第五十六話:空城の計の無力化
第五十六話 空城の計の無力化
血気にはやる若武者たちの独断越境を、血を流すことなく未然に防いでから、ひと月余りが過ぎた。
永禄十二年、葉月。
東海道の山野には蝉の声が満ち、三河湾から吹き上げる南風は、青葉の匂いと盛夏の熱気を運んでいた。
境川を挟む今川方と尾張方の境目では、目立った衝突が途絶えていた。今川方は刈谷をはじめとする拠点の守りを固め、敵の挑発にも容易には応じない。川面には白鷺が降り、岸辺の草むらでは虫が鳴く。遠目には、戦乱の世とは思えぬほど穏やかな景色であった。
だが、戦が起きていないからといって、敵味方の駆け引きまで消えたわけではない。
葉月半ば、刈谷の物見櫓に立った軍師・鍋蓋翔次は、遠眼鏡を手に、境川の対岸を見渡していた。視線の先には、有松から大高へ通じる街道と、その沿道に点在する村々がある。
傍らには、前線を預かる岡部元信と、三河の松平元康が控えていた。櫓の板敷きには、尾張へ放った乱波が持ち帰った注進状が広げられている。
「翔次殿。対岸の村々の様子、どうにも腑に落ちませぬ」
元康が注進状を見下ろした。
「昨日あたりから、有松より大高へ至る街道沿いの村々で、百姓が家財をまとめ、牛馬を連れて後方へ退いておるそうにございます。しかも、街道には米俵を載せた荷車が、幾つか残されているとか」
「逃げ遅れた者が慌てて捨てたにしては、妙じゃな」
元信が髭を撫でた。
「かつて高岡の郷で、我らが兵を進めた折を思い出しまする。村には人影もなく、兵糧も水も残されておらなんだ。あの時と同じく、敵は村を空にして、我らが手を伸ばすのを待っておるのかもしれませぬ」
翔次は遠眼鏡を下ろした。
「その疑いは捨てぬ方がよろしいでしょう。ただし、まだ罠と決めつけるには早い。村人が退いた理由も、荷車が残された訳も、これだけでは分かりませぬ」
元信は意外そうに翔次を見た。
「罠と見抜いておられるのではござらぬか」
「罠である可能性が高い。それと、敵の策をすべて見抜いたというのは別の話にございます」
翔次は絵図を手元へ引き寄せた。有松から大高へ延びる道、その脇に連なる丘陵、境川へ戻る道筋を、ひとつずつ指でたどる。
「仮に、我らを誘い出す策だといたしましょう。空になった村と、街道に残された米俵。これを見れば、敵の守りが薄くなった、あるいは村に兵糧が残されていると思う者もおりましょう。功名を焦る者なら、罠を疑いながらも、ひと働きしてみせようと考えるかもしれませぬ」
「そして、川を渡ったところを襲う……」
元康が言葉を継いだ。
「左様。渡河した兵が村へ入り込めば、退路は境川に限られます。そこを敵に脅かされれば、退くにも進むにも難儀する。敵がどこに伏せているかまでは分かりませぬが、我らに先へ進ませようとする意図は疑うべきでしょう」
元信が腕を組んだ。
「ならば、丘陵に兵を差し向け、伏兵の有無を確かめてはどうか」
「それも一つの手ではございます。しかし、敵が待ち望んでいるのは、我らが境川を越え、動き始めることかもしれませぬ。偵察の兵であろうと、こちらから大きく動けば、敵に次の手を選ばせることになる」
翔次は絵図から目を上げた。
「そもそも、我らは何のために川を渡るのでしょう」
元康はすぐには答えなかった。
尾張の領地を奪うためか。敵を追い払うためか。あるいは、目の前に置かれた餌を見過ごせぬという、武士の意地のためか。
そのいずれも、今この場で兵を動かす理由にはならなかった。
「我らが守るべきは、駿河、遠江、三河の民と、その暮らしにございます。尾張の村を一つ取ったところで、境目の守りが堅くなるわけではない。敵が退いたように見えるからといって、こちらから危地へ踏み込む必要はございませぬ」
翔次は元信と元康を見た。
「渡河は禁じます。街道の荷車にも手を出さぬこと。対岸の動きは引き続き探らせますが、敵の姿を見たからとて、追い立てるために兵を繰り出してはなりませぬ」
「敵がいつまでも村を空にしておれば、どういたしまする」
「その時は、その時に考えましょう。敵が何を望んでいるか分からぬうちに、こちらから望まぬ戦を始めることはございませぬ」
元信はしばし黙っていたが、やがて深く頷いた。
「承知いたした。兵には、城を守り、敵の動きを見定めよと申し渡しまする」
こうして、今川方は境川の守りを崩さず、対岸の様子を探ることにした。
第一日。
有松の村からは人影が消え、街道には米俵を積んだ荷車が残されていた。丘陵の向こうに何者かが潜んでいるのか、あるいは、退いた村人を守るために尾張方が備えているのか。それを確かめる術はなかった。
刈谷の城門は開かれず、今川兵が川を渡る気配もない。
尾張方の伏兵たちは、いつ敵が現れるとも知れぬまま、身を潜めていた。
第二日。
盛夏の陽は容赦なく照りつけ、木陰に身を置いていても、甲冑の内側には熱がこもった。藪蚊がまとわりつき、喉は渇く。見張りを交代させようにも、敵を迎え撃つために兵を集めた以上、陣を緩めるわけにもいかなかった。
「……今川の兵は、まだ動かぬのか」
足軽の一人が、隣の者へ小声で尋ねた。
「城門から出てくる様子もない。あれでは、いつまで待てばよいのやら」
「声を慎め。敵に聞かれたらどうする」
叱る声にも、苛立ちがにじんでいた。
策を仕掛けた側も、相手が動かなければ次の手を打ちにくい。村を空にし、伏兵を置いた以上、いつまでもその態勢を保つには人手も兵糧も要る。何より、村人を長く家から遠ざければ、その暮らしに差し障りが出る。
それでも、今川方が動く兆しはなかった。
第三日。
尾張方の陣では、待ち続けることへの不満が、もはや隠しきれなくなっていた。
村を空にしている間も、田畑の手入れは要る。家畜の世話も、日々の炊事も、街道を行き交う者たちの商いも、止めたままにはできない。退避を命じられた村人たちは、いつ戻れるのかと不安を募らせていた。
敵を誘い出すための策が、敵の動かぬことで、仕掛けた側に負担を強いていたのである。
「これ以上は続けられませぬ」
地侍の一人が、声を落として言った。
「今川の兵は川を渡ろうともせぬ。村を空にしたところで、敵が来なければ何にもならぬではないか。百姓どもにも、いつまでも家を離れておれとは申せませぬぞ」
別の者が、厳しい顔で応じた。
「されど、ここで退けば、敵に策を見破られたと認めるようなもの」
「策が成る見込みもないのに、面目のためだけに兵を留めるのか。殿が兵を損なうなと仰せなのは、こういう時のためでもあろう」
その言葉に、誰もすぐには反論できなかった。
信照の名を掲げる者たちにとって、兵を失わぬことは、ただ命令を守るというだけではない。無益な戦で人を損なわず、守るべき土地と暮らしを保つための心得でもあった。
敵が動かぬ以上、策を続ける理由は薄れていた。
第四日の払暁。
刈谷の物見櫓から対岸を見張っていた兵が、森の方角に動きを認めた。
「申し上げます。村人らしき者たちが、森から街道へ戻り始めておりまする」
報せを受けた翔次は、すぐに櫓へ上がった。
遠眼鏡の先では、鍬や家財を手にした人々が、置き去りにされていた荷車を引き寄せていた。彼らは周囲を警戒しながらも、少しずつ村へ戻っている。
さらに丘陵の向こうでは、尾張方の兵が陣を畳み、退き始めていた。朱槍を掲げた一隊の姿も見えたが、遠くからでは、その指揮を執る者までは確かめられない。
「退くようでございますな」
元信が言った。
「敵が伏兵を置いていたかどうか、今となっては確かなことは申せませぬ。されど、こちらが動かなかったため、敵は策を続ける利を失ったのでしょう」
翔次は遠眼鏡を下ろした。
「こちらが勝手に敵の思惑を決めつけず、ただ守りを崩さなかった。それで十分にございます」
この四日間、今川方は境川を渡らず、敵の誘いに乗らなかった。兵を失わず、矢玉を費やすこともなく、敵の退きを見届けたのである。
「またもや兵を動かさず、敵を退かせるとは……」
元信は感嘆を漏らした。
「武勇を示す機会を捨てるのは、若い者には難しかろう。されど、戦う必要のない場で戦わぬことも、また将の務めでござるな」
元康も頷いた。
「敵は、我らが尾張の領地を欲し、隙あらば川を渡ると考えたのでしょう。されど、我らが守るべきものは、まず三河と遠江、そして駿河の民の暮らしにございます。そこを違えなければ、目の前の餌に心を奪われることもない」
「左様にございます」
翔次は、川面を見つめた。
「ただし、これで敵の策が尽きたと思うてはなりませぬ。今回の策が成らなかったからといって、次も同じ手を使うとは限らぬ。守りを緩めず、敵の動きを見続けること。それが肝要にございます」
数日後、刈谷からの報せは駿府へ届けられた。
今川館の御座所において、太守・今川義元は報告を聞き終えると、手にしていた白扇を静かに閉じた。
「敵の誘いを疑いながら、いたずらに兵を動かさず、退くまで待ったか」
義元の声には、満足げな響きがあった。
「目の前に土地があり、敵が退いたように見えれば、そこに功名を求める者もおろう。だが、戦うことそのものが目的となれば、守るべきものを見失う。翔次は、その戒めを兵に示したのであろうな」
義元は居並ぶ家臣たちを見渡した。
「我が目指すは、尾張の村を一つずつ奪うことではない。駿河、遠江、三河を堅く治め、民が安心して暮らせる国を築くことじゃ。境目で敵を退けることも、そのための手段に過ぎぬ」
その言葉に、家臣たちは深く頭を垂れた。
「翔次に伝えよ。よく守った、と。されど、此度の勝ちに慢心してはならぬ。敵が退いた時こそ、次に何を考えているかを見定めよとな」
「ははっ」
その頃、刈谷から駿府へ戻った翔次は、今川館の庭先を歩いていた。
盛夏の陽光が庭の木々を照らし、池の水面には風が細かな波紋を広げている。西の空の彼方には、尾張があった。
(桶狭間で信長を死なせ、歴史を狂わせたあの日から、もう九年か……)
翔次は胸の内で呟いた。
現代の知識を頼りに、今川家の滅亡を防ごうと走り続けてきた。敵の動きに怯え、幾度となく胃を痛めながらも、目の前の兵と民を守ることだけは手放さなかった。
信照という男は、いまもなお、翔次にとって底知れぬ相手である。だが、相手を恐れるあまり、こちらから無用な戦を始めてはならない。敵の意図を見極め、守るべき境目を守り、民の暮らしを損なわぬ道を探す。それこそが、今川家にとっての勝利なのだ。
(こちらが攻めず、向こうも無益な戦を望まぬのなら……いずれ、戦わずに済む道を探ることもできるはずだ)
それはまだ、確かな約束ではなかった。今回、尾張方が兵を退いたからといって、長年の対立が消えたわけでもない。次にどのような策が待つのか、翔次には分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
敵が仕掛けた罠を破るために、必ずしも敵の土俵へ踏み込む必要はない。
兵を守り、国を守り、民の暮らしを守る。その務めを違えぬ限り、今川家は容易には崩れない。
翔次は西の空から目を戻し、静かに歩き出した。
境川の水は、今日も変わらず東へと流れていた。
その流れのように、戦国の世もまた、ひとつの策が潰えたからとて止まりはしない。今川と信照の知恵比べは、なお続く。
そして、その長い対峙の歳月が何をもたらしたのか――それを明らかにする時が、少しずつ近づいていた。




