚一枚が、月の光を浴びて静かに揺れている。
戦乱の世が終わったと、誰も断言することはできない。東海の外には、なお力を蓄える大名たちがおり、境目の平穏も、これから先の政と人々の働きに委ねられていた。
けれども、今宵、この庵には友と交わした盃の余韻が残っている。
失われたものを忘れず、それでも明日を生きるために。
翔次は市姫と共に、静かに庵の戸を閉めた。
東海の平穏は、まだ完成したものではない。
それを守り、育ててゆく者たちの歩みは、明日も続いていく。




