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狂った歴史と、不敗の軍師~信長を死なせた男、今川家を支えて魔王に挑む~  作者: チャプタさん


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第六十五話:天命の訪れ

第六十五話:天命の訪れ


 永禄十二年、師走――。


 安倍川から吹き下ろす風は冷たく、駿府の町並みに冬の気配を深く染み込ませていた。


 駿府公認会所の一角では、遠江の塩を積んだ荷車が列をなし、三河から運ばれた木綿や、甲斐を経て届いた山の産物が、帳面と照らし合わせられている。荷を改める役人の声、馬の鼻息、車輪が玉石を踏む音。年の瀬の会所は、寒さを忘れさせるほどの活気に包まれていた。


 鍋蓋翔次は、勘定方の役人から差し出された帳面を受け取り、記された数字を一つずつ確かめた。


「この荷は、岡崎から境川を越え、尾張の津島へ向かうものか」


「はっ。塩と木綿を積み、帰りには美濃の紙と木曽の材木を仕入れて戻る手筈にございます」


「通行の証文は」


「揃っております。ただ……境川の西岸で、荷改めをめぐる揉め事があったとの報せが届いております」


 翔次の筆が止まった。


「揉め事とは、どのようなものだ」


「尾張側の荷改め役が、三河の商人の荷を止めた由にございます。商人は、これまでの取り決めに従って通行していると申し立て、尾張側は証文の記載に疑いがあると申しておるとか。双方とも刃傷には及んでおりませぬが、荷はその場に留め置かれております」


「兵は出たか」


「境川の東岸に、こちらの番兵が数名集まったとのこと。尾張側にも、土地の者が集まり始めているそうにございます」


 翔次は帳面を閉じた。


 小さな行き違いであった。されど、境目では小さな行き違いが、面目を懸けた争いへ膨らむことがある。


 証文の不備があれば、商人は荷を失うことを恐れる。荷改め役は、見逃せば職務を怠ったと責められる。番兵は仲間が侮られたと感じれば、引き下がることを恥とするかもしれない。


 それぞれの言い分が、どれほど些細なものであっても、槍を手にした者の意地が加われば、話は変わる。


「荷を止めている者たちに伝えてくれ。双方とも、これ以上、人を集めるな。武具を持って川岸へ向かうことも禁ずる。商人の荷は、改めが済むまで封をしたまま保管せよ。こちらからも役人を遣わす」


「承知いたしました」


「ただし、こちらの役人が尾張側を責め立てることは許さぬ。まずは証文と荷の記録を照らし合わせる。相手の落ち度を探すためではない。何が起きたかを確かめるためだ」


 役人は深く頭を下げ、会所を出ていった。


 翔次は、帳面の端に小さく印を付けた。


 合戦を避けることと、争いの種をなくすことは同じではない。


 境川の両岸に兵を置き、互いに越境を控えさせるだけならば、軍師の仕事は比較的分かりやすい。だが、商人が通り、百姓が水を引き、漁師が川へ舟を出すようになれば、争いの種は軍勢の外にも生まれる。


 それらを一つずつ処理できなければ、いくら不戦を唱えようとも、境目の平穏は長く保てまい。


 翔次は外套代わりの小袖を整え、会所を後にした。


 今川館の奥御殿では、太守・今川義元が、岡部元信から届いた境川の報告に目を通していた。


 傍らには、三河の政務を預かる者たちから集められた帳面が積まれている。境目の見回り、渡し場の管理、商人の通行、用水をめぐる村々の申し立て。どれも華々しい軍功とは縁遠いが、領国を治めるうえで疎かにはできぬ事柄であった。


「……荷改めの行き違いか」


 義元は報告書を置き、白扇の先で机を軽く叩いた。


「双方、まだ刃を交えてはおらぬのであろう」


「はっ。元信からの急報では、現地の役人が双方を制しております。されど、尾張側の荷改め役が証文に疑いありと申している以上、ただちに荷を通せば、今度は職務を軽んじたとの不満が残りましょう」


 翔次はそう答え、机上に境川周辺の絵図を広げた。


「どちらか一方に非があると決めつけるのは、早計にございます。証文の書式が両岸で異なっているのかもしれませぬし、記載を確かめる手順が定まっていないのかもしれませぬ。まずは事実を確かめ、そのうえで双方が従える手立てを考えるべきかと」


「相手の不手際を責めるより、同じ行き違いが起きぬようにせよ、ということか」


「はっ。商人が荷を運ぶたびに、現地の役人同士が一から取り決めを交わすようでは、いずれ必ず綻びが生じまする。通行の証文、荷改めの手順、疑義があった場合の預かり方。それらをあらかじめ定めておけば、現場の者が面目を懸けて争う余地も減りましょう」


 義元は、絵図の上をゆっくりと見渡した。


「なるほど。兵を動かさずとも、法度がなければ争いは起こる。境目を守るとは、砦に兵を置くだけのことではないのじゃな」


「その通りにございます」


「では、元信には、双方の役人が落ち着いて話せる場を設けるよう伝えよ。こちらは事実の確認に必要な者を出す。だが、尾張側の役人をこちらの裁きに従わせようとしてはならぬ。相手にも相手の立場がある」


 義元の口調に、迷いはなかった。


 今川家は駿河・遠江・三河を治める大名家である。尾張の者を一方的に裁く権を持つわけではない。境川の向こうにある土地も、そこで暮らす者たちも、今川の命令だけで動くものではなかった。


「こちらの役人が守るべきことは、まず今川領内の秩序。そして、取り決めの及ぶ範囲を越えて相手を縛らぬこと。双方が納得せぬまま押しつけた定めなど、いずれ破られる」


「御意」


 翔次は頭を下げた。


 義元は報告書を脇へ置き、しばらく翔次を見つめた。


「翔次。そなたは、境川の向こうにあるものを、今なお敵と見ておるか」


 唐突な問いであった。


 翔次はすぐには答えなかった。


「敵と味方という分け方を、捨て去ったわけではございませぬ。信照殿の保護圏と、我が今川家の領国は、同じものではございませぬゆえ」


「うむ」


「されど、境川の向こうに暮らす者たちすべてを敵と見なせば、商いも、往来も、いずれ立ち行かなくなりましょう。相手の土地を奪わずとも、こちらの民を守る道はございます。私は、その道を損なわぬために、何を定めるべきかを考えております」


 義元は満足げに頷いた。


「よい。相手を侮るな。されど、恐れて目を曇らせるな。国を保つとは、敵を打ち負かすことだけではない。相手が何を望み、こちらが何を譲れぬかを見極め、互いに越えてはならぬ線を定めることもまた、太守の務めよ」


 翔次は、義元の言葉を胸に刻んだ。


 尾張侵攻を永久に放棄し、信照との恒久不可侵を実現する――その方針は、すでに定まっている。


 だが、方針が決まったからといって、境川のすべての争いが消えるわけではない。和睦を結ぶならば、なおさら、両家が守るべき事柄を具体的に詰めねばならなかった。


 この小さな行き違いも、その一つであった。


「太守様。境川の荷改めについては、現地の報告を待ち、必要ならば両岸の役人が用いる証文の書式と確認手順を照らし合わせまする。今回の一件を、後の取り決めを考えるための材料といたしたく存じます」


「任せる。だが、急ぐあまりに事を荒立てるな。年の瀬じゃ。民に余計な不安を与えることなく、静かに収めよ」


「はっ」


 数日後、境川から戻った使いの者が、翔次のもとへ報告に訪れた。


 荷改めの行き違いは、証文の記載を確かめる手順が両岸で異なっていたことに加え、尾張側の役人が、以前に起きた別の荷抜けを警戒していたことから生じたものだった。三河の商人が不正を働いた証しはなく、尾張側にも荷を不当に奪う意図は認められなかった。


 双方の役人が記録を照合した結果、荷は封を解かぬまま通行を認められ、商人たちは予定より遅れながらも旅を再開した。川岸に集まりかけた者たちも、刃を交えることなく、それぞれの村へ戻ったという。


「ひとまずは収まったか」


 翔次は報告を聞き終え、安堵の息をついた。


 使いの者が頷く。


「はっ。ただ、尾張側の役人からは、今後も同じような荷が通るなら、証文の扱いをあらかじめ定めてほしいとの申し出がございました。こちらの役人も、同じことを申しております」


「そうであろうな。今回、双方が譲ったから収まっただけでは、次も同じようにいくとは限らぬ」


 翔次は新しい紙を広げ、境川の渡し場、荷改めの場所、商人の通行路を記し始めた。


 どこで証文を確かめるのか。疑わしい点があれば、誰が、どこまで荷を預かるのか。荷主に申し開きの機会を与えるのか。役人同士で決着がつかぬ場合、誰を通じて双方の上役へ報告するのか。


 条目を並べるだけならば難しくはない。難しいのは、現場の者が無理なく守れる形に整えることである。


 決まりが細かすぎれば、荷改めに時間がかかる。曖昧すぎれば、今度は役人の裁量が争いを生む。何より、双方の領分を越えて命令するような定めにしてはならない。


 翔次は何度も筆を止め、書き直した。


 和睦とは、互いに敵意がないと誓い合うだけの儀式ではない。疑いが生じたとき、相手をすぐに敵と決めつけずに済む仕組みを、あらかじめ用意しておくことでもある。


 その仕組みがなければ、一人の役人の疑念が、やがて一村の不信となり、一村の不信が、両家の兵を川岸へ呼び寄せることもあるだろう。


 反対に、疑いを確かめる手立てがあり、申し立てを聞く場があり、双方の上役へ知らせる道筋があれば、争いが大きくなる前に収められる可能性は高まる。


 翔次は、書き上げた覚書を読み返した。


 まだ、正式な約定ではない。尾張側と協議したわけでもなく、今川家の定めとして発したものでもない。現場で得られた一つの事例をもとに、今後の交渉に備えて論点を整理したにすぎなかった。


 それでも、確かな一歩ではあった。


 暮れも押し迫ったある夜、翔次は今川館の庭先に立っていた。


 冬の空気は澄み、遠くの山々は月明かりの下に黒々と沈んでいる。庭の松の枝には、冷たい露が小さな光を宿していた。


 手には、先ほど書き終えた覚書がある。


 その紙に並ぶのは、荷改めの手順や証文の扱い、争いが起きた際の報告の道筋といった、地味な事柄ばかりだった。天下の行く末を左右する大名同士の交渉に比べれば、あまりにも小さな仕事に見えるかもしれない。


 だが、翔次には分かっていた。


 大名が不戦を誓っても、川岸で一人の役人が意地を張れば、商人は荷を失い、村人は不安に駆られ、兵が呼び集められる。和睦の誓紙を交わすことはできても、その誓いを日々の暮らしの中で守り続ける仕組みがなければ、平穏は長く続かない。


 自分が成すべきことは、ただ義元の親書を運ぶことではない。


 いつか交渉の席に着くとき、何を定め、何を互いの裁量に委ね、どこに争いを収める道を設けるべきか。その問いに、現場の実情をもって答えられるようにしておくことだった。


 翔次は、覚書を懐へ収めた。


(まだ、終わったわけじゃない)


 境川の向こうには、信照が築いた保護圏がある。そこに暮らす者たちには、彼らなりの秩序と守るべきものがある。そして、こちらには今川の領国があり、守るべき民と家臣がいる。


 その違いを消し去る必要はない。


 違いがあるまま、互いに越えてはならぬ境を定め、争いが生じたときには刃を抜く前に解決できる道をつくる。それこそが、これからの務めであった。


 ふと、庭の向こうから鐘の音が聞こえた。


 年の瀬を告げる、駿府の寺の鐘であろう。


 翔次は音の余韻が夜気に溶けてゆくのを聞きながら、静かに西の空を見つめた。


 清須城の奥深くに座す織田信照。


 互いに相手の底を測りかねた十年。幾度も策を読み違え、互いの思惑を探りながら、それでも大軍をぶつけることなく境目を保ってきた。


 その歳月を、ただの奇妙な膠着として終わらせるのか。それとも、後の世にも残る約定へと結び直せるのか。


 答えはまだ、誰の手にもなかった。


 ただ、戦を避けるという方針は、すでに定まっている。


 これから問われるのは、その方針をいかに現実のものとするかであった。


 翔次は踵を返し、館の奥へと歩き出した。


 天命とは、空から降ってくる命令ではないのかもしれぬ。


 目の前にある務めを見失わず、一つずつ果たしてゆく。その積み重ねの先にこそ、後から振り返って初めて、天命と呼べるものが姿を現すのだろう。


 冬の夜は、なお深かった。


 されど、東の空の彼方には、まだ見えぬ春が確かに近づいていた。

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