第七十三話:境目の庵へ
第七十三話:境目の庵へ
元亀元年、葉月半ば――。
初秋の空は高く澄み渡り、駿河湾から吹き寄せる風には、日中の陽射しの温もりと、朝夕の涼気が入り交じっていた。
駿州・府中の城下を貫く東海道を、一人の男が西へ向かって歩いていた。
身にまとうのは、飾り気のない麻の単衣。脚には紺の脚絆、足には履き古した草鞋。腰に刀はなく、手には青竹の杖を握り、背には着替えと幾冊かの書物を包んだ風呂敷を負っている。
供回りも連れず、馬にも乗らず、自らの足で街道を行くその姿は、どこにでもいる旅人と変わらなかった。
すれ違う者たちのうち、何人が、この男の名を知っているだろう。
つい先日まで、今川義元のもとで軍務を担い、幾度もの危機を退け、清須城へ赴いて織田家との和睦を取りまとめた男。
不敗の軍師と称された、鍋蓋翔次その人である。
駿府を発つ際、義元は馬や供の者をつけようとした。岡部元信も、せめて数騎の護衛を連れてゆけと強く勧めた。
だが、翔次はその申し出を丁重に断った。
「軍務を退き、刀を置いた身にございます。武家の威光を引き連れて歩いては、ただの旅人として暮らすことも叶いませぬ。どうか、この身一つで行かせてくだされ」
そう告げた翔次に、義元はしばし考え込んだものの、最後にはその願いを認めた。
もっとも、身を引いたからといって、今川家との縁が絶えたわけではない。義元から与えられた土地で暮らす以上、領国の定めに従う務めは残る。和睦を守るための備えも、今川家の政務も、これからは残された者たちが担っていかねばならなかった。
それでも、翔次は自分の足で歩いていた。
十年余り、早馬に揺られ、陣中を駆け、兵糧の数字を頭の中で追い続けてきた。前線の報せに胃を痛め、補給路の危機に眠りを奪われ、敵の動き一つで幾千の命が左右される日々だった。
今は、足元の土の感触を確かめながら歩ける。
風の匂いを嗅ぎ、道端の草花に目を留め、茶屋から漂う焼き餅の香りに腹が鳴る。
そんな些細なことが、思いのほか新鮮だった。
大井川の渡し場に差しかかる。
かつては増水のたびに川留めとなり、旅人も商人も、時には武士たちまでもが、渡しの再開を待たねばならなかった難所である。
今も川の流れは季節と雨量によって姿を変える。どれほど堤を築き、治水の工夫を凝らしても、自然を完全に従わせることはできない。
それでも、霞堤や聖牛などの工夫を重ね、流れを逃がす場所を設け、渡し場の管理を整えてきたことで、かつてより被害を抑えられるようになっていた。
川岸には旅人が数人、渡しを待っている。対岸の茶屋からは、焼き餅の香ばしい匂いが漂い、商人たちの談笑が聞こえてきた。
翔次は、その光景をしばらく眺めた。
誰もが明日の無事を保証されているわけではない。洪水もあれば、病もある。暮らしの苦労がなくなったわけでもない。
それでも、ここで人々が商いをし、旅を続け、家族の待つ家へ帰ってゆく。
自分が十年にわたって守ろうとしてきたものは、こうした日々の営みだったのだ。
翔次は渡し場の者に声をかけ、順番を待って川を渡った。
掛川を抜け、天竜川を越え、浜名湖の潮風を浴びながら遠江を西へ進む。
新居の関所では、関所役人が旅人の手形を改めていた。翔次も列に並び、ほかの旅人と同じように手形を差し出した。
役人の一人が翔次の顔を見て、何かに気づいたように目を見開いた。
「……もしや、鍋蓋様ではございませぬか」
翔次は、静かに人差し指を唇に当てた。
「今はただの旅人にございます。どうか、ほかの方々と同じようにお改めくだされ」
役人は一瞬ためらったが、やがて事情を察したように小さく頷いた。
「……承知いたしました。道中、お気をつけて」
「かたじけない」
翔次は礼を述べ、関所を通り抜けた。
そのまま三河へ入り、岡崎へと向かう。
矢作川の堤に差しかかった時、前方から馬蹄の音が近づいてきた。
数騎の騎馬武者が、土煙を上げながら街道を駆けてくる。その先頭にいたのは、小豆色の陣羽織を翻す男――岡崎城主、松平元康であった。
「翔次殿!」
元康は馬を止めるなり飛び降り、翔次のもとへ駆け寄った。
「駿府から早馬が参った。軍師の職を辞し、太守様の御佩刀も軍配も返上して、一人で西へ向かわれたと……。まことなのか、翔次殿!」
元康の顔には驚きと戸惑いが浮かんでいた。その奥には、長年ともに苦難を越えてきた者への深い情がある。
翔次は旅笠を脱ぎ、穏やかに微笑んだ。
「まことでございます、元康殿。十年余り、今川家の軍務に携わってまいりましたが、此度、役目を退くこととなりました」
「なぜじゃ……。いや、そなたが考え抜いた末の決断であることは分かる。だが、これほどの働きをしてきた者が、なぜ自ら地位を捨てねばならぬのじゃ」
元康は翔次の質素な身なりを見つめた。
腰に刀はなく、背負う荷もわずかばかり。かつては軍勢の動きを左右し、今川家の重臣たちを導いてきた男が、今はただの旅人の姿で立っている。
「太守様から下された土地は、高根の村と聞き及んでおる。境川にほど近い山里じゃな。あのような場所でなくとも、岡崎に屋敷を構えれば、某が力を尽くして住まいを整えまする。暮らしに不自由はさせませぬぞ」
「お気持ちは、心よりありがたく存じます」
翔次は首を横に振った。
「されど、あの地で暮らすことにも意味がございます。今川と織田が和睦を結んだ以上、これからは、その誓いを日々の暮らしの中で守っていかねばなりませぬ。境川に近い村で暮らすことが、両家の民の往来や交流を支える一助となればと考えております」
「そなた自身が、両家の境目に住むということか」
「はい。ただ、某一人がそこに住んだところで、戦を防げるわけではございませぬ。和睦を守る意思は、今川家にも織田家にも必要でございます。境の守りを怠らず、民の往来を妨げず、互いの誓いを破らぬこと。その積み重ねがあってこそ、平穏は保たれましょう」
元康は、しばらく翔次の顔を見つめていた。
やがて、深く息を吐く。
「……身を引いてなお、そなたは東海の行く末を案じておるのじゃな」
「これまで関わってきた土地でございます。すぐに心を離せるものではございませぬ」
「ならば、せめて庵の普請くらいは手伝わせてくれぬか。屋根を直し、垣根を巡らせるくらいなら、三河の者たちにもできる」
「お気持ちだけで十分にございます。庵の掃除も、畑の耕作も、できる限り己の手で行いたいのです。立派な屋敷を設けていただいては、刀を置いた意味が薄れてしまいますゆえ」
翔次は、少しばかり笑みを浮かべた。
「その代わり、元康殿。いつか折を見て、供回りも連れずに庵へお越しくだされ。井戸水と、畑で採れた芋くらいは用意しておきまする」
元康は目を丸くし、それから、ようやく笑った。
「ははは! よかろう。三河の酒を持って、必ず参ろうぞ。……翔次殿、そなたには幾度も助けられた。今度こそ、自分自身の暮らしを大切にしてくだされ」
「ありがとうございます、元康殿」
二人は固く手を握り合った。
元康は、これ以上引き止めようとはしなかった。
翔次が選んだ道は、彼にとっても容易に理解できるものではない。それでも、十年にわたり、戦場の損得だけでなく、その先に暮らす人々のことを考え続けてきた男の決断である。軽々しく覆させるべきではなかった。
「達者でな、翔次殿」
「元康殿も、どうかご健勝で」
元康ら三河武士たちに見送られ、翔次は再び歩み出した。
矢作川の堤を離れ、逢妻川を越え、境川の東岸へと続く丘陵地帯へ入ってゆく。
道は次第に細くなり、雑木林の間を縫う小径へと変わった。
頭上では鳥が鳴き、小川のせせらぎが木々の間から聞こえてくる。街道の喧騒も遠ざかり、足元には落ち葉と乾いた土の感触があった。
なだらかな斜面を登りきった時、翔次の眼前に、小さな山里が開けた。
「……美しい」
思わず、声が漏れた。
山々に抱かれた小さな盆地。その中央を清らかな小川が流れ、古びた木組みの水車が、ことり、ことりと音を立てて回っている。
斜面には段々畑が広がり、大根や蕪の葉が風に揺れていた。粟や稗は実りを垂れ、刈り入れを待っている。畦道には赤とんぼが飛び交い、遠くの民家からは、薪を割る音がかすかに聞こえてきた。
高根の村。
この土地は、かつて今川と織田が対峙した境目の一つだった。
永禄三年の合戦の後も、周辺では小競り合いや夜討ちが続き、村人たちは兵の動きに怯えながら暮らしていた。
翔次は、前線の拠点を見直し、必要の薄れた小砦を取り壊させた。年貢の負担を軽くし、飢饉や災害に備えるための備蓄も整えた。
その後も、領国の政務に携わる者たちが治水や流通の整備を続け、村は少しずつ立ち直ってきたのである。
かつて戦の影に覆われていた土地が、今は田畑を耕す人々の営みに満ちていた。
もちろん、傷痕がすべて消えたわけではない。失われた家族は戻らず、戦で荒れた土地を元に戻すにも年月がかかる。
それでも、村には暮らしがあった。
翔次は、しばらくその景色を見つめていた。
やがて村の入り口に差しかかると、畦道で稗を刈っていた初老の農夫が、こちらに気づいて手を止めた。
農夫は翔次の顔を見つめ、しばらく考え込んでいたが、やがて驚いたように目を見開いた。
「……も、もしや。駿府から知らせのあった、鍋蓋様でござりますか」
翔次は足を止めた。
「鍋蓋翔次にございます。これからこの村で暮らすことになりました。どうか、そのようにかしこまらず、顔をお上げくだされ」
農夫は、泥のついた手を慌てて拭い、深々と頭を下げた。
「おお……! やはり、あの鍋蓋様でござりましたか。大水の折には堤の修繕を急がせ、年貢が払えぬ家には米を貸すよう取り計らってくださった……。あの時、どれほど助かったことか」
農夫の声は、次第に震えていった。
「村の衆! 鍋蓋様がおいでになったぞ!」
その叫びを聞きつけ、田畑や民家から人々が集まってきた。
鍬を手にした者、子どもを抱いた者、家の戸口から顔を出した者。皆、翔次の姿を見つけると、驚きと喜びの声を上げた。
「本当に鍋蓋様だ!」
「この村に住んでくださるのか!」
「ありがたいことじゃ……」
中には、深々と頭を下げる者もいた。
翔次は慌てて手を振った。
「どうか、頭を上げてくだされ。私はもう軍師ではございませぬ。これからは皆様と同じく、この村で暮らす一人の者にございます」
「へえ……。されど、鍋蓋様がしてくださったことは、皆、忘れておりませぬ」
農夫は、涙を拭いながら言った。
「この村が今あるのも、あの頃に助けていただいたおかげでござります」
翔次は、返す言葉を探した。
自分一人の働きで村が立ち直ったわけではない。堤を直した人々がいた。年貢を軽くする決断を支えた役人がいた。村を離れず、田畑を耕し続けた者たちがいた。
彼ら自身が、暮らしをつなぎ直してきたのだ。
「私だけの働きではございませぬ。皆様が、この土地を守ってこられたからこそ、今の村があるのです」
翔次は、集まった人々に深く頭を下げた。
「これからは、隣人として、共に暮らさせてくだされ」
人々の顔に、柔らかな笑みが広がった。
「もちろんでござります!」
「野菜の種なら、いくらでも分けますだ」
「庵も掃除しておきました。どうぞ、こちらへ」
村人たちは、翔次を村の西端へと案内した。
小川のせせらぎが聞こえる、雑木林の麓。
そこに、小さな庵が建っていた。
茅葺きの屋根は新しく葺き替えられ、土壁も補修されている。庭を囲む竹垣は素朴だが、きちんと整えられていた。裏手には竹林があり、風が吹くたびに葉が擦れ合う音を立てている。
庭先には、わずかな畑もあった。
大名の重臣が住む屋敷とは比べるべくもない。だが、二人で暮らすには十分な広さがあった。
「皆様……まことに、かたじけのうございます」
翔次は、村人たちへ深々と頭を下げた。
「これからは、一人の隣人として、共に土を耕させてくだされ」
「へえ! 困ったことがあれば、いつでも声をかけてくだされ」
村人たちは、翔次の疲れを気遣い、やがてそれぞれの仕事へ戻っていった。
静けさが戻った庭で、翔次はしばらく庵を眺めていた。
縁側に風呂敷を置き、草鞋を脱いで板敷きに上がる。
居室が二間。奥には小さな台所と竈があり、囲炉裏も一つ設けられていた。障子の隙間から差し込む光が、掃き清められた床を照らしている。
翔次は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
木と藁の匂い。
土壁の匂い。
遠くから聞こえる水車の音。
ここが、これからの自分の住まいになる。
軍師として策を巡らせるための城ではない。誰かに命じて守らせる場所でもない。
市姫を迎え、共に食事をし、畑を耕し、季節の移ろいを感じながら生きてゆくための家だった。
翔次は袖をまくり、納屋へ向かった。
隅には、村人たちが置いてくれたらしい農具が並んでいる。鎌、鋤、そして、樫の柄がついた使い込まれた鍬が一本。
翔次は、その鍬を手に取った。
鉄の刃は冷たく、柄には長年の使用でできた傷が残っている。
重みを確かめるように握り直し、庭の畑へ出た。
雑草を刈り払ったばかりの土は、まだ湿り気を帯びている。
翔次は両足を開き、鍬を振り上げた。
――ザクッ。
刃が土に食い込み、黒い土塊が返る。
土の匂いが立ち上った。
その瞬間、翔次の手が止まった。
(……この匂いだ)
鼻腔を満たす湿った黒土と、青い草の匂い。
十年前、永禄三年五月十九日。
現代の道でトラックに轢かれ、意識を失った自分が、再び目を開けた時に嗅いだ匂いだった。
見知らぬ畑の畝。泥に突いた手。爪の間に入り込んだ土。弥八という名の百姓の身体で目覚めた時、目の前に広がっていたのは、見慣れぬ戦国の大地だった。
あの時、翔次は恐怖を覚えた。
なぜ自分がこんな場所にいるのか。どうして歴史が変わり得る時代に放り出されたのか。現代に戻る道も分からぬまま、生き延びるために、頭の中の歴史知識に縋りついた。
今川家の陣営に身を寄せ、軍配を握り、兵站の帳面をめくり、大名たちの思惑がぶつかり合う世界を渡ってきた。
己の知識こそが武器だと信じ、次の危機を予測し、先回りして備えようとした。
だが、歴史の知識は万能ではなかった。
桶狭間で信長が死んだ。自分の言葉が、その運命に関わってしまった。
その後も、どれほど策を巡らせても、すべての悲劇を防ぐことはできなかった。
それでも、翔次は目の前の命を救おうと、走り続けた。
十年余りの歳月を経て、彼は今、再び黒土の上に立っている。
大名の軍師としてではない。
自ら鍬を握り、自分の手で土を耕す、一人の人間として。
翔次は、鍬の柄を握りしめた。
「……ふ、ふふ」
小さな笑いが漏れた。
目から涙がこぼれ、頬を伝って土の上に落ちた。
それは、過去の罪が消えたから流れた涙ではない。すべてを許されたからでもない。
自分が守ろうとしてきたものの意味を、ようやく自分の暮らしとして実感できたからだった。
戦を避けるために守ってきた田畑。兵糧を絶やさぬために整えてきた道。領国の民が明日も生きていけるようにと、積み重ねてきた仕事。
その先にあったのは、誰かが安心して土を耕せる日々だった。
そして今、自分もまた、その日々の中へ戻ろうとしている。
(俺は……ようやく、自分の手で生きていくんだな)
翔次は涙を拭い、もう一度、鍬を振り下ろした。
ザクッ、ザクッ。
土が返り、柔らかな畝が少しずつ形を成してゆく。
手のひらに鍬の柄が食い込み、背中に汗が流れる。息は次第に荒くなった。
軍略を練る時とは違う疲れだった。
紙の上で兵を動かすのではない。盤上の駒を進めるのでもない。自分の身体を使い、土を起こし、命を育むための労働である。
それは、思っていた以上に心地よかった。
半刻ほどして、翔次は鍬を置いた。
庭の畑には、新たな畝が幾筋もできていた。
井戸へ向かい、釣瓶を落として水を汲み上げる。両手で水を掬い、顔を洗うと、冷たさが火照った肌を引き締めた。
喉を潤し、ひと息つく。
それから、庵の掃除に取りかかった。
箒で板敷きの埃を払い、濡らした布で床を拭く。柱の埃を払い、障子の桟を拭き、竈の灰を整えた。
市姫を迎えるための住まいである。
自分一人なら、多少の埃も気にならない。だが、これから共に暮らす相手がいるのだと思うと、自然と手が丁寧になった。
納屋の棚には、村人たちが届けてくれたらしい茶碗が二つ、木椀が二つ、箸が二膳、きれいに重ねられていた。
翔次は、それらを台所の棚へ並べた。
二つの茶碗。
二つの木椀。
ただそれだけのことなのに、胸の奥に温かなものが込み上げてきた。
(お市様……)
翔次は、障子の向こうに広がる西の空を見た。
境川の向こうには尾張があり、その先に清須城がある。
今、市姫はあの城で暮らしている。二人の婚姻は両家の和睦の中で認められたが、正式な祝言も、輿入れの支度も、これから整えてゆかねばならない。
いつ市姫がこの庵へ来るのか、具体的な日取りはまだ定まっていなかった。
それでも、彼女が自らの意思で翔次を選んだことは、確かな事実だった。
清須城で交わした言葉が、今も胸に残っている。
大名家の奥御殿に閉じ込められるのではなく、民の暮らしが見える場所で、慎ましく生きてゆきたい。
その願いに応えるために、自分は何ができるだろう。
豪奢な衣装も、金銀財宝も、贅を尽くした屋敷もない。あるのは、小さな庵と畑、そして自分の手だけだ。
それでも、ここでなら、二人で暮らしを築いていける。
翔次は、茶碗をもう一度見つめた。
(……この家を、二人の家にしよう)
そのためにできることを、一つずつ進めていけばよい。
翔次は再び庭へ出た。
村人から分けてもらった大根と蕪の種を、畝の上に丁寧に蒔いてゆく。指先で土をかぶせ、掌で軽く押さえ、井戸水をそっと注いだ。
「……早く芽を出せよ」
翔次は、土に向かって微笑んだ。
「市姫様が来られる頃には、青々とした若菜を見せて差し上げたいからな」
種が芽を出すまでには日がかかる。育つかどうかも、天候や土の具合に左右される。
それでも、今日蒔いた種が、いつか芽吹くことを願いながら世話をする。
その営みを、これからは自分の暮らしの中に置いていくのだ。
軍師としての務めを終えたからといって、すべての責任が消えたわけではない。今川家と織田家の和睦は、これからも守り続けなければならない。周辺の大名たちの動きも、決して軽んじることはできない。
だが、翔次が軍務を離れた今、彼の役目は変わった。
自ら兵を動かすのではなく、日々の暮らしを営むことで、和睦の意味を示してゆく。
その暮らしが続くことを願いながら、畑を耕し、家を整え、隣人たちと助け合う。
それもまた、十年にわたって守ろうとしてきたものの一つだった。
夕刻が近づくと、山並みの向こうに陽が傾き始めた。
空は黄金色から茜色へと移り、境川の彼方へ長い光の帯が伸びている。
村の家々からは夕餉の煙が立ち上り、子どもたちの声が遠くから聞こえてきた。小川のせせらぎに、風に揺れる竹の葉の音が重なる。
翔次は縁側に腰を下ろし、夕空を見上げた。
十年前、自分はこの時代で生き延びることだけを考えていた。
そのために知識を頼り、軍略を学び、誰かの命を救うたびに、次こそは悲劇を防げるのではないかと考えた。
だが、すべてを思い通りにすることはできなかった。
今も、過去の責任は胸に残っている。
それでも、これから先の生き方は、自分で選べる。
翔次は、ゆっくりと息を吐いた。
(お市様。あなたが来られる日まで、ここを整えておきます)
すぐに幸せな日々が始まると、軽々しく言い切ることはできない。二人が共に暮らすようになっても、思いの違いや、過去の傷に向き合わねばならぬ日が来るだろう。
それでも、彼女が自ら選んだこの道を、共に歩いていきたい。
(……あなたと、ここから始めたい)
初秋の風が、庵の茅葺き屋根をそっと撫でていった。
小さな畑には、今日蒔いた種が眠っている。
まだ芽は見えない。
だが、土の下では、いつか芽吹く日へ向けて、静かに時が流れ始めていた。




