第五十八話:境目の村に満つる笑顔
第五十八話:境目の村に満つる笑顔
元亀元年、皐月。
朝廷より新たな元号が下されてから、ひと月あまりが過ぎていた。三河と尾張の境をなす境川の流域では、田植えの季節を迎え、山野の緑が日に日に濃さを増していた。
かつて、この川は両国の境であると同時に、戦の始まる場所でもあった。
永禄三年の桶狭間以来、今川と織田は幾度となく互いの出方を探り、兵を動かし、敵の策を疑ってきた。川向こうの村に煙が上がれば物見が走り、道に人影があれば間者ではないかと目を凝らす。田畑を耕す者にとっても、境川は水を運ぶ恵みの川である以前に、いつ戦火が渡ってくるとも知れぬ境目であった。
だが、十年の歳月は、その川辺に少しずつ異なる風景を生み出していた。
浅瀬の近くでは、三河の百姓たちが田に水を引き、苗を植えていた。対岸の尾張でも、同じように人々が泥に足を取られながら田植えに励んでいる。
両岸の者たちは、互いの姿を見ても、すぐに鍬を握り直すことはなかった。
「おうい、尾張の衆。今年の苗はどうじゃ」
三河側の畦に立つ老百姓が、川向こうへ声を張った。
「見ての通りよ。今のところは上々じゃ。そっちはどうだ」
「こっちも悪くない。だが、去年のような大水だけは御免じゃな」
「違いない。川の機嫌ばかりは、殿様にも分かるまい」
双方から笑い声が上がった。
もっとも、誰もが何の心配もなく暮らしているわけではない。川の水をどちらへ多く引くか、商いの値をどうするか、境目の土地をめぐって言い分が食い違うこともある。尾張の者が三河の者を全面的に信用したわけでもなければ、その逆も同じであった。
それでも、以前ならば武力に訴えかねなかった小さな揉め事が、今では村役人や仲介する商人を通じて話し合われることが増えていた。
戦のたびに田を荒らされ、働き手を奪われる暮らしを、人々はもう望んでいなかったのである。
この十年、尾張では織田信照の掲げる白旗のもと、土地ごとの自治を保ちながら、互いの往来と商いを守る仕組みが広がっていた。旗を掲げた者たちが、すべて信照の直臣になったわけではない。各地の領主や国人はそれぞれの所領を治め、村々もまた、自らの暮らしを守るために相談し、備えを続けていた。
一方、三河をはじめとする今川領では、鍋蓋翔次の献策によって、戦のために村々を疲弊させるやり方が改められつつあった。無用な砦普請や過剰な動員を減らし、治水を進め、義倉を整え、兵を置く場所と守るべき道を選ぶ。
両者の仕組みは同じではない。
信照は、土地ごとの自立を結び合わせ、外から力で従わせることの難しい網を築いた。翔次は、限られた兵力と財を用いて、今川の領国を守り、民が戦に巻き込まれる機会を減らそうとした。
それぞれの道を歩みながらも、両者が境川の向こうへ軽々しく兵を進めなくなったことは、川辺に暮らす者たちにとって大きな変化であった。
夕刻。
田植えを終えた百姓たちが、泥を洗い落とそうと川辺へ集まってきた。
その折、尾張側から来た若い百姓が、三河の者たちへ声を掛けた。
「おい、今日は仕事も早く済んだ。少しばかり持ってきたものがある。よければ一緒にどうだ」
差し出されたのは、酒と握り飯であった。
三河の老百姓は、すぐには手を伸ばさなかった。見知らぬ相手から物を受け取ることに、ためらいが残っていたのである。
だが、若者の後ろにいた尾張の男が、笑いながら酒樽を持ち上げた。
「毒など入れておらぬぞ。そんなものを入れるくらいなら、わしが先に飲んでおるわ」
そう言って自ら一杯をあおる。
三河の者たちの間にも笑いが広がり、やがて一人が握り飯を受け取った。
「では、こちらからも返さねばなるまい。遠江から回ってきた塩がある。握り飯に使うとよい」
誰かが笹の葉を広げ、別の者が川魚の干物を取り出した。
やがて人々は、川の中洲に近い乾いた地面へ腰を下ろした。双方の村で働く者たちが、少しずつ距離を縮め、酒を酌み交わし始める。
大名が命じた宴ではない。誰かが天下の大計を示すために仕掛けた芝居でもなかった。
明日も田を耕さねばならぬ者たちが、今日の仕事を終え、手元にあるものを分け合っている。ただ、それだけのことであった。
それだけのことが、かつては容易に許されなかったのである。
「こうして川向こうの者と酒を飲む日が来るとはな」
尾張の老百姓が、杯を置いて呟いた。
「わしらも同じじゃ。昔は向こう岸に人影が見えただけで、村の若い衆を呼び集めたものよ」
三河の男が頷いた。
「戦になれば、最初に困るのは百姓じゃ。兵が通れば畑は踏まれ、馬の飼葉を取られ、働き手まで連れていかれる。勝った負けたと殿様方が言うても、荒れた田を元に戻すのは、わしらじゃからな」
「まったくだ。信照様の白旗を掲げたからといって、何もかも安心というわけではない。村の守りは村で考えねばならんし、隣の村と揉めることもある。それでも、商人が通りやすくなったのは助かる。売り先が増えれば、暮らしにも余裕ができる」
「三河も、以前とは変わったぞ。堤を直してもらい、義倉の備えもできた。兵を出せと言われるたびに、今年の田はどうなるのかと案じることも、前より少なくなった」
三河の老百姓は、川面へ目を向けた。
「じゃが、堤があっても水が溢れることはある。倉に米があっても、いつまでも足りるとは限らん。平穏というものは、何もしなくても続くものではないのじゃろうな」
「そうよ。だから、せめて今夜くらいは、明日の心配を少し忘れて飲もうではないか」
その言葉に、周囲の者たちが笑った。
川面を渡る風は穏やかだった。
境川の両岸で、村人たちが同じように疲れ、同じように腹を満たし、同じように明日の天気を案じている。その当たり前の姿が、かつての戦場を知る者たちには、何よりも得難いものに思われた。
その光景を、三河側の土手の上から見下ろす三つの影があった。
粗末な野良着をまとい、編笠を深く被った男たちである。
一人は今川の軍師、鍋蓋翔次。
一人は三河の国主、松平元康。
そしてもう一人は、前線総軍監として三河に詰めている岡部元信であった。
三人は身分を隠して境川の様子を見に来ていた。供回りは少し離れた場所に控えさせている。警固を完全に捨てたわけではないが、兵を大勢引き連れては、村人たちが普段どおりに振る舞えぬからであった。
「……翔次殿」
岡部元信が、川辺の人々を見つめたまま口を開いた。
「某は長年、戦場を歩いてきた。敵が何を考えているか、味方がどこで崩れるか、そればかりを考えておった。されど、こうして敵味方の百姓が酒を酌み交わす姿を目にすると……戦に勝つことばかりが、武士の務めではなかったのだと思わされる」
その声には、十年の歳月を経てようやく得た実感が籠もっていた。
「もちろん、これを見て敵への備えを解いてよいとは思わぬ。人の心は移ろう。殿が代われば方針も変わろうし、商いの利が失われれば、今までの約定を疎ましく思う者も出てくる。今日の笑い声だけで、明日の戦がなくなるわけではない」
元信は一度言葉を切り、笠の下から翔次を見た。
「それでも……この者たちが、明日も田へ出られるようにする。それを守ることこそ、我らが戦場で命を懸けてきた意味なのかもしれぬな」
翔次は、すぐには答えなかった。
元信がこの十年で何を見て、何を考えてきたか、翔次には分かる。かつての元信は、軍勢を率いる者として、領地と武名を守ることを第一に考えていた。今も武士としての誇りを捨てたわけではない。ただ、その誇りの向け先が、少しずつ変わり始めているのだ。
元康もまた、川辺から目を離せずにいた。
「……翔次殿。あの者たちの顔を、見てくだされ」
元康の声は、いつもより低かった。
「某が今川の先鋒として大高城へ兵糧を運び、この境川の近くで夜を明かしていた頃、三河の若者たちは、明日生きて帰れるかどうかも分からぬ日々を送っておりました。某自身、先の見えぬ戦と重い責めを思い、胃の腑を痛めて夜を明かしたことが幾度もございます」
元康は、川辺で笑う三河の者たちを見つめた。
「されど今、あの者たちは、明日も田を耕すことを考えておる。秋にはどれほど実るか、来年はどの田を広げるか、子に何を教えるか……。戦場におれば、当たり前のこととして見過ごしていた暮らしが、これほど尊いものだったとは」
元康はしばらく黙っていたが、やがて翔次に向き直り、深々と頭を下げた。
「翔次殿。貴殿の知恵と忍耐が、三河の民を救うてくださった。無用な戦を避け、堤を直し、義倉を整え、兵を動かすべき時と動かさぬ時を見定めてくださった。その積み重ねが、今日の光景につながっておるのでございましょう」
「元康殿、頭をお上げくだされ」
翔次は慌てて言った。
「某一人の力ではございませぬ。殿のご決断があり、元信殿をはじめ、前線を守る者たちの働きがあり、村々の者たちが自ら暮らしを立て直してきた。誰か一人の功に帰すべきことではございませぬ」
「それでも、貴殿が道を示さねば、ここまで来ることは難しかったはずです」
元康は顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。
「某は、この光景を生涯忘れませぬ。三河の当主として、民が今日のように笑える日を、一日でも長く保ちたい。それが、今の某の願いにございます」
翔次は、川辺へ目を戻した。
風が葦の葉を揺らし、夕陽が水面に細い光の道をつくっている。
胸の奥に、十年間ずっと沈んでいたものがあった。
永禄三年、五月十九日。
桶狭間の泥濘の中で、翔次は生き延びるために口を開いた。その言葉が今川義元の運命を変え、織田信長を死へ追いやることになった。
信長が生きていれば、美濃をめぐる戦も、京への進出も、各地の大名との争いも、今とはきっと異なる形で進んだに違いない。多くの人々が命を落としたかもしれず、また別の人々が救われた可能性もある。
今となっては、誰にも確かめようのない歴史であった。
それでも翔次は、信長の死を自分の言葉と切り離して考えることができなかった。
歴史を変えた。その結果が何をもたらすのか分からぬまま、目の前の戦を生き延び、次の戦を避けようと知恵を絞ってきた。
その道程で、彼は何度も判断を誤りかけた。すべての策を見抜けたわけでも、誰一人として傷つけずに済ませられたわけでもない。勝ち目の薄い戦を避け、退くべき時に退き、守るべき場所を絞る。それができた時でさえ、胸を張って自分の功績だと言い切ることはできなかった。
だが、目の前には、今を生きる人々がいる。
歴史書に名を残すことのない百姓たち。名将の伝記にも記されぬまま、田を耕し、家族を養い、病を恐れ、豊作を願って暮らす人々。
彼らは、歴史の筋書きのために生きているのではない。
彼ら自身の暮らしを生きているのだ。
川辺で、尾張の若者が三河の老人に何かを言い、二人そろって声を上げて笑った。老人が若者の肩を叩き、周囲の者たちもつられて笑う。
翔次は、その様子を見つめた。
(……信長を、死なせてしまった)
その思いは、今も消えない。
だが、目の前の笑顔もまた、確かな現実であった。
(俺が変えた歴史の先に、こういう暮らしが生まれた。これを、なかったことにはできない)
信長を死なせたことが正しかったなどとは思えない。目の前の平穏を理由に、過去の罪を帳消しにしようと思ってるわけではない。
それでも、もし自分が生き延びるために選んだ道が、この人々の暮らしを守ることにつながったのならば、これからも守り続ける責任がある。
悔恨を抱えたままでも、人は前へ進める。
翔次は、ようやくそのことを受け入れ始めていた。
「……元康殿、元信殿」
二人に向き直った翔次の声は、先ほどよりも静かであった。
「あの者たちが、我々の守ってきたものにございます。大名の面目でも、武士の功名でもない。明日も田へ出て、家族と飯を食い、来年の実りを案じられる暮らし。それを守るために、我々は戦を避け、備えを整えてきたのでございます」
元信は深く頷いた。
「されど、この平穏は、まだ約定によって固められてはおらぬ」
翔次は西の空を見やった。
「今は双方とも、境川を越えてまで戦を始める利が薄い。ゆえに、兵を動かさずにおる。されど、利害が変わり、当主の考えが変われば、今日の姿が明日も続くとは限りませぬ」
「……確かに」
元信の顔に、武人としての慎重な色が戻った。
「敵が変わらぬと信じて備えを怠ることほど、危ういものはない」
「その通りにございます。だからこそ、互いに戦を避けるだけでは足りませぬ。争いが起きた時にどう収めるか、商人や村人の往来をどう守るか、境目で揉め事が起きた際に誰が裁くか。そうしたことまで、両家の約定に定めておく必要がございます」
翔次の言葉を聞き、元康が静かに息を呑んだ。
「つまり……今川と織田の間に、正式な和睦を結ぶということでござるか」
「はい。ただ兵を退かせるだけの休戦ではございませぬ。互いの領分を侵さず、商いと往来を守り、境目の争いを話し合いによって収める。その仕組みを、両家の意思として定めるのでございます」
翔次は、川辺の人々をもう一度見つめた。
「今日の宴は、両家が命じて作らせたものではありませぬ。民が自らの暮らしを取り戻し、少しずつ相手を恐れずに済むようになった、その表れにございます。ならば、我々がなすべきは、この芽を踏み潰さぬこと。後の者たちが、我らの気分一つで再び戦に引き戻されぬよう、道を整えることにございます」
元康は、強く頷いた。
「某も、その和睦を望みまする。三河の民が安心して田を耕せるならば、これに勝る望みはございませぬ」
元信もまた、腕を組んで考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「ただし、和睦を結ぶからといって、今川の備えを解くわけには参らぬ。相手が約定を守ることを願うのと、守られぬ場合に備えることは、別の話でござるぞ」
「もちろんでございます」
翔次は即座に答えた。
「備えを保つことと、戦を望むことは違いまする。こちらが守りを整えたうえで、相手にも約定を守る利があると示す。そうして初めて、和睦は一時の気休めではなくなりましょう」
夕陽が、濃尾の平野へと沈み始めていた。
川辺の宴も、そろそろ終わりに近づいている。村人たちは残った酒を分け合い、明日の仕事を気にしながら、少しずつ帰り支度を始めていた。
尾張の者と三河の者は、別れ際に手を振り合った。誰もが、次に会う日を約束したわけではない。明日にはまた、水の引き方や売り買いのことで言い争うかもしれぬ。
それでも、今日の酒と笑い声は、確かに彼らの間に残るだろう。
翔次は笠のつばを下ろし、二人の武将に向き直った。
「この件、駿府に戻り次第、義元公に申し上げます。今川と織田の間に恒久の和睦を結ぶべく、正式な交渉を始めるべき時が来たと」
元康は、まっすぐに翔次を見た。
「太守様がお認めになれば、某も三河の主として力を尽くしまする」
「某も、前線を預かる者として、交渉が整うまで境目の守りを固めておきましょう」
岡部元信の言葉に、翔次は頷いた。
「お願いいたします。和睦を望むからこそ、軽々しく兵を動かさぬこと。相手の出方を見誤らず、村々の暮らしを守ること。それが、最初の一歩にございます」
三人は、しばし無言で境川を見つめた。
水面には、暮れゆく空の色が映っていた。
この川が、明日から突然、争いのない場所になるわけではない。両家の思惑も、領主たちの利害も、武士たちの誇りも、すぐに消えるものではなかった。
それでも、ここに至るまでの十年は、無駄ではなかった。
翔次は、そう信じることができた。
信長を死なせた悔恨は、なお胸の底に残っている。これから先の交渉が必ず実を結ぶ保証もない。信照という男が何を考え、どこまで応じるつもりなのか、翔次にはまだ分からなかった。
だが、分からぬからこそ、話をする必要がある。
敵を恐れ、互いに備え続けるだけでは、いつか再び誰かが境を越える。そうなる前に、戦わずに済む道を、約定という形で残さねばならない。
翔次は西の空を見た。
(信照。お前が築いてきたものを、俺はまだすべて理解していない。だが、俺たちが守ろうとしてきたものには、重なるところがあるはずだ)
夕闇が川辺を包み始める。
(ならば、今度は戦場ではなく、話し合いの場で向き合おう。互いの民が、明日も安心して暮らせるように)
初夏の風が、葦原を静かに揺らした。
境川の両岸では、百姓たちが家路を急いでいる。彼らの足元に、戦の終わりを告げる旗が立っているわけではない。
ただ、明日も田へ出られるかもしれないという、ささやかな望みがあった。
その望みを一時のものに終わらせぬために。
鍋蓋翔次は、十年にわたる戦の先に、次なる務めを見定めていた。




