第七十五話:お市との新婚の日々
第七十五話:お市との新婚の日々
元亀元年、長月半ば――。
三河と尾張の境に近い高根の村では、朝夕の冷え込みが日に日に増していた。雑木林の楢や櫟は少しずつ色づき、刈り入れを待つ稲穂が秋風に揺れている。
かつて兵馬の往来が絶えず、夜ごとに火の手を恐れたこの山里にも、ようやく穏やかな日々が戻りつつあった。
村外れの雑木林に寄り添う、小さな茅葺きの庵。
夜明けの薄明かりが障子を透かす頃、鍋蓋翔次は静かに目を開いた。
耳に届くのは、梢で囀る小鳥の声と、近くを流れる小川のせせらぎばかりだった。
十年余り、翔次は駿府の館や境川の前線で、敵の動きと兵糧の行方に気を配り続けてきた。夜半に急報が届けば飛び起き、陣中で眠るときも、次に何が起きるかを考えずにはいられなかった。
翔次は、隣へそっと目を向けた。
すぐ傍らで、市姫が安らかな寝息を立てていた。黒髪が枕の上に広がり、朝の光を受けた頬には、かすかな温もりが差している。
織田信長の妹にして、清須城で長く兄を支えてきた姫君。
その人が今は、質素な庵で自分の妻として眠っている。
(……夢ではないのだな)
翔次は自分の手を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
駿府を離れ、軍師の職を退き、ここへ来たときには、ただ静かに暮らせればよいと思っていた。畑を耕し、村人と交わり、過ぎた年月を振り返る。それだけで十分だと考えていたのである。
まさか、その庵に市姫が嫁いでくるとは思いもしなかった。
祝言から幾日かが過ぎた今も、ときおり、隣にいる妻の姿が信じられなくなる。
だが、手を伸ばせば触れられる距離に、確かな温もりがあった。
翔次は起こさぬよう、そっと夜着を抜け出した。
麻の単衣に着替え、雨戸を開ける。ひんやりとした朝の空気が室内へ流れ込んだ。
庭の畑では、大根と蕪の双葉が黒土の間から顔を出していた。朝露を宿した小さな葉が、昇り始めた日の光を受けている。
翔次は手桶を持ち、井戸へ向かった。
釣瓶を下ろして水を汲み、顔を洗う。手足を清めてから水甕を満たし、納屋の薪を竈の前へ運んだ。
火打ち石を打ち、火口に生じた火種を枯葉へ移す。
やがて竈の奥で薪が燃え始め、かすかな煙が立ち上った。
翔次が羽釜を据えようとしていた、そのとき。
「……おはようございます、翔次様」
背後から声がした。
振り返ると、上がり框に市姫が立っていた。黒髪を後ろでまとめ、藍染めの小袖の袂を木綿の襷で引き結んでいる。起きたばかりの目には、まだ少し眠気が残っていた。
「お市。起こしてしまったか」
「いいえ。目が覚めただけでございます」
市姫は微笑み、草履を履いて土間へ下りてきた。
「竈の火を焚いてくださったのですね。本来なら、わたくしがいたすべきことですのに」
「俺は昔から、朝の仕事には慣れている。お前には、まだ旅の疲れも残っているだろう。ゆっくり休んでいてよいのだぞ」
「もう十分に休ませていただきました」
市姫は竈の前にしゃがみ、燃え具合を確かめた。
「清須におりました頃も、朝には大釜の火を焚き、粥を煮ておりました。大勢の人々のために働くことも大切でしたが……今は、あなた様と二人で朝餉をいただけることが、何より嬉しいのです」
そう言って、彼女は羽釜に米と麦を入れ、水を注いだ。
火吹き竹で息を送り、火の加減を整える。煙に目を細めながらも、その手つきには迷いがなかった。
やがて釜から湯気が立ち、炊き上がる麦飯の香りが土間に広がった。
市姫は小鍋で若菜の味噌汁を仕立て、焼き味噌と干し魚を小皿に並べた。どれも、この庵で暮らす二人にふさわしい、飾り気のない朝餉だった。
居間に二つの折敷を並べ、向かい合って座る。
「いただきます」
翔次は箸を取り、麦飯を口に運んだ。
素朴な穀物の甘みが広がり、温かな味噌汁が身体に染み渡る。
軍陣では、冷えた飯を急いで腹に収めることも多かった。食事の最中でさえ、兵糧の残りや次の陣立てを考えねばならなかった。
それに比べ、今朝は誰にも急かされない。
ただ、目の前に妻がいて、同じ膳を囲んでいる。
「……美味いな、お市」
「お口に合いましたか」
「ああ。まことに美味い」
市姫は嬉しそうに目を細めた。
「畑の若菜も、翔次様が育ててくださったものです。清須でいただいていた御膳とは違いますけれど、わたくしには、こちらの方がずっと心に残ります」
「それは、俺が作ったものだからではないか?」
「ええ。それもございます」
市姫が悪戯っぽく答えたので、翔次も思わず笑った。
二人は、ゆっくりと朝餉を終えた。
食事の後、翔次は手拭いで額を覆い、鍬を手にして畑へ出た。
土は朝露を含み、柔らかく湿っていた。大根の芽を傷つけぬよう、周りの土をほぐし、伸び始めた雑草を一本ずつ抜いていく。
軍議の席で策を練るのとは違い、土は答えを急かさない。
手をかけた分だけ、すぐに実りが得られるわけでもない。天候も、虫も、土の具合も、思いどおりにはならぬ。できるのは、毎日様子を見て、必要な手を加え、育つ力を信じて待つことだけだった。
その営みが、今の翔次には心地よかった。
ふと顔を上げると、縁先に市姫が座っていた。
膝の上には、翔次の単衣が広げられている。針と糸を使い、ほころびた縫い目を丁寧に繕っていた。
目が合うと、市姫は小さく微笑んだ。
翔次も、鍬を持ったまま笑みを返した。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
昼近く、柴垣の向こうから子供たちの声が聞こえてきた。
「お市様ー!」
木戸の隙間から、村の子供が五、六人、顔を覗かせていた。
「まあ、いらっしゃい」
市姫は針仕事を置き、木戸まで歩いていった。
子供たちは、初めこそ遠慮がちだった。清須城の姫君と聞けば、どれほど近寄りがたい人だろうと考えていたのかもしれない。
だが、市姫が目線を合わせるように膝を折ると、たちまち顔をほころばせた。
「お市様、これ、裏山で採ってきたんじゃ!」
一人の童が、紫色に熟れたアケビを差し出した。
「まあ、見事な実ですね。ありがとう」
市姫は両手で受け取り、子供たちの顔を順に見た。
「お礼に、干し柿を差し上げましょう。清須から持ってきたものが、まだ少し残っておりますから」
台所から干し柿を持ってくると、子供たちは歓声を上げた。
「わあ、ありがとう!」
市姫は笑いながら一人ずつ手渡し、やがて縁側に腰を下ろして、子供たちとアケビを分け合った。
その様子を畑から眺めながら、翔次は思った。
(……このお方は、変わらないのだろうな)
清須城にいた頃も、市姫は城下の人々や傷ついた兵たちを気にかけていたという。姫君として守られるだけの暮らしを望まず、手の届くところにいる者たちを、自らの手で助けようとしていた。
彼女が望んでいたのは、豪華な御殿でも、誰もがひれ伏すような地位でもなかったのだろう。
人々が安心して暮らし、子供たちが笑い、明日の食事を心配せずに眠れる世。
その願いは、翔次が軍師として守ろうとしてきたものとも重なっていた。
午後になると、村の農婦たちも庵を訪れた。
「お市様、漬物を少し持ってまいりましただ」
「このあたりの菜は、塩を控えめにするとよろしいですよ」
彼女たちは、姫君に対する遠慮を残しながらも、親しみを込めて声をかけた。
市姫は礼を述べ、漬物の作り方を教えてほしいと頼んだ。農婦たちは最初こそ恐縮していたが、やがて土間に集まり、野菜の塩加減や保存の工夫について話し始めた。
天下の名家に生まれた姫君が、村の女たちと同じ目線で話を聞いている。
その姿に、彼女たちの表情も次第に和らいでいった。
市姫は、少しずつこの村の暮らしに馴染んでいた。
そして翔次もまた、村人たちが市姫を特別な姫君として遠巻きにするのではなく、隣人として受け入れ始めたことを、何より嬉しく思った。
日が傾き、野良仕事を終えた翔次は、井戸水で手足を洗った。
縁側に腰を下ろすと、市姫が茶を持ってきた。二人は肩を並べ、暮れゆく空を眺めた。
山の端には薄紅色の雲が広がり、小川の水面が夕陽を映している。
「……翔次様」
「どうした、お市」
市姫は湯呑みを両手で包み、少し考えてから口を開いた。
「この村で暮らし始めて、改めて思うことがございます」
「何だ?」
「あなた様のお名前は、やはり、あなた様によく似合っているということです」
翔次は思わず苦笑した。
「また、その話か。鍋蓋だぞ。煤けた台所の隅に転がっている、ただの道具の名だ。昔は、その名を呼ばれるたびに、周りの笑い声が気になったものだ」
「けれど、鍋の蓋がなければ、飯を炊くのも難しくなります」
市姫は、穏やかな声で言った。
「火の熱を受け止め、釜の中のものを守る。目立つものではなくとも、なくては困るものです。あなた様のお働きも、そうではございませんか」
翔次は、湯呑みを持つ手を止めた。
「境川では、戦を避けるために知恵を尽くされました。兵を退かせることも、兵糧を届けることも、ただ敵を打ち負かすためではなく、命を守るために考えてこられたのでしょう」
市姫は、川の流れへと目を向けた。
「太守様が攻めるべきか退くべきかを考え、諸将が功を競おうとする中で、あなた様は、戦の熱が人々の暮らしを焼き尽くさぬよう、境目を守ってくださいました。鍋の蓋というお名前は、そのお働きに通じるところがあるように思うのです」
翔次は、しばらく言葉を返せなかった。
かつては、珍しい姓を恥じていた。人に笑われることを恐れ、自分の名を呼ばれるたびに身を縮めた。
その名を、今は市姫が、これほど真剣に受け止めてくれている。
だが、彼女の言葉は、翔次の過去を帳消しにするものではなかった。
戦を防げた場所がある一方で、救えなかった命もある。策が功を奏したこともあれば、思いもよらぬ結果を招いたこともあった。
そして、信長を死なせたという事実は、今も変わらず胸に残っている。
愛する人がそばにいても、過去の出来事がなかったことになるわけではない。
それでも、自分の名に込められた意味を、これまでとは違う形で受け取ることはできるのかもしれなかった。
「……ありがとう、お市」
翔次は、妻の手をそっと握った。
「お前がそう言ってくれるなら、この名を少しは好きになれそうだ」
「少し、でございますか?」
市姫が、いたずらっぽく首を傾げた。
「そうだな。まだ、すっかりとはいかない」
「では、これから毎日、申し上げることにいたしましょう」
「毎日か。それは参ったな」
二人は顔を見合わせ、笑った。
その笑いが落ち着いた頃、市姫は西の空へ目を向けた。
「……兄上は、今頃どうしておられるでしょう」
「信照殿か」
「はい」
市姫の表情に、かすかな寂しさが浮かんだ。
「兄上は、長い間、清須城を離れず、ほとんど御心の内を明かされませんでした。家臣たちが何を申し上げても、ただ静かに聞いておられるばかり。わたくしが嫁ぐときも、直接お言葉をかけてはくださいませんでした」
彼女は膝の上で手を重ねた。
「けれど、兄上がわたくしを案じてくださっていたことは、分かっております。あの方も、誰にも見せぬ苦しみを抱えておられるのではないかと……。わたくしだけが、このような暮らしを得てよいものかと、時折、考えてしまうのです」
翔次は、すぐには答えなかった。
清須城の大広間で対面した信照の姿が、脳裏に浮かんだ。
御簾の奥に座し、必要な言葉だけを発し、沈黙によって周囲を動かす男。妹の縁談を認めたときも、表情をほとんど変えなかった。
だが、沈黙の内に何を思っているかを、他人がすべて見通せるわけではない。
翔次は、断定するような言葉を避けて口を開いた。
「信照殿が何を思っておられるか、俺にも分からない。あのお方の胸の内を、勝手に決めつけることはできないからな」
市姫は、静かに頷いた。
「ただ、少なくとも、お前がこの暮らしを望んだことを、信照殿は認めてくださった。それは確かなことだ」
「……はい」
「ならば、まずはその想いに応えて、ここで暮らしていけばよいのではないか。お前が笑っていることを、兄上が喜ばれるかどうかは、いつか確かめればよい。今から不幸せな顔をして、兄上を案じ続ける必要はないだろう」
市姫は、はっとしたように翔次を見つめた。
「わたくしが、ここで幸せに暮らすこと……」
「ああ。お前が自分で選んだ道だ。兄上を思う気持ちと、自分の暮らしを大切にすることは、両立できるはずだ」
市姫はしばらく考え、それからゆっくりと微笑んだ。
「……そうですね。兄上のことは、これからも案じてまいります。けれど、わたくしも、この暮らしを大切にいたします」
「それでいい」
翔次は、妻の手を握り直した。
そのときだった。
庵の裏手、竹林の方から、かすかな物音がした。
風が葉を揺らす音とは違う。何かが地を踏み、枝を避けたような、微かな擦過音。
翔次の表情が、ごくわずかに変わった。
(……人か)
軍師として各地の陣営を渡り歩いた年月は、身の回りの小さな変化を見逃さぬ習いを彼に残していた。
音は一度きりで、すぐに途絶えた。
殺気は感じられない。こちらを探るような気配も薄い。ただ、遠くから様子を窺っている者がいるようだった。
清須から来た者だろうか。市姫の暮らしぶりを案じ、誰かが見届けに来たのかもしれない。
滝川一益の配下に、気配を消すことに長けた草の者がいることは、翔次も知っていた。だが、姿を見ていない以上、相手を断定することはできない。
以前の翔次なら、すぐに人を呼び、周囲を調べさせていたかもしれない。
今は違った。
彼は市姫の手を離さず、何事もなかったように立ち上がった。
「お市、そろそろ日が暮れる。今夜は、昼の残りの麦飯を温め直して食べよう」
「はい。漬物もございますよ。焼き味噌も添えましょうか」
「それはありがたいな」
二人は連れ立って庵へ入った。
竹林の奥では、しばらく気配が留まっていたが、やがて静かに遠ざかっていった。
翔次は振り返らなかった。
もし清須から来た者であったなら、見ていけばよい。市姫が村人たちと笑い、畑の実りを喜び、夫と共に食事をしている。その様子を伝えることが、何より確かな知らせになるだろう。
ただし、それが信照の命によるものか、家臣たちの気遣いによるものかは分からない。
今は、分からぬことを無理に決めつけず、目の前の暮らしを守ればよかった。
夜。
庵の居間には囲炉裏の火が赤く熾り、土鍋から湯気が立っていた。
翔次と市姫は膳を挟んで向かい合い、温め直した麦飯と味噌汁、漬物を口に運んでいた。
豪華な料理はない。供をする者もいない。外には虫の音が響き、囲炉裏の炭が時折、小さく爆ぜる。
それでも、二人の間には穏やかな笑い声があった。
翔次は、明日も畑に出るだろう。市姫は、竈に火を入れ、村人たちと交わりながら、この家の暮らしを整えていくのだろう。
その先に何が待っているのか、すべてを知ることはできない。
天下の情勢が変われば、この境目にも再び緊張が走るかもしれない。かつて退いた軍師として、翔次に助言を求める者が現れることもあるだろう。
だが、今夜だけは、先のことを考えすぎずにいられた。
戦を忘れたわけではない。過去の罪を捨て去ったわけでもない。
それらを抱えたまま、妻と食事をし、明日を迎える。
そのささやかな営みこそ、翔次がこれから守っていきたいものだった。
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。
障子には、二人の影が寄り添うように映っている。
高根の村の小さな庵で、夫婦の新しい日々は、こうして静かに積み重なっていった。




