第三十話:絆の幻影
第三十話:絆の幻影
冬が去り、永禄七年の春。駿河の富士の残雪は眩しく輝き、今川館下の躑躅は燃えるような紅い花を咲かせていた。
境川を挟む尾張と三河の境目は、依然として不気味なほどの無血の静寂に閉ざされていた。大軍の衝突はなく、鬨の声も響かない。
されど、東西を行き交う旅人や商人、各地から訪れる者たちがもたらす風聞は、ひとつの巨大なる「神話」となって、東海道の空を席巻し続けていた。
それは――尾張・清須城の奥深くに座す見えざる魔王・織田信照と、その傍らに咲く白百合の如き姫君・お市をめぐる、美しくも不可思議なる「兄妹の絆」の噂であった。
今川館の冷え切った板敷きの上に、鍋蓋翔次は一人、膝を折って座していた。
机の上には、今川家の透破たちに集めさせた数十通の密偵報告書が、几帳面に分類されて並べられている。
世間において語られている噂は、ことごとくが二人の兄妹を現世の神仏の如く称えるものであった。
『――東海の魔王・信照公の威厳は須弥山の如く動かず、その妹・お市様の慈悲は観音の如く万民を潤す』
『――二人はただの血を分けた兄妹にあらず。神仏がこの乱世の業火を鎮めんがために、一つの魂を光と影に分かちて地上へ遣わした、至高の絆なり』
尾張の民は信照の沈黙に平伏し、お市の炊き出しの粥に涙を流し、この二人が並び立つ限り、尾張は不滅の安寧の地であると信じ込んでおるという。
「……絆、か」
翔次は薄暗い行灯の光の下で、低く呟いた。
一見すれば、美談である。
苛烈な武家社会にあって、肉親同士が骨肉の争いを繰り広げるのが日常茶飯事の乱世において、これほど清らかに、これほど深く結ばれた兄妹の絆など、他に類を見ない奇跡のように思える。
――しかるに。
翔次の怜悧な頭脳は、その甘やかな美談の表面に満足することを拒んでいた。
前世において無数の歴史書を読み解き、権力者の心の奥を探ってきた翔次の眼は、密偵報告書の行間に潜む、ひとつの決定的な「違和感」を鋭く捉えていた。
「……弥四郎」
翔次は襖の向こうに控える透破頭を静かに呼んだ。
衣擦れの音とともに姿を現した弥四郎が、平伏する。
「はっ。何なりと」
「そなたらが持ち帰った清須城内の記録……。この中に、信照と市姫が『直接言葉を交わした』記録が、ただの一行も見当たらぬのは何故だ」
弥四郎の肩が、微かに強張った。
「それは……翔次様。清須城の奥御殿は、滝川一益配下の忍びによって針の筵の如く固められており、近づくことすら至難の業にございます。されど……城内の女中や料理番から漏れ聞こえる話を突き合わせましたところ、直接言葉を交わしたと確認できる証言は、ただの一件もござりませぬ」
「確認できぬ、とはどういうことだ」
「……お二人が、直接言葉を交わす姿を、城内の誰も目撃しておらぬのでございます」
弥四郎は顔を上げ、自らも不可解でならぬといった面持ちで語り出した。
「市姫は、炊き出しを終えて城へ戻られるたび、手ずから点てた茶を盆に乗せ、信照の居室の前に三つ指をついて座られます。
『兄上、本日も尾張の民は無事に暮らしております。すべては兄上の深謀遠慮のおかげにございます』と、感謝を述べられる……。
されど、信照は……御簾の奥から姿を見せませぬ。
襖が開くこともなく、妹の手を取ることもなく、労いの言葉一つかけることすら確認できぬのです。ただ、『……うむ』と低く唸るか、あるいは終日、物音一つ立てずに沈黙を守るのみ……」
翔次は眉をひそめた。
「……直接、顔を合わせぬのか」
「へえ。市姫が運ばれた茶や膳も、市姫が立ち去られた後に、小姓が襖の隙間からそっと差し入れるのみ。信照が市姫を親しく労ったことも、笑顔を見せたことも、この三年半、城内の者が一度として目にしたことはござりませぬ。
お二人の間には、常に厚い襖と御簾があり、冷ややかな距離が保たれておる……。奥御殿の闇の中で実際に何が交わされておるかは、外からは窺い知ることができませぬのでございます」
「……」
翔次は手元の密書を凝視したまま、沈黙した。
解せない。
あまりにも、解せない事実であった。
世間は「至高の絆」と噂している。
お市自身も、兄を「天下の重圧を一人で背負う孤高の主」と信じて疑わず、心からの敬愛を捧げている。
それにもかかわらず――当の信照自身は、その妹に対して、目に見える温情の痕跡を一切見せていないのだ。
なぜだ。
翔次の頭の中で、前世で学んだ歴史上の専制君主や冷酷なる覇者たちの姿が、静かに組み替えられていった。
十六歳という花のような盛りに、粗末な麻の小袖を着て泥まみれになり、民の雑炊を配る妹の姿。
傷ついた足軽の包帯を替え、民のために尽くす妹から、これほどまでに真っ直ぐな敬愛を捧げられて、情に絆されぬ兄がいるだろうか。「無理をするな」「怪我はないか」と声をかけ、労うのが、人の情というものではないか。
だが、信照はそれを表に出さない。
部屋に入れず、笑顔を見せず、優しく声をかけることすらない。
(……拒絶しているのか?)
翔次の背筋を、冷たい疑念がかすめた。
(否……違う。拒絶などではない。
あいつは……感情をあえて交えず、徹底した客観性を貫いているのではないか……?)
思考の糸が、一本の戦慄すべき仮説へと結びついてゆく。
もし、信照がお市に対して「情の深い兄」の顔を見せればどうなるか。
妹は一個の少女として兄に甘え、武家の峻厳な秩序は緩む。
そして何より――家臣や民衆の前に立つ「東海の魔王」としての絶対的な威厳に、わずかな人間味の綻びが生じてしまう。
信照は、それを冷徹に計算しているのではないか。
己が民衆にとって「人知を超えた恐るべき主」であり続け、妹が民衆にとって「慈悲深き姫君」であり続けること――その二つが完全に噛み合ってこそ、尾張の民心は揺るぎなき城壁となる。
その巨大な構図を維持するために、信照は、自らの肉親への情愛すらも表に出さず、厳格な距離を保ち続けているのではないか。
(……信照は、市姫の存在そのものを、領国を支える要として扱っているのだ)
翔次は拳を強く握りしめた。
翔次の脳裏に、前世で学んだ冷徹なる権力論の記憶が重なっていた。
君主とは、愛されるより恐れられねばならぬ。大義と統治のためには、私情を排し、あらゆる関係を冷徹に律せねばならぬという覇道の論理。
信照は、まさにそれを体現しているように見えた。
妹の純真な志を否定せず、民を慈しむままに任せる。
だが、自らは決して甘い顔を見せず、御簾の奥の闇に身を潜め、威厳をもって天下を睥睨し続ける。
妹がどれほど敬愛の念を向けようとも、その情に溺れることなく、大名としての立ち位置を守り続けているのだ。
(感情を……ここまで統御できるのか)
翔次はかすかな戦慄を覚えた。
豪族には自治を委ねて結束させ、配下には「兵を減らすな」と命じて無駄な損害を防ぐ。
そして今――実の妹の清らかな徳すらも、領国を結束させる強力な柱へと変えている。
人間味あふれる情愛の絆などではない。
信照という男の本質は――人知の及ばぬ冷徹な計算力をもって、人間のあらゆる善意や敬愛すらも統治の力へと変えてしまう、底知れぬ「怪物」に違いないのだ。
「……翔次殿」
襖が開き、重い足取りで入ってきたのは岡部元信であった。
「太守様がお呼びじゃ。……尾張の市姫と信照の風聞について、家中でも議論が紛糾しておる。諸将は『兄妹の結束があまりにも固く、調略の隙がない』と嘆息しておるが……翔次殿、そなたの眼には、あの兄妹がいかに映っておるのじゃ」
翔次はゆっくりと立ち上がった。
「……元信殿」
「うむ?」
「敵に……情による綻びはございませぬ」
「何……?」
元信が怪訝そうに目を丸くした。
「参りましょう、元信殿。太守様に……某の見立てをお伝えせねばなりませぬ」
今川館の大広間には、今川義元をはじめ、三浦上総介、朝比奈泰朝ら重臣たちが顔を揃えていた。
広間の空気は、春の暖かさとは裏腹に、重く沈んでいた。
上段の義元は、膝の上に置かれた白扇の要を指先で弄びながら、静かに翔次を見据えた。
「……翔次よ。尾張の姫・お市の噂、次第に大きくなってきておる。織田の血筋の結束を恐れる声も多いが……そなたの今の見立てを聞かせよ」
広間の視線が翔次へと集中した。
翔次は広間の中央に進み出ると、畳の上に深く両手をついた。
「申し上げまする、太守様」
翔次の声は、静かに、だが確かな重みをもって響いた。
「世間の者どもが語る『麗しき兄妹の絆』……それは、今川の調略を遮断するために組み上げられた、恐るべき防壁と見るべきにございます」
諸将が息を呑んだ。上総介が身を乗り出す。
「防壁じゃと……!? 現に、お市は清須で炊き出しを行い、信照を兄上と慕って忠誠を誓っておるとのことではないのか!」
「市姫が兄を敬愛しておられることは、疑いございませぬ」
翔次は上総介を見据え、言葉を継いだ。
「されど、信照が妹に目に見える情を示したという報せは、一つもございませぬ。
城内の調べにおきましても、二人が直接言葉を交わす姿は確認できず、信照は終日、御簾の奥から沈黙を守るのみとのこと。
あの男は、妹の慈悲と己の威厳とを、まるで別々のもののように使い分けておるのではないか――某には、そう思えてならぬのです」
翔次は、集めた報告の事実と、自らの推論を切り分けて説いた。
「市姫が民を慈しむ姿は、尾張の民衆を熱狂させておりまする。もし信照が情に絆され、妹に甘さを見せれば、その隙を突くことも叶いましょう。
されど、信照は情を表に出さぬ。妹の純真なる徳をそのまま外へ向けさせつつ、自らは冷徹な威厳を保ち続けている。肉親の情愛すらも私情に流さず、統治の力へと変えているのだとすれば……情を通じてあの兄妹の結束を切り崩すことなど、到底叶いませぬ」
翔次の言上に、大広間は静まり返った。
諸将の顔に、言葉を失った重い緊張が広がってゆく。
「……肉親の情すら、律しておるというのか」
義元の低く重厚な声が、静寂を破った。
義元は白扇を握りしめ、静かに宙を見据えた。
「予とて、我が子・氏真を前にすれば、親としての情が湧く。甘やかし、目を細め、武家の厳しさを忘れそうになる夜もある。それが、人の親であり、人の兄というものじゃ。
しかるに……信照は、慕い寄る妹を前にしても私情に溺れず、ただただ領国の柱として座しておるというのか」
義元の瞳に宿っていたのは、武将としての警戒を越えた、相手の底知れぬ自制心に対する深い嘆息であった。
「情ある敵ならば、弱みを突くこともできよう。愛に溺れる主君ならば、利をもって釣ることもできよう。……されど、実の妹の敬愛すらも私情と切り離し、揺るぎなき構えを崩さぬ男を相手に、いかなる小細工が通じるというのか」
「小細工は通じませぬ」
翔次は深々と平伏した。
「情による切り崩しは、金輪際叶いませぬ。……敵の首魁・織田信照は、私情に一切左右されぬ、極めて手強い統治者として相対せねばならぬ存在にございます」
翔次の言葉が、大広間に重く染み渡った。
今川家の首脳陣の胸中に、「私情を排した冷徹なる魔王・信照」という虚像が、また一段、深く刻み込まれた瞬間であった。
軍議が引けた後、翔次は庭先に立ち、西の夜空を見つめていた。
春の夜風が、冷たく頬を撫でてゆく。
尾張・清須の方向。
闇の彼方に、感情を微塵も表に出さぬ、底知れぬ主君の巨大な影が聳え立っているように見えた。
(信照……貴様は、私情すらも統御して立つというのか)
翔次は胃の腑の痛みを堪え、拳を握りしめた。
(しかし、お前がどれほど冷徹に構えていようと……俺は、この今川の地を、守るべき仲間たちの命を、絶対に貴様のような男には渡さないぞ……!)
虚像が虚像を生み、恐怖が恐怖を育てる泥沼。
そして――この信照への過剰なる恐怖の波紋は、三河の最前線で過酷な重圧に耐え続ける若き松平元康の心に、次なる決定的な決断を迫ろうとしていた。




