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狂った歴史と、不敗の軍師~信長を死なせた男、今川家を支えて魔王に挑む~  作者: チャプタさん


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第五十七話:不敗の証

第五十七話:不敗の証


 永禄十二年、長月。


 秋の空は高く澄み、駿河湾から吹く風にも、夏とは異なる涼しさが混じり始めていた。富士の頂には早くも白いものが見え、駿府の町では、秋の実りを運ぶ荷車が往来を賑わせている。


 近江や伊勢、遠く堺から訪れる商人も増え、問屋の軒先には人足たちの掛け声が響いていた。街道を行き交う者たちの顔に、かつてのような戦乱への怯えは薄れつつある。


 されど、この平穏は天から降ってきたものではない。


 境川を挟んだ長年の対峙。その間に重ねられた軍議、兵糧の差配、堤や水路の整備、国境の備え、そして敵の誘いに乗らぬための幾度もの忍耐。表立った合戦が少なくとも、国を守るために費やされた労苦は、決して小さくはなかった。


 今川館の一角に設けられた軍監所では、その歳月を記録にまとめる仕事が、ようやく終わろうとしていた。


 軍監頭・松井宗信の前には、分厚い帳面が幾冊も積まれている。傍らでは、長谷川元長が算盤を脇へ置き、墨の乾ききらぬ最後の記載を確かめていた。


「……宗信殿。これで、照合は終わりましてございます」


 元長の声には、疲労がにじんでいた。


「永禄三年の桶狭間出兵から、第一次撤退、境川の防衛線構築、水門を用いた川並衆への対処、塩と鉄の流通をめぐる駆け引き、そして先日の空城の計に至るまで。鍋蓋翔次殿が直接差配に関わった作戦と、軍監所が記録を追える範囲の兵糧・陣容・損耗を、一つずつ照らし合わせました」


 宗信は帳面に目を落とした。


「記録の欠けは?」


「古いものには、後から聞き取りを重ねた箇所もございます。すべてが同じ精度で残っているわけではありませぬ。されど、兵数や兵糧、陣の移動については、複数の報せが一致するものを採り、確かでない数字は別に記してございます」


「よし。分からぬものを、分かったことにしてはならぬ。それも軍監の務めじゃ」


 宗信は一冊を手に取り、頁を繰った。


 そこには、戦の勝ち負けだけではなく、兵をどこに置き、いかなる理由で動かし、何を守るために退いたのかが記されていた。


 敵の姿を見ながら、あえて進まなかった日。


 兵糧の不足を察して、功名を捨てて退いた日。


 川の増水を利用して敵の渡河を阻み、追撃せずに守りを固めた日。


 どれも、華々しい武功として語られる類いのものではない。だが、ひとつ判断を違えれば、多くの兵が命を落とし、村々が焼かれ、国境の守りが崩れていたかもしれなかった。


 宗信は最後の集計に目を移した。


「……翔次殿が差配した主だった作戦において、我が方は、敵の誘いに乗って陣を崩すことなく、守るべき境目を保ってきた。合戦によって失った領地も、記録上は見当たらぬ」


 声が、わずかに震えた。


「敵の刃や矢玉による戦死者も、これらの作戦の記録には残されておらぬ。負傷や病、陣中の事故まで皆無だったということではない。されど、敵を追い詰めるために味方の命を惜しみなく投じるような戦を、幾度も避けてきたのは確かなことじゃ」


 元長は深く頷いた。


「戦場で首級を挙げた数ばかりを数えておれば、決して見えてこなかった功でございましょうな」


「うむ。敵を討った数だけでは、国を守った働きは測れぬ」


 宗信は帳面を閉じず、次の頁を開いた。


 そこには、兵糧の備蓄、街道の往来、治水や新田開発による収穫の変化、村々から届いた報告がまとめられていた。


「そして、こちらじゃ」


 宗信の指先が、幾つもの数字をたどった。


「戦に備える兵を国境へ集中させ、必要以上の動員を抑えたことで、農事に戻れる者が増えた。治水の進んだ土地では収穫が安定し、街道の守りが整った地域では商いも盛んになっておる。駿河、遠江、三河の実収入は、桶狭間の頃に比べて大きく伸びた」


「帳面に残る数字だけでも、変化は明らかにございます」


「されど、すべてを翔次殿一人の働きに帰すわけにはいかぬな」


 宗信は、ゆっくりと首を振った。


「太守様の御決断があり、治水に力を尽くした者がおり、田畑を耕した百姓がおり、街道を守った兵がおる。軍師の策があっても、誰かが実際に手を動かさねば、国は豊かにならぬ」


「はい。ゆえに、誰が何を為したかを、できるだけ正しく残したいと存じます」


 元長の言葉に、宗信は満足げに頷いた。


「ならば、この帳面を太守様にお届けしよう。勝ち戦を飾るためではない。この国が、いかにして今日まで持ちこたえたかを、後の者が知るためにな」


 帳面の表には、こう記されていた。


 『対織田戦役並びに東海道防衛・歳月総括帳』


 そこに綴られたのは、ひとりの軍師の武勇伝ではなかった。


 兵を失わぬために何を捨て、国を保つために何を選んだか。その積み重ねの記録であった。


 数日後。


 駿府・今川館の大広間に、重臣たちが集められた。


 上段の床几には、太守・今川義元が座している。傍らには報告のために届けられた総括帳が置かれ、その前には軍師・鍋蓋翔次が平伏していた。


 岡部元信、三浦上総介、朝比奈泰朝ら譜代の重臣たちも列座している。三河からは松平元康の名代として、石川数正が参じていた。


 義元は帳面を閉じ、静かに口を開いた。


「翔次。軍監所より、これまでの働きをまとめた報せが届いた」


「はっ」


「記された数字は、ただ眺めるだけでは分からぬものばかりじゃ。兵をどこへ置いたか。どこで退いたか。なぜ敵を追わず、なぜ境を越えなかったか。そなたの判断の一つ一つが、今日の国の姿につながっておる」


 義元は居並ぶ家臣たちを見渡した。


「予は、尾張の地を広く奪うことを第一の望みとはしておらぬ。駿河、遠江、三河を堅く治め、民を安んじ、外からの脅威に揺るがぬ国を築く。それが予の志じゃ。そなたは、その志を軍略の上で支えてきた」


「もったいなきお言葉にございます」


 翔次は額を畳につけたまま答えた。


「されど、此度の働きは、それがし一人の手柄ではございませぬ。太守様が、領地を広げることのみを功とせず、民の暮らしを守る道をお選びになったからこそ、成し得たことでございます。諸将の皆様が、時には武功を抑え、退くべき時に退き、守るべき所を守ってくださった。その積み重ねにございます」


 重臣たちは、互いに顔を見合わせた。


 かつてならば、退くことを勧める軍師の言葉に、眉をひそめる者もいた。敵を追わず、功名を求めず、境を越えぬことを、武士の務めとして受け入れるには時間がかかった。


 だが、年月を経て、彼らも知ったのである。


 兵を率いることは、ただ敵を討つことではない。兵を家へ帰し、村を焼かせず、次の年も田畑を実らせることまでが、将の責めなのだと。


 その時、岡部元信が座を立った。


 武骨な顔には、いつもの厳しさがあった。しかし、翔次の前まで歩み出ると、元信は深く頭を下げた。そして、両膝をつき、畳に手を置いた。


「翔次殿。ひとこと、詫びを申し上げとうござる」


「元信殿……何を仰せに」


 翔次は驚き、顔を上げた。


 元信は、すぐには頭を上げなかった。


「桶狭間の折、貴殿が街道を駆けようとした時、某は怪しき者と疑い、槍を向けて捕らえた。あの時の某には、目の前の者を疑うことしかできなんだ」


 元信の声は低かった。


「その後も、貴殿が兵糧を案じ、退くべしと申すたび、某は腹の中で反発していた。敵を討たずに退くなど武士の恥、兵を温存するより敵の首を取ることこそ誉れ――そう信じて疑わなんだ」


 元信は顔を上げた。


「されど、この年月を経て、ようやく分かり申した。退くことが臆病なのではない。勝てぬ戦を避け、兵を生かし、次に守るべきものを守るために退く。その決断を下すには、敵に向かって槍を突き出すよりも、強い心が要ることがある」


 翔次は、言葉を失った。


「貴殿は、某らの血気を幾度も抑え、無用な戦を避けさせてくださった。川の守りを整え、兵糧を絶やさぬよう努め、敵の誘いに乗らぬ道を示してくださった。某が若い頃から抱いてきた武士の誉れを、貴殿は否定したのではない。何を守るために武を用いるのか、問い直させてくださったのじゃ」


 元信は、もう一度深く頭を下げた。


「貴殿の判断を疑いながら、己の考えを押し通そうとしたこともあったが、今は恥じ入るばかりにござる。これからも、何事も盲従するとは申しませぬ。されど、貴殿が兵と民を守るために下す判断には、まず耳を傾け、己の武勇や面目だけで退けぬと誓い申す」


 その言葉には、安易な称賛よりも重いものがあった。


 翔次はゆっくりと立ち上がり、元信の肩へ手を伸ばしかけた。だが、どのような言葉を返せばよいのか分からず、しばしその場に立ち尽くした。


「元信殿。どうか、頭をお上げください。あの時、元信殿がそれがしを疑われたのも、今川の陣を守るためでございましょう。疑うことそのものが、誤りだったとは申しませぬ」


「されど、疑い続けるだけでは、見えぬものもござる」


 元信は顔を上げ、苦笑した。


「この年になって、それを教えられたわけじゃ」


 広間の空気が、わずかに和らいだ。


 三浦上総介が進み出て、翔次へ頭を下げた。


「元信殿の申される通りにござる。我らも、敵を討つことばかりに心を奪われてはなりませぬな。兵を守ること、民の暮らしを保つことも、武門の大事な務めと心得ました」


 朝比奈泰朝も、静かに頷いた。


「軍監所の記録を見れば、誰か一人の知恵だけで国が保たれたのではないことも分かりましょう。翔次殿が道を示し、諸将がそれを受け、兵と民が働いた。その働きを、後の世にも伝えたいものにございます」


 三河の名代である石川数正も、深く頭を垂れた。


「元康様も、翔次殿の差配を重く受け止めておられます。三河においても、兵をいたずらに損なわず、領内を治めることを、これからの務めといたす所存にございます」


 名将たちが、ひとりの軍師に敬意を示している。


 それは、幾度もの軍議と幾度もの判断を経て、ようやく互いの考えを理解し始めた者たちの、率直な認め合いであった。


 義元は、その様子を静かに見届けてから、白扇を膝の上に置いた。


「翔次。そなたの働きを、予は誇りに思う。されど、これまでの記録が良き数字で埋まっているからとて、これから先も同じように運ぶとは限らぬ」


 翔次は顔を上げた。


「敵は敵なりに考え、こちらの手立てを学ぶ。国の内にも、武功を望む者、利を求める者、古き習いを守ろうとする者がおる。今は抑えられているものも、時が変われば、また別の形で現れよう」


「仰せの通りにございます」


「ゆえに、此度の総括は終わりではない。何が功を奏し、何が運に助けられ、何がまだ足りぬのかを知るためのものじゃ。良き記録も、誤りを隠すために用いてはならぬ」


「肝に銘じまする」


 義元は満足げに頷いた。


「そなたの働きは、今川家の宝じゃ。だが、その宝を真に生かすには、そなた一人に頼り切るのではなく、諸将も軍監も、自ら考え、次の世代へと伝えてゆかねばならぬ」


 翔次は、深く平伏した。


「そのような日が来ることこそ、それがしの望みにございます」


 御前会議が終わった後、翔次は一人、今川館の庭へ出た。


 秋の陽は傾き始め、木々の影が石畳に長く伸びている。庭の池には風が渡り、水面に映った空を静かに揺らしていた。


 翔次は、しばらくその場に立っていた。


 桶狭間の豪雨の夜。


 歴史の知識を持っていたはずの自分が、ほんの一言を口にした。その結果、織田信長は死に、知っていたはずの歴史は大きく変わった。


 あの日から、翔次の胸には重いものが居座り続けていた。


 自分が歴史を壊した。自分の言葉が、誰かの未来を奪った。ならば、せめて目の前にいる者だけは死なせまい。そう思い詰めるあまり、敵の動きを聞けば胃が痛み、軍議のたびに最悪の結末を考え、夜更けまで絵図を見つめる日も少なくなかった。


 信照という男の名を聞くだけで、歴史の先に何が待っているのか分からぬ不安が胸を満たした。


 それでも、目の前の仕事から逃げることはできなかった。


 兵糧を確かめ、川の流れを調べ、退路を確保し、敵の誘いに乗らぬよう将たちを説いた。華々しい勝利を求める者たちに、勝つことだけが戦の目的ではないと繰り返し語った。


 そうして積み重ねた年月が、今日、帳面となって差し出された。


(……俺は、少なくとも、守るべきものを守ってこられたんだな)


 翔次は、自分の掌を見つめた。


 この手で信長を死なせた。その思いは、これからも消えることはないだろう。歴史を変えたことを、なかったことにはできない。


 だが、この手で命をつなぎ止めた者もいる。


 戦場へ向かわずに済んだ兵。焼かれずに残った村。田畑へ戻り、収穫を迎えた百姓。街道を行き来し、商いを続ける者たち。


 その一つ一つは、帳面の数字だけでは表せない。


(歴史を狂わせたからといって、何もかもが間違いだったわけじゃない。……そう思っても、いいのかもしれない)


 翔次は、目を閉じて息を吐いた。


 自分を赦したわけではない。過去の責任が消えたわけでもない。ただ、罪悪感だけに縛られ、救った命まで否定する必要はないのだと、ようやく思い始めていた。


 風が庭を吹き抜け、木の葉を揺らした。


 翔次は西の空へ目を向けた。その先には尾張があり、さらに向こうには、美濃、伊勢、近江、越前へと広がる織田信照の影響圏がある。


 信照の考えを、翔次はまだすべて理解してはいない。あちらにもあちらの事情があり、こちらの守りを崩そうとする者が、今後現れぬとも限らない。


 それでも、ひとつ分かったことがある。


 敵が用意した罠に、必ず乗る必要はない。領土を広げることに執着しなければ、目の前の土地を餌にした策は、少なくともそのままでは成り立たない。


(信照。お前が西で何を築こうと、俺はこの東海道を守る。だが……いつまでも睨み合うことだけが、道じゃないはずだ)


 双方が互いの力を認め、無用な戦を避けることができるならば、その先には別の道がある。


 相手が何を望み、どこまで譲れるのかも分からない。だが、戦を続ける以外の道を探ることは、敗北ではないはずだった。


 翔次は、庭の向こうに広がる駿府の町を見渡した。


 夕餉の支度を始めた家々から、かすかな煙が立ち上っている。遠くから子どもの声が聞こえ、荷を積んだ馬がゆっくりと道を進んでいた。


 守るべきものは、ここにある。


 不敗とは、敵を一度も負かされぬことだけを意味するのではない。失わずに済む命を失わず、守れる暮らしを守り、次の日へとつなぐこと。そのために退き、待ち、時には敵の思惑を外すことも、また勝ち方の一つなのだ。


 翔次は静かに歩き出した。


 軍監所の帳面に記された数字は、これまでの歳月を語るものにすぎない。これから先、同じように守り抜ける保証はない。だからこそ、記録を残し、誤りを学び、次の判断に生かさねばならなかった。


 境川の水は、今日も変わらず流れている。


 その流れの向こうには、なお相対する勢力があり、互いに譲れぬ事情がある。けれど、長い対峙の中で、武力だけでは決着しないことも、少しずつ明らかになりつつあった。


 不敗の軍師が守り続けた歳月は、終わりを告げたのではない。


 積み重ねた記録を証として、次の一歩を選ぶ時が近づいていたのである。

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