第六十八話:義元の決断と全権委任
第六十八話:義元の決断と全権委任
元亀元年、水無月。
駿府の今川館に、翔次の手により、三河・岡崎城から書状が提出された。
差出人は、三河守・松平元康。
その書状には、三河各地の兵糧の出納、城々の修繕、境川沿いの村々の訴え、そして尾張との境目における商いの変化まで、丹念に調べ上げた結果が記されていた。
戦を続けるために必要なもの。
戦を続けることで失われるもの。
そして、戦を終わらせたときに守り得るもの。
元康は、三河を預かる者として、それらを一つずつ秤にかけていた。
最後に記された意見は、簡潔であった。
境川の守りを怠るべきではない。されど、守りを固めることと、尾張との戦を続けることは同じではない。今川家が領国の安寧を望むならば、敵地を切り取ることに固執せず、恒久の和睦を求めるべきである。
元康は、その判断を自らの名で上申し、翔次に書状を託したのであった。
駿府の評定の間。
今川治部大輔義元は、諸将を前に元康の上申書を読み終えた。
しばし、誰も口を開かなかった。
やがて義元は、書状を静かに畳んだ。
「元康は、三河をよく見ておる」
その声に、嘲りも驚きもなかった。
「兵を養い、城を守り、境目の村々を安んじる。それが領国を治める者の務めじゃ。されど、兵を養うことそのものが目的となり、城を守るために民を疲弊させ、境目を守るために境目を戦場とし続けるならば、何のための備えであろうか」
義元は、居並ぶ家臣たちを見渡した。
「予は、ここまで尾張を切り取るために今川の兵を動かしてきたのではない。されど、これまでの戦が、三河の者たちに負担を強いてきたことも事実じゃ」
家臣の一人が、慎重に言葉を選んで申し上げた。
「太守様。織田との和睦を進めるにあたり、武田殿、北条殿との関係にも心を配る必要がございましょう。今川が西方の戦を終えれば、両家がその後の動きを警戒することも考えられます」
「うむ」
義元は、うなずいた。
「我らに領国を広げる意思がなくとも、隣国がそう受け取るとは限らぬ。西の戦が終われば、今川が別の方角へ兵を向けるのではないかと疑う者もおろう」
その懸念は、決して軽くはなかった。
武田も北条も、それぞれに守るべき領国と家中を抱えている。今川が織田との争いを終え、兵力や財力に余裕を得たならば、その変化を見定めようとするのは当然であった。
今川家が望んでいなくとも、相手が警戒を強めれば、国境の備えに変化が生じる。こちらがそれを敵意と受け取れば、さらに警戒を重ねることにもなりかねない。
しかし、義元はその懸念をもって、和睦を退けようとはしなかった。
「ゆえにこそ、我らの望みを明らかにせねばならぬ。領国を広げるために尾張との戦を終わらせるのではない。今川の領国を安んじ、民の暮らしを守るために終わらせるのじゃ」
義元は、元康の上申書を手元に置いた。
「武田殿にも北条殿にも、いたずらに疑いを抱かせぬよう努める。されど、そのために尾張との戦を続けるというのでは本末転倒であろう。境川の備えは怠らぬ。和睦を結ぶことと、国を守ることは、両立させねばならぬ」
その言葉に、家臣たちは頭を垂れた。
義元は、すでに決めていた方針を改めて口にした。
「尾張侵攻を、今後の国策とはせぬ」
評定の間が静まり返った。
「織田との争いを終わらせる。今川の軍勢は尾張から完全に退き、以後、互いの領国を侵さぬことを定める。境目の安寧を保ち、商いと往来を妨げず、両家がそれぞれの領国を治められるよう、恒久の不可侵を求めるのじゃ」
それは、単に兵を引くという決定ではなかった。
尾張を切り取ることを国の望みとせず、武力によって相手を屈服させることにも固執しない。今川家が自らの領国を治めるために、戦を終わらせる道を選ぶということであった。
だが、決断しただけでは、和睦は成らない。
相手にも受け入れられる条件を示し、互いの疑念を解き、後々まで守られる約定とせねばならなかった。
義元は、評定の末席に控えていた翔次へ目を向けた。
「鍋蓋翔次」
「はっ」
「そなたは、これまでの戦を間近に見てきた。元康の上申を届けたそなた自身も、この和睦について考えがあろう。申してみよ」
翔次は一礼した。
「恐れながら、戦を終わらせるには、こちらの都合だけを述べても足りませぬ。織田殿にも、織田殿の領国と家臣、そして守るべきものがございます。今川が何を求め、何を求めぬのかを明らかにし、互いに領国を侵さぬという約定を、双方が守れる形に整える必要があると存じます」
「うむ」
「また、武田殿や北条殿に対しても、今川が西方の戦を終えることを、東へ勢力を広げるためと受け取られぬよう、心を配らねばなりませぬ。和睦のために新たな疑念を招いては、元も子もございませぬ」
「その通りじゃ」
義元は、満足げにうなずいた。
「戦を終わらせるというのは、兵を退かせるだけのことではない。退いた後に、再び戦を起こさずに済む道を定めることじゃ」
義元は、しばらく翔次を見つめた。
「そなたには、清須へ赴いてもらう」
翔次は顔を上げた。
「清須にございますか」
「そうじゃ。織田信照殿のもとへ赴き、今川の意思を伝えよ。尾張からの完全撤退、恒久不可侵、そして両家の往来と商いを保つための約定。これらを、相手と直接協議してまいれ」
義元は、声を改めた。
「今川の名をもって和睦を申し入れ、条件を整える。その一切を、そなたに任せる」
評定の間に、かすかなざわめきが起こった。
相手は、織田十郎信照。
信長亡き後の織田家を支え、尾張の地を超えて独自の勢力を築きつつある男である。今川の軍勢がこれまで対峙してきた相手であり、単なる使者の言葉だけで、その意向を動かせるとは限らない。
まして、和睦の条件を整えるとなれば、相手の返答を持ち帰るだけでは務まらぬ。
義元は、その難しさを承知したうえで、翔次を選んだのであった。
「太守様。全権をお預けになるということでございましょうか」
家臣の問いに、義元は迷わず答えた。
「左様。今川家の名を背負い、和睦の条件を定めるための全権を委ねる。細々としたことまで駿府へ問い返していては、交渉の機を逸することもあろう。されど、今川家の威信を損なうことなく、恒久の平和につながる道を選ばねばならぬ」
義元は、翔次へ向き直った。
「そなたならば、何を守るために和睦するのかを見失うまい」
翔次は、深く頭を下げた。
「身に余る大任にございます」
「大任であるからこそ、そなたに託すのじゃ」
義元は傍らの家臣に目配せした。
やがて、黒塗りの箱が運び込まれた。
箱の蓋が開かれると、そこには一振りの太刀が収められていた。
拵えは華美ではない。だが、刃を守る鞘にも、柄にも、長く今川家に伝わってきた重みが宿っていた。
義元は自ら太刀を取り上げた。
「これは、今川家に伝わる重宝の一振りじゃ。そなたに与える」
翔次は、思わず息を呑んだ。
「太守様。このような重宝を、某ごときに……」
「そなた一人に与えるのではない。今川家の意思を託すのじゃ」
義元は、太刀を翔次の前に差し出した。
「清須へ赴くそなたは、一介の使者ではない。今川の名を背負い、十年にわたる死闘を閉じるために赴く全権特使である。この太刀を、そなたの身分を飾るために持つと思うな。今川が和睦を求める意思と、その約定を守る覚悟の証として持て」
翔次は両手を差し出し、太刀を受け取った。
その重みは、決して鉄の重さだけではなかった。
桶狭間から始まった一連の戦い。歴史を知る身でありながら、わずかな判断の違いが生み出す変化を前に、幾度も先を見失いかけた日々。今川の軍勢が尾張へ進み、三河の者たちがその負担を担い、戦場では数多の者が命を懸けてきた。
そのすべてを、消し去ることはできない。
だが、これから先の戦を避けるために、できることはある。
翔次は、太刀を押しいただいた。
「太守様の御意、確かに承りました」
義元は、静かにうなずいた。
「そなたに望むのは、勝ち負けを競うことではない。今川が譲るべきところと、譲ってはならぬところを見極め、互いが守れる約定を結ぶことじゃ」
「はっ」
「相手の言葉を聞き、相手の恐れを知れ。されど、今川の民を再び戦に駆り立てるような約定を結んではならぬ。和睦を結ぶことが目的ではない。和睦を守り続けられることこそが肝要なのじゃ」
翔次は、深々と平伏した。
「謹んでお受けいたします。今川の名を汚さず、泰平の契りを結ぶべく、全力を尽くしてまいります」
その言葉を聞き、義元は満足げに目を細めた。
「よい。出立の支度を整えよ。清須にて信照殿と相まみえ、今川の意思を伝えるのじゃ」
「はっ」
評定の間にいた諸将も、次々に頭を下げた。
これまで、今川家の将兵は戦に勝つために働いてきた。城を攻め、道を押さえ、敵の動きを読み、兵を動かしてきた。
だが、これから翔次が担うのは、戦場で敵を退けることではない。
戦を終わらせ、その後に続く年月を守るための約定を結ぶことである。
それは、槍働きとは異なる難しさを持つ務めであった。
評定が終わると、翔次は太刀を携えて今川館を辞した。
駿府の町には、初夏の陽が降り注いでいた。往来には荷を運ぶ人々が行き交い、店先では商人たちが品を並べている。城下の暮らしは、戦場から遠く離れているように見えた。
だが、その平穏もまた、領国を治める者たちの決断の上に成り立っている。
戦が続けば、兵糧は集められ、若者は徴され、道は軍勢に塞がれる。戦が終われば、村人は田畑に戻り、商人は遠くの市へ向かい、職人は明日の仕事を考えられる。
平和とは、ただ戦のない時間を指すのではない。
人々が、明日も変わらず暮らせると信じられることである。
翔次は、腰に佩いた太刀にそっと手を添えた。
この一振りに託されたものは、今川家の威信だけではない。三河の村々で暮らす者たちの願いもまた、その重みに含まれている。
そして、清須には、織田信照がいる。
何を考え、どのような条件を示すのか。今川の申し入れを受け入れるのか、それとも別の道を求めるのか。翔次には、まだ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
ここで交わされる言葉が、これからの東海の行方を左右するということだ。
翔次は、空を見上げた。
長く続いた戦を閉じるために、今度は言葉をもって敵地へ赴く。
その先に本当の泰平があるのか、まだ誰にも分からない。
それでも、進まねばならなかった。
元康が三河の地から差し出した上申書。
義元が下した国策としての決断。
そして、今川家の名を背負う全権特使としての務め。
それらを胸に刻み、翔次は清須へ向かう支度を始めた。
十年に及ぶ死闘を終わらせるための道は、ここから先、敵と刃を交えることなく開かねばならなかった。




