第六十九話:清須城の対面と、落雷の一目惚れ
第六十九話:清須城の対面と、落雷の一目惚れ
元亀元年、文月――。
尾張平野を照りつける夏の日差しが、青々と実り始めた稲田の上に陽炎を立ち昇らせていた。五条川の流れは穏やかで、川面に映る白雲が、風に揺られてゆっくりと形を変えている。
その川のほとりに、清須城はあった。
城に掲げられた白布の旗が、夏風を受けて静かにはためいている。
織田十郎信照。
十年前、兄・信長が桶狭間にて命を落として以来、織田家の内に身を置きながら、表立って天下を望むことも、諸将の前に姿を現すこともなく、清須城を拠点として独自の道を歩んできた男である。
その名は、今や尾張一国にとどまらず、美濃、伊勢、近江、越前にまで及んでいた。
もっとも、五か国すべてを己の領国として治めているわけではない。
信照が各地に築いてきたのは、武力による直接支配とは異なる、保護と信頼を基礎とした結びつきであった。
白布の旗を掲げる者たちは、必ずしも信照の家臣ではない。己の土地を治め、己の家を守りながら、その旗の下に身を置くことで、外敵の侵攻を牽制し、商いの道を保ち、隣り合う者同士の争いを避けようとしていた。
旗を掲げる理由は、それぞれに異なる。
されど、互いの違いを残したまま、争いを減らし、暮らしを守るという一点において、彼らは信照の築いた秩序に結びついていた。
そして、その広がりを支えているのが、信照の名を背負い、各地で働く四人の男たちである。
前田又左衛門利家。
木下藤吉郎。
滝川一益。
蜂須賀小六。
人は彼らを、信照の四天王と呼んでいた。
その清須城へ向けて、東海道から一行が進んでいた。
先頭を行く男の名は、鍋蓋翔次。
今川家に仕える軍師であり、永禄三年の桶狭間以来、幾度もの戦と政争をくぐり抜けてきた男である。
年の頃は三十半ば。
濃紺の直垂をまとい、黒漆の烏帽子を戴き、腰には今川義元から賜った刀を差していた。
身なりに華美なところはない。だが、馬上で背筋を伸ばす姿には、幾多の危地を潜り抜けてきた者に特有の落ち着きがあった。
供を務めるのは、岡部元信が選んだ二十騎の武者と、使者の従者数名。
さらに三河からは、松平元康の意を受けた石川数正も同行していた。
今回の使節は、単に境目の往来や商いの取り決めを交わすためのものではない。
今川家が尾張への侵攻を永久に放棄すること。
そして、信照の保護圏と今川領との間に、武力によらぬ秩序を築くこと。
そのための和睦であった。
翔次は、前方に見える清須城を見つめた。
城の周囲には、必要以上に兵が集められている様子はない。道は整い、荷を運ぶ商人たちが行き交っている。城下の人々も、物珍しげに使節の一行を眺めるだけで、慌てて戸を閉ざす者もいなかった。
敵方の使者を迎える城とは思えぬほど、落ち着いた光景である。
だが、翔次は、その穏やかさを無防備と取り違えなかった。
守るべきものと、いたずらに兵を置く必要のない場所とを、明確に分けているのだ。
城の内外に兵が少ないからといって、守りが薄いとは限らない。
道が通じ、人が行き交い、商いが滞りなく続いていること自体が、この城の主の力を物語っていた。
翔次は小さく息を吐いた。
――なるほど。兵を並べて威を示すだけが、国を守る手立てではないということか。
それは己が今川の地で積み重ねてきた仕事にも通じる。
しかし、目の前にあるものは、翔次の知る今川領の仕組みとはまた異なるものだった。
ここでは、信照自身が姿を見せぬまま、異なる土地と異なる思惑を持つ者たちが、ひとつの旗を介して結びついている。
その仕組みが、どこまで保たれるのか。
誰が、何をもって結びつきを支えているのか。
それを見極めることもまた、今回の使節に与えられた務めであった。
やがて一行は城門をくぐり、案内に従って奥へと進んだ。
広間へ通された翔次は、そこに居並ぶ者たちを見渡した。
尾張の旧臣たち。
美濃から参じた国人衆。
伊勢や近江に縁を持つ者たち。
それぞれの装束も、従える者の数も、身にまとった空気も異なっていた。
その中ほどに、ひときわ目を引く四人の武将が座している。
朱槍を傍らに置く前田利家。
柔和な顔の奥に、商人や農民の心をつかむ才覚を秘めた木下藤吉郎。
黒衣をまとい、周囲の気配を測るように静かに座す滝川一益。
大柄な体を崩さず、川筋と人の流れを知り尽くした蜂須賀小六。
いずれも一筋縄ではいかぬ人物である。
利家とは、かつて境川をめぐる戦いで相対したことがあった。
朱槍が動くたび、味方の兵が押し戻された記憶は、今も翔次の胸に残っている。
藤吉郎は、兵の数ばかりを見る男ではない。兵糧の流れ、人の往来、商いの利害。それらを読み、戦を起こさずとも相手を動かす術を心得ている。
一益の目は、広間のどこに座していても、こちらの動きを見逃すまいとしていた。彼が何を知り、何を知らぬのか、翔次には容易に測れない。
小六は、境川の水運を通じて信照の勢力を支えてきた男である。川を押さえることは、兵を動かすことにも、米を運ぶことにもつながる。その理を、誰よりもよく知っているに違いなかった。
さらに一角には、美濃三人衆として知られる安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の姿もあった。
彼らは、信照の命令に従うだけの家臣ではない。己の土地と家を守るために、信照の旗の下に身を置く道を選んだ者たちであった。
この広間にいる者たちは、ただ名を連ねているのではない。
それぞれが己の土地を持ち、兵を持ち、自ら判断して動くことのできる者たちである。
そのような者たちが一堂に会し、ひとりの男の意思を待っている。
翔次は、改めてその事実を思い知らされた。
織田信照とは、何者なのか。
広間の奥には、几帳と御簾が置かれていた。
その向こうに、人影がある。
姿を見せず、声も発しない。
ただ、そこに座している。
それだけで、広間には一定の緊張が保たれていた。
信照は十年にわたり、清須城を拠点としながら、ほとんど人前に姿を現さず、城外へ出ることもなかったという。
その間に、信照の旗は尾張の外へと広がり、四天王は各地でその意思を形にしてきた。
姿を見せぬ主君と、その名を背負って動く家臣たち。
翔次には、その仕組みが不気味なほど整って見えた。
だが、彼はその印象を顔には出さなかった。
今川家を代表してここへ来た以上、相手がいかなる人物であろうと、務めを果たさねばならぬ。
翔次は一歩進み、居並ぶ者たちへ向かって深く頭を下げた。
「今川家の使者として参りました、鍋蓋翔次にございます。本日は、今川治部大輔義元公の御意をお伝えするため、参上いたしました」
声は静かだった。
だが、広間の隅々まで届いた。
翔次は顔を上げ、御簾の向こうへ視線を向けた。
「まず、今川家は、尾張への侵攻を永久に放棄いたします。今後、軍勢をもって尾張へ攻め入ることも、信照公の保護圏に対し、武力をもって勢力を広げることもいたしませぬ」
広間の空気が、わずかに動いた。
誰もが、その言葉の重さを理解していた。
今川家は、駿河、遠江、三河を押さえる大勢力である。桶狭間の後も、その軍事力と国力が失われたわけではない。
その今川家が、自ら尾張への侵攻を放棄すると、改めて公に告げたのである。
「そのうえで、今川家は、信照公に対し、駿河、遠江、三河への侵攻を行わぬことをお誓いいただきたいと存じます」
翔次は言葉を切り、列席者の反応を見た。
「境川沿いの往来と、伊勢湾を介した通商については、双方の商人が妨げられることなく行き来できるよう、道と水運の安全を保ちたいと考えております。また、境目において小競り合いが生じた場合には、ただちに軍勢を動かすのではなく、双方の重臣が協議し、事態の拡大を防ぐものといたしたく存じます」
翔次は、改めて深く頭を下げた。
「これらをもって、今川家は信照公との恒久不可侵の和睦を結びたいと願っております」
言い終えた翔次は、静かに顔を上げた。
広間には、しばし沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは、ひとりの女の声だった。
「お待ちなさい」
凛とした声が、広間に響いた。
列席者の視線が、一斉にそちらへ向けられる。
そこに座していたのは、市姫であった。
織田信長の妹であり、信照の妹でもある女。
年は二十三。
その顔立ちには気品と気丈さが同居していた。背筋はまっすぐに伸び、翔次を見据える目には、隠しようのない怒りが宿っていた。
「今川家が尾張への侵攻をやめる。それは、そなたたちにとって都合のよい話であろう。だが、それを聞かされるわたくしたちは、何を信じればよいのです」
翔次は黙って、市姫の言葉を受け止めた。
「十年前、桶狭間で兄上を失ったのは、今川の軍勢との戦いのさなかでした。尾張の者たちは、あの戦で多くを失いました。わたくし自身も、今川の軍勢に囲まれ、明日にはどうなるかも分からぬ恐ろしさを味わいました」
市姫の声は、次第に強さを増していった。
「そのような今川家が、今になって和睦を結びたいと申す。侵攻はしない、争いは重臣同士で解決する、商いを妨げない――。その言葉を、わたくしたちは何をもって信じればよいのです」
広間の誰もが口を挟まなかった。
市姫の言葉は、単なる外交上の反論ではない。
十年前に負った傷から発せられたものだった。
翔次は、彼女の目を正面から見た。
そして、ゆっくりと膝を折り、深く頭を下げた。
「仰せのとおりにございます」
その返答に、市姫の眉がわずかに動いた。
「今川家が尾張にもたらしたものは、和睦の言葉だけで覆せるものではございませぬ。信長公を失われた悲しみも、尾張の方々が味わわれた恐怖も、某が軽々しく語れることではございませぬ」
翔次は一度、息を整えた。
「そして、十年前の桶狭間について、某自身にも責めがございます」
市姫の表情が、わずかに変わった。
翔次は目を伏せず、言葉を続けた。
「桶狭間において、某は今川方に進言をいたしました。その言葉が今川の判断を動かし、信長公の死を招く一因となりました」
広間の空気が、張り詰めた。
「申し開きはいたしませぬ。あの時、某が口にした言葉が、信長公の命を奪う結果につながった。その責めから逃れるつもりはございませぬ」
翔次の声には、弁明も、自己憐憫もなかった。
「某は、信長公を討つことだけを願っていたわけではございませぬ。されど、何を願っていたかなど、今となっては申し開きにもなりませぬ。己の言葉が何を招くのか、その重さを考えきれなかった。その結果を、十年を経た今も背負っております」
市姫は何も言わなかった。
翔次は、再び頭を下げた。
「信長公の命を奪う結果につながった言葉を口にした者として、某は、その責めを忘れたことはございませぬ」
市姫は、翔次を見つめていた。
今川の軍師。
兄を死に至らしめた勢力に仕え、その勢力を支えてきた男。
目の前にいるのは、まさしく自分が憎むべき相手のひとりである。
それなのに、この男は自らの責任をほかの誰かに押しつけようとはしなかった。
義元の命令だったとも、戦国の世の習いだったとも、あの時は仕方がなかったとも言わない。
ただ、自分の言葉が招いた結果を、己の責めとして受け止めていた。
「……では、そなたは、この十年、何をしてきたというのです」
市姫の声は、先ほどよりも低くなっていた。
怒りが消えたわけではない。
だが、その問いには、翔次の言葉の先を確かめようとする響きがあった。
翔次は、ゆっくりと顔を上げた。
「戦を起こさぬために、できることを積み重ねてまいりました」
答えは簡潔だった。
「戦場で勝つことだけが、国を守る道ではございませぬ。兵が死ねば、その家族が困窮いたします。村が焼かれれば、田畑を耕す者が失われます。兵糧が尽きれば、兵も民も飢えます。戦に勝ったところで、国そのものが疲弊すれば、次の戦を避けることは難しゅうございます」
翔次は、今川家に仕えてからの年月を思い返していた。
初めの頃、彼の目に映っていたのは、戦国の世の苛烈さだった。
飢えた兵。
荒れた村。
戦のたびに夫や息子を失う家々。
勝敗が決するたび、地図の上では小さな変化しか起きなくとも、その土地で暮らす人々の生活は、根こそぎ変わってしまう。
その光景を、翔次は何度も目にしてきた。
「三河では、守るべき場所と、守るために兵を置く必要のない場所を改めて見定め、各地の小城や砦の兵を整理いたしました。必要以上に兵を置くことをやめ、村へ帰すことのできる者は帰し、田畑を耕し、家族を養えるようにいたしました」
列席者の中に三河の事情を知る者がいれば、その意味を理解できただろう。
兵を減らすことは、単に軍備を弱めることではない。
兵を置くための兵糧と費用を減らし、その分を領国の暮らしへ戻すことでもあった。
「また、境目の村々には、負担を軽くするための減税を行い、凶作や災害で暮らしが立ちゆかなくなった者には、米を貸し与える仕組みを整えてまいりました。返済を急がせれば、かえって暮らしを立て直せなくなることもございます。ゆえに、困窮した者には、利を取らず、暮らしを立て直す時を待つことも必要と考えております」
翔次は、ひと呼吸置いた。
「治水にも力を注いでおります。大水が出れば田畑が流され、翌年の実りまで失われます。ゆえに堤を築き、水の逃げ道を整え、被害を小さくするための手立てを講じてまいりました」
脳裏に浮かぶのは、安倍川の流れだった。
水嵩が増し、堤を越えようとする濁流。
濡れた土を踏みしめ、村人たちとともに水の行方を見定めた日々。
堤を守るために人を集め、必要とあれば水を逃がす道を開き、被害が一か所に集中せぬよう手を尽くした。
水を完全に従わせることなどできない。
だが、備えを怠らなければ、失わずに済むものはある。
「十年の間に、すべてを救えたわけではございませぬ。間に合わなかった村も、助けられなかった者もおります。某の手が届かぬところで、命を失った者もおります」
翔次は、そこで言葉を切った。
「だからこそ、これから先の戦を減らさねばならぬと考えております。戦が起きてから救うのでは、間に合わぬことが多すぎる。戦を起こさずに済むならば、それに越したことはございませぬ」
その言葉に、広間の空気がわずかに変わった。
翔次は、自分の働きを誇るために語っているのではなかった。
これまで何を成し遂げたかを並べて、罪を帳消しにしようとしているのでもない。
むしろ、どれほど手を尽くしても、失われた命は戻らないということを、誰よりも知っているように見えた。
「今川家が尾張への侵攻を放棄するのは、力が尽きたからではございませぬ」
翔次は、列席者を見渡した。
「太守・義元公は、今川の国力を保ち、民を養い、東海の地に長く続く秩序を築くことを望んでおられます。そのために、戦うべき時と、戦わずに済ませるべき時とを見定めておられるのです」
今川家の威信を損なわぬよう、翔次は言葉を選んだ。
義元は、敗北を恐れて退く男ではない。
ただ、戦に勝つことのみを国の目的とする男でもなかった。
「強い兵を持つことは、国を守るために必要でございます。されど、強い兵を持つことと、常に兵を動かすことは同じではございませぬ。戦わずに済む道があるならば、それを選ぶこともまた、国を治める者の務めにございます」
翔次は、御簾の向こうへ視線を向けた。
「武田も北条も、今川が備えを怠っていないことを知っております。ゆえに、こちらが戦を望まぬからといって、国を守る備えまで手放すわけにはまいりませぬ。今川家は、和睦のために国を弱めるのではなく、国を保つために和睦を結ぼうとしているのでございます」
それは、今川家の誇りを損なわぬための言葉でもあった。
和睦は、敗者の申し出ではない。
国を保ち、民を守り、次代へと領国を渡すための決断である。
「市姫様」
翔次は、再び彼女へ向き直った。
「某の言葉を信じていただけるとは、考えておりませぬ。十年の働きをもって、十年前の責めが消えるとも思っておりませぬ」
その声は静かでありながら、揺らぎがなかった。
「ただ、これから先、今川家が尾張へ兵を向けぬこと。その約定を守り続けること。そのために必要な備えを怠らぬこと。それを、言葉だけではなく、年月をもってお示ししたいと存じます」
翔次は深く頭を下げた。
「信長公を失われた悲しみを、某が埋めることはできませぬ。市姫様が今川を憎まれることも、当然のことと存じます。どうか、今すぐに許していただきたいとは申しませぬ」
その言葉のあと、翔次はしばらく頭を下げたまま動かなかった。
許しを求めるためではない。
自らの責めを認めたうえで、これから先に何をなすべきかを示すために、ここへ来たのだ。
市姫は、その姿を見つめていた。
十年前、兄・信長を失ったあの日から、今川という名は彼女にとって、深い憎しみと恐怖を呼び起こすものだった。
戦場で何があったのか。
誰がどのような判断を下したのか。
そのすべてを知っていたわけではない。
ただ、兄が帰らなかったという事実だけは、変わらなかった。
その喪失を、誰かの理屈で納得することなどできない。
まして、今川の軍師が十年間に何をしてきたと語ろうとも、それだけで兄が戻るわけではなかった。
それでも――。
市姫は、翔次の言葉を思い返していた。
この男は、己の責めを否定しなかった。
十年の働きを並べながらも、それを贖罪の証として差し出し、許しを迫ることはしなかった。
何をしても失われた命は戻らないと、はっきり認めていた。
その言葉は、市姫の胸に、これまでとは違う形で響いていた。
彼女は、長く兄・信照を敬愛してきた。
人前に姿を見せず、己の考えを軽々しく語らず、それでも周囲の者たちを動かし、信じた道を歩み続ける兄。
市姫にとって信照は、誰にも踏み込めぬ孤独を抱えながら、決して己の務めから逃げぬ人だった。
その兄を思う気持ちは、十年を経た今も変わらない。
だが、目の前の男は、信照とは違っていた。
翔次は己の過ちを隠さず、他者に責められることを恐れず、その過ちがもたらしたものを抱えたまま、人を救おうとしている。
同じではない。
同じであるはずもない。
それでも、その姿に、市姫は目を離せなくなっていた。
やがて、彼女の表情から、先ほどまでの険しさがわずかに和らいだ。
恨みが消えたわけではない。
亡き信長への思いも、今川に向けてきた怒りも、たった今の言葉で拭い去れるものではなかった。
それでも、この男は己の責めを飾らなかった。
責任を負うことから逃げず、己の働きをもって許しを買おうともしなかった。
その背後にある十年の歳月を思うと、市姫の胸に、これまで抱いたことのない感情が芽生えていた。
恐ろしいほど、まっすぐな男だと思った。
そして、気づけば、その姿から目を離せなくなっていた。
――この人を、もっと知りたい。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな火がともった。
それは憎しみを消すほど大きな火ではない。まして、亡き兄への思いを裏切るものでもなかった。
ただ、これまで誰にも向けたことのない思いが、確かにそこに生まれていた。
市姫は、もう一度、翔次を見つめた。
もはや、仇を見る目だけではなかった。
翔次は、最後にもう一度、御簾の向こうへ向き直った。
「以上が、今川家よりお伝えする和睦の条件にございます。信照公におかれましては、何卒、ご検討賜りますようお願い申し上げます」
深々と頭を下げる。
御簾の向こうに座す信照は、動かなかった。
声もなく、身じろぎもない。
広間にいる者たちは、その沈黙を急かすことも、意味を決めつけることもなかった。
やがて、翔次が頭を上げたとき、市姫が静かに立ち上がった。
その動きに、近くに座していた者たちが目を向ける。
市姫は広間の中央へ進み、平伏していた翔次の数歩手前で立ち止まった。
翔次は、不意のことに驚いて顔を上げた。
近くで見る市姫の顔には、先ほどまでの厳しさとは異なる、張り詰めた何かがあった。
その瞳は、翔次をまっすぐに見据えている。
「……市姫様?」
翔次の唇から、戸惑いを含んだ声が漏れた。
広間中の者たちは、市姫が今川の使者に対し、織田家の姫として最後の詰問を下すものと考えた。
だが、市姫は思いもよらぬことをした。
すっと膝を折り、翔次の目の前へ身をかがめたのである。
そして、周囲の者には聞こえぬほど声を落とし、彼の耳元へ顔を寄せた。
翔次の心臓が、思わず大きく跳ねた。
近い。
あまりにも近い。
これほどの距離で、織田家の姫君と向き合うことなど、想像したこともなかった。
「……翔次殿」
「は、はい」
翔次は、思わず声を裏返らせた。
市姫は、わずかに目を伏せた。
「風聞にて、貴殿が妻女を娶っておられぬことは聞き及んでおります。……されど、念のため、お確かめしてもよろしいでしょうか」
その頬が、見る間に赤く染まっていく。
先ほどまで広間の人々を圧するほどの気丈さを見せていた姫君が、今はひとりの男を前に、恥じらいを隠しきれずにいた。
「……もし、わたくしの思い違いであれば、まことに恥ずかしいことにございますゆえ。……貴殿は、本当にお一人なのですね?」
「へ……? あ、は、はい……!」
翔次は動転し、頬を引きつらせながら、小声で答えた。
「某は十年間、治水や兵糧の手配に追われ、妻を娶る縁もなく、今日まで参りましたゆえ……!」
答えを聞いた市姫は、ほっと息をついた。
そして、さらに声を落とした。
その瞳には、羞恥の色が浮かんでいた。けれど、その奥には、翔次というひとりの男を真っすぐに見つめる、真剣な光が宿っていた。
「……ならば、もうひとつだけ、お尋ねいたします」
市姫は、いったん言葉を切った。
その頬はなお赤く、指先にもかすかな震えがあった。
それでも、彼女は目をそらさなかった。
「わたくしを妻に迎え、この不戦の誓いを、両家の長きにわたる結びつきの証とすること……。そして、何より、貴殿御自身にとっても、わたくしを妻とすることが幸せと思えるでしょうか」
「……は?」
翔次は、思わず聞き返した。
あまりにも突然の申し出だった。
目の前にいるのは、織田家の姫君である。兄を失った悲しみと、今川への怒りを抱きながら、それでも和睦のために自らの道を選ぼうとしている。
その市姫が、己の妻になると言っているのだ。
市姫は、翔次の戸惑いを見つめながら、静かに言葉を継いだ。
「わたくしは、今川を許したわけではありません。兄を失った悲しみも、今川に向けてきた怒りも、なくなったわけではないのです」
その声には、確かな意志があった。
「けれど、過去をなかったことにせず、その責めを背負いながら、これから先の人々を救おうとしている。そのような者がいるのなら、わたくしもまた、自分にできることを考えたいのです」
市姫は、そっと息を吸った。
「わたくしがそなたの妻となれば、今川と織田の和睦を、ただの約定に終わらせず、長く続くものとする礎になれるかもしれません」
翔次は、言葉を探した。
和睦のために自らを差し出すというのか。
いや、それだけではあるまい。
市姫は、今川への怒りを捨てたわけではない。兄を失った悲しみを乗り越えたわけでもない。
それらを抱えたまま、それでも未来のために何かを選ぼうとしているのだ。
「市姫様……。某のような者に、そのようなお言葉を賜るとは……」
翔次は、深く頭を垂れた。
「もし、それが市姫様の真のお望みであるならば、某には身に余る果報にございます。されど、某は十年前の責めを背負う身。また、戦乱が去った後、貴方様が望まれるような立場をお約束できるかも分かりませぬ」
市姫の目が、わずかに揺れた。
「そなたは、どのような身分になろうとも、己の責めを忘れず、人々を守り、この不戦の礎を長く守ろうとしてくれるのでしょう?」
翔次は顔を上げた。
「もちろんでございます。太守・義元公のお許しを得るべきこともございますが、ここで申し上げた言葉に二言はございませぬ」
市姫は、しばらく翔次を見つめていた。
やがて、ふっと微笑んだ。
「……そうですか」
その笑みには、もはや迷いだけではないものがあった。
市姫は翔次から離れ、広間に居並ぶ者たちへと向き直った。
その場の誰もが、彼女の次の言葉を待っていた。
市姫はすっと身を起こし、背筋を凛と伸ばした。
先ほどまでの恥じらう小声とは一転、その姿には、織田家の姫君としての威厳が戻っていた。
彼女は、居並ぶ諸将と使節団、そして御簾の奥の兄へ向けて、澄み切った声を響かせた。
「――鍋蓋翔次殿!」
静まり返る清須城の大広間に、その声が響き渡った。
「貴殿の誠実、しかとわたくしの胸に届きました。過去の責めを背負い、民の命を守るために歩んでこられたその歳月……まことに尊いものと存じます」
市姫は、一度、御簾の方を振り返った。
「我が兄・信照公は、武力のみをもって人々を従わせるのではなく、それぞれの土地に生きる者たちが己の暮らしを守りながら、争いを避けられる道を築いてこられました」
広間の者たちが、静かに耳を傾けていた。
「そして貴殿もまた、今川の地にあって、戦に頼らず民の命を守るため、力を尽くしてこられたと申されました」
市姫の声には、次第に強い響きが宿っていった。
「ならば、両家の間に二度と刃が交わらぬ恒久の平穏を築くため、誓紙に記された約定だけに頼るのではなく、両家の結びつきを形にする道もあってよいはずです」
市姫は、翔次へ向き直った。
その頬には、なお赤みが残っていた。
だが、その眼差しには、もうためらいはなかった。
「――わたくしは、この今川の軍師、鍋蓋翔次殿の妻となり、両家の不戦の礎となりとうございます!」
広間の空気が、一瞬にして凍りついた。




