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狂った歴史と、不敗の軍師~信長を死なせた男、今川家を支えて魔王に挑む~  作者: チャプタさん


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第七十四話:ささやかな祝言

第七十四話:ささやかな祝言


 元亀元年、長月初頭――。


 三河と尾張の境を流れる境川は、秋の澄んだ空を映し、穏やかに流れていた。川辺の草には朝露が残り、刈り入れを待つ稲穂が、吹き渡る風に黄金の波を揺らしている。


 かつてこの辺りでは、夜ごとに兵の足音が響き、村人たちはいつ戦火に巻き込まれるとも知れぬ日々を送っていた。だが今、街道を行き交う人々の顔には、かつて失われていた安堵の色が戻りつつあった。


 三河国、高根の村。


 村外れの雑木林に寄り添うように建つ、小さな茅葺きの庵。その庭先で、鍋蓋翔次は、朝から何度目になるとも知れぬほど木戸の方を振り返っていた。


 藍染めの木綿の羽織に、飾り気のない袴。腰に刀はない。


 駿府を出て以来、戦場で振るうことのなくなった手は、今では鍬を握り、畑の土を起こすために使われている。


 それでも今日ばかりは、土を耕すどころではなかった。


 十年余り、兵を動かし、兵糧の尽きる日を計算し、敵の思惑を読み、退くべき時には退く決断を下してきた男である。武田や北条の動きを前にしても、戦場で心を乱すことは滅多になかった。


 ところが、たった一人の女を迎えるとなると、どうしてよいものか分からない。


 掌には、じっとりと汗が滲んでいた。


(……落ち着け。敵の大軍が迫っているわけじゃないんだぞ)


 己に言い聞かせてみても、胸の鼓動は少しも鎮まらない。


 今日、この庵に嫁いでくるのは、市姫である。


 織田信長の妹。清須城にあって兄・信照を支え、乱世の中で多くの者の行く末を見守ってきた女性。そして、ほかならぬ自分を夫に選んだ人だった。


 政略のために押しつけられた縁ではない。


 清須城で向き合ったあの日、市姫は自らの意志で翔次を選んだ。翔次もまた、その想いを受け止め、生涯を共にすることを誓った。


 それなのに、いざ迎えるとなると、どんな顔をして立っていればよいのかさえ分からなかった。


 やがて、川向こうの街道から、車輪の軋む音が聞こえてきた。


 翔次は、はっと顔を上げた。


 土を踏む人々の足音。馬の鼻息。ゆっくりと近づいてくる一団の気配。


 木戸の外に姿を現したのは、黒塗りの網代輿だった。大名家の婚礼にふさわしい華美な行列ではない。輿を守る者も十余名ほどの腰元と少数の護衛に限られていた。


 その傍らを、二人の男が進んでくる。


 一人は、虎皮の陣羽織をまとった前田又左衛門利家。背には、穂先を布で包んだ朱槍を負っている。


 もう一人は、蜂須賀小六正勝。相変わらずの大柄な身体に、いかにも旅慣れた風情を漂わせていた。


 信照の命を受け、市姫の輿に付き添ってきた織田家の重臣たちである。


「鍋蓋殿!」


 木戸の前まで来ると、利家は馬を降り、翔次に向かって歩み寄った。


 清須城で対面した折には、互いの立場もあって、利家の眼差しには険しさがあった。だが今、その顔に浮かんでいるのは、照れくささと、主君の妹を送り出す者の情であった。


「清須より、お市様をお連れ申した。道中、何事もなく、無事にお届け仕ったぞ」


「利家殿、小六殿。遠路、まことにかたじけのうございます」


 翔次は深々と頭を下げた。


 小六は豪快に笑い、輿の方へと顎をしゃくった。


「礼には及ばぬ。清須を出る前、殿が蔵を開け放ってな。金銀も、衣も、調度も、持てるだけ持たせようとなされたのよ。ところが、お市様が『そのようなものは要りませぬ』と仰せになって、ほとんどお返しになった」


「……兄上らしいことです」


 輿の内から、静かな声がした。


 利家が口元を緩めた。


「まったくでございますな。殿も、妹君には甘い」


 やがて輿が庭先に据えられ、腰元たちが静かに膝をついた。


 翔次は、木戸の前から一歩も動けなかった。


 絹の簾がそっと上げられる。


 まず、白い足袋に包まれた足が地に下りた。続いて、白を基調とした婚礼の衣をまとった市姫が、腰元の手を借りながら輿から降り立った。


 頭には白絹をまとった綿帽子。衣には華美な飾りを避けながらも、織田家の姫君にふさわしい品位が保たれていた。


 黒髪は艶やかに整えられ、白い頬には、ほんのりと紅が差している。


 清須城の広間で見た、凛として人を圧する姿とは違っていた。


 そこに立つのは、これから一人の男と生涯を共にしようとする花嫁だった。


「……あ」


 翔次の喉から、かすれた声が漏れた。


 市姫が顔を上げる。


 二人の視線が合った。


「翔次様。お待たせいたしました」


 その声を聞いた途端、翔次の胸に張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。


 それでも、言葉はすぐには出てこなかった。


 ようやく頭を下げ、どうにか声を絞り出す。


「……市姫様。よくぞ、このような庵までお越しくださいました」


「そのように仰せにならないでくださいませ」


 市姫は、柔らかく微笑んだ。


「小川の音が聞こえ、木々の間を風が抜けてゆく。畑の土も、よく手入れされておりますね。わたくしには、ここが何より心安らぐ場所に思えます」


 翔次は、返す言葉を失った。


 この庵を整えるために、何度も箒をかけ、板を拭き、畑の土を起こした。市姫が来る日を思いながら、少しでも暮らしやすい場所にしようと努めてきた。


 その苦労が、たった一言で報われた気がした。


 背後で、利家が鼻をすすった。


「……ちくしょう。本当に嫁いでしまわれたか」


 太い腕で目元を拭い、利家は翔次を見た。


「翔次殿。あとは頼みますぞ。お市様が望まれた暮らしを、どうか二人で築いてくだされ」


「はい。必ず」


 翔次は、今度こそ迷わず答えた。


 小六も、満足そうに頷いた。


「よし。では、いつまでも門口で立ち話をしておるわけにもいくまい。ささやかながら、祝言を始めようではないか」


 庵の六畳間には、ささやかな祝言の席が設けられていた。


 金泥の屏風も、朱塗りの高杯もない。


 村人たちから譲り受けた白木の折敷に、素焼きの盃。床の間代わりに整えた一角には、季節の野花が一枝、竹筒に挿してある。


 それでも、翔次にとっては、これまで見たどの大名家の広間よりも、心のこもった席に思えた。


 膳には、駿河から届けられた鯛の焼き物があった。岡部元信や三浦上総介らが、祝意を込めて手配したものだという。


 松平元康からは、三河の酒と祝いの書状が届いていた。尾張からは、信照の使いとして利家と小六が運んできた酒に、干し柿や鮑などの品々が添えられている。


 駿河、三河、尾張。


 かつて互いに兵を向け合い、多くの命を失ってきた者たちからの贈り物が、今は一組の夫婦を祝う膳の上に並んでいた。


 それらは、ただの酒肴ではない。


 戦を終わらせ、暮らしを取り戻そうとする人々の願いが、この小さな席に寄せられているのだ。


 翔次は、その事実を胸に刻んだ。


 祝言の作法を取り仕切るのは、市姫に長く仕えてきた年配の腰元だった。彼女は二人の前に盃を置き、静かに告げた。


「それでは、夫婦の契りを交わしていただきます」


 小六が酒を注ぎ、利家は少し離れたところから二人を見守った。


 翔次は盃を両手で受け、口をつける。


 次いで、市姫が同じ盃を受け取った。


 一献、二献、三献。


 作法に従い、二人は静かに盃を交わした。


 派手な音曲も、居並ぶ大名たちの祝辞もない。聞こえるのは、外を流れる小川のせせらぎと、庭の木々を渡る風の音だけだった。


 やがて盃を置くと、市姫は翔次の方へ向き直った。


 その頬は、酒のせいばかりではなく、恥じらいによっても赤く染まっていた。


 利家が深く頭を下げた。


「お市様。どうか、お幸せに。そして翔次殿。……我が姫を、よろしく頼み申す」


 言葉の終わりは、かすかに震えていた。


 利家にとって、市姫は主君の妹である以前に、長い年月を共に過ごしてきた大切な人だったのだろう。


 翔次は、まっすぐに利家を見返した。


「お預かりするのではありません。市姫様ご自身が、私を夫に選んでくださったのです。私はその想いに応え、生涯を共にするつもりでおります」


 利家は、しばらく翔次を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……それでこそ、でござる」


 小六は照れ隠しのように盃を煽り、豪快に笑った。


「ならば、めでたい話はこれまでだ。せっかくの酒が冷めぬうちに、皆でいただこうではないか!」


 その一言で、座の空気が和らいだ。


 腰元たちの顔にも笑みが戻り、庵には久しぶりに、戦の話とは無縁の笑い声が満ちていった。


 宴のさなか、利家は清須城での信照の様子を語った。


「殿は、表向きはいつも通りでござった。姫様の旅立ちについても、あれこれ仰せになることはなかった。ただ……」


「ただ?」


 市姫が、懐かしそうに続きを促した。


「出立の朝、姫様がお部屋を出られたあと、殿がひとり、しばらく庭を眺めておられましてな。ようやく肩の荷が下りた、とでもいうように、深く息をつかれたのでござる」


 市姫は、目を伏せて微笑んだ。


「兄上らしいことです。言葉にはなさらずとも、案じてくださっていたのでしょう」


 その笑顔を見て、翔次は思った。


 市姫がこの庵に来たからといって、兄との縁が絶たれるわけではない。清須には信照がいる。市姫を大切に思う者たちもいる。


 自分は、その人々の想いも受け止めながら、妻と暮らしていけばよいのだ。


 やがて陽が傾き、宴も終わりに近づいた。


 利家と小六は腰元たちを促して立ち上がり、二人に別れを告げた。


「翔次殿、お市様。これより清須へ戻り、殿に祝言が滞りなく相済みましたと申し上げまする。どうか、お二人で穏やかな日々をお過ごしくだされ」


「利家殿、小六殿。まことにありがとうございました」


 翔次と市姫は並んで縁先に立ち、一行を見送った。


 木戸を出る直前、利家は一度だけ振り返った。二人の姿を見つめると、深く頷き、朱槍を背負い直して馬に乗った。


 やがて一行は街道を西へと進み、木々の向こうへ消えていった。


 蹄の音が遠ざかるにつれ、庵には静けさが戻ってきた。


 夕暮れの空は、山の端から茜色に染まり始めていた。


 翔次と市姫は、縁側に並んで腰を下ろしていた。


 市姫は綿帽子を外し、傍らにそっと置いている。整えられていた黒髪も、長旅と祝言の疲れからか、いくらかほぐれていた。


 その横顔を見つめながら、翔次は何度も胸の中で同じ言葉を繰り返した。


(……本当に、俺の妻になったんだな)


 十年前、現代の世で孤独に暮らしていた自分が、まさかこのような日を迎えるとは思いもしなかった。


 歴史を知っているつもりで戦国の世に来た。だが、実際に目の当たりにしたのは、書物に記された名将や合戦の名ばかりではなかった。


 名も残らぬ人々の暮らしがあり、家族を失う悲しみがあり、明日を迎えるために必死に生きる者たちがいた。


 そして、自分の言葉が、歴史を変えてしまった。


 桶狭間で信長を死なせたこと。その結果として変わっていった人々の運命。その責めを、翔次は今も胸の奥に抱えていた。


 市姫と夫婦になったからといって、過去が消えるわけではない。


 それでも、これから生きる道を選ぶことはできる。


 その道を、妻と共に歩んでいける。


 翔次が物思いに沈んでいると、市姫がそっと身を寄せた。


 膝の上に置かれた翔次の手を、両手で包み込む。


「……翔次様」


「はい」


「今日は、わたくしのために、このような席を整えてくださり、ありがとうございました」


「いや……大したことはできませんでした。もっと立派な屋敷も、相応しい調度も用意できればよかったのですが」


「いいえ」


 市姫は、首を横に振った。


「わたくしが望んだのは、立派な屋敷ではございませぬ。あなた様と、同じ場所で朝を迎え、同じ膳を囲み、日々のことを語り合える暮らしです」


 市姫は、握った手に少しだけ力を込めた。


「清須の城におりました頃、わたくしは多くの人々の苦しみを見てまいりました。民に粥を配り、傷ついた者の手を握っても、戦が続く限り、救えぬ命がある。そのことが、いつも心に重くのしかかっておりました」


 翔次は、黙って耳を傾けた。


「兄・信長公を失ったあの日から、わたくしは戦というものを恐れ続けてまいりました。いつまた大切な人を失うのか。いつまた、誰かの暮らしが焼かれてしまうのか。夜、ひとりになると、そのことばかり考えてしまうのです」


 市姫の声は、少しずつ小さくなった。


「兄上を支えることこそ、自分の務めだと思っておりました。武田や北条から縁談の話が届いても、政の道具として嫁ぐくらいなら、独り身のまま民に尽くそうと考えていたのです」


 そこで、市姫は顔を上げた。


「けれど、清須の大広間で、あなた様のお話を聞いたとき……初めて、この方とならば、戦のない世を願うだけでなく、そのために何ができるかを共に考えられるのではないかと思いました」


 翔次は、息を呑んだ。


「あのとき、私は立派なことを申したわけではありません。救えなかった命も、取り返しのつかない過ちもあります」


「存じております」


 市姫は、静かに答えた。


「あなた様が、すべてを忘れておられるとは思っておりませぬ。むしろ、忘れられぬからこそ、今も苦しんでおられるのでしょう」


 その言葉に、翔次は顔を伏せた。


 誰かに、そう言われたかったのかもしれない。


 罪を忘れたわけではない。赦されたと胸を張れるわけでもない。これから先、どれほど人を救おうとも、過去に失われた命が戻ることはない。


 だが、その苦しみを抱えていることまで、否定されずに済むのなら。


 市姫は、翔次の手を包んだまま、そっと続けた。


「わたくしは、あなた様に過去を忘れてほしいのではございませぬ。苦しみを、ひとりだけで背負い続けてほしくないのです」


 翔次の喉が詰まった。


「……お市」


 初めて、呼び名を口にした。


 市姫の目が、わずかに見開かれる。


「はい、あなた様」


「俺は、立派な男じゃない。目の前のことさえ見誤った。救うつもりで動いて、かえって失ったものもある。……これから先も、きっと間違える」


 翔次は、握られた手を見つめた。


「それでも、お前と一緒に生きていきたい。何かを失ったときに、なかったことにするんじゃなく、二度と同じ過ちを繰り返さないように考えながら。それでいいだろうか」


 市姫は、涙を浮かべながら微笑んだ。


「はい。それが、わたくしの望みでございます」


 そして、そっと翔次の肩に身を寄せた。


「わたくしも、あなた様と共に考え、共に悩み、共に暮らしてまいります。どうか、これからは嬉しいことも、苦しいことも、わたくしに聞かせてくださいませ」


 翔次は、ゆっくりと腕を伸ばし、市姫の背に手を添えた。


 細い肩が、確かな温もりを伝えてくる。


 それは、天下を動かす策を思いついたときの高揚とも、戦場で味方の撤退を成し遂げたときの安堵とも違っていた。


 誰かが隣にいてくれる。


 自分の弱さを見せても、なお共に歩こうとしてくれる。


 その事実が、翔次の胸に深く染み入った。


 しばらくの間、二人は何も語らなかった。


 小川の水音が、静かに耳へ届く。


 やがて翔次は、長く胸にしまい込んできたことを、ぽつりと口にした。


「……お市。俺の名を、どう思う?」


「お名前、でございますか?」


「鍋蓋翔次。鍋の蓋だ。……子供の頃から、この名を笑われてきた。名を呼ばれるたびに、周りの目が気になった。自分でも、どうしてこんな名なのかと、嫌になることがあった」


 遠い記憶が蘇る。


 現代の世で、名簿を読み上げられるたびに聞こえた忍び笑い。何気ない冗談のつもりだったのだろう言葉が、いつまでも胸に刺さっていた。


 人の目を避け、部屋に閉じこもり、古い歴史書の中に逃げ込んでいた日々。


 あの頃の自分が、今の姿を見たら何と言うだろう。


「そんな名の男を……お前は、夫に選んでくれたんだな」


 市姫は、翔次の頬にそっと手を添えた。


「翔次様。わたくしは、あなた様のお名前を、恥ずかしいと思ったことなど一度もございませぬ」


「……本当に?」


「はい」


 市姫は、真剣な眼差しで答えた。


「鍋の蓋は、煮炊きする火の上に置かれ、鍋の中のものを守ります。火が強ければ、吹きこぼれぬように支え、煮えるものが冷めぬように覆う。目立つものではなくとも、なくてはならぬものにございます」


 その言葉に、翔次は目を見開いた。


「戦乱に苦しむ人々を救おうと、あなた様は知恵を尽くしてこられました。退くべき時には退き、争いを避ける道を探し、民の暮らしを守ろうとしてこられた。そのお名前は、あなた様がなさってきたことに、よく似ていると思います」


 市姫は、少し恥ずかしそうに笑った。


「わたくしは、鍋蓋翔次様の妻となれたことを、誇りに思っております」


 翔次は、しばらく何も言えなかった。


 ずっと嫌ってきた名が、誰かの口から、これほど温かな言葉と共に語られるとは思わなかった。


 もちろん、それだけで幼い頃からの傷が消えるわけではない。信長を死なせた過去も、失われた命への悔いも、明日になれば再び胸に疼くことだろう。


 それでも、これまで呪いのように感じていた自分の名を、別の目で見つめることができる気がした。


 名を変える必要はない。


 過去を消し去る必要もない。


 この名を持ったまま、これから何をなすか。それが、自分に残された道なのだ。


「……ありがとう、お市」


 翔次は、妻をそっと抱き寄せた。


「俺の命が続く限り、お前を大切にする。何があっても、二人で話し合いながら生きていこう」


「はい、あなた」


 市姫は、翔次の胸に顔を寄せた。


 夕陽が山の向こうへ沈み、空には夜の色が広がり始めていた。


 庭の畑では、大根と蕪の芽が、秋の風に小さく揺れている。囲炉裏の炭火は赤く燃え、庵の中に柔らかな明かりを落としていた。


 天下を揺るがした戦の行方を決めるのは、城に集う大名や武将たちかもしれない。


 だが、戦が終わった後の世を支えるのは、こうした小さな暮らしの積み重ねなのだろう。


 翔次は、腕の中の妻の温もりを感じながら、そう思った。


 過去は消えない。


 罪も、悔いも、失われた命も、なかったことにはできない。


 それでも、明日の朝には起きて、畑を耕し、飯を炊き、市姫と向かい合って食事をする。


 その一日一日を大切に生きることが、今の自分にできることなのだ。


 境川のほとりに建つ小さな庵。


 そこに築かれたのは、天下を支配するための城ではなかった。


 互いの喜びも悲しみも分かち合い、過去を抱えながら明日を生きていくための、二人の家だった。


 その夜、庵の窓から漏れる灯火は、遅くまで消えることがなかった。

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