第二十八話:百策伝説の幻影
第二十八話:百策伝説の幻影
永禄六年の秋、駿府の町を囲む茶畑には白い茶の花がほころび、安倍川の河原にはススキの穂が銀色の波を打っていた。
境川西岸の高岡の郷において、今川軍が空の村を押さえたものの、得られる物資も守るべき敵もなく、兵糧を費やす前に撤退した一件は、前線の将兵のみならず、駿府の中枢で軍略を司る将たちの心にも、深い波紋を広げていた。
今川館の一角に設けられた「軍監所」。
ここは、今川義元が領国の軍事・軍令を統べるために設けた政庁であり、古今の軍書を修めた軍学者、地誌に明るい目付、歴戦の兵法指南役など、家中屈指の知者二十余名が集う場所であった。
平時であれば、各砦の兵数や武具の備蓄を点検し、整った筆跡で軍令を起草する静謐な館である。
しかるに今、その軍監所の板敷きには、足の踏み場もないほどに帳面と絵図が散らかり、行灯の油煙と墨の匂いが濃密に立ち込め、異様な熱気と呻き声が満ちていた。
「……またじゃ。また、過去のどの軍書にも当てはまらぬ」
軍監の頭を務める松井宗信が、白髪の混じった頭を両手で抱え込み、机の上に突っ伏していた。
目の下には墨を塗ったような濃い隈が刻まれ、その頬は病人のように削げ落ちている。
机の上には、過去三年にわたる「対織田戦況記録」が、五十冊を超える分量となって積み上げられていた。
松井宗信の周りを囲む若い軍監たちもまた、血走った眼で巻物を繰り、互いに声を荒らげて議論を戦わせていた。
「桶狭間以後、前田利家の兵を損なわぬ退き際、木下藤吉郎が米と商いを結びつけた寄進の仕組み、滝川一益の間者を用いた情報戦、蜂須賀小六が支える木曽川の水運……!」
「それだけではない! 萱津における民衆の保護圏化、北部の城持ち豪族による自治同盟、前田利家の損害を極限まで抑える電撃離脱、武装商人による新居の関門への圧力、そして先日の高岡の郷における、村人の退避によって空となった村……!」
「孫子の兵法十三篇、呉子六篇、司馬法、三略、六韜、あるいは唐土における楚漢の興亡に至るまで、古今の軍書をことごとく繙いたが……これほどまでに戦法が毎回異なり、一度として同じ手を繰り返さぬ敵など、歴史の何処にも存在せぬ!」
軍監たちの声は、学究の議論を通り越し、得体の知れぬ怪異に遭遇した者の怯えへと変わっていた。
彼らは秀才であった。
文字を解し、理を重んじ、過去の合戦の先例を手本としてきた軍学者たちである。
それゆえに――清須の織田信照が繰り出してくる、変幻自在に見える戦い方が、彼らの理解を超えた怪異となっていたのだ。
普通の大名であれば、得意の戦法がある。
武田信玄であれば、精強なる甲斐武田の軍勢と調略。
長尾景虎であれば、電撃的な野戦と神仏への誓約。
北条氏康であれば、小田原城の堅固な守りと領国の民政。
相手の手口が分かっていれば、防ぐ手立てを講じることもできる。
だが、信照には「型」がない。
武力で攻めてきたかと思えば、経済で締め上げ、法で縛ろうとすれば自由な振る舞いでかわし、兵を減らさぬかと思えば、村人を退かせ、利用できる物資も残さぬまま村を空にする。
過去の先例のどれにも当てはまらない手が、戦うたびに、まるで尽きぬ泉の如く湧き出してくるのだ。
「……まだあるのじゃ」
長谷川元長という中堅の軍監が、震える指先で白紙の巻物を指差した。
「奴が繰り出してきた奇策は、まだ十か二十に過ぎぬ。……信照という男の頭脳の中には、まだ我らの見たこともない奇策が、五十、いや、百……無数に眠っておるに相違ない……!」
「百の、策……」
松井宗信がその言葉を反芻した。
その濁った瞳に、底知れぬ恐怖の火が灯った。
「百策じゃ。……尾張の魔王・信照には、天下を呑み込むための『百の神算鬼謀』があるのじゃ……!」
その日の正午、今川館の大広間において、軍監所からの緊急報告の場が持たれた。
上段の床几には今川義元が端座し、側近の席には鍋蓋翔次と岡部元信が控えていた。
広間の中央に進み出た松井宗信と長谷川元長は、青ざめた顔で畳に平伏し、墨痕生々しい一冊の分厚い冊子を義元の前に差し出した。
表紙に記された題名――『尾張魔王信照・百策分析帳』。
「……何じゃ、これは」
義元が眉をひそめ、白扇で冊子の角を押し上げた。
宗信は額を畳に擦り付けながら、上ずった声で言上した。
「太守様……! 我が軍監所が総力を挙げ、過去三年の敵の動静、ならびに間者の報告を精査いたしましたところ……戦慄すべき結論に至りましてございます。
信照なる小童は、ただ無軌道に戦っておるのではありませぬ。……あの男は、今川家を内側から崩壊させるための『百の策』を、あらかじめ完璧に設計し、そのうちの十数策を、順を追って繰り出しておるに相違ございませぬ!」
広間にいた三浦上総介や朝比奈泰朝ら重臣たちが、ざわめいた。
「百の策じゃと……!?」
「はい!」
長谷川元長が身を乗り出し、畳を叩いた。
「これまでの戦果をご覧くだされ! 第一策・桶狭間以後の尾張の変転、第二策・利家による補給路破断、第三策・小六の水運掌握、第四策・一益の防諜網、第五策・藤吉郎の寄進経済、第六策・萱津の保護圏化、第七策・信照の旗による境目の力関係の変容、第八策・北部豪族の自治同盟、第九策・利家の電撃離脱戦術、第十策・武装商人による関門への圧力、第十一策・高岡の郷における、村人の退避によって空となった村……!
これらすべてが、偶然の産物であるはずがございませぬ! 一つの策が防がれれば、即座に次なる異形の手が発動する……。これは、信照の頭脳の中に、東海道を完全に窒息死させるための『百の計略』が、あらかじめ網の目の如く組み上げられておる証拠にございます!」
「ば、馬鹿な……!」
上総介が息を呑んだ。
「百の計略じゃと……!? そんな神仙のような頭脳を持つ武将が、この世におってたまるものか!」
「では、上総介殿!」
宗信が血走った眼で食ってかかった。
「貴殿は、先日の高岡の郷で、なぜ我らが攻め入った村には、兵も村人も物資も残されておらなんだのか、説明がつきまするか! なぜ商人どもが鉄砲を持って新居の関門を堂々と揺さぶったのか、説明がつきまするか!
すべては、我らの思考の裏をかくために周到に用意された罠であったではないか!
……奴には、まだ八十を超える未知の策が残されておるのじゃ! 次は美濃の水を使った大洪水か! 堺の鉄砲商人を使った暗殺か! それとも、今川領の農民に毒を配って一揆を起こさせる策か……! 何が飛び出してくるか、誰にも読めぬのじゃ!」
宗信の叫びは、広間の諸将の心を激しく揺さぶった。
歴戦の猛将である元信すらも、佩刀の鍔を握る手を震わせ、言葉を失っている。
目に見える軍勢であれば、槍を合わせて戦える。
だが、「まだ見ぬ八十の策」という正体不明の影の前に、今川家の重臣たちは、暗闇の中で四方から刃を突きつけられているかのような、疑心暗鬼に呑み込まれかけていた。
広間が静まり返る中――。
側近の席に控えていた鍋蓋翔次は、机の上の『百策分析帳』を静かにめくり、深いため息をついた。
翔次は立ち上がり、広間の中央へと歩み出た。
「……松井殿。長谷川殿」
翔次の声は、真冬の湧き水のように澄み渡り、静かに広間へ染み渡った。
「諸将の皆様方。……どうか、目を醒まされよ」
諸将が一斉に翔次を見つめた。
翔次は『百策分析帳』を手に取り、畳の上に置いた。
「百策などという万能の神算鬼謀……この世の何処にも存在いたしませぬ」
「何だと、翔次殿!」
宗信が顔を紅潮させて叫んだ。
「軍監所の調べを侮るか! 現に、敵は毎回違う手を繰り出して、我が軍を翻弄しておるではないか!」
「それは、百の策があらかじめ用意されているからではありませぬ!」
翔次は一歩も引かず、宗信の目を真っ直ぐに見据えた。
「松井殿。貴殿らは、敵の首魁・織田信照を……神仏か何かの化け物と見誤っておられる。
一人の人間の頭脳から、百もの完璧なる軍略が、あらかじめすべて計算し尽くされて湧き出るなどということが、人間にできるはずがございませぬ。
……現実に起きていることは、もっと泥臭く、もっと単純な仕組みにございます」
翔次は振り返り、上段の今川義元に向かって深く一礼した。
「太守様。敵の戦法が毎回異なり、変幻自在に見える真の理由……それは、信照がすべてを緻密に指図しているからではありませぬ。
信照がやっておることは、ただ一つ。
『兵を減らすな』『好きにせよ』という、大枠の方針――己の考えを、ただ一言、家臣たちに示しておるだけにございます」
「……大枠の方針、とな?」
義元の細い眉が動いた。その瞳には、侮りではなく、翔次の言葉の本質を捉えようとする深い理知の光が宿っていた。
「はい」
翔次は言葉を継いだ。
前世で歴史を学んできた翔次には、人々がそれぞれの判断で動くことで、思いもよらぬ働きが生まれることが理解できていた。
「具体的に動いておるのは、現場の四天王でございます。
前田利家は、信照の『兵を減らすな』という命を守るために、己の武勇を絞り出して電撃離脱戦術を編み出した。
木下藤吉郎は、商人や民の利を結びつけ、寄進と流通の仕組みを作り上げた。
滝川一益は、間者や偽りの報せを用いて敵の判断を揺さぶり、蜂須賀小六は、木曽川の水運を活かして人と物資の流れを支えた。
そして、北部の豪族や商人たちは、自分たちの利と安全を守るために、自ら動き始めたのです」
翔次は諸将を見渡した。
「信照の陣営の強さとは、百の策をあらかじめ懐に隠し持っていることではありませぬ。
主君が細かな指図を一切出さず、現場の四人の才覚、そして民や商人に裁量を委ねておるがゆえに……現場の人間が、その時々の状況に応じて、もっとも都合の良い手を繰り出してきておるのです!
一人の天才の百策ではない。
現場の無数の人間が、自らの判断で生み出す即応の連鎖……それこそが、我らを翻弄しているものの正体にございます!」
翔次はさらに力強く言い放った。
「相手が現場の判断によって動いておるならば、我らが未知の奇策に怯える必要などございませぬ! 敵の新手ごとに右往左往するのをやめ、兵糧を確保し、守るべき拠点を絞り、定石に従って陣を整える。敵がいかなる手を仕掛けようとも、容易には崩れぬ態勢を築き、我らの力を損なわぬ戦を選べばよいのです。怪異ではなく生身の人間であるならば、必ず対処する道はございます!」
翔次の分析は、信照陣営の実態を見抜くものだった。
信照がすべての手をあらかじめ用意しているのではない。家臣や民がそれぞれの事情に応じて動くからこそ、今川方には一つの定まった型が見えぬのだ。
神格化された魔王の虚像を剥ぎ取り、その実態を明らかにすれば、諸将の恐怖も鎮まるはずであった。
――しかるに。
その翔次の分析を聞いた瞬間、諸将の反応は、翔次の意図とは逆の方向へと動き始めた。
「……な、何ということじゃ」
宗信が両手で頭を抱え、息を呑んだ。
「信照は……細かな指図を一切出しておらんというのか……」
「そ、そうか……!」
長谷川元長が戦慄のあまり震え上がった。
「主君が指図をせずとも、家臣どもが勝手に手を編み出し、民百姓や商人が自発的に動いて、今川を追い詰めておるというのか……!」
「待たれよ、長谷川殿! そういう意味では――」
翔次が制止しようとしたが、遅かった。
岡部元信が立ち上がり、太刀の柄を握りしめて天を仰いだ。
「恐ろしい……! 翔次殿の申す通りならば、百策などという生易しいものではないではないか!
一人が百の策を考えるよりも、その四天王と尾張中の民百姓が、その時その時で策を生み出して襲いかかってくる方が、何千倍も恐ろしいわ!
首を討つべき大将の指図がないのじゃぞ! どこを叩いても、別の現場が新たな策を生み出して反撃してくる……!
千策じゃ! 万策じゃ! 信照の沈黙とは、天下中の民の知恵を、ことごとく己の武器に変えるための、無限の策の源泉だったのじゃ……!」
「な……!?」
翔次は息を呑み、絶句した。
「左様じゃ!」
三浦上総介までもが青ざめた顔で頷いた。
「翔次殿をして、『一人の頭脳では測れぬ』と言わしめるほどの怪物……! 信照は、人間を超えておる! 姿を見せぬまま、家臣と民の心を完全に操り、無限の策を繰り出させておるのじゃ!」
「違う! そうではない!」
翔次は叫んだ。
「操っているのではない! 現場がそれぞれの判断で動いているだけなのだ! 信照自身を過大に恐れるなと申しておるのだ!」
だが、翔次の叫びは、すでに混乱に陥った今川の将兵たちの耳には届かなかった。
翔次が理を尽くして説明すればするほど、諸将の胸中では「あの不敗の軍師・鍋蓋翔次ですら、これほどまでに敵の恐ろしさを語らねばならぬほどの相手」へと受け取られ、信照の存在は、さらに巨大な神話へと押し上げられていった。
広間が騒然とする中――。
ただ一人、上段に座す太守・今川義元だけが、静かに白扇を胸元で扇ぎ、口元に微かな笑みを湛えていた。
「……静まれ、諸将」
義元の低く、凛とした声が広間に響き渡った。
その一言だけで、騒然としていた重臣たちが一瞬にして平伏し、水を打ったような静寂が戻った。
義元は床几からゆっくりと立ち上がり、広間の中央で立ち尽くす翔次を見つめた。
その双眸に宿る光は、混迷する家臣たちとはまるで違う、澄み切った知性を湛えていた。
「見事な見立てじゃ、翔次」
義元の威厳に満ちた声が、翔次の胸を打った。
「神仏の百策などではなく、現場の四天王の働き……そして、商人と民衆の利を結びつけた仕組みか。予の胸に痞えておった得体の知れぬ霧が、そなたの言葉によって、綺麗に晴れ渡ったぞ」
「太守様……!」
義元は理解してくれていた。
魔王の虚像に惑わされず、翔次の解き明かした仕組みを、正確に捉えてくれていたのだ。
だが――義元は平伏する諸将の背中に視線を落とし、ふっと苦笑を漏らした。
「されど、翔次よ。……人間とは、厄介な生き物よな」
義元の声には、数多くの人間を統べてきた大太守ならではの、深い達観が宿っていた。
「凡百の武士とは、目に見えぬ理よりも、分かりやすい怪異を信じたがるもの。……そなたが明らかにした『現場が自ら生み出す無数の手』という実態こそ、現場で槍を握る者たちにとっては、百の策などよりも遥かに恐ろしく、底知れぬ魔性の計略に聞こえてしまうのじゃ」
義元は白扇をパチンと鳴らし、翔次に静かに頷いてみせた。
「予はそなたの見立てを採る。幻影に惑わされず、兵糧を整え、守るべき拠点を定め、敵の仕掛けに容易には崩されぬ構えを築く。……されど、諸将の胸に宿ったこの恐怖の火は、そう簡単には消えぬであろうな」
大広間を出た翔次は、今川館の渡り廊下の柱に、力任せに額を打ちつけた。
ゴツン、と鈍い痛みが走る。
激しい胃痛が、内臓を雑巾のように絞り上げていた。
(義元公には伝わった。……だが、家中にはまるで逆効果だった……!)
翔次は自らの髪を掻き毟った。
百策などという妄想を解きほぐそうとした。
それなのに――自分の知恵が、言葉を尽くした説明が、皮肉にも今川陣中における「信照への恐怖」を決定的なものにしてしまったのだ。
今川軍の兵たちの間で、この日を境に、不気味な合言葉が燎原の火の如く広がり始めることとなった。
『敵の魔王・信照には、百の策がある』。
『あの鍋蓋殿ですら、敵の策は千にも万にも及ぶと認めた』。
『尾張の兵を見たら、絶対に深追いするな。それは百策の何番目かの罠じゃ』――。
姿を見せぬ男。
城の奥深くに沈黙を守り、ただ一言も発さぬ男。
その男の虚像は、皮肉にも敵である今川軍の手によって、勝手に磨き上げられ、神格化され、「百策の魔王」という名の絶対の幻影となっていた。
翔次は西の空を見上げた。
秋風が吹き荒れる尾張の彼方。
清須の暗闇の中で、今もあの男が、嘲笑うかのように座している。
(信照……お前は、何一つ語らない。
何一つ誇らない。
それなのに……俺たちの知恵そのものが、お前を百策の魔王に仕立て上げてしまうのか……!)
知恵を弄する者が、知恵ゆえに自滅してゆくのか。
見えざる呪縛に縛られた今川軍は、戦わずしてさらに深く、迷走の泥沼へと沈み込んでゆくのであった。




