第三十八話:美濃境目への浸食と駿府市場
第三十八話:美濃境目への浸食と駿府市場
逢妻の兵糧本蔵において、前田利家の誇る朱槍の突撃を、泥濘と落とし穴を利用した策によって完全に空振らせ、敵を手ぶらのまま退散せしめてから、ひと月余り。
東海道には錦秋の風が吹き渡り、境川の両岸に広がる稲穂は刈り入れの刻限を迎えて、黄金色の波を静かに揺らしていた。
武力による強行突破を挫かれた尾張側は、前線における小競り合いをぴたりと停止していた。朱槍の騎馬隊が姿を現すこともなく、境川の国境には、表向き、長閑な秋の静けさが漂っているかに見えた。
しかるに――合戦の硝煙が消え去ったその背後で、尾張と美濃の境目において、今川家の首脳陣を震撼せしめる新たなる地殻変動が、音もなく始まっていたのである。
神無月の初頭。
駿府・今川館の作戦部屋において、翔次は机の上に広げられた尾張北部から美濃南部に至る絵図を前に、厳しい眼差しを注いでいた。
部屋の隅には、東海道の宿駅を取り仕切る町方奉行や、駿府の有力な座商人たちの総代を務める老商人らが、顔色を青ざめさせて平伏している。傍らに控える岡部元信が、机の上の注進状を鷲掴みにし、低い唸り声を漏らした。
「……翔次殿。物見の知らせ、まことに信じ難き事態が起きておるぞ。尾張北部にとどまらず、美濃の墨俣、長良川と木曽川の合流点周辺に蟠る美濃の土豪どもが、次々と斎藤家を見限り、あの『信照旗』を仰ぎ始めたというのじゃ」
「墨俣、でございますな」
翔次は静かに息を吐き、絵図の要衝を指先でなぞった。
美濃国――斎藤道三が一代で奪い取り、その子・義龍が保ちたる油断ならぬ大国。されど、義龍が病没し、若年の斎藤龍興が家督を継いでより、重臣らの離反と家中の内訌が続き、その支配は急速に瓦解しつつあった。
その混乱の隙間へ、あの織田信照の「保護圏」という名の見えざる大波が、音もなく押し寄せていたのである。
「左様にござる!」
町方奉行が、額に脂汗を浮かべながら言上した。
「美濃の土豪どもは、斎藤家の過酷なる軍役を嫌い、さりとて今川の支配下に入るを恐れ、口々に『自らの地は自ら守る』と唱えて、門前に信照様の白旗を掲げておりまする。
そして……その背後で、あの木下藤吉郎なる男が、恐るべき手際の早さをもって動き回っておりまする。墨俣や大垣の川湊を木曽川の水運と結び、美濃の特産たる美濃和紙、良質な刀剣、さらには木曽の檜や杉の材木に至るまで、ことごとく津島や熱田の湊へと運び込ませているのでございます!」
広間の板敷きに、重苦しい沈黙が落ちた。
美濃の物資が、尾張の保護圏街道へと流れ込む。
それは、単に他国の領主が変わったという話ではなかった。
信照の勢力圏が、尾張一国を越えて美濃の穀倉と山林にまで根を伸ばしたことにより、木下藤吉郎の操る「無税の通商路」は、東海道のみならず、美濃から近江へ抜ける街道や木曽川の水運にまで、その勢いを広げ始めたのである。
「それだけではござりませぬ!」
駿府の問屋総代を務める老商人が、泣きそうな顔で畳に額を擦り付けた。
「美濃の物資が集まり、関銭のかからぬ尾張の市が賑わうにつれ……我が今川領内からも、商人や荷駄隊が、吸い寄せられるように西へ向かっておりまする!
遠江の木綿、駿河の良茶、三河の油までもが、今川の関所を嫌いて間道を抜け、津島や熱田へと運ばれております。駿府の市場では日用雑器や綿織物が品薄となり、物価はじわじわと跳ね上がり……このままでは、駿府の城下そのものが干上がってしまいまする!」
「おのれ……!」
元信が太刀の鍔を鳴らして立ち上がった。
「戦にて勝てぬと知るや、今度は他国の富まで巻き込んで、駿府の息の根を止めに来たか! 翔次殿、直ちに関所の番兵を三倍に増やし、境目を越えようとする荷駄を片っ端から差し押さえ、尾張へ荷を運ぶ商人どもを獄へ叩き込むべきじゃ!」
「なりませぬ、元信殿」
翔次は静かに首を横に振った。その双眸は、秋の湖底の如く澄み渡っていた。
「商人は、水と同じでございます。力づくで堰き止めようとすれば、水は地下へ潜り、別の割れ目を探して外へと逃げてゆくばかり。関所を厳しくし、商人を罰すれば、駿府を見限る商人が増え、今川領の経済はますます衰微いたしまする」
「では、指を咥えて駿府の富が尾張へ吸い取られるのを見ておれと申すか!」
「滅相もございませぬ」
翔次は立ち上がり、大広間の奥御殿へと視線を向けた。
「敵が美濃の物資を呑み込み、関銭のかからぬ通商路をもって商人を惹きつけるならば……我が今川家は、敵には決して真似のできぬ『別なる利の磁場』をこの駿府に築き、西へ向かう商人の足を、力づくではなく利をもって東へと引き戻すまでのことにございます」
その日の刻限下がり、今川義元の御座所において、翔次は緊急の財政改革案を言上した。
上段の床几に座す太守・今川義元は、薄浅葱色の直垂をまとい、手元の出納帳を静かに見つめていた。その双眸には、東海道の巨頭としての冷徹な理知が湛えられている。
「翔次。美濃の墨俣が信照旗に靡き、商人が尾張へ引き寄せられておる件、予も耳に入っておるぞ。……そなたの申す『別なる利の磁場』とは、いかなる謀略じゃ」
翔次は畳の上に深く両手をつき、持参した二枚の木札と、一枚の新たな市場絵図を差し出した。
「申し上げまする、太守様。商人が尾張へ向かう真の理由は、単に関銭がないからだけではございませぬ。尾張の市には『座』の縛りがなく、誰でも自由に品を売り買いできるからにございます」
義元の細い眉が、僅かに動いた。
「……座の縛り、とな」
「はい。我が今川領をはじめ、旧来の武家領国におきましては、古くからの特権商人組合である『座』が、市場での取引に強い影響力を持っております。
他国の商人が駿府で物を売ろうとすれば、座の頭領に重い冥加金や座役を納めねばならず、古参の商人に指図を受け、利潤を削り取られます。ゆえに、新参の商人や諸国の廻国商人は、座の締め付けを嫌い、何一つ縛りのない信照の市場へと逃げてゆくのでございます」
翔次は絵図の中央――駿府の安倍川河原に近い広大な空き地を指し示した。
「そこで、太守様。今川領の経済を守り、敵の引力を打ち破るため、二つの大胆なる大改革を断行していただきたく存じます」
「申してみよ」
「第一に、この安倍川の河原に、従来の座の特権が一切及ばぬ新たな公認市場――『駿府自由会所』を開設することにございます」
翔次の言葉に、同席していた三浦上総介が息を呑んだ。
「な……座の特権を及ぼさぬじゃと!? そのような真似をすれば、代々今川家に冥加金を納めてきた古参の座商人どもが反発いたすぞ!」
「反発などさせませぬ」
翔次は冷徹に言い放った。
「古参の商人には、駿府本町での従来の商いを認め、その権益も可能な限り据え置く。その代わり、この河原の新市場においては、他国から荷を持ち込んだ商人に対し、市場で課す座役を免除いたします。宿代と荷蔵の警固は今川家が無償で引き受け、取引の安全を太守様の武威をもって保障するのでございます」
翔次はさらに、懐から取り出した二つの木箱を開いて見せた。
一つには、白銀の如く輝くきめの細かい白塩。
もう一つには、深く澄んだ香気を放つ乾燥した茶の若葉。
「そして第二の策――これこそが、敵の木下藤吉郎の鼻先を圧折する決め手にございます。
我が今川領が誇る二大戦略物資――遠江の新居・白須賀の『白塩』と、駿河山間部の足久保・栃沢で採れる『極上茶』。この二つの産物を今川家の保護のもとに置き、その取引を優遇するのでございます」
義元の双眸が、鋭利に輝いた。
「塩と、茶か……!」
「左様にございます。先だての逆封鎖の折にも証明されました通り、尾張や美濃では、我が領内の塩に代わる良質な塩を容易には得られませぬ。また、茶の湯を愛する都の公家や堺の豪商たちが喉から手が出るほど欲しがる極上の本山茶は、駿河の山深くで産出されまする」
翔次は熱を込めて言上した。
「駿府の新市場へ鉄や薬種、絹織物を持ち込み、今川領内で荷を捌いた商人に対してのみ、この最上の塩と茶を、優先的かつ有利な条件で買い付ける特権を与えまする。
商人どもにこう知らしめるのでございます。
『尾張の市へ行けば関銭はかからぬ。されど、塩も上等な茶も、駿府と同じ条件では手に入りにくい。駿府の新市場へ参れば、座役に縛られることなく荷が売れ、帰り荷として天下無双の塩と茶を有利に仕入れて持ち帰ることができる。これほど儲かる商いの場は、日の本の何処にもない』……と!」
静寂が、広間を支配した。
一語一語、商人の業と欲望を極限まで読み切った、圧巻なる経済の大戦略。
単に税をなくすだけの模倣ではない。己の領地が持つ特産品を武器とし、特権の緩和と手厚い安全保障を組み合わせることで、敵の無税市場に対抗する「巨大な利潤の渦」を人為的に作り出す謀略であった。
義元は長く絵図を見つめた後、ふっと笑みを漏らし、白扇を膝の上で快く打ち鳴らした。
「……ふ、ふふ。見事じゃ、翔次」
義元の低く重厚な声が、静まり返る広間に木霊した。
「敵が美濃の材木と無税をもって商人を呼ぶならば、予は駿河の茶と遠江の塩、そして太守の威光による絶対の安全をもって商人どもを絡め取るか。……戦わずして他国の富を吸い寄せる策、これぞ真の領国経営よ。上総介、元信。直ちに安倍川の河原を整地させよ。塩の生産に携わる者と茶問屋を集め、翔次の指図に従いて触れを出せ。一人の商人も西へ逃すでないぞ!」
「ははッ!!」
重臣たちが一斉に平伏した。
古参の武闘派たちすらも、刀を抜くことなく相手の経済攻勢をねじ伏せようとする翔次の知略に、完全に心服していた。
そこからの駿府の動きは、疾風の如く素早かった。
安倍川の河原に、周囲を頑丈な丸太の柵で囲み、昼夜を分かたず今川の馬廻衆が警固する「駿府公認会所」が急拵えされた。
広大な敷地には荷駄を雨から守る長屋蔵が立ち並び、遠江から運ばれた白須賀の白塩と、駿河山間部から集められた足久保の初摘み茶が、山のように集積された。
そして、東海道の各宿駅、さらには境川の国境番所に至るまで、太守・義元の朱印が捺された大触れが掲げられたのである。
『――駿府新市場において商う者には、座役および冥加金を一切免ず。宿代、荷蔵の使用は無料。他国より鉄、薬種、綿糸、刃物を持ち込みたる者には、上等の白塩と本山茶の優先買付権を与う。商人の身命および荷の安全は、今川家が責任をもって保護す――』
その触れが東海道を駆け巡った瞬間、諸国の商人たちの間に、落雷の如き激震が走った。
大潮の如き逆流が、始まったのである。
尾張の信照街道へ向かっていた伊勢の商人、堺の廻船問屋、近江の麻布商人たちが、国境の手前で荷車を止め、互いに顔を見合わせて騒ぎ始めた。
「……おい、聞いたか! 駿府で新市場が開かれたそうじゃ!」
「座役がいらぬばかりか、荷蔵もタダ、今川の侍が荷の警固までしてくれるというぞ!」
「それだけではない! 鉄や薬種を持ち込めば、遠江の塩と駿河の極上茶を優先して仕入れられるというのじゃ! 尾張へ行っても品物は売れるが、塩と茶を仕入れるなら駿府へ回った方が利がある。駿府で茶と塩を仕入れ、都や堺へ持ち帰れば……利潤は五割、いや倍にも跳ね上がるぞ!」
「駿府へ戻れ! 荷車を東へ向けろッ!」
境川を越えて尾張へ向かおうとしていた商隊の車列が、次々と馬首を東へと巡らせ始めた。
街道を軋ませて進む荷車の列。
鉄を積んだ駄馬、薬種を積んだ車力、伊勢の麻布を満載した商人たちが、競うようにして駿府を目指して東海道を逆流していったのである。
数日を出ずして、駿府の安倍川河原の新市場は、異様な熱気と歓声に包まれた。
見渡す限りの荷車の波。
荷改めを終えた商人たちが、座役に縛られることなく自由に品を並べ、今川役人の厳格な警固のもとで、安心して金銀を数え、商談を成立させてゆく。
他国から持ち込まれた良質な鉄塊、堺の薬種、京の絹糸が山のように駿府へ集まり、その帰り荷として、遠江の白塩と駿河の本山茶が、飛ぶように売れて荷車に積み込まれていった。
かつて活気を失いかけていた駿府の城下は、わずか十日余りのうちに、東海道随一の富饒の都へと息を吹き返したのである。
今川領の経済は、守られた。
美濃の墨俣を呑み込んだ信照勢力の巨大な引力に対し、翔次は「座役免除」と「塩茶の取引優遇」という強烈なる対抗策を打ち出すことによって、見事にその吸い上げを押し返し、自立せる経済圏を死守したのである。
――しかるに。
その頃、尾張・清須城下の一角にある豪商の屋敷において。
尾張の流通を取り仕切る木下藤吉郎のもとへ、諸国の商人たちから次々と悲鳴のような報告書が積み上げられていた。
「……木下様! 遠江の木綿も、駿河の塩も、駿府で商われる品が増え、尾張へ入って参りませぬ!」
「美濃の紙や材木を運んでも、駿府の新市場へ商人が流れてしまい、堺の買い手が駿府へ足を向けておりまする!」
帳面を繰る藤吉郎の苦虫を噛み潰したような渋面が、行灯の光の下で微かに震えていた。
無税の通商路を敷き、美濃の物資を抱え込んで今川を経済的に締め上げようとした藤吉郎の渾身の策は、駿府に立ち現れた「塩と茶の取引優遇」という岩盤の如き壁の前に、完全に前進を阻まれていたのである。
そして――。
堺の茶人にして天下の豪商たる津田宗及が、京の豪商・田中宗慶に宛てて送った一通の密書には、この東海道の経済暗闘の真相が、畏怖を込めてこう記されていた。
『――近頃、尾張の木下藤吉郎の仕掛けたる無税の市、美濃を巻き込みて目覚ましき勢いを見せたり。されど、駿府の今川館に座す鍋蓋翔次なる軍師の繰り出せし「座役免除」と「塩茶の取引優遇」の策は、さらにその上を行く神妙の業なり。
商人の利を奪わず、かえって利をもって商人を東海道へ呼び戻し、一兵も動かさずして尾張の経済攻勢を押し返したり。
尾張の木下が銭を操る猿ならば、今川の鍋蓋は天下の血流を統御する怪物なり。この両雄の暗闘、誠に恐るべし――』
数日後。
その宗及の書状の写しを手に入れた岡部元信が、駿府の物見櫓の上で翔次に差し出し、豪快に笑い声を響かせた。
「翔次殿! 見よ、堺の大商人がそなたを『天下の血流を統御する怪物』と書き留めておるぞ! 木下藤吉郎の鼻先を、刀も抜かずにへし折ってくれたわ!」
翔次は書状を一瞥し、静かに首を横に振った。
「元信殿。勝ったわけではございませぬ。……美濃の墨俣周辺の豪族たちが、信照殿の旗を仰ぎ始めた事実は、何一つ変わってはおりませぬ」
翔次の眼差しは、依然として冷徹な警戒を解いてはいなかった。
「美濃の斎藤家は、もはや風前の灯火。信照勢力は、戦うことなく、民と豪族の自発的な保護の求めによって、美濃一円を呑み込もうとしております。……経済の防衛線は守り抜きましたが、大局の地図は、日ごとに西へと傾いておりまする」
翔次は西の空を見つめた。
夕暮れの空の下、尾張と美濃の山並みが、重なり合って暗藍色の影を落としている。
前田利家の武勇を空振らせ、木下藤吉郎の経済攻勢を押し返した。
されど――あの清須城の奥深くに座す織田信照という男は、依然として一言も発せず、一度も軍勢を率いて出陣することすらしていないのだ。
(信照……)
翔次は自らの胸元を強く押さえた。
胃の腑の奥底で、次なる激震を告げる警鐘が鳴り響いていた。
美濃を押さえ、尾張を固めた見えざる魔王の触肢が、次に伸ばされる先はどこか。
伊勢湾の対岸――北伊勢の桑名か。
それとも、境川を越えた三河の防衛線そのものか。
東海道の平穏を揺るがす次なる大波が、大地を揺るがす跫音とともに、静かに、確実に忍び寄ろうとしていた。




