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狂った歴史と、不敗の軍師~信長を死なせた男、今川家を支えて魔王に挑む~  作者: チャプタさん


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第四十四話:大洪水の奇跡

第四十四話:大洪水の奇跡


 境川において、信照の保護圏に加わった美濃の武士たちによる渡河の試みを退けてより、三月。


 永禄九年、葉月。


 東海道の山野には蝉の声が満ち、三河湾から吹き寄せる風は、昼なお熱気を含んでいた。


 刈谷、鷲塚、挙母の三拠点を軸とする境川の守りは、敵の動きが静まった後も緩められてはいなかった。翔次は兵を無闇に増やすことなく、物見の配置を改め、烽火の合図を確かめ、川筋の普請を担う者たちにも、日々の備えを怠らぬよう命じていた。


 戦のために築いた備えは、戦のない時にも役立たねばならぬ。


 その考えは、国境の守りだけにとどまらなかった。


 駿河の富士川、安倍川。遠江の天竜川。そして三河の矢作川、境川、逢妻川。


 山々から流れ下る水は、田畑を潤し、領民の暮らしを支える。されど、ひとたび大雨が続けば、その水は田畑も家も押し流す恐るべき力へと変わる。


 翔次はこの六年、川筋の地形を調べ、堤を補い、水を逃がすための低地を確保させてきた。川の流れを力ずくで押さえ込むのではなく、水があふれる時には、被害を受けてもよい場所へ導き、村や町を守る。そのための備えであった。


 されど、どれほど備えを重ねても、自然の猛威を侮ることはできない。


 その年の葉月末、遠州灘の沖合から、空模様が急速に崩れ始めた。


 逢妻川沿いの陣屋に置かれた物見櫓の上で、鍋蓋翔次は南西の空を見つめていた。


 雲は厚く重なり、風は刻々と強さを増している。湿った空気には、遠くの海から運ばれてきた潮の匂いが混じっていた。


「……雨が来るな」


 翔次は低く呟いた。


 傍らに控えていた伴野弥四郎が、空を仰いだ。


「一雨来るだけならば、田畑には恵みとなりましょうが……」


「この雲の様子では、一雨では済むまい」


 翔次は櫓を降り、控えの者に命じた。


「矢作川、境川、逢妻川の川奉行へ早馬を出せ。川筋の見回りを増やし、堤の弱いところを改めよ。遊水地へ通じる水路も確かめ、流木や土砂が詰まっておらぬか調べさせるのだ。川辺の村々には、家財を守ろうとして避難を遅らせぬよう申し伝えよ」


「ははっ!」


「駿河、遠江の川奉行にも同じ報せを。雨が強まれば、ただちに上流と下流の水位を知らせ合うようにせよ」


 弥四郎は命を受け、足早に櫓を降りていった。


 その夜、風はさらに強まり、雨戸を叩く雨音は絶え間なく続いた。


 翌朝になっても、雨は止まなかった。


 一昼夜が過ぎ、二昼夜が過ぎても、山々から流れ下る水は増すばかりであった。小川は濁流となり、田の畦は水に隠れ、街道の低い場所には流れが生じた。矢作川では上流から流木が押し寄せ、境川や逢妻川でも水位が急速に上がっていた。


 戦国の世にあって、洪水は合戦にも劣らぬ災厄である。


 堤が切れれば、田畑は砂や泥に埋まり、家は流され、蓄えた米も失われる。たとえ人の命が助かったとしても、その年の収穫を失えば、冬の食糧にも翌春の種籾にも事欠くことになりかねない。


 そして、ひとたび水が引いた後にも、流失した家や荒れた田を立て直すには長い年月を要する。


 翔次は、そのことを誰よりも恐れていた。


 三日目の昼下がり。


 岡崎城から急ぎ駆けつけた松平元康が、逢妻川沿いの陣屋へ飛び込んできた。甲冑も衣も雨と泥にまみれ、息は激しく乱れていた。


「翔次殿! 矢作川の水嵩が、堤の上端に迫っておりまする! 上流から流れてきた大木が堤にぶつかり、土手の一部が削られ始めております。このまま水が増せば、決壊しかねませぬ!」


 元康に続き、岡部元信も駆け込んできた。


「川普請の者どもが土を運んでおりますが、雨で足場が崩れ、積んだ土も流されておりまする。上流の村からは、家々に水が迫っているとの報せも参りました。いかがいたしまするか!」


 二人の顔には、隠しようのない緊迫が浮かんでいた。


 翔次はすぐさま絵図を広げた。


「水位の報せは、どこまで届いておる」


「矢作川の上流からは、さらに水が増しているとのこと。境川でも、普段は浅い場所まで流れが広がっております。逢妻川も水位が上がり、川沿いの村々では、低い土地から人々を移し始めておりまする」


 翔次は絵図の上で、川筋と低地を一つずつ確かめた。


 今、すべきことは、あらゆる堤を一度に守ろうとすることではない。水位が上がり続ける場所と、すでに危険が迫っている場所を見極め、人をどこへ向かわせるかを定めることだった。


「元康殿。三河の武士を集め、川沿いの村々の避難を助けてくだされ。甲冑を脱ぎ、鋤鍬、木槌、縄を用意せよ。堤の補強に向かう者と、民を高所へ移す者を分けるのです。川辺に残った者を、家財を取りに戻らせてはなりませぬ」


「承知いたした!」


「元信殿は、川普請の者を率いて、堤の弱い箇所を改めてくだされ。流木が堤に引っ掛かっておるなら、無理に人を近づけてはなりませぬ。水勢が弱まる場所を選び、できる範囲で取り除くのです」


「心得た!」


「それから、遊水地へ通じる水路の状態を確かめよ。水を逃がす道が塞がっておれば、そこを開く。ただし、人足を濁流の中へ入れることは許しませぬ。人命を損なっては、守るべきものを守れぬ」


 翔次は雨具を身にまとい、腰に縄を結び直した。


「急げ。水は待ってはくれませぬ」


 矢作川の下流域は、凄まじい有様であった。


 濁流は茶褐色に泡立ち、上流から流れてきた木々や枝が、激しい音を立てて流れ下っていく。堤の一部では土が削られ、川沿いの田畑は、すでに水の下へ沈み始めていた。


 川普請の人足たちは、雨に打たれながら土を運び、弱った箇所を補っていた。されど、水勢は強く、運んだ土の一部が流されてしまう。


「このままでは、持ちませぬ!」


 人足の棟梁が翔次へ駆け寄った。


「土を積んでも、積んでも流されまする。川の水は、いつ堤を越えてもおかしくございませぬ!」


 翔次は、棟梁の肩を押さえた。


「一本の堤だけで、すべての水を受け止めようとするな」


「されど、堤が切れれば、村も田畑も……!」


「だからこそ、水を逃がす道を使うのだ」


 翔次は雨の向こうを指し示した。


 そこには、川の水位が一定の高さを超えた時に流れを逃がせるよう、あらかじめ設けられた堤の開口部があった。その先には、普段は荒地や葦原となっている低地が広がっている。人家や大切な田畑を避けて水を受け入れ、洪水の勢いを弱めるために確保してきた場所である。


「霞堤の開口部と、遊水地へ通じる水路の様子を見よ。水を逃がせるならば、堤を越える前に流れを分ける。だが、開けばよいというものではない。下流の水位と、逃がした先の様子を確かめてから動かすのだ」


 棟梁は雨に濡れた顔を引き締めた。


「承知いたしました!」


 翔次は周囲の地形を確かめ、川奉行から届いた水位の報せと照らし合わせた。


 水が増し続ける時に、堤を高くするだけでは限界がある。水の勢いを弱める場所を用意し、流れを分けることで、堤にかかる負担を減らす。それが、これまで整えてきた治水の考えであった。


 やがて、遊水地へ通じる水路の一部に、流木と土砂が詰まっているとの報せが届いた。


「水勢を確かめよ。安全に近づける場所から、詰まりを取り除くのだ。縄を張り、互いの身を確かめながら作業せよ。流れが急に変われば、ただちに退け!」


 人足たちは声を掛け合い、できる範囲で水路の詰まりを取り除き始めた。


 同時に、元康の率いる武士たちは、堤の背後で土嚢を運び、弱った箇所を補強していた。元信の手勢は、流木が堤を傷つけている場所を調べ、危険の少ない位置から木組みや蛇籠を用いて土手を守った。


 翔次は一つの場所に留まらず、各所から届く報せを聞き、補強を急ぐ場所と、人を退かせる場所を定めていった。


 水を止めることばかり考えてはならない。


 どこを守り、どこへ水を逃がし、どこから人を退かせるか。


 それを誤れば、堤を守ろうとした人々が濁流に呑まれ、別の場所で被害を広げることにもなる。


 やがて、遊水地へ流れ込む水が増し始めた。


 濁流の一部が低地へ広がり、葦原や荒地を呑み込んでいく。流れは広い場所へ分かれたことで勢いを弱め、堤を正面から叩く水の圧力も、わずかながら和らぎ始めた。


「水位が……わずかに下がっております!」


 見回りから戻った者が声を上げた。


「まだ安心するな」


 翔次はすぐに言った。


「上流では雨が続いておる。水が引き始めたように見えても、次の増水が来ることがある。堤の補強を続けよ。水位の報せも絶やすな」


 人足たちはうなずき、再び持ち場へ散っていった。


 その時、尾張方面から戻ってきた伴野弥四郎が、雨の中を駆けてきた。


「申し上げまする! 尾張と美濃の川筋でも、大雨によって木曽川などの水位が上がり、低地の村々に浸水が出ておりまする。清須の周辺では、蜂須賀小六殿の川並衆が舟を出し、孤立した村人を救い出しているとのこと!」


 翔次は弥四郎を振り返った。


「信照殿は、いかがしておる」


「城下や村々に救援の手を差し向け、食糧を配っている由にございます。舟を持つ者たちが集まり、濁流に囲まれた家から人々を運び出しておるとか」


 翔次は一瞬、目を伏せた。


 信照の陣営もまた、災害に見舞われた民を救おうとしている。小六の川並衆が舟を出し、食糧を配るというのなら、それは確かな働きであろう。


 災害のさなかに人を救うことは、容易なことではない。


 だが、翔次には、今この場で果たさねばならぬ務めがあった。


 人々が流された後に救うことだけではない。そもそも人々が水に呑まれぬよう、田畑や家が失われぬよう、被害を抑えるために備えておくことも、領国を預かる者の務めである。


 どちらか一方があればよいのではない。


 救うための手立ても、被害を抑えるための備えも、いずれも欠くことはできなかった。


 翔次は、再び堤の上へ目を向けた。


「皆の者、よく聞け!」


 雨音に負けぬ声で、翔次は呼びかけた。


「我らが守るのは、堤だけではない。民の命と、家と、田畑じゃ! 水を逃がす場所では水を受け入れ、守るべき場所では力を尽くして堤を支える。危ういところからは人を退かせ、無理な働きで命を失うことは許さぬ!」


 元康が泥にまみれた姿で近づいてきた。


「翔次殿、川沿いの村々では、避難を終えた者が増えております。堤の補強も続いておりまする」


「よく働いてくださった。されど、まだ終わりではござらぬ。雨が止むまで、そして水位が確かに下がるまで、気を緩めてはなりませぬ」


「承知いたした!」


 元康は再び持ち場へ戻っていった。


 元信もまた、配下の者たちと声を掛け合いながら、堤の補強を続けていた。武士も人足も、身分の違いを忘れたかのように泥にまみれ、互いの働きを助けている。


 誰もが疲れ切っていた。


 されど、誰もが、自分たちの手で守らねばならぬものを知っていた。


 四日目の朝。


 ようやく風が弱まり、空を覆っていた雲の切れ間から、淡い光が差し込んだ。


 雨は次第に細くなり、上流からの水の勢いも、少しずつ衰え始めた。遊水地には広く水がたまっていたが、その分、堤を直接脅かす流れは弱まっていた。


 矢作川の水位は、なお高かった。


 翔次は、川奉行や見回りの者から報せを受けながら、堤の各所を確かめさせた。削られた土手は補強され、流木が引っ掛かった場所も、危険のない範囲で取り除かれていた。完全に元どおりになったわけではない。水が引いた後にも、崩れた箇所を改め、傷んだ堤を修復せねばならなかった。


 それでも、恐れていた大規模な決壊は起こらなかった。


 川沿いの村々では、低い土地から避難した人々が、無事を確かめ合っていた。家屋や田畑に浸水した場所はあったものの、多くの人命が失われる事態は避けられた。遊水地となった荒地や葦原には泥水が広がっていたが、あらかじめ水を受け入れる場所として備えていたことが、大きな被害を防ぐ助けとなったのである。


 人足の棟梁が、泥にまみれた手で額を拭い、翔次の前に立った。


「鍋蓋様……堤は、持ちこたえました」


 声はかすれていた。


「川沿いの者たちも、皆が無事とは言い切れませぬが、避難した者の多くは命をつなぎました。これほどの雨で、堤が大きく切れなんだとは……」


 棟梁は言葉を詰まらせ、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 翔次は首を横に振った。


「礼を申すのは、まだ早うございます。水が引けば、田畑の泥を除き、傷んだ家を直さねばならぬ。遊水地に水が残っている間も、病や食糧不足に備える必要がある。これからの働きも大切なのです」


「はっ……!」


「されど、皆が持ち場を守り、互いに助け合ったからこそ、ここまで持ちこたえられた。わし一人の手柄ではござらぬ」


 翔次は、疲れ切った人足たちを見渡した。


 彼らの衣は泥に汚れ、手には傷があり、顔には疲労が刻まれていた。それでも、目の前の堤が持ちこたえたことを知り、互いの無事を喜んでいた。


 その姿を見て、翔次は静かに息を吐いた。


 合戦に勝つことも、国を守るためには必要である。


 だが、戦のない日に田を耕し、家族と食事をし、明日も生きていけると信じられること。その当たり前の暮らしを守ることもまた、領国を預かる者の務めであった。


 数日後、駿府・今川館。


 東海道各地から届いた水害の報せが、義元の前に並べられていた。


 富士川や安倍川の流域でも増水があったが、あらかじめ整えられていた水路や堤の備えが役立ち、大規模な決壊は避けられたという。遠江や三河でも、被害を受けた村々はあったものの、川奉行と領主たちが連絡を取り合い、避難や補修に努めたことで、災厄を最小限に抑えることができた。


 義元は報告を読み終え、白扇を静かに置いた。


「よく働いた。水を押さえつけるだけでなく、逃がす場所を設け、人を退かせ、堤を守ったか」


「はっ。翔次は現地に赴き、元康、元信らとともに指揮を執ったとのことにございます」


 側近の言葉に、義元はうなずいた。


「領国を守るとは、敵を退けることだけではない。民が明日も田を耕し、家を立て直し、暮らしていけるようにすることじゃ。天災は、武勇だけで退けられるものではない。されど、日頃の備えと人々の働きによって、被害を抑えることはできる」


 義元の声には、太守としての誇りがあった。


「翔次一人の知恵で成ったことではあるまい。普請を担った者、川筋を見回った者、避難を助けた者、それぞれが務めを果たしたからこそ、国を守ることができたのじゃ」


 重臣たちは深く頭を垂れた。


「この働きを忘れてはならぬ。被害を受けた村々には、食糧と普請の手立てを整えよ。堤の修復も急がせるのじゃ。水が引いたからとて、災厄が終わったわけではない」


「ははっ!」


 義元は再び絵図に目を落とした。


 尾張と美濃では、信照の保護圏が広がり続けている。今川はその動きを警戒しつつも、自らの国を富ませ、守るための道を歩まねばならない。


 義元は、揺るがぬ声で言った。


「我らは我らの務めを果たす。それが、今川の国を支える道よ」


 夕刻。


 水位が下がり始めた逢妻川の堤に立ち、翔次は西の空を見渡していた。


 川辺には、まだ泥が厚く残っている。遊水地には水がたまり、田畑の一部では、流れ込んだ土砂を取り除く作業が始まっていた。水害の痕跡は、あたりの至るところに残されている。


 それでも、堤は持ちこたえた。


 多くの人々が避難し、互いに助け合い、失われずに済んだ命があった。


 翔次は、遠く尾張の方角を見た。


 信照の領内でも、川並衆が舟を出し、被災した民を救ったという。彼らは彼らのやり方で、人々の命を守ったのだろう。


 信照は、自らの保護圏に加わった者たちが、それぞれの土地を守ることを認めている。そこでは、民や国人が自らの力で暮らしを支え、災厄に際しても互いに助け合うことが重んじられているのだろう。


 対して、翔次が今川で築こうとしているのは、領国として備えを整え、災害の被害を抑え、民の暮らしを支える仕組みである。


 どちらも、民を守ろうとする道である。


 されど、道筋は同じではない。


 翔次は拳を握りしめた。


(信照。お前の領内にも、救わねばならない人々がいる。俺は俺のやり方で、この国の民を守り抜く)


 川面を渡る風が、泥に汚れた小袖の裾を揺らした。


 水害は去りつつあったが、これで全てが終わったわけではない。傷んだ堤を直し、田畑を整え、失われた蓄えを補い、冬に備えねばならない。


 翔次は、川奉行たちが再び動き始める様子を見届けてから、堤を降りた。


 守るべきものは、目の前の水だけではない。


 水が引いた後も続く、人々の暮らしそのものだった。

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