第六十話:自己矛盾の超克
第六十話:自己矛盾の超克
岡崎城の奥御殿において、今川義元が尾張侵攻の放棄と、織田信照との和睦を方針に定めてから、二刻あまりが過ぎていた。
城内は寝静まり、廊下を巡る夜番の足音も遠い。矢作川から吹き上がる初夏の風が、物見櫓の板戸をかすかに鳴らしていた。
鍋蓋翔次は、本丸の高みに立ち、西の空を見つめていた。
眼下には岡崎の町が広がっている。家々の灯はほとんど消え、ところどころに夜番の提灯が揺れていた。川向こうの田には、明日の朝を待つ苗が植えられている。今頃は、昼間に境川で酒を酌み交わした百姓たちも、それぞれの家で眠りについていることだろう。
明日になれば、彼らはまた田へ出る。
天候を案じ、水の具合を確かめ、家族の食い扶持を考えながら働く。大名の決断も、軍師の策も知らぬまま、ただ己の暮らしを続けてゆく。
翔次は欄干に手を置き、長く息を吐いた。
「……尾張を攻めぬ、か」
先刻、義元の口から発せられた言葉が、今も耳に残っている。
今川家は、もう尾張の領土を奪うために兵を進めない。織田との間に境を定め、互いの領分を侵さず、商いと往来を守る道を探る。
それは、十年前には思いもよらなかった決断であった。
もっとも、方針が決まったからといって、明日から戦がなくなるわけではない。和睦の相手である信照が応じる保証はなく、武田や北条をはじめ、周辺諸国の思惑もある。境目の小さな争い一つが、積み重ねてきた信頼を崩すことさえあり得る。
それでも、義元は決断した。
領土を広げることだけが国の強さではない。守るべきものを定め、そのために戦を避けることもまた、国主の務めである。
その考えを、義元は自らの言葉で示したのだ。
翔次にとって、それは十年の働きが報われたと感じられるほどの出来事だった。
だが――胸の奥に沈んでいた重石は、まだ消えてはいなかった。
十年前。
翔次は、現代の世で歴史書を読み漁っていた青年だった。
人の輪に入ることが苦手で、他人と交わす言葉よりも、書物の中に記された過去の出来事に親しみを覚えていた。戦国武将の名を覚え、合戦の経緯を追い、古地図の上で軍勢の動きを想像する。そうしている間だけは、現実の暮らしで味わう居心地の悪さを忘れられた。
歴史には、すでに結末があった。
誰が勝ち、誰が敗れ、どの国が滅び、誰が天下を握るのか。書物を開けば、過ぎ去った出来事には筋道が与えられていた。
だが、戦国の世へ放り込まれ、目覚めた場所は、桶狭間の合戦が迫る尾張の地。身にまとっていたのは、武士の装束ではなく、泥にまみれた百姓の着物だった。
生き延びるため、翔次は知っていることを口にした。
あの場で彼が考えたのは、天下の行く末ではない。眼前の刃から逃れ、明日まで命をつなぐことだった。
義元は死なず、織田信長は討ち死にした。
雨に濡れた戦場で、その事実を知った時、翔次は自分が何をしてしまったのか理解できなかった。歴史を変えるつもりなどなかった。英雄の運命を左右するつもりもなかった。
ただ、死にたくなかった。
その願いが、大きな流れを断ち切ったのである。
以来、翔次は自分の選択を問い続けてきた。
信長が生きていれば、その先に何が待っていたのか。
書物に記された歴史を知っていても、翔次には、この世界がたどるはずだった未来までは分からない。
確かなことは一つしかない。
あの時、信長は死んだ。そして翔次は、生き残った。
その事実だけは、どれほど考えようとも変わらなかった。
義元に召し抱えられてからの十年は、安穏とはほど遠かった。
今川家を支えねば、己の居場所も命も危うい。兵糧の不足を防ぎ、退くべき時を見極め、敵の挑発に乗らず、限られた兵と財をどこへ配するかを考え続けた。
前線で兵が疲弊すれば、兵站を見直した。堤が危うければ、砦の普請よりも治水を優先させた。村が戦に巻き込まれそうになれば、守る場所を絞り、避難の手立てを整えた。
それらは、華々しい武功とは呼び難い。
城を落としたわけでも、敵将の首を次々と挙げたわけでもない。むしろ、戦を始めず、無理に勝とうとせず、退くことで兵を救う判断が多かった。
初めの頃、翔次の言葉を信じる者は少なかった。
岡部元信には疑われ、血気にはやる武将たちからは臆病者と見なされることもあった。軍師が戦を避けて何になるのか。敵が攻めてくるなら、討って出て勝てばよい。そう考える者は、今川家中にも少なくなかった。
それでも、翔次は退くべき時に退き、守るべき場所を守ろうとした。
松平元康とともに前線を支えた日々もある。兵の疲労と補給の難しさを前に、二人で頭を抱えた夜もあった。策がうまく運ばず、敵の動きを読み違え、次の手を考え直さねばならぬこともあった。
何もかも見通せたわけではない。
誰もが翔次の考えに従ったわけでもなければ、すべての災いを防げたわけでもなかった。
それでも、無理な戦を避ける判断は、少しずつ今川家の中に根づいていった。
兵を使い潰さぬこと。村の暮らしを守ること。目先の勝利にこだわって、後に残る損失を見落とさぬこと。
そうした積み重ねが、三河の統治にも、東海道の備えにも形となって現れ始めたのである。
一方、尾張では信照が、今川とは異なる道を歩んでいた。
領主をすべて家臣に取り立て、軍勢を率いて領土を広げるのではない。各地の者が自らの土地と暮らしを守ることを認め、その上で交易や往来の安全を結び合わせる。もちろん、その仕組みも万能ではない。旗を掲げた者たちの思惑は一様ではなく、土地ごとの争いも残っている。商いの利が失われれば、約定を疑う者も出るだろう。
それでも、信照の築いたつながりを、外から武力だけで崩すことは容易ではなかった。
今川は、領国を治める仕組みを整え、備えを固める。
信照は、土地ごとの自立を結び合わせ、争いを起こす利を減らす。
道は違う。
だが、どちらも戦を避けることで、守れるものがあると示し始めていた。
今川を強くすれば、信照の勢力と向き合うことになる。信照が勢力を広げれば、今川の進む道は狭まる。生き延びるために選んだ道が、歴史をさらに変えてゆく。
物見櫓の上で、翔次はゆっくりと顔を上げた。
夜空には星が瞬いている。天の川は、東から西へ、長い光の帯を描いていた。
十年前の自分は、歴史を知っていることが武器になると思っていた。
だが、歴史を知ることと、未来を知ることは同じではなかった。
過去に起きた出来事をいくら覚えていても、今ここで生きる人々の選択まで、あらかじめ定められているわけではない。自分が知っている歴史は、数ある可能性のうち、実際に起きた一つの道筋にすぎなかったのだ。
その道筋から外れたからといって、この世界が誤りになったわけではない。
目の前にある暮らしも、積み重ねてきた働きも、そこから生まれた人々の願いも、すべて現実である。
「……俺は、何を恐れていたんだろうな」
翔次は独りごちた。
信長を死なせたことへの悔恨は、消えない。
あの一言を口にしなければ……その思いを、今さら否定することはできなかった。
だが、だからといって、十年間に自分がしてきたことまで、すべて誤りだったと決めつける必要があるのだろうか。
自分が支えた今川家は、無理な侵攻を控え、領内の治水や備えを進めてきた。元康は三河の民を守る責任を自らの務めとし、元信もまた、戦の備えと民の暮らしを両立させる道を考え始めている。
境川では、尾張と三河の百姓が酒を分け合った。些細な出来事であり、ちょっとしたきっかけで失われるかもしれない。
それでも、あの笑顔は作り物ではなかった。
彼らは、自分たちの意思で酒を酌み交わしていた。明日の暮らしを守りたいと願い、今日を穏やかに終えようとしていた。
翔次が守ろうとしてきたものは、まさにそのような暮らしではなかったか。
信長が天下を統一する未来だけが、乱世を終わらせる唯一の道ではない。
信照の保護圏も、今川の領国経営も、まだ完成にはほど遠い。どちらの仕組みも、これから先、思いがけぬ難題に直面するだろう。
それでも、戦を避けるために選び得る道があるのなら、そこへ進む価値はある。
過去を変えられないことと、未来を選べないことは、同じではなかった。
「……そうか」
翔次は、欄干に置いていた手を離した。
「歴史を元に戻すことばかり、考えていたんだな」
自分の知る歴史に近づければ、信長の死を償えるのではないか。信照が天下を取れば、失われたはずの未来を取り戻せるのではないか。
しかし、信照が何を望むかは信照自身が決めることだ。義元がどのような国を築くかは、義元と今川家の者たちが選ぶことだ。そして、そこに生きる人々にも、自分たちの暮らしを選ぶ意思がある。
彼らの未来を、歴史書に記された結末に合わせる必要はない。
翔次は、初めてそのことを、頭だけでなく心で受け止めた。
己の一言の結果に対する責任から逃れることはできない。
ならば、責任とは何か。
過去を悔やみ続け、自分を罰することだけが責任なのではない。自分が変えてしまった世界を見つめ、その中で生きる者たちを守り、次の争いを防ぐために働くこともまた、責任の一つであろう。
悔恨を抱えたままでも、なすべきことはある。
翔次は、静かに息を吸い込んだ。
「信長公……」
その名を口にすると、やはり胸の奥に鈍い痛みが走った。
信長ならば、この世界をどう見ただろうか。信照の保護圏を認めたのか。
答えは、もうどこにもない。
だからこそ、翔次は自分の知る信長像を、都合のよい答えとして使うことをやめねばならなかった。
「……あなたの代わりに、天下を取る者を探していたわけじゃないんだな」
呟きは、夜風に溶けた。
信照が天下を取らなくてもよい。義元が天下を統一しなくてもよい。二人が異なる道を歩みながら、互いの領分を侵さず、民の暮らしを守ることができるならば、それもまた、この時代が選び得る一つの未来である。
ただし、その未来は、まだ手に入ったわけではない。約定を結んだとしても、守り続ける努力が必要だろう。
その道のりは、これまでの十年に劣らず難しいかもしれない。
それでも、翔次はもう、史実に戻ることを目標にはしなかった。
自分が生きるこの世界に、守るべきものがある。
その事実を認めることが、ようやくできたのである。
東の空が、わずかに白み始めていた。
夜番の交代を告げる声が、城の下から聞こえてくる。遠くの厩では馬が鼻を鳴らし、城下のどこかで、朝の支度を始めた者が戸を開ける音がした。
翔次は、もう一度西の空を見た。
尾張の彼方には、信照のいる清須城がある。
あの男が何を考えているのか、翔次には分からない。戦を避けるという点では、目指すところが重なるのかもしれない。だが、同じ平穏を望むからといって、同じ道を選ぶとは限らない。
だからこそ、会って話す必要がある。
力をもって相手を屈服させるのではなく、互いに譲れぬものを確かめ、守るべきものを見定める。そのための言葉を、これから考えねばならない。
(信照。お前が築いた仕組みには、俺には思いつかなかった強さがある)
翔次は、胸の内で語りかけた。
(俺は俺のやり方で、今川の民を守ってきた。お前の道を正しいと思っているわけじゃない。俺の道も、まだまだ足りないところだらけだ)
彼は小さく笑った。
(だから、一度話そう。戦場で勝ち負けを決めるためじゃない。俺たちの後に生きる者たちが、同じことで争わずに済むように)
和睦が結ばれるかどうかも、両家の平穏が何年続くかも、誰にも分からない。
だが、分からない未来を前にして、何もしない理由にはならなかった。
翔次は欄干から身を離し、物見櫓の階へと向かった。
胸に残る悔恨は、消えていない。信長の死を招いた事実も、自分が歴史を変えたことも、これから先、ふとした折に彼を苦しめるだろう。
それでも、過去に囚われて未来を見失うことは、もうすまい。
彼が歩いてきた十年には、間違いも、迷いも、報われぬ苦労もあった。けれど、その中で救われた暮らしがあり、守られた土地があり、次の世代へ渡せるかもしれぬ道が生まれた。
歴史は、書物の中で一つの結末を迎えている。
だが、翔次の生きるこの世界では、まだ何も終わってはいない。
朝の光が、岡崎城の屋根を照らし始めた。
新しい一日が来る。
翔次は、階を一段ずつ降りていった。
今川の軍師として、なすべき仕事は山ほどある。領内の備えを整え、民の暮らしを確かめ、周辺諸国の動きを見極める。そして、時が来れば、信照との和睦を実現するために動く。
その道が正しいと、断言できない。
それでも、自ら考え、選び、結果を引き受けることはできる。
それこそが、この世界に生きる一人の人間として、翔次が初めて手にした答えであった。
朝風が、城の廊下を吹き抜けた。




