第四十一話:美濃斎藤氏の落日
第四十一話 美濃斎藤氏の落日
三河国境の拠点を三つに絞り、守備兵を再配置して生じた余力を、境目の農村における年貢の減免と無利息の米貸しに振り向けてから、三月が過ぎた。
永禄八年、春。
駿河の安倍川沿いには山桜が咲き、三河の刈谷や逢妻の砦では、新緑を渡る風が土塁の草を揺らしていた。国境の村々では、逃散する者の姿が目に見えて減り、農民たちは再び田畑に戻り始めている。
翔次が進めた拠点の集中と民心の安堵は、今川領の境目に、以前とは異なる落ち着きをもたらしていた。
されど、尾張の信照旗が放つ力そのものが消えたわけではない。
今川の境川沿いで人々の流出が止まったとしても、その旗に惹かれる者が、ほかの土地に現れぬとは限らぬのだ。
そして今、その兆しは尾張の北、美濃に現れていた。
卯月の半ば。
駿府、今川館の大広間において、軍師・鍋蓋翔次は、今川家の乱波頭・伴野弥四郎が差し出した注進状を前に、眉根を寄せていた。
上段には太守・今川義元が座し、その左右には岡部元信、三浦上総介、朝比奈泰朝ら重臣が控えている。いつもの軍議とは違い、誰もが弥四郎の報告を待っていた。
「弥四郎。美濃の様子、そなたの目で確かめてきたのであろうな」
義元の声は低く、落ち着いていた。
「はっ。尾張と美濃の境を越え、井口の城下まで入りましてございます。斎藤右兵衛大夫龍興殿の家中は、見過ごせぬほど乱れておりまする」
「家中が乱れておる、か。何があった」
元信が尋ねた。
弥四郎は一度息を整え、報告を続けた。
「龍興殿は、父祖より受け継いだ家臣らとの結びつきを損ない、近侍する者ばかりを重く用いておられるとか。古参の宿老らは政務から遠ざけられ、領内の国人衆も、主家への不信を募らせておりまする」
「それだけで、稲葉山の威勢が揺らぐものか」
三浦上総介が不審げに問うた。
「それだけではございませぬ」
弥四郎は声を低めた。
「先年、竹中半兵衛重治殿と安藤伊賀守守就殿らが、わずかな手勢をもって稲葉山城を押さえた一件がございました。城はのちに龍興殿へ返されましたが、あの騒ぎによって、主君の威信に傷がついたことは疑いございませぬ」
「一国の要害を、少勢に押さえられたというのか……」
朝比奈泰朝が唸った。
「はい。城を取り戻したとて、家臣の心まで取り戻せるとは限りませぬ。今では美濃三人衆をはじめ、主家との間に距離を置く者が増えているとのことでございます」
広間に沈黙が落ちた。
斎藤道三、義龍と続いた美濃の支配は、決して一朝一夕に築かれたものではない。その家中が内側から崩れ始めているとすれば、周囲の大名にとって、見過ごせぬ変事であった。
だが、弥四郎の報告はそれで終わらなかった。
「さらに申し上げます。美濃の南から西にかけて、国人衆や村々の名主が、斎藤家への軍役や年貢の納入を拒み始めておりまする。その者たちが掲げているのは――織田十郎信照の白旗にございます」
「また、あの旗か」
元信の顔に険しさが浮かんだ。
弥四郎は懐から絵図を取り出し、畳の上に広げた。
墨で記された川筋と街道。その要所には、朱の印が幾つも打たれている。
「墨俣、大垣をはじめ、南美濃から西美濃へ通じる道筋に、信照旗を掲げる者が現れております。いずれも、信照殿の軍勢に攻められたわけではございませぬ。国人らが自ら旗を掲げ、村々もまた、それに倣っているのでございます」
「信照が兵を差し向けたのではないと申すか」
「はっ。少なくとも、我らが確かめた範囲では、そのような軍勢の動きはございませぬ」
弥四郎は絵図の上に指を置いた。
「木下藤吉郎が津島や熱田の商人とともに美濃へ入り、商いの道を開いているとの報せもございます。これまで関銭を取られていた道筋でも、信照旗を掲げた土地では、商人らが従来の徴収を拒むようになったとか」
「商いを先に通し、旗を後から立てさせる……ということか」
翔次は絵図を見つめたまま呟いた。
「それだけではございませぬ。蜂須賀小六の配下が川筋の舟運に関わり、尾張と美濃の間を往来する荷が増えておりまする。土地の者らは、斎藤家の役を拒んでも、信照旗のもとで商いが続けられると考えているようにございます」
広間の空気が変わった。
尾張で起きていた保護圏の広がりが、国境を越えて美濃にまで及び始めている。
しかも、信照は大軍を率いて城を攻めているわけではない。土地の者たちが主家への不信を募らせ、その受け皿として白旗を選んでいるのだ。
「信照は清須の城にありながら、美濃へ兵を出しておらぬ。それでいて、斎藤家の支配は揺らぎ、商人の流れまで変わりつつある……」
朝比奈が言葉を失った。
「ならば、なおさら好機ではございませぬか!」
三浦上総介が膝を進めた。
「太守様。斎藤家の威勢が衰え、尾張の信照が美濃へ手を伸ばしておりまする。今こそ我らが動き、斎藤家を助ける名目で美濃へ兵を入れるべきにございます!」
上総介は絵図の東側を指し示した。
「三河と遠江より兵を出し、美濃の東から圧力をかける。あるいは、信照が勢力を広げる前に、南の要地を押さえるのです。美濃の国人らが斎藤家を見限っているならば、我らに味方する者もおりましょう!」
「その通り!」
譜代の武将たちから賛同の声が上がった。
「敵が兵を出さぬうちに動かねば、後手に回りまする!」
「尾張と美濃を一つにされてからでは遅い!」
軍議の場は、出兵を求める声に包まれた。
岡部元信もまた、腕を組んだまま絵図を見つめている。
「……翔次殿。上総介の申すことも、分からぬではない。信照が美濃へ勢力を伸ばせば、我らと向かい合う西の境は、今まで以上に重くなる。何もせず眺めておるだけでよいのか」
諸将の視線が、一斉に翔次へ向いた。
翔次は、すぐには答えなかった。
絵図に目を落とす。
美濃の南から西にかけて打たれた朱の印。その一つ一つが、今川にとっての好機であると同時に、踏み込めば抜け出し難い沼の入口にも見えた。
(……ここで欲を出すのか)
胸の奥に、桶狭間の夜以来、幾度となく蘇る冷たい感覚が走った。
あの時も、歴史を知っているという思い込みが、翔次の判断を危うくした。目の前にある事実を見誤れば、知識など何の役にも立たない。
翔次は静かに顔を上げた。
「出兵には、反対にございます」
三浦上総介の顔が険しくなった。
「何だと。美濃が信照の手に落ちようとしておるのだぞ。座して見送れと申すか!」
「座して見送るのではございませぬ。こちらから、敵の望む戦場へ踏み込まぬのでございます」
翔次は絵図の東側を指した。
「上総介殿。仮に我らが五千の兵を美濃へ進めたといたしましょう。まず、どこを通り、どの道をもって兵糧を運び、どの渡しを押さえて帰路を確保なさいますか」
「それは……」
「美濃は河川が多く、山地と平野が入り組んだ国。大軍を進めるには、道と渡河点を押さえねばなりませぬ。されど、我らは美濃の国人衆を味方につけておるわけではない。斎藤家を助けると称して入ったところで、現地の者たちが我らを歓迎する保証はございませぬ」
翔次は絵図の川筋を指でたどった。
「信照旗を掲げた者たちは、斎藤家への軍役や年貢を拒み始めておりまする。そこへ我らが兵を率いて入り、領地を押さえ、兵糧を求めればどうなるか。彼らの目には、斎藤家に代わって負担を課す新たな侵入者と映りましょう」
「されど、信照の配下がすべての国人を束ねているとは限らぬ」
「その通りにございます。ゆえにこそ、危ういのでございます」
翔次は即座に答えた。
「信照の勢力は、今のところ、領国の隅々まで命令を行き渡らせる一枚岩の軍団ではございませぬ。土地ごとの国人が、それぞれの思惑で白旗を掲げている。そこへ我らが踏み込めば、互いにまとまりを欠いていた者たちが、外敵を前に結束する恐れがございます」
翔次は一度、言葉を切った。
「我らが戦うべき相手は、五千の兵をもって一度の合戦で打ち破れる軍勢とは限りませぬ。道を知る者が道を塞ぎ、舟を操る者が渡しを押さえ、土地の者が兵糧を売らぬ。それだけでも、遠方から入った軍勢は動きを縛られまする」
「……」
「木曽川の渡し一つを取っても、敵が押さえておれば、兵糧の運び方を改めねばなりませぬ。街道の先で商人が荷を運ばず、村々が宿や人足を出さぬなら、進軍は遅れ、守るべき道は長くなる。そこへ信照の配下が姿を見せれば、我らは敵の姿を追うだけで兵を費やすことになりましょう」
翔次は絵図から手を離した。
「今川の兵は、強うございます。されど、いかに精兵とて、兵糧なしに戦うことはできませぬ。道を知らぬ土地で補給を続け、背後を守りながら敵を追う。そのような戦を、今この時に始める理由がございませぬ」
「ぐ……」
三浦上総介は口を結んだ。
翔次は、今度は義元へと向き直った。
「太守様。信照の恐ろしさは、兵を出さずに勢力を広げていることだけではございませぬ。土地の者が、自らの利を考え、自らの判断で信照旗を掲げていることにございます」
その声は、広間の隅々にまで届いた。
「我らが美濃へ攻め入れば、信照は自ら兵を出さずとも、我らを侵入者と呼べましょう。斎藤家に不満を抱いていた者たちが、今度は我らに対抗するために手を結ぶかもしれませぬ。そうなれば、我らは斎藤家のために戦うのでも、信照の軍勢と正面から戦うのでもない。誰が敵で、誰が味方かも定まらぬ争いに、兵と財を注ぎ込むことになりまする」
翔次は深く息を吸った。
「美濃の混乱は、美濃の者たちが招いたもの。今川がその後始末を引き受ける必要はございませぬ。境目を固め、我らの領国を守り、向こうの情勢を見極める。それこそ、今なすべきことにございます」
大広間に沈黙が落ちた。
先ほどまで好機と見えていた美濃の情勢が、翔次の言葉によって別の姿を現していた。
攻め取れるか否かだけを考えれば、出兵には利がある。だが、その利を得るまでに、どれほどの兵糧と人命を費やすことになるのか。勝った後に、誰がその土地を治めるのか。
その問いに、即座に答えられる者はいなかった。
やがて、元信がゆっくりと口を開いた。
「……翔次殿の申すこと、理に適っておる。美濃へ兵を入れるのは容易に見えても、入った後に道を保ち、土地を治めるとなれば話は違う。敵の内紛に乗じたつもりが、我ら自身を消耗させては本末転倒じゃ」
「されど、何もせずに美濃を失えば、いずれ我らの脅威となりましょう!」
三浦上総介は、なおも食い下がった。
「失う、とはいかなることか」
上段から、義元の声が静かに降りた。
諸将が一斉に口を閉ざした。
義元は膝の上の白扇を畳み、絵図へ目を落とした。
「美濃は、今川の領国ではない。斎藤が衰え、国人が離れ、信照の旗を掲げる者が現れた。それは美濃の内に起きておる変事よ。そこへ我らが兵を入れれば、我らもまた、その争いの一方となる」
義元は顔を上げた。
「予は、他国の混乱に乗じて領地を奪うことを、今の今川の務めとは思わぬ。駿河を富ませ、遠江を固め、三河の民を安んずる。まずは我らの領国を揺るぎなきものとする。それが成っておらぬうちに、遠き美濃の争いへ手を伸ばすことは許さぬ」
その言葉には、焦りも、惜しむ色もなかった。
「聞いたか、皆の者。美濃への出兵は行わぬ。国境の守りを崩すことなく、向こうの情勢を探らせよ。信照がいかなる手を用い、いかなる者を味方につけるのか。軽々しく決めつけず、確かな報せを集めるのじゃ」
「ははっ!」
諸将は一斉に平伏した。
三浦上総介もまた、無念を押し殺し、深々と頭を垂れた。
義元は翔次へ目を向けた。
「翔次。そなたの申す通り、今は動くべき時ではあるまい。境川と逢妻、刈谷の守りを固め、兵を無用に外へ出すな。美濃の争いは、美濃の者たちに任せておけばよい」
「御意にございます」
翔次は平伏した。
胸の奥に、安堵が広がっていく。
今川は、また一つ、避けるべき戦を避けた。
敵の動きに焦り、勢力を広げることだけを考えていたなら、今川もまた、兵站の限界を越えて兵を進めていたかもしれない。だが、義元は目先の利に飛びつかず、領国を守る道を選んだのである。
軍議が終わると、翔次は館の廊下を歩きながら、先ほどの絵図を思い返していた。
尾張の信照旗は、たしかに美濃へ伸びている。
だが、それは信照が大軍を率いて城を落とした結果ではない。斎藤家への不信、土地を守りたいという国人の思い、商いを続けたい商人の利。それぞれ異なる理由が、白旗のもとへ人々を集めているのだ。
(信照は、領地を奪うのではなく、領地を奪わずに済む仕組みを広げている……)
その仕組みが、どこまで広がるのか。
翔次には、まだ見通せなかった。
ただ一つ確かなのは、今川がその広がりを武力だけで押し返そうとすれば、相手の思惑に巻き込まれる危険があるということだった。
今川には今川の道がある。
境目を固め、民の暮らしを支え、国の内側から力を養う。信照のやり方を真似るのでも、いたずらに対抗心を燃やすのでもない。自らの領国を守り抜くことこそ、翔次に課せられた務めであった。
その後も、美濃から届く報せは絶えなかった。
斎藤家の家臣団は、以前のように一枚岩ではない。南美濃の国人衆の中には、龍興の命令に従うことを渋り、信照旗を掲げる者も増えているという。
商人の往来も、少しずつ変わり始めていた。尾張から美濃へ向かう荷が増え、信照の保護を頼みに商いを続けようとする者が現れている。
されど、これをもって美濃全土が信照の手に落ちたと断ずることはできない。稲葉山城にはなお斎藤家があり、美濃の国人たちも、それぞれの思惑を抱えている。白旗を掲げたからといって、皆が同じ考えを持ち、同じように動くわけではなかった。
翔次は、報告の一つ一つを帳面に書き留めた。
斎藤家の衰え。
南美濃の国人衆の離反。
尾張から伸びる商いの道。
そして、今川が出兵を見送ったこと。
そのいずれもが、今後の東海道の行く末を左右する要素となる。
夕刻、翔次は逢妻川の物見所から、西の空を眺めた。
遠くには、尾張へ続く道がある。その先に、美濃の山々が霞んで見えた。
翔次は手元の帳面を閉じた。
信照の勢力は、尾張一国にとどまらなくなりつつある。されど、今川は一歩も国境の外へ踏み出さず、兵を損なうことなく、自らの領国を守る道を選んだ。
戦わずして広がろうとする者と、戦うべき時を見極めて守り抜こうとする者。
二つの道は、まだ遠く離れているように見えた。
だが、その隔たりは、いずれ東海道の境目において、避けて通れぬ問いとなるだろう。
翔次は西の空を見据えたまま、静かに拳を握った。
美濃の落日は、まだ終わってはいない。
そして、今川と信照の対峙もまた、始まったばかりであった。




