第二十九話:成長するお市
第二十九話:成長するお市
永禄六年の冬、今川館下には白富士から吹き下ろす凍てつく颪が吹き荒れ、安倍川の河原には薄氷が張り詰めていた。
今川の軍略家たちが怯え、鍋蓋翔次の分析すらも諸将の恐怖を煽る燃料となって一人歩きを始めたのち、戦線には再び、重苦しい膠着が横たわっていた。
今川軍は動けず、尾張の信照も動かない。境川の葦原を挟んで、互いに相手の胸中を探り合うだけの、底知れぬ静寂が東海道を覆っていた。
されど、その鉛色の静寂を切り裂いて、西の尾張より駿河にもたらされたのは、軍勢の動きでもなければ、新手の謀略の報せでもなかった。
それは――かつて戦乱の泥の中で生き別れ、死の淵から救い出された一人の姫君を巡る、美しくも不気味なる風聞であった。
今川館の奥、冷え切った板敷きの上に、尾張から帰還したばかりの今川家の透破頭・伴野弥四郎が平伏していた。
旅埃に塗れた着物の懐から取り出された密書には、清須城下、ならびに熱田や津島の湊を巡る最新の民情が、克明に記されていた。
「……弥四郎。この報告、相違あるまいな」
机を挟んで座す翔次の問いに、弥四郎は深く頭を垂れた。
「はっ……。拙者みずから、清須の城下町へ潜入し、この目で確かめて参りましてございます。町人どもも、行き交う商人どもも、今や尾張の地において、かの御方の噂を口にせぬ者は一人としてござりませぬ」
「市姫、か……」
翔次は呟き、手元の密書に視線を落とした。
墨痕鮮やかに記された、織田家の姫君の名。
永禄三年五月、桶狭間の豪雨の中で織田信長が敗死した数日後。今川の大軍に包囲された砦から、前田利家や蜂須賀小六の手によって辛うじて救出された、当時わずか数え十三歳の可憐なる少女。
あれから、既に三年半の歳月が流れていた。
密書の行間に浮かび上がるその姿は、翔次が前世の書物の記憶の中に留めていた「戦国一の美女」の輪郭を、遥かに鮮烈に、遥かに気高く現出させていた。
――数え十六歳。
雪のような白皙の肌に、黒檀の如き艶やかな黒髪。切れ長の澄んだ瞳には、武家の女子特有の凛烈たる気品と、慈悲の光が宿り、その立ち姿は、咲き誇る白百合の如しと称えられていた。
京の都から尾張を訪れた公家たちは、「楊貴妃の再来、小野小町の面影」と詩に詠んで絶賛し、堺の豪商たちまでもが、「尾張に咲いた至高の玉」と書簡に書き留めているという。
「……成長されたのだな」
翔次は静かに息を吐いた。
十六歳。戦国時代にあっては、すでに他国の大名へ輿入れし、政治の駒として婚家の運命を背負わされていても何ら不思議ではない年頃である。
本来の歴史であれば――。
翔次の脳裏に、歴史書の記述が、苦い痛みとともに蘇る。
近江の浅井長政へ嫁ぎ、政略結婚でありながら夫と深い情愛を結び、やがて信長と長政の激突によって引き裂かれ、小谷城の落城の中で夫を失う。
後には柴田勝家に再嫁するも、賤ヶ岳の合戦ののち、北ノ庄城の天守において業火に巻かれて散る――戦国という修羅の時代を象徴する、もっとも美しく、もっとも過酷な悲劇の姫君。
だが、この狂った世界において、信長は死んだ。
浅井長政への輿入れの道は閉ざされたのか、お市は清須の城下、異母兄・織田信照の膝元に留まり続けていた。
「……されど、翔次殿」
弥四郎が声を低め、報告を続けた。
「尾張の民が熱狂しておるのは、かの姫君の美貌ゆえのみではござりませぬ。……その行状にございます」
「行状?」
「はい」
弥四郎は喉を鳴らし、清須城下で目撃した光景を、ありありと語り出した。
「市姫は……城の奥深く、錦の褥の上に安座しておられる深窓の姫君ではござりませぬ。
先立つ秋の長雨、ならびに木曽川の出水によって住処を失った難民が清須の河原に溢れました折……自ら粗末な麻の小袖を纏い、木綿の襷を掛け、泥まみれの炊き出し小屋へと降り立たれたのでございます」
翔次の眉が動いた。
「姫みずからが、炊き出しを……?」
「左様にございます。腰元たちの制止を振り切り、みずから大釜の前に立ち、木杓を握って温かい雑炊を椀に注ぎ、飢えた百姓や孤児たちの一人一人に、手ずから手渡されたというのです。
泥に塗れた老人の手を握り締め、『寒くはありませぬか、腹は満ちましたか』と優しく微笑みかけられたそのお姿に……百姓どもはみな、泥の中に平伏し、涙を流して『観音様じゃ、生き神様じゃ』と拝み倒した由にございます」
弥四郎の言葉に、部屋の隅で腕組みをしていた岡部元信が、太刀の鞘を小さく鳴らした。
「……信じられぬな。織田の血筋といえば、気位が高く、民草を見下す苛烈な武家のはず。その姫が、泥にまみれて百姓に飯を配るじゃと? 民心を買うための、薄っぺらな芝居ではないのか」
「芝居ではござりませぬ、元信様」
弥四郎は首を横に振った。
「一度や二度のことではないのでございます。戦傷を負った足軽の陣屋へも自ら足を運び、薬湯を煎じ、包帯を替え、兵たちの痛みに涙を落とされる。
清須の民の間では今や、『お市様のおられる尾張は、極楽浄土の入り口じゃ』と信じ込まれ、津島や熱田の商人たちも、お市様の炊き出しと聞けば、我先にと米や味噌を無償で運び込んで参る始末……。
あの姫君は、ただ美しいだけではござりませぬ。尾張の民百姓にとって、心の拠り所……かけがえのない姫君として慕われておるのでございます」
静寂が、作戦部屋を満たした。
行灯の灯火が、弥四郎の緊張した面持ちを白く照らしている。
翔次は手元の密書をめくり、さらに奥の一節を凝視した。
そこには、お市と、あの見えざる魔王・織田信照との関係が、克明に記されていた。
『――市姫は、炊き出しを終えて城へ戻られるや、手ずから井戸水を汲んで茶を点て、清須城の奥深くに籠もる信照の部屋の前に、三つ指をついて跪かれる。
「兄上、本日も尾張の民は無事に暮らしております。すべては、天下の重圧を一人で背負い、静かに天下を見据えておられる兄上のおかげにございます」と、涙ぐみながら深々と頭を垂れられるという。
信照が御簾の奥から一言も返さず、ただ沈黙を守っておられる時も、お市様はその襖に向かって深く一礼し、兄の孤独を労わるように静かに立ち去られる……』
「……兄上、か」
翔次の喉から、絞り出すような呟きが漏れた。
胸を突くような衝撃。
そして――言い知れぬ敗北感が、翔次の内臓を冷たく締め上げた。
(……完成している)
翔次は両拳を強く握りしめた。
(信照の陣営は……一つの強固な形を成しているんだ)
これまで翔次が対峙してきた信照の脅威は、四天王の武勇であり、保護圏の自治であり、関所や関銭の権威を揺さぶる経済の力であった。
それらはすべて、軍事や政の上での戦いであった。
だが、お市の存在は、その土台の上に、民の心を深く結びつける力を加えていた。
清須城の奥深くに座し、一切の姿を見せず、言葉を発さぬ冷徹なる主君・織田信照。
恐怖と深謀遠慮をもって今川の大軍を退け、東海道を沈黙の圧力で威圧する「剛の魔王」。
そして――その魔王の足元で、泥にまみれて民を慈しみ、温かい粥を配り、傷を癒す美しき妹・お市。
慈悲と祈りをもって民衆の心を掴む「柔の姫君」。
剛と柔。
闇と光。
魔王の沈黙が民衆を畏怖させ、姫の微笑みが民衆を救う。
この二つが並び立つ姿を前に、尾張の民草がどれほど深い忠誠を抱くか、想像するに余りあった。
「……このままでは敵うはずが、ないぞ」
翔次は乾いた唇を噛み締めた。
今川家の領国統治と、信照陣営の統治。
その違いが、翔次の目にははっきりと映っていた。
今川家は、名門である。
足利一門の格式を誇り、分国法「今川仮名目録」によって領民を律し、格式と家格の上下によって家中を統制している。
今川義元は名君であり、民を富ませ、治水を行い、善政を敷いている。
だが、翔次には、信照陣営とは異なる力があるように思えた。
今川家は、法と格式をもって国を治め、民の暮らしを豊かにする。その統治は決して悪しきものではない。民もまた、善政の恩恵と、長く続いた秩序への信頼をもって今川家を支えていた。
しかるに、信照の陣営では違う。
民は施しを受けるだけの者ではなく、自ら商いを支え、街道を守り、時には己の蓄えを差し出して、あの兄妹のもとに集っている。そこには、法や格式に加え、人と人との結びつきがあった。
(信長の死は……織田家を弱めるどころか、この化け物のような結束を生み出してしまったのか……)
翔次の胸の奥底で、かつてないほど複雑な感情が渦巻いていた。
激しい嫉妬。
そして――敵でありながら、そのお市の気高い姿に対する、抗いがたい憧憬であった。
翔次が心を打たれたのは、ただ、その姫君が美しいからではなかった。
戦国の世に生まれた女子が、家の都合によって嫁ぎ先を定められ、父や兄の戦のために己の生涯を差し出すこと。それが、当たり前のこととして受け入れられていた時代である。
されど、お市は違った。
少なくとも、今、翔次の手元にある報せが真実ならば、彼女は誰かに命じられたからでも、政略のためでもなく、自らの意志で民のもとへ赴いている。泥にまみれ、傷ついた者の手を取り、飢えた者に食を分け与える。その行いに、どれほどの家格も、どれほどの権威も要らぬ。
それを為せることが、翔次には眩しかった。
前世で歴史書を読み、お市の名を知った時、彼女はいつも、男たちの争いに翻弄される悲劇の姫君であった。
政略結婚によって夫を得ながら、やがて戦に引き裂かれ、最後には城の炎の中に散る――その生涯は、翔次の記憶に深く刻まれていた。
けれど今、密書の中にいる彼女は、誰かの悲劇を彩るための人物ではない。自ら考え、自ら歩き、目の前の人々に手を差し伸べる、一人の人間として生きている。
――このような生き方が、あったのか。
その感慨は、敵への警戒とは別のところから、翔次の胸に深く染み込んでいった。
(よかった……のか?)
翔次は自問した。
自分が桶狭間で信長を死なせ、歴史を壊した。
その罪は、万死に値すると思った。
だが――その結果として、お市という女性は、あの地獄のような悲劇の運命から解き放たれ、最愛の兄の元で、これほどまでに気高く、幸せそうに生きているのではないか。
――否。
翔次は即座に、己のその甘い感傷を振り払った。
(馬鹿を言うな。あのお方は……敵の象徴だ)
お市が気高くあればあるほど。
お市が民に愛されれば愛されるほど。
信照陣営の求心力は岩盤の如く強固になり、今川家が尾張を切り崩す道は、永遠に、完璧に閉ざされてゆくのだ。
信照が、妹の慈悲深い行いをどこまで理解し、何を思っているのか。翔次には知る由もなかった。
ただ、その兄妹が尾張の民にとってかけがえのない存在になりつつあることだけは、疑いようがなかった。
「……太守様に、言上せねばならぬ」
翔次は立ち上がった。
膝の震えを隠すように、強く袴の裾を握りしめる。
その日の夕刻、今川館において、翔次からこの報告を聞かされた今川義元は、沈痛な面持ちで庭の枯れ木を見つめたまま、長く、重い沈黙に沈んでいた。
手の中に握られた白扇が、夕暮れの光の中で鈍く光っている。
義元は静かに扇を膝の上に置き、深く息を吐き出した。
「……織田の血筋、恐るべし、じゃな」
義元の低く掠れた声が、静まり返った広間に落ちた。
「女子供の情けと、笑い飛ばすことはできぬ。……民の心を真に結びつけるものは、太刀の刃でもなければ、金銀の輝きでもない。あのような、穢れなき祈りよな」
義元は目を伏せた。
「予の今川家が、いかに善政を敷き、新田を拓こうとも……信照とお市の結びつきは、また違う形で民の心を動かしておる。
今川は法と秩序をもって国を治め、民の暮らしを守る。されど、あの兄妹は、民の苦しみにみずから手を差し伸べ、民もまた、自らの意思でそのもとに集っておるのだな。
魔王の威圧と、観音の慈悲。……これほど強固なる人心の城壁を築かれては、いかなる大軍をもってしても、尾張の民を今川へ靡かせることなど、容易には叶わぬわ」
天下の巨頭・今川義元をして、そこまで言わしめたお市の存在感。
城を奪われたわけではない。合戦で敗れたわけでもない。
だが、今川家の首脳陣は、織田家の血脈が放つ人間的な光の前に、己たちの歩んできた武家の統治だけでは及ばぬものがあることを、痛烈に思い知らされていた。
軍議が引けた後、翔次は一人、今川館の奥深い書斎の窓辺に立ち、西の夜空を見つめていた。
冬の星々が、冷たく冴え冴えと瞬いている。
尾張・清須の方向。
見渡す限りの暗黒の彼方に、今宵もあの兄妹が寄り添っている。
沈黙の奥で天下を見据える魔王・信照。
その傍らで、温かい茶を点て、民のために祈りを捧げる麗しき姫・お市。
(お市様……)
翔次は冷たい夜風を肺腑に吸い込み、強く胸元を押さえた。
激しい胃痛とともに、名状しがたい焦燥と、孤独が全身を苛んでいた。
(あなた方は……どこまで強く、どこまで気高いんだ。
俺がどれほど知恵を絞ろうと、どれほど理を尽くそうと……その血の絆の温もりに、触れることすら叶わないというのか……!)
知恵と武力で勝てぬ敵が、今や「心の絆」においてすら、今川軍の遥か高みにいるように思えた。
そして――この兄妹の絆に対する今川陣営の深読みと誤解が、やがて信照という男の虚像を、人知を超えた「絶対の孤高」へとさらに神格化させてゆくことを、翔次はまだ、知る由もなかった。




