第六十四話:軍神・上杉謙信の感嘆
第六十四話:軍神・上杉謙信の感嘆
越後国、春日山城。
日本海から吹き上げる風は冷たく、山城を囲む木々の梢を絶えず揺らしていた。城下の直江津には北国の船が出入りし、頸城の平野では、秋の収穫を終えた農家が冬支度に取りかかっている。
その春日山城の奥、毘沙門堂に近い一室で、一人の武将が書状を広げていた。
上杉弾正少弼謙信。
白綾の頭巾を被り、法衣をまとったその姿には、戦場で幾度も死線を越えてきた者ならではの厳しさがあった。机上には越後国内の報告書に加え、信濃、越中、加賀、そして遠く東海道から届けられた密報が並んでいる。
謙信は一通を読み終えると、傍らに控える直江大和守景綱へ目を向けた。
「景綱。東海道からの報せ、そなたはどう見る」
景綱は一礼した。
「今川家の領内では、ここ数年、目立った大規模な合戦がございませぬ。駿河、遠江、三河の三国では、街道の整備や治水が進み、塩や茶をはじめとする産物の流通も盛んになっている由にございます」
「それは、以前の報せにもあったな」
「はっ。今回、特に目を引くのは、尾張から美濃、近江を経て越前の敦賀に至る商いの動きにございます」
景綱は別の巻物を広げた。
そこには、各地の街道、湊、宿場、そして商人たちが利用する主な道筋が書き込まれていた。
「敦賀では、朝倉家の支配下にある湊の商人たちの一部が、織田信照殿の白旗を掲げ、通行の安全と関銭の軽減を求めたとのこと。近江や美濃でも、土地ごとの事情に応じて白旗を掲げる者が現れております」
「それで、信照が越前を手に入れたというのか」
「いえ。そこまでは申せませぬ」
景綱は慎重に言葉を継いだ。
「敦賀の商人が信照殿の旗を掲げたからといって、朝倉義景殿の支配が失われたわけではございませぬ。土地を治める者と、商いの安全を求めて旗を掲げる者とは、分けて考える必要がございます」
「うむ」
謙信は巻物に目を落とした。
「旗を掲げることと、土地を治めることは同じではない。そこを取り違えれば、見誤ることになろう」
景綱はうなずいた。
「そのとおりにございます。信照殿は、すべての土地を直ちに家臣の領地とするのではなく、それぞれの土地の者に自治を残しながら、街道や湊の安全を保つ仕組みを広げておられるようです。もっとも、どこまで実効が及んでいるかは、なお確かめる必要がございます」
「なるほどな」
謙信は腕を組んだ。
「では、今川はどうじゃ」
「今川治部大輔義元殿は、駿河、遠江、三河の領国を治め、境目の守りを固めております。軍師の鍋蓋翔次なる男が兵の損耗を避ける策を重ね、治水や兵糧、街道の整備にも関わっているとのこと。織田勢力との間では、境川の往来をめぐる取り決めも進められたそうにございます」
「鍋蓋翔次……」
謙信はその名を口にし、しばらく考え込んだ。
桶狭間の戦い以後、今川家が尾張へ大軍を押し進めることなく、三河の守りを固めながら領国の立て直しに力を注いできたことは、越後にも伝わっていた。
戦場で敵を討つだけが軍略ではない。
兵を動かせば、兵糧が要る。兵糧を集めれば、民の暮らしに負担がかかる。城を攻めれば、守る側も攻める側も人を失い、周囲の田畑や町が損なわれる。
その道理は、謙信にもよく分かっていた。
されど、戦を避けることと、戦を避けられるだけの力を持つことは、また別の話である。
「今川は、戦う力を失ったわけではあるまい」
「むろんにございます。境川の要害には備えがあり、兵の訓練も続いております。戦を避けていることと、戦えぬことは違いましょう」
「ならば、翔次という男は、兵を動かすべき時と動かさぬ時を見定めておるのか」
「報せを見る限り、そのように思われまする。ただし、敵の企てをことごとく見抜く神通力があるわけではございませぬ。兵を進めるだけの利がなければ退き、敵の挑発に乗らず、守るべき場所を絞る。その積み重ねが、今川家の損耗を抑えてきたのでございましょう」
謙信は小さく息を吐いた。
「神通力など、戦場には要らぬよ。見えぬものを見えたと思い込む者から、先に命を落とす」
景綱は、その言葉に黙って頭を下げた。
謙信は立ち上がり、障子の向こうに広がる山並みを眺めた。
信濃の川中島。
千曲川の流れと、幾度も対峙した武田の軍勢。あの地で、上杉の兵も武田の兵も、数え切れぬほど傷つき、命を落とした。
謙信は、己が刀を抜く理由を忘れたことはない。
隣国の争いに巻き込まれた者を救うため。道理を踏みにじる者を討つため。助けを求める者を見捨てぬため。
されど、義を掲げて戦うことが、必ずしも民の暮らしを救うとは限らなかった。
勝った側にも傷は残る。敗れた側には、なお深い傷が残る。戦場から帰らぬ者の家族は、勝敗にかかわらず悲しみに暮れる。
「……義とは、何じゃろうな」
謙信の呟きに、景綱が顔を上げた。
「御実城様?」
「いや。そなたに答えを求めたわけではない」
謙信は振り返った。
「予は、義を掲げて幾度も兵を起こしてきた。されど、そのたびに兵は傷つき、田畑は荒れ、民は苦しんだ。やむを得ぬ戦もあろう。救うために戦わねばならぬ時もあろう。だが、戦わずに済む道があるならば、それを探ることも、また義にかなうのではないか」
景綱は慎重に答えた。
「その道が、相手の都合に従うだけのものではなく、民を守り、国を保つものであるならば、考える価値はございましょう」
「そうじゃ」
謙信は机上の巻物へ戻った。
「今川の翔次とやらは、敵を討つより、敵が攻めてくる利を失わせようとしておるようだ。信照は、土地ごとの者に旗を掲げさせ、商いと往来を守る仕組みを広げておる。両者のやり方は違う。されど、どちらも、ただ領土を奪い取ることだけを目指してはおらぬようじゃ」
「はい。ただし、信照殿の保護圏が広がれば、周囲の大名が警戒するのも道理にございます。土地を奪わぬとしても、商いの道や人の往来を押さえれば、周辺の勢力に与える影響は小さくありませぬ」
「よい指摘じゃ」
謙信はうなずいた。
「信照が無欲かどうかは、まだ分からぬ。土地を求めぬことと、力を求めぬことは同じではない。本人が何を考えておるか、遠くからの報せだけで決めつけるべきではあるまい」
景綱は、主君の言葉を胸に刻むように頭を垂れた。
謙信は再び巻物を見つめた。
「それでも、確かなことが一つある」
「何にございましょう」
「この東海道の仕組みは、ただ武力だけで押し通しているものではない。商人が道を選び、村々が自らの都合で旗を掲げ、今川は自らの領国を守る。その間に取り決めを置き、争いを避けようとしておる。すべてが思いどおりに進むはずはないが、試みとしては興味深い」
謙信の声には、驚きとともに、将としての慎重な評価があった。
「景綱。敦賀のことも、改めて調べよ。朝倉家がどのように受け止めておるのか、湊の商人たちは何を望み、どのような約定を結んだのか。白旗を掲げた者たちが、何を守り、何を求めておるのかを知りたい」
「承知いたしました」
「それから、今川と織田の双方へ書状を送る」
景綱が目を見開いた。
「双方へ、でございますか」
「うむ。東海道の様子を聞き及んだこと、そして、商いの道が保たれるならば、越後としてもその往来を妨げる理由はないことを伝えるのじゃ」
「それは、両家との盟約を結ばれるということでございましょうか」
「いや、まだそこまでは申さぬ」
謙信は首を横に振った。
「こちらが一方的に不可侵を誓うだけでは、相手の考えも分からぬ。まずは、往来を妨げぬための意思を伝える。それを受けて相手がどう応じるか、見極めればよい」
景綱は深く平伏した。
「御意にございます」
謙信は筆を取り、硯の墨を含ませた。
しばし筆先を止めた後、まずは今川義元へ宛てた書状を書き始める。
『今川治部大輔殿。
越後において、駿河・遠江・三河の政道と、境川を挟む往来の様子を聞き及び候。
兵を用いることのみをもって境目を定めず、話し合いにより通行を保たんとする御方針、興味深く存じ候。
越後は遠国なれば、そちらの実情をことごとく知るには及ばず。されど、無用の争いを避け、民の暮らしを守ることは、いずれの国においても軽んずべきことにあらず。
我らもまた、貴国を騒がせることなく、商いの往来を妨げぬよう心掛けたく存じ候。
今後とも、無益な兵乱を避けられんことを願い候。
不識庵謙信』
書き終えた謙信は、文面を読み返し、静かに筆を置いた。
次いで、清須の織田信照へ宛てる書状をしたためた。
その文面もまた、信照の徳を讃えるためのものではなかった。
白旗を掲げる土地や商人が、何を求め、どのような約定によって往来を守っているのか。それを知りたいこと。越後としては、敦賀を含む諸湊の商いを妨げることを望まず、無用な争いを起こすつもりもないこと。そして、互いの事情を確かめる余地を残しておきたいこと。
それらを、簡潔に書き記した。
「景綱」
「はっ」
「この書状を届ける使者には、余計なことを申させるな。相手を試すような言葉も、こちらの力を誇るような言葉も要らぬ。書状に記したことを、そのまま伝えればよい」
「承知いたしました。越後の名産である青苧も、贈答の品として添えましょうか」
「よかろう。されど、品をもって返答を迫るような真似はするな。これは、まず互いを知るための書状じゃ」
「はっ」
謙信は、二通の書状を並べた。
今川義元と、織田信照。
今川家は領主として領国を治め、年貢を取り、城と兵を保つ。信照の保護圏は、土地ごとの自治を残しながら、白旗の約定によって往来の安全を広げている。
それぞれの仕組みには、利点もあれば、危うさもあろう。
されど、境目を接する者同士が、必ずしも刃を交えねばならぬ道理はない。
「……義を掲げるならば、戦うことだけに囚われてはならぬな」
謙信は、毘沙門天の尊像を仰いだ。
神仏が何を望まれるか。それを人が勝手に決めつけることはできない。だが、己の掲げる義によって民が苦しむならば、その義のあり方を問い直すことも、将の務めであろう。
謙信は立ち上がり、堂内の静けさの中で合掌した。
「越後は越後の務めを果たす。東海のやり方をそのまま真似る必要はない。されど、学ぶべきところがあるならば、学ぶことを恥とはせぬ」
その言葉を聞いた景綱は、深く頭を垂れた。
半月余りの後。
駿府の今川館に、越後からの使僧が到着した。
使僧は、上杉謙信の親書を太守・今川義元へ差し出した。義元は書状を受け取ると、居並ぶ重臣たちの前で封を開き、その文面に目を通した。
上段の傍らには、軍師・鍋蓋翔次が控えている。岡部元信、三浦上総介、朝比奈泰朝らも、主君の表情を見守っていた。
「……上杉謙信殿から、直接の書状か」
義元は読み終えた書状を翔次へ渡した。
翔次は一読し、眉をわずかに動かした。
「不可侵の誓約を一方的に申し出るものではございませぬな。商いの往来を妨げぬよう努めたい。そのうえで、今川家の政道と境川の取り決めについて、関心を示しておられます」
「うむ。こちらを手放しで称えているわけではない。されど、東海道の動きを見て、無用な争いを避ける道を探ろうとしておるようじゃ」
義元は書状を畳み、白扇を膝の上に置いた。
「謙信殿は、義を重んずる武将と聞く。ならば、こちらも虚飾をもって応じるべきではない。領内の実情を伝え、相手の言葉には誠実に応じよう」
「はっ」
翔次は深く頭を下げた。
「ただし、越後からの書状が届いたからといって、これで北方の情勢が安定したと決めつけるわけにはまいりませぬ。謙信公の考えを知る手掛かりにはなりますが、実際にどこまで関係が進むかは、これからの応対次第にございます」
「そのとおりじゃ」
義元は満足げにうなずいた。
「書状一通で世が変わるなら、太守も軍師も要らぬ。大切なのは、相手の言葉を受け止め、次の行いを見定めることよ」
翔次は、再び書状へ目を落とした。
謙信は、今川家を無条件に認めたわけではない。
ただ、遠く越後の地から、東海道の動きに目を向け、無用な争いを避ける可能性を探ろうとしている。
それは、翔次にとって思いがけない変化だった。
戦を避けることは、臆病と呼ばれることがある。敵を滅ぼさぬことは、勝利を捨てたと誤解されることもある。
されど、勝敗だけでは測れないものがあることを、謙信の書状は示していた。
「太守様。越後への返書は、境川で実際に行われた取り決めと、その後の状況をありのままに記すのがよろしいかと存じます。成功したことだけでなく、今も残る揉め事や、取り決めを守らせるための苦労も含めて」
「よい考えじゃ。都合のよいことだけを並べれば、かえって信を失う。今川家が何を成し、何を成し得ておらぬのか。それを正しく伝えよ」
「承知いたしました」
義元は重臣たちを見渡した。
「越後との間に、すぐさま盟約が結ばれるわけではない。されど、遠国の大名が我らの政道に関心を寄せたことは、軽んずるべきではあるまい。今川家は今川家の務めを果たす。境目を守り、領国を富ませ、民の暮らしを安んずる。その積み重ねこそが、いずれ他国の判断にも影響を与えよう」
重臣たちは、一斉に頭を垂れた。
軍議の後、翔次は今川館の庭へ出た。
秋の風が、萩の枝を揺らしている。遠くからは、城下の市に集う人々の声がかすかに届いていた。
(上杉謙信……)
翔次は、越後から届いた書状の内容を思い返した。
謙信は、こちらのやり方を無条件に認めたわけではない。むしろ、報せを吟味し、疑うべきところを疑ったうえで、話し合いの余地を探っている。
それでよかった。
相手に理解されたいからといって、実情を飾り立ててはならない。相手がこちらと違う道を歩んでいるからといって、その考えを否定する必要もない。
今川には今川の道がある。そして、越後には越後の事情がある。
それぞれの違いを認めたうえで、争わずに済むところを探す。
その道は、まだ始まったばかりだった。
ただ、越後の軍神が、東海道をただ攻めるべき土地として見てはいないこと。それだけは、書状から読み取れた。
天下のすべてが同じ道を歩む必要はない。
違う道を歩む者同士が、互いの境目を越えず、往来を守り、争いを避けることができるならば――その可能性を、初めから捨てる理由もない。
翔次は庭を後にした。
謙信からの返書を整える仕事が、まだ残っている。
東海道の平穏は、いまだ完成してはいない。だが、その価値を見定めようとする者が、また一人、遠い北の国に現れたのである。




