第六十三話:朝廷のまなざし
第六十三話 朝廷のまなざし
三河国境・境川の河口において、蜂須賀小六正勝率いる川並衆との協議がまとまり、後日、「境川水上通商定書」が取り交わされてから、ひと月余りが過ぎた。
元亀元年、葉月。駿河の今川館では、庭の萩が花をつけ始め、夕暮れの虫の音が秋の訪れを告げていた。
刈谷要塞から駿府へ戻った鍋蓋翔次は、太守・今川義元の傍らで、秋の収穫に向けた領内各地の蔵改めと、駿府公認会所の出納検分に取り組んでいた。
境川の陸路では三河武士団が備えを保ち、水上では川並衆との取り決めに基づき、舟の通行や案内を巡る協議が始まっている。むろん、これですべての揉め事が消えたわけではない。約定を守らぬ者が出ることもあれば、土地ごとの慣行を巡って言い分が食い違うこともある。
それでも、衝突のたびに兵を動かすほかなかった関係に、話し合いによって解決を図る道が加わった。その変化は、領国を治めるうえで小さくない意味を持っていた。
境川の協議も、義元の方針のもとで進められたものである。翔次は太守の命を受け、軍事と政務の両面から現地の状況を見定め、協議を支えた。現場で得た知見を領国の施策へ生かすことも、軍師としての務めの一つだった。
翔次が帳面を閉じた、その時である。
「翔次様! 火急の言上がございます!」
作戦部屋の板敷きに額を擦り付けたのは、乱波頭・伴野弥四郎であった。旅装束には夜露と道中の埃が残り、息もまだ整っていない。
「何事です」
「京の都より、朝廷の勅使が東海道へ下向しておられまする。先だって清須城へ立ち寄られた後、三河の岡崎を経て、間もなく駿府へ到着する由にございます!」
「朝廷の勅使だと……?」
部屋の隅で長槍の手入れをしていた岡部元信が、手を止めた。
「主上の御使者が、わざわざ駿府まで下向されるとは。並大抵の儀ではあるまい。いったい、何をお伝えに来られたのじゃ」
翔次は手元の筆を置き、弥四郎の差し出した密書を受け取った。
使節の名を確かめ、書状に記された道筋と日取りを追う。
「正使は、山科言継卿……。朝廷において長く務めを果たしてこられた公家にございますな」
「なぜ、今この時に朝廷が動いたのでしょう」
元信が問いかけた。
「畿内の情勢が、朝廷にとって看過できぬものとなっているのでしょう」
翔次は畿内の絵図を広げた。
「三好三人衆と松永久秀の争いは収まらず、昨年の本圀寺の変以来、都の周辺は兵火の危険にさらされ続けております。御所の修繕も思うに任せず、公家や町衆の暮らしも苦しいと聞きます。朝廷が政務や儀式を滞りなく行うためにも、都へ物資が届き、道中の安全が保たれることは欠かせませぬ」
「その物資を運んでおるのが、東海道の大回廊というわけか」
「はい。信照殿の保護圏では、街道や湊を結ぶ往来が広がり、駿府の市場からも今川領の産物が各地へ運ばれております。敦賀から琵琶湖、大津、濃尾を経て伊勢湾へ至る道筋も、以前より使いやすくなった。そこに我らの領国から出る塩や油、茶などが加わり、都へ向かう荷も増えているのでしょう」
翔次は絵図の上に指を置いた。
「ただし、道が開けたからといって、すべての荷が滞りなく届くわけではございませぬ。川の増水もあれば、船の都合もある。商人同士の争いも残っております。それでも、道筋がつながり、物を運ぶ者が増え、戦によって通行を断たれる危険が以前より小さくなった。その積み重ねが、都の暮らしを支えているのだと思います」
「なるほど……」
元信は腕を組んだ。
「武力で都を押さえる者ばかりではなく、遠く離れた土地から物資を届け、道を保つ者にも、朝廷は目を向け始めたということか」
「その可能性はございます。ですが、勅使が何をお伝えになるかは、実際に御言葉を拝してみなければ分かりませぬ」
翔次は密書を丁寧に畳んだ。
「まずは礼を尽くしてお迎えしましょう。朝廷が我らの働きを評価してくださるのであれば、ありがたいことです。しかし、その評価をもって、我らが天下の秩序を左右できると考えてはなりませぬ」
元信はしばし翔次を見つめ、それから重々しくうなずいた。
「承知した。太守様にも、ただちにお知らせせねばならぬな」
同じ日の夕刻。
翔次から報せを受けた義元は、ただちに家中の重臣たちを集めた。
「清須では、勅使は信照殿にもお目通りを願われたそうにございます」
翔次が報告すると、義元は静かにうなずいた。
「清須と駿府の双方を訪ねるか。単なる通過の礼ではあるまいな」
「畿内の兵乱により、都への物資が滞ることを憂えておられるのでしょう。東海道の往来が以前より安定し、駿府から西へ向かう荷も増えております。その働きについて、何らかのお言葉を賜る可能性がございます」
「ならば、朝廷が見ているのは、我らと信照の争いそのものだけではない。争いのさなかに、どれほど道と市を保てるかということでもあろう」
「某も、そう考えまする」
義元はしばらく考えた後、氏真へ目を向けた。
「氏真。勅使を迎えるにあたり、朝廷との応対についてはそなたに任せる。先方の意向をよく確かめ、礼を失せぬよう段取りを整えよ」
「承知いたしました」
氏真は一礼した。当主である氏真が担うのは、朝廷との外交儀礼である。
「ただし、勅使が境川の実情を知る者との面会を望まれるなら、翔次を同席させるのがよろしいかと存じます。あの場で何が話し合われ、どのような条件で往来を保ったのか、現地を見てきた者の説明が役立ちましょう」
義元は翔次を見た。
「翔次、そなたは境川の協議と、その後の往来について、説明すべき事柄をまとめておけ。勅使が尋ねられたなら、実際に見聞きしたことをありのままに伝えればよい」
「承知いたしました。某は現地の実情を申し上げまする。成果を誇るのではなく、できたことも、なお残る問題も、偽りなくお伝えいたします」
「それでよい」
義元は満足げにうなずいた。
「朝廷に認められるために、領国の実情を飾り立てる必要はない。道が整ったなら、どのように整えたかを述べればよい。問題が残っているなら、それもまた治めるべき務めである」
氏真もまた、静かに頭を下げた。
「朝廷への応対は、某が責任をもって整えます。父上の御方針が正しく伝わるよう、言葉を尽くしましょう」
「頼んだぞ」
義元は一同を見渡した。
「信照との争いが続いているからといって、朝廷への礼を怠るわけにはいかぬ。されど、朝廷の評価を得るために、我らの政道を曲げることもない。今川家としてなすべきことを、これまでどおり進めるのじゃ」
「はっ!」
重臣たちの声が、広間に響いた。
勅使の到着を待つ間、弥四郎は清須城で得た詳しい報せを差し出した。
「信照公は、勅使を御簾の奥で迎えられたとのことにございます。前田利家殿、木下藤吉郎殿、滝川一益殿、蜂須賀小六殿ら四天王をはじめ、重臣たちが列座しておりましたが、信照公ご自身は最後まで御姿を見せられなかったそうです」
元信が眉をひそめた。
「主上の使者を前に、姿を見せぬとは……。礼を失したとは受け取られなかったのか」
「そこまでは、報せからは分かりませぬ。ただ、山科卿は儀礼を滞りなく進められ、信照公に官位を受けるよう勧められたとのこと。これに対し、信照公ご自身は言葉を発されず、木下藤吉郎殿が主君に代わって返答されたそうです」
「何と申されたのだ」
「信照公は官位を望んでおられず、朝廷の儀式と都の暮らしを支えることこそ大切と考えておられる。そのため、官位については辞退したい。その旨を、丁重に伝えられたとのことにございます」
翔次は目を細めた。
「官位を辞退されたのですか」
「はい。さらに、清須からは御所の修繕料として黄金千両、尾張・美濃の米三千石を差し出す旨の申し出があったとか。勅使はそれを受け、駿府へ向かわれたそうにございます」
義元は腕を組み、しばし黙考した。
「官位を辞退しながら、御所の修繕と米の援助は惜しまぬか。信照殿は、朝廷の権威を借りて自らの立場を飾ることは望まぬ一方、都の窮状を救うことには意味を認めているのかもしれぬ」
「あるいは、官位を受ければ、朝廷の権威の下に入ったと見られることを警戒しているのやもしれませぬ」
翔次が答えた。
「信照殿は、誰かの権威の下に入るより、自らの仕組みを保つことを重く見ているのでしょう。されど、朝廷との関係を断つつもりもない。官位は拒み、援助は行う。そういう姿勢に見えます」
「信照殿には信照殿の考えがあろう」
義元は断じることなく言った。
「我らが、その真意をすべて見通せるわけではない。官位を受けるか否かは、信照殿が決めること。今川家は、今川家の道を示せばよい」
翔次は深くうなずいた。
「仰せのとおりにございます」
「我らが朝廷から何を求められるかは、勅使が来られてから分かる。今は、迎えるべき支度を整えよ」
「はっ」
二日後。
駿府・今川館の大広間には、今川家の重臣たちが威儀を正して居並んでいた。
白砂の中庭から差し込む初秋の陽光が、金泥の襖絵を照らし出している。
上段には、太守・今川治部大輔義元が、小豆色の直垂に黒漆の烏帽子を戴き、端然と座していた。その傍らには今川家当主・氏真が控え、さらにその下座に、軍師・鍋蓋翔次が座している。岡部元信、三浦上総介、朝比奈泰朝をはじめとする重臣たちも、静かに勅使の到着を待っていた。
翔次がここに控えているのは、境川の協議と東海道の往来について、現地を知る者として説明を求められる可能性があるためだった。義元はその必要を認め、自らの軍師として翔次を同席させていた。
やがて、館の式部頭が声を張り上げた。
「朝廷よりの勅使、山科言継卿、御到着にござりまする!」
大広間の扉が開かれた。
供回りを従えた山科言継が、礼装をまとい、慎重な足取りで広間へ入ってくる。その面には長旅の疲れがうかがえたが、朝廷の使者として務めを果たそうとする厳かな気配があった。
義元は席を改め、礼を尽くして迎えた。氏真、翔次、重臣たちも、それに倣って頭を下げる。
「今川治部大輔義元、主上の御使者たる山科卿の御下向を、心よりありがたく存じます」
言継は深くうなずき、携えてきた巻物を取り出した。
「太守・今川治部大輔義元殿、ならびに今川家の方々。主上の綸旨を伝えまする。心してお聞きくだされ」
大広間に、言継の声が響いた。
「勅す。
近年、畿内に兵乱相続き、万民の疲弊、まことに憂うべきものあり。
しかるに、今川治部大輔義元、ならびにその家中の者たち、領内の政務を整え、民の暮らしを安んじ、東海道の道筋と市を保ち、無用の兵乱を避けてきた。
また、西方との境を守り、商人の往来を妨げず、諸国より都へ至る物資の流通を助けたること、朝廷の深く嘉するところなり。
今後もその務めを怠らず、領内の安寧を保ち、民を苦しめることなく、諸国との平穏を損なわぬよう努めるべし。
ここに、その働きを嘉し、言葉をもってこれを伝えるものなり」
言継が読み終えると、大広間は静まり返った。
それは、今川家の領国支配を天下すべてに対して保証するという宣言ではない。されど、義元とその家中が長年にわたって取り組んできた領国の安定と、東海道の往来を支えてきた働きが、朝廷に認められたことは確かだった。
三浦上総介は深く頭を垂れた。かつて尾張から退いたことで、今川武士団の面目を失ったと悔やんだ日々が、胸の奥によみがえっていたのであろう。
しかし、義元は感涙に暮れることなく、綸旨を両手で押し戴いた。
「主上の御心、まことにありがたく存じまする。されど、我らの務めは、御言葉を賜ったことで終わるものではございませぬ。領内の民が飢えず、商人が道を行き、境目に無用の兵火が起こらぬよう、これからも政道を怠らぬ所存にございます」
その言葉に、重臣たちは一斉に頭を垂れた。
義元の声には、誇りとともに、太守としての責任が込められていた。
儀礼が済むと、氏真が言継に願い出て、別室でしばし言葉を交わすこととなった。義元も同席し、翔次は境川と東海道の実情を説明するために控えた。四人の前には、駿府の茶が静かに供された。
言継は茶碗を手に取り、しばらくその湯気を見つめていた。
「治部大輔殿。公の場を離れ、一人の公家として、率直に申してもよろしいでおじゃるか」
「何なりとお聞かせくだされ」
義元が答えると、言継は長く息を吐いた。
「都は、まことに苦しい有様でおじゃる。三好や松永の武者どもは、主上をお守りすると申しながら、互いに兵を向け、民の家を焼き、物資を奪う。御所の修繕も容易には進まず、公家たちも日々の暮らしに窮しておる。朝廷が朝廷として務めを果たすことさえ、思うに任せぬ時があるのじゃ」
言継は茶碗を置いた。
「そのような折、東海道から物資が届くことは、まことにありがたい。信照公が街道を整え、商いの道を広げ、今川家が領内の市と道を保っておられる。その働きによって、都へ届く荷も以前より安定してきた。すべてが救われたとは申せぬが、朝廷にとっても、町衆にとっても、大きな助けになっておる」
義元は静かにうなずいた。
「我らが治める土地の産物が、遠く都の助けとなるのであれば、これに勝る喜びはございませぬ。ただし、我らも自らの領国を保つ身。無理に荷を出させ、民を疲弊させては本末転倒にございます。続けられる形で支えることが肝要と考えております」
「そのお考えこそ、ありがたいのでおじゃる」
言継は、義元の傍らに座す氏真へ視線を移した。
「氏真殿。朝廷との折衝において、そなたが応対を整えておられると聞いておる」
「はっ。朝廷との交渉につきましては、某が務めております」
氏真は一礼した。
「されど、今川家の領国を治め、境目の平穏を保つことは、太守様の御方針のもとに進めております。朝廷へは、その政道と、これまでの働きを正しくお伝えしたいと存じます」
「なるほど。朝廷との交渉と、領国を治める務め。それぞれの役目を果たしておられるということか」
「はい。朝廷からのお言葉をありがたく受け止める一方、我らがなすべきことは変わりませぬ。領内の民を守り、道と市を保ち、無用の兵乱を避ける。そのための政務を、これからも怠らぬ所存にございます」
言継は深くうなずいた。
「都では、誰もが主上をお守りすると口にする。されど、その言葉を掲げて戦を起こし、かえって民を苦しめる者もおる。そなたらが、戦を避けるために何をすべきかを考え、実際に道と市を支えてきたことは、朝廷にとっても心強いことじゃ」
言継は今度、翔次へ視線を移した。
「そして、そなたが今川家の軍師・鍋蓋翔次殿でおじゃるな」
「はっ。過分なるお言葉を賜り、恐れ入ります」
「そなたは、境川の協議にも関わったと聞いておる」
「はっ。太守様の御下命を受け、現地の状況を確かめ、軍事と政務の両面から協議を支えました」
翔次は、言葉を慎重に選んだ。
「境川の取り決めは、ただ一度の話し合いで成ったものではございませぬ。陸路を守る者、水路を行き来する者、それぞれに守るべき暮らしと利がございます。双方の言い分を聞き、争いを避けながら通行を保つには何が必要かを考え、合意できるところから定めてまいりました」
「その取り決めによって、争いはなくなったのでおじゃるか」
「いいえ。約定を結んだからといって、すべての揉め事が消えるわけではございませぬ。舟の通行を巡る行き違いもあれば、土地ごとの慣行が衝突することもございます。取り決めを守らぬ者が出たなら、その都度、事実を確かめ、双方の言い分を聞かねばなりませぬ」
翔次は一度言葉を切った。
「それでも、争いが起きるたびに兵を出すより、話し合いによって収める道ができたことには意味がございます。大切なのは、約定を結んだことを誇るのではなく、守り続けられる仕組みにしていくことかと存じます」
言継は目を細めた。
「川の流れを読み、堤を整え、塩や茶の商いを立て直し、兵を動かすべき時と動かさぬ時を見定めてきたそうでおじゃるな」
「いずれも、家中の者たちや領内の民が力を尽くしてくれた結果にございます。某一人の知恵で成ったものではございませぬ」
「そのように申せることも、また大切なのであろうな」
言継は静かに茶碗を置いた。
「異なる役目を持つ者たちが、それぞれの務めを果たしながら、民の安寧を支えておる。朝廷が見たいと思うていたのは、まさにその姿なのかもしれぬ」
翔次は静かに答えた。
「我らの望みは、他国を侵して領土を広げることではございませぬ。まずは駿河、遠江、三河の民を守り、領国を安んじること。そのうえで、境を越えて行き来する者たちが、無用な争いに巻き込まれぬよう努めることにございます」
「西の信照公も、同じ道を歩んでおられると申すのか」
「信照殿の保護圏は、土地ごとの事情や自治を残しながら、往来を支える仕組みでございます。一方、今川家は領主として法を定め、年貢を取り、城と兵を維持して領国を治めております。成り立ちは違いますが、無用の戦を減らし、民の暮らしを守るという点では、重なるところがあるのかもしれませぬ」
言継は深くうなずいた。
「なるほど。異なる道を歩みながら、同じく民の安寧を願うということか」
「はい。されど、境川の往来が安定したからといって、天下の戦乱が終わったわけではございませぬ。今も各地には争いがあり、都も安泰とは申せません。東海道の平穏を守り続けることこそ、我らの務めにございます」
その言葉を聞き、義元が静かに口を開いた。
「朝廷の御言葉を、今川家は重く受け止めまする。これよりも領国の政務を整え、民の暮らしを守り、境目の平穏を保つことに力を尽くしましょう。尾張へ刃を向けて領土を奪うことを、我が家の目標とはいたしませぬ」
それは、誰かに屈する言葉ではなかった。
自らの領国を守り、民を養い、余計な戦を避ける。その方針を、太守としてあらためて言葉にしたのである。
言継は深く頭を下げた。
「治部大輔殿のお言葉、しかと承ったでおじゃる。都へ戻り、主上にも、この地で見聞きしたことをお伝えいたそう」
勅使一行を見送った後、翔次は今川館の庭へ出た。
初秋の風が小袖の袖を揺らし、庭の萩がかすかに枝を鳴らしている。
朝廷は、今川家の領国支配を無条件に保証したわけではない。東海道の安定と、民の暮らしを支えてきた働きを評価し、これからもその務めを続けよと求めたのだ。
それでよい、と翔次は思った。
言葉で認められたことに満足し、歩みを止めるわけにはいかない。道が整えば、新たな利権争いが生まれる。商いが盛んになれば、それを狙う者も現れる。取り決めを結んでも、守り続けるには手間が要る。
平穏は、成し遂げた瞬間に完成するものではない。
清須城の奥に座す信照が、朝廷の評価をどう受け止めたのかは分からない。官位を辞退した真意も、翔次にはまだ見通せなかった。
ただ一つ確かなのは、東海道の平穏が、もはや今川家だけの内輪の事柄ではなくなりつつあるということだった。
朝廷は東から届く物資を必要とし、商人たちは道の安定を求め、各地の武将もまた、戦を続けることの負担を計らずにはいられなくなっている。
それぞれの思惑は異なる。平和を願う理由も、守りたいものも違う。それでも、戦を避けることで得られるものがあると分かれば、選ぶ道が変わる者もいるはずだ。
東海道の安寧は、まだ遠い。
されど、その価値を見定めようとする眼差しは、確かに届き始めていた。




