第六十一話:美しき姫の風聞
第六十一話:美しき姫の風聞
岡崎城において、今川治部大輔義元が尾張侵攻を今後の方針から外し、織田十郎信照との和睦を目指すと定めてから、ひと月余りが過ぎた。
永禄十二年、水無月も半ばを過ぎた駿府の町には、初夏の陽光が降り注いでいた。安倍川を渡る風は、遠く駿河湾の潮の香りと、新田に育つ青稲の匂いを運んでくる。
翔次は義元とともに駿府へ戻り、再び領国の政務に追われていた。
公認会所の出納帳を検め、富士川下流の新田における灌漑の差配に携わる。和睦を望むからといって、先に守りを緩めるわけにはいかない。境目を保ち、領内を豊かにし、今川家が戦を避けるのは力を失ったためではないと、内にも外にも示す必要があった。
岡崎で定まった方針は、日々の政務の中に静かに根を下ろしつつあった。
ところが、その頃から駿府の館へ頻繁に届くようになった報せがある。
軍勢の動きでも、城の攻略を企てる謀略でもない。
尾張・清須城におわす一人の姫君を巡る、縁談の風聞であった。
その日の夕刻。
今川館の一角にある政務の間で、翔次は手元の帳面を閉じた。向かいには、今川家の乱波を取りまとめる伴野弥四郎が平伏している。
掛川から出頭していた岡部元信と、三浦上総介義就も同席していた。弥四郎が差し出した注進状には、尾張から伊勢、近江、さらには北陸へと続く街道筋で聞き集めた話が記されている。
「……弥四郎。このところ、駿府の旅籠でも同じ話を耳にする。清須の市姫様を巡る縁談が、各地で持ち上がっておるというのは、まことか」
翔次が尋ねると、弥四郎は深く頭を下げた。
「はっ。熱田、津島、美濃の井口、伊勢桑名の湊に至るまで、商人や旅人の口に上っております。清須城におわす市姫様のもとへ、他国から縁談の申し入れが届いているのは確かなようにございます」
「幾つもの家から、か」
「正式に使者を遣わした家もあれば、縁を結べぬかと探りを入れたにすぎぬ家もございます。街道で広まっている話には、尾鰭もついておりましょう。されど、これほど姫君の名が遠方まで知れ渡っていることは、疑いようもございませぬ」
弥四郎はそこで言葉を切った。
「市姫様は、今年で数え二十二歳になられまする」
翔次は、絵図の清須城に目を落とした。
織田信秀の娘にして、亡き信長の妹。永禄三年、桶狭間の戦いの後に今川方の包囲から救い出され、以来、清須城に身を置いてきた姫君である。
既に永禄六年の冬、弥四郎が尾張から持ち帰った報せによって、翔次はすでに市姫の行いは知っていた。
木曽川の出水で住まいを失った者たちが清須の河原に集まった折、市姫は自ら炊き出しの場に立ち、雑炊を配ったという。戦傷を負った足軽の陣屋へも足を運び、薬湯を煎じ、包帯を替える手伝いをしたとも聞いていた。
その報せに心を動かされたのは、もう六年も前のことである。
あの頃は数え十六歳だった姫君も、今では二十二歳になったという。
武家の女子が他家へ嫁ぎ、婚姻によって家同士の結びつきを固めることは、乱世において珍しくない。むしろ、大名家の縁組が政治と無縁であることの方が少なかった。
それゆえ、長く清須に留まり、他家との縁組を結んでいない市姫の存在は、諸国の大名にとっても無視できぬものになっていたのだろう。
「……して、どのような家から申し入れがあったのじゃ」
上総介が問うた。
弥四郎は注進状を開き、慎重に言葉を選びながら答えた。
「甲斐の武田家では、嫡男義信公が亡くなられた後、その弟君である勝頼殿の縁組を巡り、さまざまな話が持ち上がっている由。その中で、市姫様の名も候補として取り沙汰されたようにございます」
「武田家が、か」
「ただし、正式な申し入れがあったとまでは確かめられておりませぬ。相模の北条家についても、一門の縁組を通じて織田との関係を探る動きがあったと聞き及びますが、こちらも使者の往来を裏づける確かな証しはございませぬ」
弥四郎は、注進状の別の箇所に目を移した。
「ほかにも、北近江の浅井家や越前の朝倉家、京の三好方など、織田との結びつきに利を見いだす者たちが、縁談の可能性を探っているようにございます。毛利家の名も噂に上っておりますが、西国の商人が語った話の域を出ておりませぬ」
「なるほど。縁談を望んだという話と、実際に申し入れたという話が、いつしか一つになっておるわけか」
「左様にございます」
翔次は頷いた。
遠方の大名が尾張の姫君との縁組を考えること自体は、不思議ではない。信照の勢力圏に近づくため、あるいは将来の衝突を避けるため、婚姻を通じて関係を築こうとする者はいるだろう。
ただし、噂に上ったすべての家が正式な求婚を行ったと考えるのは早計である。
「それほどまでに、市姫様との縁を求める理由は何じゃ。織田家の血筋や美貌が目当てではあるまい」
元信が腕を組んだ。
「無論、それだけではございますまい。信照公の勢力圏は、尾張の外にも広がっております。美濃の一部や伊勢の湊、近江の街道、越前の敦賀に至るまで、土地ごとに事情は違えど、あの方の旗を掲げる者や、その保護を頼みとする者が現れておりまする」
「市姫様との縁が結ばれれば、織田との関係を深める足掛かりになると考える者もおる、ということか」
「そのように考える者はおりましょう。されど、姫君との縁組だけで、信照公の勢力圏に手が届くわけではございませぬ」
翔次はそう付け加えた。
信照のもとに集う者たちは、すべてが同じ理由で旗を掲げているわけではない。ある者は街道の安全を求め、ある者は商いの利を見込み、またある者は近隣の争いを避けるために結びつきを選んだ。
婚姻によってそのすべてを手に入れられると考えるならば、それは相手の仕組みを見誤っている。
「……では、市姫様ご自身の評判はどうなのじゃ」
上総介が尋ねた。
「以前から、美しい姫君であられるとは広く知られた話であるようだ。だが、それだけでこれほど遠くまで名が広まるものか」
弥四郎の表情がわずかに和らいだ。
「容貌の評判は、今も変わらずございます。されど、近頃の話で目立つのは、むしろ以前から続けておられる行いについてにございます」
翔次は顔を上げた。
「以前から、というと」
「六年ほど前、清須の河原で難民への炊き出しをなされた話は、皆様にもお伝えしたかと存じます。あの後も、市姫様は城下の者たちを気に掛け、折に触れて施しの場へ足を運ばれているとのこと。戦傷を負った者や、身寄りを失った者たちの暮らしにも、心を配っておられるようにございます」
弥四郎は、以前の報せとは区別するように続けた。
「もちろん、すべての場に拙者が立ち会ったわけではございませぬ。されど、清須に出入りする商人や、城下で暮らす者たちから、年月を隔てても似た話が聞こえてまいります。一時の評判ではなく、姫君の行いとして人々の記憶に残っているのでございましょう」
「施しをしたという一度の美談ではなく、続けておられることそのものが、信頼につながっておるのか」
「左様にございます。商人の中には、炊き出しに使う米や味噌を自ら差し出す者もいるようです。誰かに命じられたからではなく、姫君の行いを見て、力を貸そうと考えた者たちなのでございましょう」
翔次は黙って聞いていた。
過去に耳にした話が、胸の内に蘇る。
泥にまみれた老人の手を取り、寒さを気遣ったという姫君。傷を負った足軽のもとへ赴き、痛みに心を寄せたという姫君。
あの報せを聞いた時、翔次は、戦乱の世にあっても目の前の人間を見失わずにいられる者がいるのだと感じた。
それから六年。
今の報せが正しければ、あの行いは一時の熱情では終わらなかったらしい。
「……人の心というものは、難しいものじゃな」
元信が低く呟いた。
「領主が法を整え、田畑を守り、商いを盛んにする。それで暮らしが安んじることはあろう。されど、誰かが自分の苦しみを気に掛けてくれたという記憶は、また別のものとして人の胸に残る」
「はい」
翔次は頷いた。
「だからこそ、姫君の行いを、ただ民心を得るための策と決めつけるべきではないのでしょう。結果として人々の信頼につながっているとしても、初めからそのためだけに行われたとは限りませぬ」
弥四郎は深く頭を下げた。
「仰せの通りにございます」
翔次は、絵図の上の清須城を見つめた。
市姫が民を気に掛けていることは、以前から知っていたが、今回の報せが伝えるのは、その評判が年月とともに薄れるどころか、城下の暮らしに根を下ろしているということだった。
そして、その評判が広まったまま、各地から縁談の話が聞こえてきている。
無関係な二つの出来事ではないのだろう。
だが、どちらかがどちらかを意図して生み出したと決めつけることもできなかった。
「……して、縁談に対して信照殿は、どのように応じておられるのだ」
翔次が尋ねると、弥四郎の表情が引き締まった。
「正式な申し入れをした家のうち、少なくとも幾つかについては、断りの返答があったとのことでございます」
「幾つか、か」
「はい。すべての縁談について同じ扱いをしたかまでは分かりませぬ。ただ、使者を通じて申し入れた家に対し、信照公ご自身は姿を現されず、家臣を通じて返答を伝えられたという話がございます」
弥四郎は、伝聞であることを念押しするように続けた。
「木下藤吉郎殿や滝川一益殿が使者に応じたとも聞いております。その際、伝えられた言葉は、こうであったとか」
弥四郎は記憶をたどり、慎重に言葉を紡いだ。
「『市姫様を、他家との盟約を結ぶための道具として扱うつもりはない』――そのような趣旨であったと」
元信が、低く唸った。
「それがまことならば、思い切った断り方よ。大名家の縁組を断れば、相手の面目を損なうことにもなろう」
「左様にございます。断られた側には、不満を抱いた者もいたようです。ただし、信照公の返答がどこまで正確に伝わっているかは分かりませぬ。尾張を離れるたび、話が少しずつ大きくなっているようにございますゆえ」
翔次は、しばらく考え込んだ。
婚姻を政略の道具とすることは、武家の世ではありふれた習わしである。娘や妹を他家へ嫁がせ、縁を結ぶことで争いを避ける。それもまた、家を存続させるために用いられてきた手立てだった。
その一方で、婚姻を結ぶ当人にも、望みや考えがあるはずである。
家同士の都合が優先される時代だからこそ、少なくとも市姫の縁組を、信照は外交の利だけで決めるつもりはないのだろう。
だが、それ以上のことは分からない。
「……翔次殿」
元信が重い声で呼びかけた。
「信照という男は、縁談一つにも己のやり方を貫くつもりらしい。かような男が、我ら今川家からの和睦の申し入れを受け入れるものか」
「分かりませぬ」
翔次は、元信の目を見て答えた。
「信照殿が縁談を断ったからといって、我らの申し入れを断ると決まったわけではございませぬ。和睦は縁談とは違いますゆえ。境目の扱いも、通商の条件も、互いに守るべき約定も勘案されます」
「望みは薄いと思うか」
「いいえ。望みがないとは考えておりませぬ」
翔次は、絵図の境川を指先で示した。
「我らが差し出すのは、天下取りのための同盟でも、信照殿の勢力圏へ踏み込むための足掛かりでもございませぬ。互いに境を侵さず、民の暮らしを脅かさぬための取り決めです。
信照殿が自らの保護圏を守ることを重んじておられるならば、我らが侵攻を控え、境目の安定を望むことにも、耳を傾ける余地はございましょう。されど、それを受け入れるか否かは、先方の判断にございます」
元信は、しばし考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「……確かに、こちらの都合だけで相手の心を決めつけるわけにはいかぬな」
「はい。だからこそ、まずは我ら自身が、約定を守るに足る相手であると示さねばなりませぬ」
上総介も絵図を見下ろし、静かに頷いた。
市姫を巡る風聞は、確かなことばかりではない。だが、年月を経ても変わらぬ姫君の行いと、その縁談に対して信照が慎重な姿勢を示しているという話は、翔次の心に残った。
翔次は一人、今川館の庭先へと歩み出た。
夕暮れの空には茜色の雲が広がり、西の地平へ細い紅の帯を引いている。安倍川から吹く風が、汗ばんだ頬を心地よく撫でた。
翔次は、弥四郎の報告を思い返していた。
六年前、市姫が民に施しをしていると聞いた時、彼はその姿に心を動かされた。今度の報せに感じたのは、あの頃の驚きとは少し違うものだった。
人の善意は、一度の美談だけでは分からない。
その行いが続き、周囲の人々がそれを覚え、やがて自らも手を貸そうとする。そうして生まれる信頼は、命令や威圧によって簡単に作り出せるものではない。
市姫の行いが、すべて噂の通りであるかどうかは分からない。遠く離れた駿府にいる自分が、会ったこともない姫君のすべてを知ったように思うべきではなかった。
それでも、六年前に聞いた話が今も同じように語られているという事実には、考えさせられるものがある。
(……俺たちが守ろうとしてきたものも、結局は同じなのかもしれないな)
翔次は、暮れゆく空を見上げた。
今川家が治める領国では、治水や新田開発を進め、商いの道を整え、兵が無用に命を落とさぬよう努めてきた。そうした積み重ねが、人々の暮らしを支えている。
だが、暮らしを守ることと、人の心を思いどおりにすることは違う。
市姫の行いが民の信頼を集めているとしても、それを今川家が同じ形で真似ればよいというものではない。領国の事情も、立場も、求められる務めも異なる。
大切なのは、他家のやり方をそのまま取り入れることではなく、自らの領民に何が必要なのかを見極めることだろう。
そして、それは和睦についても同じだった。
信照がどのような考えを持っているかを、噂だけで決めつけてはならない。相手が何を望み、何を譲れないと考えているのか。それを確かめずして、約定を結ぶことはできないのだ。
(市姫様の縁談も、結局はご本人の意思を抜きにしては語れないということか)
翔次は小さく息を吐いた。
大名家の婚姻は、家の存続や領国の安定に関わる。本人の望みだけで決められぬこともあるだろう。だからといって、当人の思いを無視してよい理由にはならない。
信照が市姫の意思を尊重しようとしているのなら、その姿勢は、彼の統治のあり方ともどこか通じているのかもしれなかった。
土地を奪い、家臣を従え、縁組を通じて相手を縛る。それだけが勢力を保つ手段ではない。自らの暮らしを守りたい者たちが、その意思によって結びつくこともある。
信照の保護圏は、その考えを各地で形にしてきたものだった。
もっとも、翔次は信照の真意を知っているわけではない。あの男が何を考え、どのような未来を望んでいるのか、直接言葉を交わしたこともない今は、想像するほかになかった。
ただ、今川家が和睦を望むのであれば、相手の事情を勝手に決めつけず、その意思を確かめるところから始めなければならない。
それは、戦場で敵の動きを読むこととは異なる難しさを伴う仕事だった。
夕闇が駿府の町並みを包み始めていた。
西の彼方、尾張の清須城には、織田信照と市姫がいる。
両者の間に和睦が成るかどうかは、まだ分からない。約定を交わすには、幾つもの条件を詰めねばならぬだろう。
それでも、武力だけで相手を屈服させるのではない道を、今川家は選び始めていた。
翔次は庭を横切る風に身を任せ、静かに息を吐いた。
市姫を巡る風聞は、まだ遠い尾張の話にすぎない。だが、前世の記憶にあるお市様の幾つもの悲劇が信照によって回避されてることを思うと何故か温かい気持ちにもなるのであった。
人の命を守ることは、戦場で敵の刃から救い出すことだけではない。戦を避け、暮らしを整え、本人が自らの道を選べる余地を残すこともまた、守るべきものの一つなのだろう。
翔次は西の空を見つめた。
駿府の夜が、静かに深まっていった。




