第五十三話:堺の豪商との対談
第五十三話 堺の豪商との対談
東海道の山々が紅葉に染まり、駿河湾を渡る風に冬の気配が混じり始めた、永禄十一年の霜月。
駿府の町では、朝早くから荷車の軋む音が響いていた。
遠江から運ばれてきた塩俵が蔵へ積まれ、駿河の茶が商人の手によって荷造りされる。三河からは米や木材が届き、海路を通じて運ばれた魚介や塩干物が市に並ぶ。西国の織物や薬種も、幾人もの商人の手を経て、この町へ流れ込んでいた。
それらすべてが、今川家の領内だけで消費されるわけではない。
駿府で荷を整えた商人は、東へ向かう者もあれば、西へ戻る者もある。遠江の港へ運び、船に積み替える者もいた。街道を行き交う荷の数が増えるにつれ、宿場には人が集まり、職人の仕事も増え、町の蔵には以前より多くの商品が納められるようになっていた。
それは、戦に勝って得た富ではない。
道を通れること。荷を預けられること。明日も同じ場所で商いができると見込めること。
そうした当たり前の積み重ねが、駿府の町を少しずつ変えつつあった。
その変化を自らの目で確かめるため、一人の男が駿府を訪れた。
和泉国・堺の豪商、今井宗久である。
堺の商人たちは、諸国の大名と取引し、鉄砲や火薬、茶器、薬種をはじめ、さまざまな品を扱っていた。宗久もまた、商いを通じて畿内の武家や公家と縁を結び、茶の湯にも通じた人物として知られていた。
彼が持つのは、銭だけではない。
どの土地で何が不足し、どの大名が何を求め、どの街道が危うくなり、どの港で荷が滞っているのか。商人の往来から得られる情報は、時として武将の密書よりも早く、遠くまで届く。
その宗久が、駿府の今川館を訪ねたのである。
通されたのは、館の一角に設けられた茶室であった。
庭の紅葉は盛りを過ぎ、枝先には散り残った葉が風に揺れていた。炉には炭が熾り、釜から立ち上る湯気が、静かな室内にかすかな音を添えている。
宗久は下座に座し、正面の男を見た。
鍋蓋翔次。
今川家に仕える軍師であり、戦場では幾度も軍勢の損耗を抑え、領国の兵站や流通にも深く関わっているという男である。
宗久が聞いていた評判は、軍略だけにとどまらなかった。
戦場で勝つことより、戦を起こさずに済む道を探る。敵の領地を奪うより、領内の道と市を整える。商人を力で縛るのではなく、商いを続ける利を示して人を集める。
話だけを聞けば、いささか都合のよい人物にも思える。
だからこそ、宗久は自ら確かめに来たのであった。
「宗久殿。遠路はるばる、よくお越しくださいました」
翔次が茶を点て、茶碗を差し出した。
宗久は両手で受け、まずは静かに一服する。
「結構なお点前にございます。駿河の茶は、堺でも評判を聞いておりまする」
「それは何よりにございます。ただし、茶の評判だけで堺から駿府までお越しになったとは思えませぬな」
翔次が穏やかに言うと、宗久は口元に笑みを浮かべた。
「ご明察にございます。茶を味わうだけならば、堺にも茶室はございまする。わざわざここまで参りましたのは、近頃、商人たちの間で駿府の話が絶えぬゆえにございます」
「駿府の話、と申されますと」
「市の賑わい、荷の集まり、街道の通りやすさ。そして、今川家が商人をどのように扱うておられるか。どれも、以前とは違うと聞き及びました」
宗久は茶碗を置いた。
「私は長年、諸国の大名と商いをして参りました。大名は銭を求め、商人は品を売る。互いに利があれば取引は成り立ちまする。されど、商いの利が大きくとも、それだけでは人は動きませぬ」
「道が閉ざされるやもしれぬから、ですか」
「左様。関所で銭を取られるだけなら、まだ勘定のうちにございます。問題は、昨日まで通れた道が、明日には戦のために封じられること。荷を運ぶ者が兵に徴発され、宿が焼かれ、売り先へ着く前に商品が失われることにございます」
宗久の声には、商いの現場を長く見てきた者の実感があった。
「商人は、目先の利だけを追うているように見られがちにございます。しかし、十の利が見込めても、荷を失う恐れが大きければ手を出せませぬ。反対に、利が少々小さくとも、約束どおり荷が届き、代金を受け取れるならば、幾度でも商いを続けられまする」
「なるほど」
翔次は頷いた。
「商いにとって大切なのは、利の大きさだけではない。利を得られる見込みが、どれほど確かなものかということですな」
「その通りにございます」
宗久は懐から、小さく折り畳んだ書付を取り出した。
「こちらは、堺で商いをする者たちから聞き集めた話を、私なりにまとめたものにございます。駿府へ向かう商人が増えた理由も、ひとつではございませぬ」
書付には、街道の通行にかかる費用、荷を預ける蔵の有無、宿場での扱い、品物の売れ行きなどが記されていた。
「まず、今川領では、どこで何を納めるのかが以前より明らかになった。市での取引も、役人の胸先三寸で覆されることが減ったと聞いております。これは商人にとって、ありがたい変化にございます」
「それは、今川家が定めた規則を、役人ごとに違えぬよう努めているためでしょう。まだ、すべての土地で行き届いているとは申せませぬが」
「そのように仰るところが、かえって頼もしく思えまする。どの国にも、決まりを掲げる者はおります。しかし、その決まりが末端まで守られるかどうかは、また別の話にございますゆえ」
宗久は書付を畳に置き、次の話題へ移った。
「そして、尾張の織田十郎信照公が進めておられるという『保護圏』。こちらも、堺では大きな話題になっております」
翔次の表情が、わずかに引き締まった。
「信照殿の保護圏について、どのように聞いておられますか」
「土地ごとに事情は異なるようにございますが、共通しているのは、信照公の約定を受け入れた土地では、商人が通行や取引の安全を得やすくなるということ。関銭や通行の扱いも、従来のままではない土地があると聞いております」
「すべての道が無税になったわけではありますまい」
「無論にございます。話に尾ひれはつくもの。堺に届く噂の中には、信照公が日の本の道という道を、すべて自らの手に収めたかのように語る者もおりまする。されど、実際には土地ごとの約定があり、そこに暮らす者たちの思惑もある。商人が聞くべきは、威勢のよい評判よりも、どこで何が認められているかという実情にございます」
翔次は、思わず小さく笑った。
「それを確かめるために、宗久殿は駿府までお越しになったのですな」
「はい。信照公の保護圏と、今川家が整えつつある街道や市。商人の目から見れば、どちらも往来の安定につながるものにございます。されど、仕組みは同じではございませぬ」
宗久は、翔次をまっすぐに見た。
「信照公の約定は、土地ごとの保護と通商を結び、往来の安全を広げてゆくもの。今川家は、領国の治安を保ち、市の決まりを整え、兵糧や物資が滞らぬよう道を支える。片や、保護を受け入れる土地との約定。片や、領国を治める仕組み。似ているようで、根は違いましょう」
「よく見ておられますな」
「商人は、違いを見誤れば損をいたしまする。信照公の旗が立つ土地だからといって、今川領と同じ決まりで取引できるとは限らぬ。今川領の道が整っているからといって、国境を越えた先まで同じ扱いが続くとも限らぬ。そこを確かめずに荷を動かすのは、商いではなく博打にございます」
翔次は、宗久の言葉を黙って聞いていた。
この男は、ただ二つの勢力を褒めに来たのではない。
それぞれの仕組みが、どこまで実際の商いに役立つのかを見極めようとしている。そして、両者が境目を越えて争えば、積み上げた利が一瞬で失われることも知っているのだ。
「宗久殿。では、商人の立場から見て、今川家に足りぬものは何でございましょう」
翔次が問うと、宗久はすぐには答えなかった。
炉の炭が、小さく音を立てた。
「まず、約定が守られ続けることでございましょう」
「それは、すでに努めております」
「承知しております。されど、ひとたび太守が替わり、役人が替わり、戦の都合が生じた時にも同じ決まりが守られるか。商人は、今日の善政だけを見て大きな荷を動かすわけには参りませぬ」
翔次は、静かに頷いた。
「もっともな話です」
「それから、道を守る費用にございます。関銭を減らし、商人を保護するには、道の補修も、宿場の整備も、盗賊や乱暴な兵を取り締まる手立ても必要となりましょう。商人が得をしても、それを支える領民が疲弊すれば、いずれ仕組みは立ち行かなくなりまする」
「商いの利益だけで、国は治められぬということですな」
「左様にございます。商いが盛んになれば、銭や物資は集まりましょう。されど、それを誰が、どのように支えるか。道を直す者、荷を運ぶ者、田畑を耕す者がいてこそ、市も蔵も成り立ちまする」
宗久の言葉は、翔次が考えてきたことと重なっていた。
流通を整えることは、銭の流れを増やすだけではない。荷を運ぶ人々の暮らしが成り立ち、農村が荒れず、領国を守る兵の糧が途絶えぬようにすることでもある。
商人だけを優遇すればよいのではない。
領民が耕し、職人が作り、商人が運び、役人が決まりを守る。そのつながりが切れぬよう、国を支える必要があった。
「遠江の塩や駿河の茶についても、同じことが申せましょう」
宗久は続けた。
「堺の商人がそれらを求めるのは、珍しい品だからというだけではございませぬ。品質が確かで、必要な時に一定の量を仕入れられ、売り先まで運べる見込みがあるからにございます。供給を一部の者が押さえ、値を思うままに吊り上げれば、初めは利を得ても、やがて商人は別の仕入れ先を探しましょう」
「塩も茶も、民の暮らしに関わる品です。目先の銭を得るために、領内の者が買えぬほど値を上げては本末転倒ですな」
「そのお考えが続くならば、商人も安心して長い取引を考えられまする」
宗久は、そこで初めて、満足げに頷いた。
「私は、信照公の保護圏も、今川家の取り組みも、商人にとって大きな利を生む可能性があると見ております。されど、それらが真に根づくかどうかは、これからにございましょう」
「これから、ですか」
「はい。今は、双方が力を蓄え、商いを広げておりまする。されど、国境に緊張が走れば、商人はたちまち身構えまする。いかに領内の道を整えようとも、隣国との境で荷が止められれば、遠くまで運ぶ意味が薄れてしまう」
宗久の目に、商人らしい慎重さが戻った。
「今川家と織田家が、それぞれの領国を豊かにすることは結構にございます。されど、互いの道を断ち、相手の商いを妨げるようになれば、商人は再び、戦の気配に怯えながら荷を動かさねばなりませぬ」
翔次は、すぐには答えなかった。
その懸念は、彼自身が幾度も考えてきたものだった。
信照の保護圏が広がる。今川領の流通も整う。双方が力を蓄えれば、周囲の大名はそれを脅威と見るかもしれない。商人が二つの勢力の間を行き来するほど、争いが起きた時の損失も大きくなる。
経済を豊かにすれば、自ずと平和が訪れる。
そんな単純な話ではなかった。
「宗久殿。商いの道を守るために、今川家がなすべきことは、まず己の領国を安んずること。そして、隣国との約定を軽々しく破らぬことでありましょう」
「はい」
「それがしは、太守・義元公が目指される東海の国造りを支えております。京へ兵を進め、天下に号令することを目的としているのではございませぬ。駿河、遠江、三河の民が飢えず、領国を守る力を失わず、商いを続けられること。それが、今川家のなすべき務めと考えております」
翔次は言葉を選びながら続けた。
「されど、我らだけが平穏を望んでも、相手の考えを縛ることはできませぬ。信照殿が西でどのような国を築かれるかは、信照殿が決めること。それを無理に変えようとすれば、かえって争いの種を蒔くことにもなりましょう」
「では、互いに境目を侵さず、商いを続ける道を探る、と」
「それができるならば、望ましいことにございます。ただし、言葉を交わしただけで成るものではありませぬ。双方が約定を守り、領民や商人に、その利を実際に感じてもらわねばなりません」
宗久は、しばらく翔次を見つめていた。
「翔次殿。私は、貴殿が今川家の軍師であることを承知しております。軍師ならば、敵に勝つことを第一に考えるものと思うておりました」
「戦に勝つことが必要な時もございましょう。されど、勝つために国を疲弊させ、勝った後に守るものがなくなっては、何のための戦か分からなくなりまする」
「……なるほど」
「それがしは、戦を避けるために必要な備えを怠るつもりはありませぬ。兵糧を蓄え、道を整え、兵を鍛える。相手が攻めてきた時に国を守れぬようでは、平穏を唱えることもできませぬゆえ」
翔次の声は、静かであった。
「されど、備えを整えることと、戦を望むことは別でございます。守る力を持つことによって、戦わずに済む道が広がるならば、それに越したことはございませぬ」
宗久は深く息をついた。
「商人の望みも、そこにございます。天下の大名が皆、同じ考えになるとは思いませぬ。領地を広げたい者もおれば、隣国を信用できぬ者もおりましょう。銭を得るために戦を煽る者さえおりまする」
宗久は、わずかに苦笑した。
「されど、戦が起きれば商いが損なわれることもまた、紛れもない事実。道が守られ、約束が守られ、荷が無事に届く。その利を実感する者が増えれば、戦を避けたいと願う声も、少しずつ大きくなるやもしれませぬ」
「それは、頼もしいお言葉です」
「ただし、私が堺へ戻って語るのは、天下の総意などという大それたものではございませぬ。堺の商人たちが見聞きしたこと、駿府で確かめたこと。そして、商いを続けるために何が必要か。それをありのままに伝えるまでにございます」
翔次は、その言葉に頭を下げた。
「それで十分にございます。実情を知る者の言葉ほど、役に立つものはありません」
宗久もまた、静かに頭を下げた。
茶室には、しばらく沈黙が流れた。
炉の炭が赤く光り、湯釜から細い湯気が立ち上る。
翔次は、茶碗の縁に目を落とした。
桶狭間で信長を死なせてから、八年。
あの時、自分が口にした一言が、歴史の流れを変えてしまった。信長という男が生きていれば、どのような世になっていたのか。それを確かめる術は、もうない。
自分の判断が正しかったのかどうか。その答えを、誰かに与えてもらうこともできない。
だが、目の前には、商いを続けるために駿府まで足を運び、領国の仕組みを確かめようとする男がいる。
彼が語ったのは、翔次の才を称える言葉ではなかった。
道を守ること。約束を守ること。商人だけでなく、領民の暮らしを支えること。そうした営みを続けてこそ、平穏は一時の幸運ではなくなる。
その現実を、翔次はあらためて突きつけられた気がした。
「宗久殿」
「はい」
「堺へお戻りになりましたら、駿府の様子を、ありのままにお伝えくだされ。良いところだけでなく、至らぬところも含めて」
「承知いたしました。商いに携わる者として、見たままを伝えましょう」
「そして、もし機会がございましたら、清須の信照殿にも、商人たちが何を望んでいるかをお伝え願いたい」
宗久の目が、わずかに動いた。
「信照公へ、でございますか」
「はい。今川家と織田家が、互いの領国を守りながら商いの道を保てるならば、双方の民にとって利となりましょう。されど、それを成すには、互いの事情を知らねばなりませぬ。商人の方々が、どのような道を望み、何を恐れているのか。その声が届くことには意味があると考えます」
宗久は、しばし考えた後、ゆっくりと頷いた。
「必ずや、機会を探りましょう。されど、私一人の言葉で、両家の行く末が定まるわけではございませぬ」
「もちろんにございます」
「それでも、商人が道を行き来し、双方の町で商いを続けることができれば、その積み重ねが何かを変えることもありましょう」
「ええ。まずは、道を絶やさぬことですな」
二人は、再び茶を口にした。
この対談で、両家の和睦が決まるわけではない。信照と義元が、互いの境目を侵さぬと誓い合ったわけでもない。
ただ、商いの現場を知る一人の豪商が、駿府の実情を確かめ、今川家の取り組みを理解し、その言葉を堺へ持ち帰ろうとしていた。
それだけのことだった。
されど、翔次には、それが決して小さなことには思えなかった。
武将の密約や軍議だけが、国の行く末を左右するのではない。荷を運ぶ者が道を選び、商人が取引先を選び、町の者が明日の暮らしを考える。その一つ一つもまた、世の形を変えてゆく。
会談を終えた宗久が今川館を辞した後、翔次は館の外へ出た。
夕暮れの駿府には、荷を納め終えた商人たちの声が響いていた。店を閉める者もいれば、明日の荷を確かめる者もいる。遠江へ帰る荷駄の列が、城下の道をゆっくりと進んでいた。
どれも、天下の行く末を語るような大仰な営みではない。
それでも、彼らが明日も同じ道を通り、無事に家へ帰り、再び商いを始められること。それこそが、翔次の守ろうとしてきたものだった。
翔次は、西の空へ目を向けた。
清須では、信照が信照のやり方で、領国と保護圏を築いているはずだった。こちらの思惑を、彼がどこまで理解しているのかは分からない。こちらが望むように、争いを避ける道を選ぶとも限らない。
それでも、今川と織田の間を行き来する商人がいる。
その商人たちが、双方の町で得たものを持ち帰り、道が閉ざされることの損を語り、往来が続くことの利を伝えてゆく。
そうした声が積み重なれば、いつの日か、武将たちの判断にも影響を与えるかもしれない。
(焦ることはない。道を整え、約束を守り、守るべきものを守り続ける。それができて初めて、次の道が見えてくる)
翔次は、静かに息を吐いた。
信長を死なせたという過去が消えるわけではない。自分が選んだ道の先に、必ず平和が待っていると確信できるわけでもない。
だが、少なくとも今、駿府の町には人々の営みがあり、明日へ運ばれる荷がある。
その一つ一つを守り抜くことが、翔次にできる務めであった。
そして、この対談で交わされた言葉は、やがて今川家の内側にも、小さな変化をもたらしてゆくことになる。
軍監所では、翔次の判断を待たずとも兵糧を算定し、街道の備えを確かめ、領内の異変に対処しようとする者たちが現れ始めていた。
彼らは、信照の策を恐れるだけでは、今川家を守れないと知りつつあったのである。
国を守る仕組みは、一人の軍師の才覚だけで成り立つものではない。
そのことを、翔次自身もまた、少しずつ学び始めていた。




