第三十九話:北伊勢の動揺と即応集合軍の解体
第三十九話 北伊勢の動揺と境川の民兵
駿府の安倍川河原に「駿府公認会所」が開設され、座役の免除と遠江の白塩、駿河の本山茶の専売保護という翔次の経済大改革により、西へ傾きかけていた東海道の商人らが大挙して駿府へと回帰してから、ひと月余り。
秋風は日ごとに冷たさを増し、東海道の山野には紅葉が散り敷かれ、冬の訪れを告げる渡り鳥の声が三河湾の入江に響き渡っていた。
市場の富を奪い返すことによって、尾張の木下藤吉郎が仕掛けた経済の包囲を押し戻した今川家であったが、西の境目の向こう側――尾張と伊勢を結ぶ水陸の道筋においては、大地の軋みにも似た新たな動揺が、不気味な広がりを見せ始めていたのである。
霜月はじめの早朝。
三河国境、逢妻川と境川の合流点に置かれた前線本陣において、翔次は松平元康、ならびに遠江より前線の軍監として詰めていた岡部元信とともに、机上に広げられた「伊勢湾・濃尾水陸総図」を凝視していた。
陣幕の隙間から吹き込む朝風は肌を刺すように冷たい。机の上には、伊勢湾を渡る廻船商人や、伊勢桑名湊の動向を探っていた今川方の乱波がもたらした注進状が、幾通も重ねられていた。
「……翔次殿。事態は、美濃の墨俣のみにとどまらぬぞ」
元信が太い指先で伊勢湾の西岸――北伊勢の桑名、ならびに員弁郡の一帯を強く叩いた。
「桑名の湊商人、ならびに員弁、朝明の地に割拠する小土豪どもが、次々と斎藤や北畠の軛を脱し、あの『信照旗』を仰ぎ始めたというのじゃ。蜂須賀小六の水運が伊勢湾の舟路を繋ぎ、木下藤吉郎が無税の通商路を広げた結果、北伊勢の物資もまた、津島や熱田へと流れ込んでおる」
「北伊勢までも、でございますな」
翔次は静かに息を吐いた。
桑名は伊勢湾海運の要衝であり、美濃や尾張から伊勢へ渡る道筋とも結びつく土地である。その地の商人や土豪までもが信照の旗を仰ぐということは、単に一部の豪族が旗印を替えたというだけではない。
信照の保護圏が、尾張と美濃の境を越え、伊勢湾の水運にまで結びつき始めたことを意味していた。
かつての翔次の記憶において、織田信長が美濃攻略と並行して北伊勢の諸豪族を屈服させ、上洛への足がかりを築いた道筋が、今は信照という見えざる魔王の「不戦の保護圏」によって、戦わずして組み替えられつつあるのだ。
「それだけではござらぬ!」
岡崎城より駆けつけていた松平元康が、険しい面持ちで言葉を継いだ。
「北伊勢の国人らが信照旗を掲げたとの報せは、尾張西岸の地侍どもの耳にも届いておりまする。彼らは、今川がこの機に乗じて境川を越え、尾張へ攻め入るのではないかと恐れ、近隣の村々に呼びかけて兵を集め始めたようにござる」
元康が言い終えるや、近習の石川数正が、息せき切って陣幕へ飛び込んできた。
「申し上げまする! 境川中洲の対岸、緒川から刈谷口に至る土手の上に、突如として無数の白旗が打ち立てられました! 集まりたる敵の数は、千数百! 長槍や竹槍を掲げ、鬨の声を上げて我が方の前進砦を威圧しておりまする!」
「千数百じゃと……!?」
元信が弾かれたように立ち上がり、佩刀の柄を鳴らした。
「またしても信照旗の軍勢か! 前回の境川中洲では二千の敵が忽然と姿を消したが、今度は陣を敷いて居座る構えと見える! ……翔次殿、元康殿、もはや猶予はならぬぞ! 我が今川・三河の精鋭三千を発し、川を押し渡って一息に叩き潰すべきじゃ!」
「元信殿の申される通り!」
陣幕の奥から、三浦上総介義就が甲冑の鳴る音とともに進み出て、声を張り上げた。
「敵は所詮、百姓と地侍の寄せ集め! 千余の烏合の衆など、我が重装歩兵の槍衾をもって正面から踏み砕けば、物の見事に四散いたしましょう! 太守様の御面目のためにも、力攻めにて今川の武威を示すべし!」
陣幕内が、一瞬にして主戦論の熱気で沸騰した。
武士というものは、眼前に敵が陣を敷けば、槍を合わせて討ち取ることを第一の誇りとする。長きにわたる不戦の防衛に耐えかねていた諸将の苛立ちが、一気に爆発しかけていた。
「静まり召されよッ!」
広間の空気を切り裂くような、鋭い翔次の怒号が響き渡った。
諸将が息を呑み、一斉に翔次を振り返る。
翔次は立ち上がり、物見櫓へと続く出口を指し示した。
「元信殿、上総介殿。敵を討つ前に、まずその目で敵の姿をしかと見届けてくだされ。相手が何者であるかも見極めずに槍を繰り出すは、盲人が闇夜で太刀を振り回すに等しき愚行にございます!」
翔次は元康、元信、上総介を伴い、逢妻川本陣の物見櫓へと登った。
冷たい川風が吹き荒れる中、翔次は境川の対岸を凝視した。
対岸の土手の上。初冬の枯れ葦を薙ぎ倒して布陣しているのは、確かに千数百名に及ぶ大集団であった。風に翻る幾十本もの『織田十郎信照』の白旗。太鼓が打ち鳴らされ、時折、地鳴りのような喊声が川面を渡ってくる。
しかるに――翔次の怜悧な頭脳は、その威勢の裏にある決定的なほころびを見抜いていた。
「……元康殿。あの軍勢、よくご覧くだされ」
翔次は元康に目を向け、対岸の前列と後列を順に指し示した。
「前列に並ぶ地侍こそ、粗末ながら胴丸を着け、太刀を佩いております。されど、後方にひしめく者たちをご覧くだされ」
元康は目を凝らし、息を呑んだ。
「……甲冑を着けておらぬ者が大半。身にまとっておるのは、黄ばんだ麻の単衣と蓑笠ばかり……。手に持っておるのも、長槍ではなく、竹槍や、刃のこぼれた鎌、錆びた鋤鍬ではないか」
「左様にございます」
翔次は頷いた。
「あれは、清須城の信照が直々に号令を下して集めた正規の軍勢ではございませぬ。信照旗を仰ぐ地侍たちが、北伊勢の動きに刺激され、今川の侵攻を恐れて村々に呼びかけたのでございましょう。村々もまた、己の田畑と家族を守るために人を出した。ゆえに、あれほどの数が集まったのでございます」
翔次は敵陣の周囲に目を配った。
「されど、陣の後ろをご覧くだされ。兵糧を運ぶ荷駄も、陣屋を築く人足の姿も見当たりませぬ。大軍を長く養うための備えが、どこにもない」
元信が眉をひそめた。
「兵糧が乏しいと申すか」
「少なくとも、今川の精兵三千と幾日も対峙できる備えはございませぬ。彼らは長く戦うために集められた軍ではない。敵が境川を越えてこぬよう、数を示して威圧するための寄り合いにございます」
翔次は川向こうの農民たちを見つめた。
「そして、もう一つ。今は霜月。刈り入れを終えた田畑では、脱穀や籾摺りが待ち、麦の種蒔きや冬支度にも手を取られる頃でございます。村から働き手を長く引き離せば、家の暮らしそのものが立ち行かなくなる」
元康の表情が険しくなった。
「されど、これほどの人数が集まっておりまする。もし今川が攻め寄せれば、彼らも命懸けで抵抗いたしましょう」
「その通りにございます」
翔次は即座に応じた。
「己の村を守るために集まった者たちであればこそ、追い詰めれば死兵となり、必死の抵抗を試みるでしょう。こちらも少なからぬ傷を負うはず。それ以上に、千余名もの農民を殺傷すれば、尾張の村々に深い怨嗟を残します。北伊勢や美濃の民までもが今川を恐れ、信照の旗の下へ結束する口実を与えかねませぬ」
「……では、翔次殿。敵が陣を敷いておるのを、このまま指を咥えて見ておれと申すか。放置すれば、敵の勢いはさらに増すぞ」
元信が苦渋に満ちた声で問うた。
「放置はいたしませぬ」
翔次の唇に、不敵な笑みが浮かんだ。
「力をもって討つにあらず。敵が戦い続けられぬ事情を突き、戦わずして退かせるのでございます」
翔次が命じた迎撃策は、敵の兵を討ち取るのではなく、敵が陣にとどまる理由を失わせるための牽制であった。
第一に、逢妻川および境川沿いの今川方の前線砦は、門を固く閉ざし、逆茂木を二重に張り巡らせて防備を固めること。敵が鬨の声を上げようとも、矢一筋射返さず、沈黙を保つこと。
そして第二に――。
「元康殿。貴殿の手勢より、足の速き三河の騎馬二百騎を選りすぐっていただきたい」
翔次は絵図の境川上流、ならびに下流の道筋を指差した。
「二隊に分け、境川の浅瀬を渡らせます。されど、敵陣の正面へ向かってはなりませぬ。敵の目に触れる位置を通り、背後の村々へ続く道筋に回り込むのでございます」
「村々を襲うのか?」
元康が問い返した。
「否。決して刃を交えてはなりませぬ。村へ踏み込むことも、田畑を荒らすことも禁じます。ただ、敵の背後へ騎馬が回り込む姿を見せ、蹄の音と土煙を立てるだけでよいのです。あたかも帰り道を押さえ、留守の村々へ向かおうとしているかのように思わせるのでございます」
「……敵の退路と故郷を脅かす牽制か!」
元康が膝を打った。
「正面の今川砦は動かず、背後には騎馬が回り込む。あの者たちには、村がどうなるか分からぬ恐れだけが残るということですな」
「左様にございます」
翔次は冷徹に頷いた。
「敵は正規の軍勢ではなく、自衛のために集まった者たち。己の村が危ういと思えば、見知らぬ他人のために陣にとどまる理由は薄い。村の暮らしを捨ててまで、長く戦う覚悟を持つ者ばかりではございませぬ」
元康はしばし絵図を見つめた後、力強く頷いた。
「承知いたした。騎馬隊は二隊に分け、手勢の者に率いさせましょう。村を襲うことなく、敵の背後を回らせまする」
作戦は、正午を過ぎた刻限より発動された。
今川方の前線砦は、死んだように静まり返り、一兵の姿も見せなかった。敵の民兵団がいかに太鼓を打ち鳴らし、竹槍を掲げて挑発しようとも、頑丈な逆茂木の奥からは何の反応も返ってこない。
巨大な壁を殴っているかのような、不気味な静寂であった。
そこへ――。
ドドドドドドッ!
境川の上流と下流から、地を揺るがす馬蹄の響きが湧き起こった。
三河の騎馬二百騎が二手に分かれ、葵紋を翻しながら、猛烈な土煙を巻き上げて敵陣の左右を迂回していった。騎馬隊は敵陣へ矢を放つこともなく、ただ風の如く走り抜け、民兵たちの背後にある道筋へと姿を消した。
その光景を目撃した瞬間、対岸の土手の上に陣取っていた千数百の民兵団の間に、目に見える動揺が走った。
「な、何じゃ!? 今川の騎馬が、わしらの村の方角へ走っていったぞ!」
「あいつら、わしらがここにおる隙に、留守の村を襲う気ではないか!?」
前列に並んでいた農民たちが、青ざめた顔を見合わせ、ざわめき始めた。
地侍たちが大声を張り上げて統制を保とうとする。
「狼狽えるな! 陣形を崩すな! 敵の陽動じゃ!」
だが、その地侍たちにも、すでに厳しい現実が見えていた。
彼らは村々を守るために集まったのである。今川軍が攻めてくるならば、村を守るために戦うつもりだった。だが、正面の敵は砦から出てこず、背後には騎馬が回り込んでいる。村が危ういという疑いが生まれた途端、ここにとどまることそのものが、彼らの守るべきものを危険にさらす行為へと変わってしまったのだ。
一日目の夜。
冷たい秋風が吹き付ける土手の上で、農民兵たちは泥の上に座り込み、寒さに震えながら持参した干し飯を齧った。
火を焚けば、今川方に所在を悟られるおそれがある。温かな汁物を用意することもできず、村から運んできた食糧を分け合うほかなかった。
彼らは長陣を想定して集まったわけではない。食糧の蓄えも限られ、明日も明後日もここにとどまるとなれば、村の仕事はますます滞る。
二日目の夜明け。
朝霧が晴れると、正面の今川砦は、相変わらず沈黙を保ったまま、逆茂木を並べて立ちはだかっていた。
そして――背後の道筋からは、再び三河騎馬隊の蹄の音が、時折、風に乗って響いてくる。
いつ村への道を押さえられるか分からぬ恐怖。
乏しい食糧。
寒さにさらされる土手。
そして何より、彼らの脳裏を離れなかったのは、村に残してきた家族と、脱穀や冬支度を待つ田畑のことであった。
「……おい、もう帰ろうぜ」
二日目の昼下がり、ある農民が竹槍を泥に突き立て、力なく呟いた。
「今川の侍どもは、陣から出てくる気配もねえ。戦いにもならねえのに、こんな寒風吹きさらしの土手で腹を空かせて、何の意味があるんだ」
「そうだ……! 村じゃ、まだ脱穀も終わってねえ。麦を蒔く支度だってあるんじゃ!」
「今川の騎馬が村へ回り込んでいるなら、ここで空しく陣を張っている場合じゃねえ。家族に何かあったら、どうするんだ!」
「待て! 持ち場を離れるな!」
地侍が太刀の鞘を鳴らして怒鳴り散らしたが、もはや村の暮らしへの不安に駆られた農民たちの耳には届かなかった。
「信照様から『戦え』と命じられたわけじゃねえ! わしらは自分たちの村を守るために集まっただけだ! 村が危ねえなら、村へ帰るのが当たり前じゃねえか!」
その言葉に、周囲の農民たちが次々とうなずいた。
彼らをここへ集めたのは、信照の命令ではない。今川軍が境川を越えてくるのではないかという恐れと、己の土地を守らねばならぬという思いであった。
その思いが、今度は彼らを村へ帰そうとしていた。
二日目の夕暮れ時。
一人の農民が竹槍を放り出して土手を駆け下り、畦道を故郷へ向かって走り出した。それを皮切りに、同じように帰路を急ぐ者が続いた。
「帰るぞ!」
「村へ戻れッ!」
十人、五十人、百人――。
農民兵たちは蓑笠を揺らし、泥を跳ね上げながら、我先にと三々五々、村々へ散っていった。
地侍たちは大声で引き留めようとしたものの、もともと強い命令系統を持たぬ寄り合いの集団である。村ごとに集まった者たちが帰り始めれば、それを一つの軍勢としてつなぎ止めることは難しかった。
残された地侍たちも、主力を失っては戦う術もない。互いに顔を見合わせ、やがて馬首を返して退却するほかなかった。
三日目の夜明け。
朝霧が静かに晴れ上がった境川の対岸を、逢妻川の物見台から見下ろした今川の諸将は、息を呑んで立ち尽くした。
土手の上には、人影一つ残されていなかった。
千数百の人々がひしめいていた場所には、ただ初冬の冷たい風が吹き抜け、打ち捨てられた竹槍と、泥に汚れた数本の信照旗が残されているだけであった。
味方の戦死傷者――皆無。
敵の戦死傷者――皆無。
消費した矢――ただの一筋もなし。
千数百の民兵・地侍の集団は、刃を交えることなく、陣を解いて帰っていったのである。
物見台の上で、岡部元信が兜を脱ぎ、呆然と大地を見つめたまま、低く呻いた。
「……退いた。千余の者どもが、一人も討たれることなく退きおった……」
元信は振り返り、信じ難きものを見るような眼差しで翔次を凝視した。
「翔次殿。そなたは、敵の兵糧と、民の暮らしへの気懸かりを読み切って軍を動かしたと申すのか。刀を抜かず、矢も射ず、ただ騎馬を走らせただけで、あれほどの集団を退かせるとは……」
三浦上総介もまた、佩刀を握る手を震わせ、深々と頭を垂れた。
「面目次第もござりませぬ……。もし某の申す通りに川を押し渡っておれば、今頃、今川軍は農民たちの必死の抵抗を受け、少なからぬ精鋭を失っておったところじゃ。翔次殿の眼の確かさ、まことに神変の如しにござる」
松平元康が歩み寄り、翔次の両手を力強く握りしめた。
「翔次殿。貴殿の知恵は、味方の命を救うのみならず、敵の農民の命までも救うてみせた。無駄な血を一滴も流さず、境目の平穏を守り抜く。これぞ、真に民を守る者の道にござるな」
諸将の賞賛を浴びながら、翔次は静かに頭を下げた。
「元康殿、ならびに諸将の皆様の忍耐あればこそにございます。敵の民兵団は、悪意をもって攻め寄せてきたのではありませぬ。ただ己の暮らしを守らんとして集まり、己の暮らしを守らんとして帰っていったまでのこと。民の営みの理に従えば、戦を避ける道もまた見えてくるのでございます」
翔次の声には、驕りは微塵もなかった。
だが、その胸の奥底には、軍師としての確信が深く刻まれていた。
正規の軍勢ではない寄り合いの民兵であれば、兵糧と統制に限りがある。暮らしを守るために集まった者たちであれば、その暮らしを危うくする兆しを前に、陣を保つことも難しくなる。
今回の集団は、その道理によって退かせることができた。
しかし――信照の保護圏が生み出す人々の結びつきそのものを、これで断ち切れたわけではない。
その日の夕刻。
駿府・今川館の御座所において、逢妻からの復命を聞き届けた太守・今川義元は、畳の上に置かれた白扇を手に取り、満面に笑みを湛えて言った。
「……千余の民兵を一滴の血も流さず退かせたか。翔次、そなたの知謀は、もはや城や兵を相手にするにあらず、民の心の機微そのものを読み取っておるな」
義元の双眸に宿る光は、揺るぎなき誇りに満ちていた。
「北伊勢が靡こうとも、尾張の民が集まろうとも、そなたがおる限り、東海道の今川は容易には揺らがぬ。大儀であったぞ」
軍議が引けた後、翔次は一人、前線の物見台の上に立ち、夕闇迫る尾張の空を見つめていた。
冷たい初冬の夜風が、翔次の頬を撫でてゆく。
前田利家の武威を空振りさせ、木下藤吉郎の流通策を押し返し、今また境川に集まった民兵を退かせた。
されど、敵の策を一つ退けることと、敵の勢力そのものを打ち破ることとは違う。
(……だが、信照の版図の広がりそのものは、止まってはいない)
翔次は自らの胸元を強く押さえた。
胃の腑の奥底で、冷徹な理性が警鐘を鳴らし続けていた。
北伊勢が保護圏に靡いたという事実は消えない。
尾張、美濃、そして北伊勢。
かつて織田信長が天下への階段を駆け上がっていったあの大動脈が、戦うことなく、民と豪族の自発的な結びつきによって、着実に信照の旗のもとへと組み合わされつつあるのだ。
(信照……貴様の広げるこの見えざる大波を、俺はいかにして受け止めるべきか)
翔次は夜空を見上げ、固く拳を握りしめた。
東海道の均衡を保ち続ける不敗の軍師の前に、時代という名の巨大なる潮流が、次なる未知の局面を携えて押し寄せようとしていた。




