第五十四話:軍監らの自立
第五十四話 軍監らの自立
堺の豪商・今井宗久が駿府を訪れ、鍋蓋翔次と商いの行く末について語り合ってから、四月が過ぎた。
永禄十二年、春。
駿府には柔らかな陽光が降り注ぎ、今川館の庭では桜がほころび始めていた。東海道の往来は以前よりも盛んになり、遠江から駿河へ、三河から遠江へと、荷を積んだ馬や荷車が絶えず行き交っている。
されど、道が賑わうことと、国を守ることは同じではない。
商人が荷を運び、百姓が田畑を耕し、職人が品を作る。その営みを絶やさぬためには、領内の治安を保ち、兵糧を備え、国境に異変があれば速やかに対処できる仕組みが要る。
今川館の一角に設けられた軍監所では、その仕組みを支える者たちが、朝から帳面を広げていた。
「……長谷川殿。刈谷、逢妻、挙母の三つの砦へ送る兵糧について、もう一度、荷駄の数を確かめてくだされ」
軍監頭の松井宗信が、朱筆を手にして言った。
向かいに座る中堅軍監、長谷川元長は、手元の帳面を繰りながら答えた。
「承知いたしました。三つの砦に常駐する兵が七百。交代のため後方に控える者が三百。合わせて千人分の兵糧を、百日を目安に算定しておりまする。ただし、交代要員の全員が同じ日に前線へ入るわけではございませぬ。荷駄の割り振りは、交代の日取りに合わせております」
「よろしい。では、道が雨でぬかるみ、予定どおりに荷が届かぬ場合はどうする」
「三河の蔵から一度に送り切ることはいたしませぬ。まず前線の備蓄を確かめ、残りの日数に応じて次の荷を出します。道が塞がれた場合には、岡崎城に置いた予備の米を回す手筈にございます。ただし、岡崎の備蓄も無尽蔵ではありませぬゆえ、前線へ送り出す量と、後方に残す量は別に定めておりまする」
宗信は帳面に目を落とした。
「その見積もりに、運ぶ者たちの食い扶持は含まれておるか」
「はい。荷駄を引く人足と馬の分も、別に勘定しております。兵の口数だけで算段すれば、荷を運ぶ者が先に疲れ果て、肝心の兵糧が届かなくなりますゆえ」
「うむ」
宗信は短く頷いた。
軍監所の板敷きには、検地帳、兵糧の出納帳、街道の状態を記した覚書が並んでいた。傍らでは別の軍監が算盤を弾き、ある者は村ごとの備蓄を記した書付を読み比べている。
かつて、この場所は今とはまるで違う様相を呈していた。
尾張の織田信照が進める保護圏。武装した商人の動き。人の消えた高岡の郷。軍書に記された合戦の型だけでは読み解けぬ出来事が続くたび、軍監たちは敵の背後に幾重もの謀を見た。
「信照には百の策がある」
誰かがそう口にすれば、別の者は「いや、千も万もあるやもしれぬ」と応じた。何が起きたのかを確かめるより先に、次の策を想像して恐れたのである。
しかし、今の軍監所では、異変があればまず記録を調べるようになっていた。
荷が遅れれば、道の傷みか、馬の不足か、荷駄の手配に誤りがなかったかを確かめる。村の備蓄が減れば、収穫の不足か、貸し出しの増加か、帳面の記載漏れかを調べる。敵の動きが疑われる場合も、伝聞だけで断じず、複数の報せを突き合わせる。
それで、すべての謎が解けるわけではない。
信照が何を考えているのか、尾張の地で何が起きているのか、分からぬことは今も多い。
ただ、分からぬことを、分からぬまま恐れ続けるのはやめたのである。
「して、境川沿いの村々はどうなっておる」
宗信が次の帳面を開いた。
「春の種籾について、代官所から報せは届いておるか」
「はい。昨秋の収穫はおおむね良好で、義倉の備蓄にも余裕がございます。種籾の貸し出しを求める村には、必要量を確かめたうえで渡す手筈にございます。ただ、川沿いの二つの村では、昨年の増水で水田の一部が傷んでおりますゆえ、同じ収穫を見込むのは危ういかと」
「ならば、その二村については、豊作を前提にした勘定をするでない。代官に田地の様子を改めて確かめさせよ。種籾を貸すだけで足りぬなら、田の修繕に人手を出すことも考えねばなるまい」
「承知いたしました」
長谷川は、その指示を書き留めた。
かつてならば、軍監所の者たちは敵の動きに心を奪われ、村の損耗を後回しにしていたかもしれない。
今は違う。
境目の村が荒れれば、田畑からの収穫が減る。収穫が減れば、領民の暮らしが苦しくなるだけでなく、兵糧の確保も難しくなる。村を守ることは、軍を守ることと切り離せないのだ。
その考え方は、翔次が幾度も説いてきたものだった。
だが、今や軍監たちは、翔次が傍らにいなくとも、自らの言葉でそれを確かめ、実務に移せるようになりつつあった。
「……ご苦労にございます、松井殿、長谷川殿」
襖が開き、鍋蓋翔次が軍監所へ入ってきた。
居並ぶ者たちが一斉に顔を上げる。
「翔次殿。ちょうど、春の兵糧計画と境目の村々の備えについて、取りまとめておりましたところにございます」
宗信が帳面を差し出した。
「ご覧いただき、御意見を賜りとう存じます」
翔次は座に着き、帳面を受け取った。
まず兵糧の見積もりを読み、次に荷駄の割り振り、予備の備蓄、村々の種籾の貸し出しについて目を通していく。
しばらく、言葉はなかった。
そこに記されていたのは、単に米や塩の量を並べた数字ではない。荷が遅れた場合の手順、前線と後方の備蓄を両立させる考え方、村の収穫を見込む際の注意点。どれも、軍監たちが自分たちで考え、互いに議論した跡が残っていた。
翔次が目を留めたのは、兵糧計画の末尾に添えられた別紙であった。
「これは……」
「敵が境川を越えてきた場合の備えにございます」
長谷川が答えた。
「敵の数も、進む道も、今の時点では定めようがございませぬ。そこで、いくつかの場合に分けて、兵の集め方と後退の手順を考えました。前線を保つことが難しい場合には、無理に砦を守ろうとせず、兵を後方へ退かせる。付近の村々には、敵の進路が定まる前から避難を命じるのではなく、道筋と危険の度合いを確かめてから知らせる手筈にございます」
「なぜ、早々に村々を退かせぬ」
翔次が問うと、長谷川は少し緊張した面持ちで答えた。
「敵が来ぬうちから人々を動かせば、田畑の仕事を妨げ、暮らしにも負担がかかりまする。かといって、退避が遅れれば危うい。ゆえに、前線の見張りからの報せを受ける者と、村々へ知らせる者をあらかじめ定め、知らせが届いてから動き出すまでの時を短くすることを考えました」
翔次は、もう一度その別紙を読んだ。
完璧な策ではない。
敵の動きが想定を外れることもあろう。報せが途絶えることも、避難の道が塞がれることもある。いかなる場合にも被害を出さぬという保証はない。
それでも、彼らは起こり得る事態を分け、何を確かめ、誰が判断し、どこへ人を動かすかを、自分たちの手で考えていた。
「松井殿」
翔次は帳面を閉じた。
「この兵糧の割り振りも、退避の段取りも、私から指図した覚えはございませぬ。皆で考えられたのですか」
「はっ」
宗信は背筋を正した。
「翔次殿がこれまでに示された差配を、我らで幾度も話し合いました。兵糧を絶やさぬこと、無理に兵を動かさぬこと、村々を戦の道具として扱わぬこと。ひとつひとつは、以前にも聞いていた教えでございます」
宗信は、そこで一度言葉を切った。
「されど、以前の我らは、信照が何を仕掛けてくるかを考えるあまり、目の前のことを見失っておりました。相手の策をすべて読み切らねば負けると思い込み、分からぬことを恐れていたのでございます」
「……今は違うと」
「分からぬことは、今も分からぬままにございます。信照の考えをすべて見通せるようになったわけではありませぬ」
宗信は、率直に言った。
「ただ、分からぬことがあるからといって、何もできぬわけではない。そのことを、ようやく理解したのでございます。敵が何を考えておろうと、我らには我らの備えがある。まず兵糧を確かめ、道を見て、兵の数を把握し、民を守る手立てを整える。それでも足りぬことがあれば、その時に考えればよい。今は、その順序を違えぬよう努めておりまする」
翔次は、しばらく宗信を見つめていた。
その言葉は、彼が伝えたかったものに近かった。
信照の策を読み切ることが、今川家の務めではない。相手の知略に圧倒され、何もできなくなることこそ、最も避けるべき事態だった。
分からぬならば、分かるところから始める。
兵糧を数え、道を確かめ、兵の疲れを見て、村の収穫を調べる。そうした地道な仕事を積み重ねることが、結局は国を守る力になる。
「……見事にございます」
翔次は、帳面を宗信へ返した。
「いくつか、現地で確かめていただきたい箇所はございます。とりわけ、雨で道が塞がれた場合の荷駄の迂回路と、岡崎の予備備蓄をどこまで前線へ回せるか。この二つは、帳面だけでは決められませぬ」
「はっ。すぐに確かめさせまする」
「ですが、考え方はよく整っております。私がすべてを考える必要は、もうないようですな」
翔次がそう言うと、長谷川は驚いたように顔を上げた。
「翔次殿……」
「これまで、私は皆に答えを示そうとしすぎていたのかもしれませぬ。答えを渡すだけでは、その場は進みます。されど、次に同じことが起きた時、また私の指図を待たねばならなくなる」
翔次は、軍監所に並ぶ帳面を見渡した。
「皆が自ら考え、誤りがあれば正し、次に活かす。その積み重ねがあってこそ、今川家は私一人の才覚に頼らずに済むのでしょう」
宗信は、深く頭を下げた。
「我らも、まだ道半ばにございます。これからも教えを請うことは多々ありましょう。されど、ただ御指図を待つだけの者には戻りませぬ」
「それでよいのです」
翔次は、穏やかに頷いた。
胸の奥に、熱いものがこみ上げていた。
この者たちは、翔次の知識をそのまま真似したのではない。教えの中から自分たちに必要なものを選び、現場の事情に合わせて考え直し、互いに議論して一つの形にまとめたのだ。
それは、翔次が一人で知恵を振るうよりも、はるかに頼もしいことだった。
軍監所を出ると、春の陽が回廊に差し込んでいた。
翔次は歩みを緩め、庭の木々を眺めた。
(……育ってくれたのだな)
桶狭間で信長を死なせ、歴史の流れを変えてしまったあの日から、翔次は幾度も、自分が何とかしなければならぬと思ってきた。
義元を支え、元康を救い、岡部元信らの働きを助け、兵糧の算定から陣の備えまで、自ら考えて道を切り開こうとした。信照の動きが読めぬたびに、自分の知識が足りぬのではないかと疑い、次の策を考え続けた。
自分が倒れれば、今川家は立ち行かなくなるのではないか。
その恐れは、いつしか翔次自身を追い詰めていた。
だが、軍監所で見た帳面は、その思い込みを静かに揺さぶっていた。
(俺が教えたことを、俺の知らないところで考え直している。俺の思いつかなかった備えまで、自分たちで組み立てている)
それは、翔次の知識が不要になったということではない。
彼の教えが、彼自身の手を離れ、今川家の中に根づき始めたということだった。
それでも、すべての重荷が消えたわけではない。
信照の次の一手は分からない。周囲の大名が今川家をどう見るかも、先々どのような争いが起こるかも、確かなことは何ひとつない。
翔次は、庭の先に目を向けた。
(俺一人で、すべてを背負う必要はない。だが、もう何も心配しなくてよいというわけでもない)
その違いを、今は以前よりもよく理解できる気がした。
夕刻、翔次は今川義元の御座所へ赴き、軍監衆がまとめた兵糧計画と防衛の備えについて報告した。
上段に座す義元は、帳面をひと通り読み、傍らに控える翔次へ視線を向けた。
「……此度の算段、そなたが手を入れた箇所はないと申すか」
「はっ。基本となる考え方は、以前にそれがしが申し上げたこともございます。されど、兵糧の割り振りも、予備備蓄の置き方も、村々の退避の段取りも、軍監衆が自ら考え、話し合ってまとめたものにございます」
「ならば、そなたの教えが役に立ったというだけではあるまい」
義元は帳面を閉じた。
「教えを受けた者たちが、自ら考え、使える形にしたのじゃ。教えた者がいかに優れておろうと、受け取る者が考えず、ただ言われたとおりに動くだけならば、いずれ行き詰まる」
義元の声は、静かでありながら、確かな重みを持っていた。
「宗信らが、自らの頭で考えるようになった。これは、そなたの功であると同時に、あの者ら自身の功でもある。そこを取り違えてはならぬぞ」
「……はっ」
翔次は深く頭を下げた。
「恐れながら、太守様の仰せの通りにございます」
義元は、満足げに頷いた。
「戦に勝つことは大事じゃ。されど、戦に勝つことだけを考えて国を治めれば、勝った後に守るべきものを失いかねぬ。そなたは、兵糧を整え、道を守り、家臣らに考える術を教えた。それが、今川家の力となりつつある」
義元は白扇を手に取り、ゆっくりと開いた。
「そなた一人がいかに才に優れておろうと、一人で国の隅々まで見渡すことはできぬ。ゆえに、人を育て、任せることが要る。今川家が長く存続するために、これほど大切なことはあるまい」
「太守様……」
「これからも、軍監衆を導いてやれ。ただし、何もかも先回りして答えを与えるのではない。あの者らが自ら考え、誤りを正す機会も残しておくのじゃ」
「承知いたしました」
翔次は、もう一度深く平伏した。
義元の言葉は、翔次が軍監所で感じたことを、より明確な形にしていた。
人を育てるとは、すべての答えを与えることではない。自ら考え、判断し、その結果を引き受けられるようにすることなのだ。
御座所を辞した翔次は、夜の庭へと歩み出た。
春の月が薄雲の向こうに浮かび、桜の枝を淡く照らしている。
西の方角には、尾張の清須城がある。
そこでは信照が、信照なりのやり方で家臣を動かし、保護圏を広げているはずだった。四天王をはじめとする家臣たちは、それぞれの才覚で役目を果たし、信照は細かな指図をせずとも、仕組みを動かしていると聞く。
翔次は、ふと考えた。
信照は、家臣たちに任せることで力を広げ続けている。自分は、家臣たちに考え方を教えることで、今川家の備えを整えてきた。
その道筋は違う。
信照の配下には、独自の判断で動く者たちがいる。翔次の周囲では、教えを受けた者たちが、帳面を突き合わせ、議論を重ねて手順を作り始めた。
どちらが優れているか、今ここで決めることに意味はない。
大切なのは、誰か一人の才覚だけに頼らず、領国を支える力を増やしていくことだった。
(信照……お前のところも、こちらも、少しずつ変わっているのだろうな)
翔次は月を見上げた。
(いつか、互いの境目を侵さずに済む道を見つけられるなら、それに越したことはない。だが、そのためにも、こちらが守るべきものを守れるようにしておかねばならない)
不戦を望むことと、備えを怠ることは違う。
そのことを、翔次は忘れまいと思った。
軍監所では、翌日も帳面が開かれるだろう。荷駄の遅れがあれば原因を調べ、備蓄が減れば補い、境目の村から報せが届けば、まず事実を確かめる。
それは華々しい武功ではない。
けれども、こうした仕事を担う者が増えれば、翔次が一時的に軍監所を離れても、今川家の備えは崩れにくくなる。
そして、組織が整うほどに、別の問題も見えてくる。
帳面に記された手順を守り、兵糧を蓄え、必要な時に兵を動かす。それらを徹底することはできても、武功を求める若者の心まで、帳面で縛ることはできない。
戦のない日々が続くことを、すべての武士が同じように受け止めているわけではなかった。
国を守るための備えが整いつつある一方で、前線に詰める若武者たちの中には、戦場で名を上げる機会を失ったことへの鬱屈を募らせる者もいた。
やがて一部の若武者が、自らの武勇を示そうと、誰の許しも得ぬまま境川を越えようとする。
その時、今川家が築きつつある不戦の秩序は、信照の策でも、敵の大軍でもなく、味方の功名心によって揺さぶられることになる。
翔次はまだ、その兆しを知らなかった。




