第六十二話:大回廊の平穏
第六十二話 大回廊の平穏
駿府の今川館において、尾張・清須城の市姫を巡る風聞を聞いてから、ひと月余りが過ぎた。
元亀元年、文月。東海道の山野には盛夏の熱気が満ち、三河湾から吹く南風が、青々と伸びた稲を揺らしていた。
翔次は太守・今川義元の命を受け、岡崎城を経て、国境に近い刈谷要塞へと馬を進めていた。
尾張への侵攻を今後の方針から外し、信照との和睦を目指す。義元がそう定めたからといって、境目の守りを緩めてよいわけではない。むしろ、戦を避ける方針を明らかにした今こそ、偶発的な衝突を防ぐ備えが要る。
兵の配置を確かめ、村々の訴えに耳を傾け、街道と河川の通行を妨げるものがないか調べる。戦をしないという決断もまた、日々の務めによって支えられねばならなかった。
刈谷要塞の本丸大広間には、岡崎城主・松平蔵人佐元康と、今川家の前線総軍監・岡部元信が控えていた。広げられた絵図には、尾張と三河の境を流れる川々、街道の宿駅、湊の位置が書き込まれている。
三河湾の舟手を預かる松平家の重臣、酒井左衛門尉忠次が、手元の帳面を開いた。
「翔次殿。近ごろ、西の街道を往来する商人の話が、以前とはずいぶん変わってまいりました」
「どのように変わったのです」
「荷を奪われた、道を塞がれたという訴えが、目に見えて減っておりまする。近江から美濃、尾張を経て伊勢へ向かう者も、敦賀から畿内へ荷を運ぶ者も、以前より道中の見通しが立つようになったと申しておるそうにございます」
忠次は帳面の一節を指で押さえた。
「もちろん、盗賊の類がことごとく消え失せたわけではございませぬ。山間の道や人目の届かぬ渡し場では、いまだ荷を狙う者が出るとの話もございます。されど、街道筋の商人たちが、護衛の人数を減らせるほどに安心を得始めたことは確かなようにございます」
「乱世にあって、それだけでも大きな変化よな」
元信が腕を組んだ。
「関銭を取らぬと申すだけで、道が安全になるものでもあるまい。悪党どもが腹を空かせておれば、商人の荷を奪うこともあろう。村々が自ら街道を守るという話も聞くが、いかほどの働きをしておるのか」
「土地によって違いがございます」
翔次は絵図に目を落とした。
「信照殿の旗を掲げたからといって、すべての村が同じ仕組みで動いているわけではありません。自ら番を置く村もあれば、近隣の村と人足を出し合うところもある。地侍が道の見回りを引き受ける土地もございましょう」
「信照が兵を置いて、一つ一つ取り締まっておるわけではない、と」
「少なくとも、我らが聞き及ぶ限りでは、そのような形ばかりではございませぬ。土地の者が、自分たちの暮らしと商いを守るために動いている。それが保護圏を支えているのでしょう」
翔次は絵図の街道を指でたどった。
「関銭や通行の妨げが減れば、荷が早く着き、運び賃も抑えられます。商人の往来が増えれば、宿や渡し場で働く者にも銭が回る。村々にとっても、商人は品を売り、作物を買ってくれる相手です。守ることによって得られるものがあれば、見回りを続ける理由も生まれます」
「取り締まりだけに頼らず、守る側にも利を生じさせるわけか」
元康が頷いた。
「そうした仕組みが根づけば、国境の兵を増やさずとも、土地の者が道を守る力になりましょう」
「ただし、村の者にばかり負担を押しつければ、いずれ続かなくなります」
翔次は念を押した。
「見回りのために畑を放り出さねばならぬようでは、守るための仕組みが暮らしを損なうことにもなりかねませぬ。保護圏がどこまで安定しているかは、土地ごとの実情を見ねば分かりませぬな」
元信は、わずかに口元を緩めた。
「相手の仕組みを褒めるばかりではないということか」
「よいところがあれば学び、危ういところがあれば見極める。それだけのことでございます」
翔次は、今川家の領国に目を移した。
今川領では、街道の整備も、蔵の管理も、治水も、すでに進められている。だが、信照の保護圏と同じやり方を採ればよいわけではない。今川家は領主として法を定め、年貢を取り、城と兵を維持している。土地ごとの自治を尊重する保護圏とは、成り立ちが異なるのだ。
違いを無視して表面だけを真似れば、かえって領内に混乱を招く。
「我らには我らの務めがございます。まずは自らの領内を安んじ、そのうえで境目の往来を整える。それが、太守様の定められた道でございましょう」
「うむ」
元康は同意したが、忠次の表情は晴れなかった。
「されど、水の上では、いまだままならぬことがございます」
忠次は絵図を少しずらし、境川、逢妻川、矢作川が衣浦湾へ注ぐ一帯を示した。
「網を入れる場所を巡る争い、舟の通行を巡る言い争い、案内料の取り立て。大きな襲撃こそ減りましたが、三河舟手組と尾張側の川並衆との間では、互いの舟を見張り、相手の通行を妨げようとする動きが残っておりまする」
元信が眉をひそめた。
「陸では商人の往来が増えておるというのに、川ではまだ意地の張り合いか。いっそ舟手を集め、川並衆を境川から追い払ってしまえばよかろう」
「それでは、争いの場所を移すだけになりましょう」
翔次は首を横に振った。
「川並衆は境川だけで生きているわけではございませぬ。木曽川や伊勢湾にも縁があり、水路を知り尽くした者たちです。ここで力ずくに追い払えば、別の水域に身を移し、今度は我らの目の届かぬ場所から舟を狙うかもしれません」
「では、放っておけと申すのか」
「いいえ。争いを放置するのではなく、争う理由を減らすのでございます」
翔次は川筋をなぞった。
「川並衆にとって、舟の案内や水先の手間は生業の一つです。それを一方的に禁じれば、彼らは暮らしを失います。一方で、今川方の舟が通るたびに妨害を受けていては、我らも商いを続けられませぬ。双方が必要とするものを認め、互いに越えてはならぬ境を定める。それができれば、武力を用いるより長く続く取り決めになるはずです」
元康が思案するように顎へ手を当てた。
「相手の生業を認める代わりに、こちらの通行も守らせるということか」
「それだけではございませぬ。川の浚渫や堤の修繕も、境を隔てて別々に行えば、片方の手入れが他方の水害を招くことがあります。川は国境を気にして流れてはくれませぬからな」
忠次が深く頷いた。
「水利については、まさしくそのとおりにございます。上流で手を入れれば、下流の流れも変わりまする」
「ならば、なおさら話し合う余地がございましょう」
翔次は顔を上げた。
「かつて鷲塚の瀬で川並衆と争った折、我らは彼らを討ち尽くすことなく、捕らえた者たちを生かして帰しました。その後、前野兵太夫殿らには三河沿岸の浚渫や川普請に力を貸してもらった。あの者たちが、我らと共に働いた経験まで失われたわけではありませぬ」
「蜂須賀小六殿が、話し合いに応じるかどうかは分からぬがな」
元康が言った。
「ええ。応じるかどうかは、話してみなければ分かりませぬ。ただ、川並衆にとっても、舟を襲うことや相手の通行を妨げることばかりが得になるわけではない。案内や運送を正当な仕事として続けられるなら、考える余地はあるはずです」
翔次は忠次に向き直った。
「忠次殿。境川河口の船番所へ使者を立てていただけますか。川並衆の頭領、蜂須賀小六殿に、境川の水上通商について話し合いたいと伝えてくだされ」
「承知いたしました。どのような条件を示しましょう」
「まずは、双方の舟を不当に妨げぬこと。川並衆が案内や水先を務めた場合は、その働きに応じた報酬を払うこと。そして、漁場や川筋の扱いは、これまでの慣行を調べたうえで、互いの言い分を聞いて決める。細かなことは、先方の話も聞かずに決められませぬ」
「かしこまりました」
忠次は絵図を畳み、使者の手配に取りかかった。
三日後。
盛夏の日差しが照りつける衣浦湾の入江に、急ごしらえの陣屋が設けられた。中洲の葦原を挟み、三河側の関船と川並衆の平底舟が、互いに見える位置に停泊している。弓矢を手放したわけではないが、少なくとも、この場で先に刃を抜くつもりの者はいなかった。
陣屋の板敷きには、松平元康と岡部元信が控え、その中央に翔次が座していた。
向かいに胡座をかいているのは、織田四天王の一人、川並衆の頭領・蜂須賀小六正勝である。鎖帷子の上に水浅葱色の羽織をまとい、逞しい腕を組んだまま、翔次を油断なく見据えていた。その傍らには、前野兵太夫が控えている。
「久しぶりじゃな、今川の軍師殿」
小六が口を開いた。
「鷲塚の瀬で水門を操り、俺の手勢を泥の中で立ち往生させてくれた借りは、まだ忘れちゃおらんぞ」
護衛の武士たちがわずかに身構えた。
だが翔次は、顔色を変えなかった。
「あの折は、兵糧と退路を守るための策にございました。貴殿らを苦しめることが目的ではございませぬ。もっとも、こちらも命懸けでございましたから、手加減できる状況ではありませんでしたが」
「ふん。言い訳を並べぬところは、良しとしよう」
小六は鼻を鳴らしたものの、声に敵意を滲ませるばかりではなかった。
「それで、今日は何の用じゃ。今川の軍師殿が、川の荒くれ者にわざわざ会いに来るとはな」
「川の荒くれ者という呼び方は、ひとまず脇へ置いていただきたい。貴殿らの舟の扱いと水路の知識は、我らにも欠かせぬものです。だからこそ、互いに争うばかりでは惜しいと考えました」
翔次は懐から書状を取り出し、卓の上に置いた。
「境川の水上通商について、話し合いたい事柄を条目にまとめました。まずは目を通していただき、異論があれば遠慮なくお聞かせ願いたい」
兵太夫が書状を広げ、小六の前に置いた。
そこには、川並衆と今川方が協議すべき事柄が、いくつかの条目に分けて記されていた。
一、川並衆は、あらかじめ協議して定めた水路を通る今川方の舟を、不当に妨げぬこと。
一、今川方は、川並衆が案内や水先を務めた場合、その働きに応じた報酬を支払うこと。
一、双方は、漁場と網入れの場所を巡る争いについて、従来の慣行を調べ、互いの生業を損なわぬよう協議すること。
一、河川の浚渫、堤の修繕その他の水利に関わる工事については、必要に応じて情報と技術を融通し、上流と下流の双方に不測の害が及ばぬよう努めること。
一、取り決めに反する者が出た場合、直ちに相手方全体を敵とみなすことなく、まずは事実を確かめ、双方の責任者を通じて解決を図ること。
小六は条目を一つずつ読み進めた。
しばらくして、太い指が二つ目の条目で止まった。
「……案内の報酬を、今川が払うとある。これまでは、川を知っているから使ってやる、通りたければ勝手にしろという扱いじゃった。今度は、俺たちの働きに銭を払うというのか」
「左様にございます。貴殿らが案内を務めるなら、その労に見合った報酬を支払います。ただし、額や支払い方は、実際の働きと道筋を確かめたうえで決めたい」
「漁場のことはどうじゃ。今川の舟が増えれば、魚を獲る場所が狭まる。こちらの網をどけろと言われても困るぞ」
「そのために、従来の慣行を調べる条目を設けました。川並衆だけが一方的に譲るのでも、今川方が好きに決めるのでもございませぬ。双方の言い分を聞き、場所ごとに定める必要があると考えております」
小六は、今度は川普請についての条目に目を移した。
「水路の手入れまで一緒にやるのか」
「川は、境目を流れていても、今川のものでも織田のものでもございませぬ。上流で土砂をさらえば下流の流れが変わる。堤を直せば、田畑を守れる土地も変わる。だからこそ、互いに話を通しておく方がよいのです」
「……なるほどな」
小六は書状を卓に置いた。
「だが、川並衆の名で約定を結ぶ以上、俺一人の考えだけでは決められん。漁場も案内料も、実際に舟を出す者たちの暮らしに関わることじゃ。俺が勝手に決めれば、あとで不満が出る」
「ごもっともです。こちらも舟手や沿岸の村々の言い分を聞かねばなりませぬ」
翔次はうなずいた。
「この条目は、双方の者たちが話し合うための土台にすぎませぬ。実情に合わぬところがあれば、改める必要がございます」
小六は翔次の顔を見た。
「話が分かるのは結構じゃ。だが、ひとつ忘れてもらっては困る。川並衆は、ただ舟を動かすだけの者たちではない。水路を知り、潮を読み、時には荒れた川を越えて荷を運ぶ。それが俺たちの生業じゃ。案内を頼む時だけ重宝し、都合が悪くなれば締め出すような真似をされてはかなわん」
「そのためにも、働きと報酬、通行と漁場の扱いを、口約束だけで済ませぬようにしたいのです」
「ならば、取り決めを破った者が出た時はどうする。川並衆の一人が今川の舟に手を出したからといって、川並衆すべてを敵に回されては困るぞ」
「条目にも記したとおり、まずは事実を確かめ、双方の責任者を通じて解決を図ります。個人の違反と、集団としての責任は分けて考えるべきでしょう。もちろん、組織ぐるみの妨害があれば、別に対処せねばなりませぬが」
小六は、しばし黙っていた。
川並衆にとって、水路は飯の種である。通行を認める代わりに、従来の生業を損なうことになれば、協定を結ぶ意味はない。反対に、今川方の舟を妨げ続ければ、いずれは兵を差し向けられる恐れもある。双方にとって、争いを続けることだけが得策ではなかった。
やがて小六は、兵太夫へ目を向けた。
「兵太夫。三河で川普請を手伝った時の話を、もう一度聞かせてみい」
「へえ」
兵太夫は一歩進み出た。
「怪我をした者には手当てがあり、普請に出た者には決められた賃銀が払われました。仕事が済めば、舟も返していただきました。少なくとも、俺たちが働いた分を踏み倒されたことはございませぬ」
「その話だけで、今川を信じられると思うか」
「いえ。されど、今までのように争い続けるよりは、話をしてみる値打ちがあると存じます」
小六は鼻から長く息を吐いた。
「……分かった。案の条目には、まだ詰めねばならんところがある。漁場の境も、案内料の額も、実際に舟を出す者たちと相談せにゃならん。今日ここで、何もかも決めたことにはできんぞ」
「もちろんでございます」
翔次はうなずいた。
「まずは大枠を確かめ、細かな条件を詰めましょう。互いに守れる約定でなければ、結んでも長続きいたしませぬ」
小六は、ようやく腕を解いた。
「軍師殿。あんたは妙な侍じゃな。相手の言い分を聞くからといって、何でも譲るわけではない。こちらにも守るべき暮らしがあると、初めから分かっておる」
「互いに譲れぬものがあるからこそ、話し合う必要があるのでございましょう」
「ふむ。ならば、続きを詰めようではないか」
その日の話し合いでは、案内料の細目や漁場の区分、川普請に必要な人足の負担など、すべての条件が決まったわけではなかった。それでも、双方が協議を続けること、そして話し合いが続く間は不当な妨害を慎むことについて、ひとまず合意が成った。
後日、両者は関係する舟手や村々の意見を聞き、条目を整えたうえで、境川水上通商定書を取り交わすこととなった。
協定が結ばれたからといって、漁場を巡る小さな行き違いも、これを境にすべて消えたわけではなかった。
だが、争いが起きるたびに舟を出し、相手を追い払うしかなかった関係に、話し合いによって解決する道が加わった。その違いは小さくない。
数日後、翔次は刈谷要塞の土手から境川を眺めていた。
川面には、今川方の小荷駄舟と川並衆の平底舟が、それぞれの用向きに従って行き交っている。まだ互いに警戒する様子は残っていたが、以前のように相手の舟を見つけるたび、すぐさま争いの構えを取ることは少なくなっていた。
水主たちの掛け声が、風に乗って岸まで届く。
(ひとまず、話し合う場所は作れたか)
翔次は、川の流れを見つめた。
大回廊の平穏は、一人の大名が命じれば完成するものではない。街道を行き交う商人、宿駅を支える者、村々で見回りに立つ者、川筋を知る舟手。それぞれが自分の暮らしを守りながら、他者と折り合う道を見つけていくことで、ようやく形を保つものだ。
信照の保護圏では、土地ごとの事情を残しながら、人と物の往来を支える仕組みが広がっている。今川家は今川家で、法と政務によって領国を支え、境目の備えを怠らずにきた。
どちらか一方のやり方が、あらゆる土地にそのまま通用するわけではない。
それでも、互いに矛を収め、民の暮らしを脅かす争いを減らす余地はある。境川水上通商定書は、その可能性を小さくとも確かな形にしたのだった。
「翔次殿」
背後から元康の声がした。
「まだ、心配事がございますか」
「心配事がなくなることは、なかなかございませぬな」
翔次は苦笑した。
「定書を結んでも、守られるかどうかはこれからです。川並衆の中に不満を抱く者が出るかもしれませぬし、今川方の舟手が約定を軽んじることもありましょう。問題が起きた時、どのように収めるかまで考えておかねばなりません」
「それでも、以前よりは進んだのではございませぬか」
「はい。以前は、揉め事が起きれば相手を敵と見なし、兵を出すことばかり考えておりました。今は、まず事情を確かめ、取り決めに照らして解決を図る道ができた。それは確かな前進にございます」
元康は川面を見やった。
「太守様が尾張への侵攻を退け、和睦を目指すと定められたことも、こうした積み重ねにつながるのでしょうな」
「そう願っております。ただし、和睦そのものはまだ成っておりませぬ。境目の取り決めを一つ整えたからといって、すべての問題が片づいたと思うわけにはまいりません」
「心得ております」
元康は静かにうなずいた。
夕刻が近づき、川面の光が少しずつ赤みを帯び始めた。
翔次は西の空を見つめた。尾張の清須城には信照がいる。彼がこの取り決めをどこまで承知しているのか、どのように受け止めるのか、今の翔次には分からない。
だが、小六が話し合いの席につき、川並衆の側でも水上通商の取り決めを検討することになった。それだけでも、現場の者たちが、それぞれの立場を保ちながら争いを減らす道を探り始めた証しではある。
(信照。お前の保護圏と、俺たちの領国は、同じ仕組みではない。だが、争いを減らすためにできることは、まだあるはずだ)
翔次は川の流れを見つめ、静かに息を吐いた。
陸の街道も、水上の通商も、平穏を保つには手入れが欠かせない。約定を交わすだけでなく、守り続けること。相手の都合を聞き、自らの務めも果たすこと。その繰り返しが、戦を避ける力となる。
東海道の安寧は、まだ完成には遠い。
それでも、川面を行き交う舟は、昨日までより少しだけ穏やかに見えた。




