第二十七話:空の村と、虚無の勝利
第二十七話:空の村と、虚無の勝利
永禄六年の盛夏、尾張と三河の境目を流れる境川の葦原には、熱気を孕んだ南風が吹き荒れ、夕立をもたらすであろう雲が西の空を鉛色に染め上げていた。
商人たちが自前の武装警護団を組織し、信照の旗を掲げて新居の関所で通行を求め、今川方が譲歩を余儀なくされた一件は、今川家の家中に、抑えようのない激震と屈辱の炎を撒き散らしていた。
「――これ以上、あの小童の好き放題にさせておくは、今川二万の武士の恥辱にござる!」
今川館の奥、太守・今川義元の御前において、三浦上総介義就が床板を拳で叩き、血走った眼で訴え出た。
「関門で商人どもに強硬な要求を突きつけられ、領民の前で今川の威信を揺るがされてなお黙っておれば、武田や北条のみならず、三河の国人どもまでもが今川を見限りましょうぞ! 尾張全土への進撃が叶わぬと申すならば、せめて境川の西岸、敵の物資の結節点となっておる村落を力づくで叩き潰し、今川の橋頭堡を築くべきにございます!」
上総介の激昂は、家中を覆う鬱屈を代弁していた。
戦を避けて持久を図り、敵の経済的な働きかけにも損害を抑えて対処する。翔次の献策は、確かに今川軍の消耗を最小限に抑え込んできた。されど、前線で槍を構える武将たちにとって、戦わぬまま自家の威信を削り取られてゆく日々は、合戦で討ち死にするよりも耐え難い屈辱であったのだ。
翔次は、卓上の東海道絵図を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……上総介殿の仰る武威の誇示、その心情は察して余りありまする。されど、敵の勢力圏へ無暗に攻め入り、補給路を引き伸ばす愚は避けねばなりませぬ」
「では、指を咥えて見ておれと申すか!」
「否」
翔次は義元に向き直り、深く一礼した。
「太守様。家中の鬱屈を鎮め、同時に敵の備えがどこまで整っているかを探るため、ごく限定的な一撃を加えることには意味がございます。……突くべきは、境川の西岸、沓掛の対岸に位置する『高岡の郷』」
翔次は絵図の一点を指差した。
「この村は、熱田と三河を結ぶ物資の継ぎ場。街道沿いに物資や人足が集まる要衝なれど、城郭のように常駐する城兵はおらぬ土地。手勢千二百をもって急襲すれば、短時間で村の要所を押さえるには十分でございます。敵が救援の兵を出した場合も、渡河点を押さえて退路を失わぬよう対処いたしまする。
守兵がなくとも、村を押さえたまま深入りしてはなりませぬ。敵の備えと反応を確かめたなら、速やかに兵を引く。拠点を抱え込むことは、初めから考えておりませぬ」
これ以上の深入りを許さぬための、計算された限定出兵であった。
義元は重厚に頷き、白扇を鋭く振った。
「よい。上総介、元信。翔次の定めた軍令に従い、手勢千二百を率いて高岡の郷を検分してまいれ。……軽挙妄動は厳禁じゃ」
作戦は、電光石火の如く発動された。
その夜、丑満時。
激しい雷雨が境川の葦原を叩きつける闇の中、今川家の精鋭千二百が、雨音に紛れて泥濘の浅瀬を渡った。馬の蹄には布が巻かれ、兵たちは互いに声を交わすこともなく、渡河を急いだ。
先頭を進むのは三浦上総介。後方には冷静沈着なる岡部元信が重装歩兵を率いて続き、翔次自身も軍監として本隊の中央に轡を並べていた。
雨煙の向こうに、高岡の郷の屋敷町が黒々と浮かび上がっていた。
村を取り囲む粗末な土塁の上には、雨に濡れそぼる数本の信照旗が、力なく垂れ下がっている。
物見の報告では、数日前まで、この村には物資を運ぶ荷駄人足や地侍が絶えず出入りしていた。今川方は、その往来が今も続いているものと見ていたのである。
「掛かれッ! まず村の出入口を押さえよ! 敵の守兵があればこれを制し、村の内外を改めよ!」
上総介の抜刀とともに、闇を裂いて無数の松明が掲げられた。
「わあああッ!」
今川兵が一斉に喚声を上げ、四方から高岡の郷へと雪崩れ込んだ。
先頭の騎馬武者が土塁の木柵を打ち破り、長槍を持った歩兵が長屋の門を蹴破り、逃げ道を塞ぐように広場へと突入してゆく。
凄まじい奇襲であった。
敵が竹槍を持って反撃してこようと、手練れの武士が現れようと、容易には陣形を崩されぬ備えが敷かれていた。
――しかるに。
突入から半刻が過ぎた頃、高岡の郷の中央、名主屋敷の門前に立った翔次と元信の耳に届いたのは、合戦の喧騒ではなかった。
ただ、降り注ぐ雨の音と、吹き抜ける夜風の唸り声だけであった。
「……何じゃ、これは」
上総介が血走った眼で周囲を見回し、呆然と呟いた。
松明の明かりが照らし出した村の広場には、敵の武士の姿など、影も形もなかった。
それどころか――竹槍を持った百姓も、逃げ惑う女子供も、ただの一人も見当たらなかった。
「報告! 東の長屋、人影なし!」
「西の穀物蔵、もぬけの殻にございます!」
「街道沿いの民家五十軒、すべて改めましたが……犬や鶏の一匹すら残されておりませぬ!」
次々と戻ってくる斥候たちの声が、静まり返った村に虚しく木霊した。
高岡の郷における今川軍の戦死傷者、ゼロ。
討ち取った敵の首級、ゼロ。
捕縛した捕虜、ゼロ。
矢一筋射かけられることもなく、今川軍は高岡の郷を「制圧」したのだ。
「……勝ったぞ!」
上総介は太刀を掲げ、声を絞り出すように勝ち鬨を上げた。
「敵は我が今川の大軍を恐れ、戦わずして逃げ散ったのじゃ! この村を要塞化し、境川の西岸を今川の領地として固めるべし!」
今川の兵たちからも、安堵と興奮の歓声が上がった。
だが――。
泥まみれの馬から降りた翔次は、名主屋敷の土間へと足を踏み入れた瞬間、全身の血が凍りつくような悪寒に襲われていた。
「……元信殿。松明を、ここへ」
翔次の緊迫した声に、元信が松明を掲げて近づいてきた。
赤々とした火の粉が照らし出した土間の中を見て、元信の息が止まった。
荒らされた形跡が、何一つないのだ。
逃げ惑う者が慌てて家財を放り出した痕跡も、荷物を奪い合って争った形跡もない。
竈の灰は綺麗に掻き出され、囲炉裏には薪の一片すら残されていない。
翔次は土間の奥、穀物蔵の扉を押し開けた。板敷きの上には、米俵一つ、大麦の一粒すら落ちていなかった。床下の隠し場所まで改めたが、そこにも蓄えは残されていない。運び出しやすい食糧や道具はもちろん、兵に利用されかねぬ物資まで、周到に持ち去られていた。
「井戸を改めよ!」
翔次が叫ぶように命じた。
兵が中庭の井戸へ駆け寄り、松明を投げ込む。
「……釣瓶がござりませぬ! 縄も滑車も外され……井戸の底には砂利が投げ込まれ、水が濁って飲めませぬ!」
翔次は深く息を呑み、屋敷の柱に手を置いた。
目の前の状況から、翔次は一つの結論に至った。
(逃げ散ったんじゃない……)
翔次は、乾いた土間の床を見つめた。
(避難だ。あらかじめ定められていた、秩序ある退避だ!)
今川軍の動きは、渡河が始まるより前から、村々の物見によって探られていたのだろう。敵が境川に兵を集めたとの知らせが届けば、村人たちは荷をまとめ、牛馬と食糧を後方へ移す。夜陰の渡河の報せは、残された者たちに退避を促す最後の合図だったのかもしれぬ。
老若男女を問わず、村人たちはあらかじめ決められた手順に従い、家財と蓄えを運び出していた。井戸の釣瓶や縄も外され、水は使えぬようにされている。
そこにあるのは、恐怖に駆られた敗走の姿ではない。「敵が来れば、村を明け渡して退く」――その備えが、日々の暮らしの中にまで根づいていた証拠であった。
「……翔次殿」
上総介が意気揚々と駆け寄ってきた。
「手応えのない奴らよ! このままここに陣を張り、砦を築いて境川西岸を押さえるぞ!」
「なりませぬ!」
翔次は振り返り、鋭く一喝した。
「上総介殿、全軍に直ちに撤退の合図を出してくだされ! 夜明けを待たず、今すぐ境川の東岸へ引き揚げます!」
「な、何じゃと!?」
上総介が目を剥いた。
「せっかく奪い取った拠点を、一矢も交えずに捨てよと申すか! 占領した地を即座に放棄するなど、今川の恥辱ではないか!」
「面目などというものに囚われてはなりませぬ!」
翔次は元信と上総介の前に進み出た。その瞳は、兵站の計算に研ぎ澄まされていた。
「上総介殿。この村に、兵を養う米が一粒でも残されておりますか? 井戸の水一杯、飯を炊く薪一本すら現地で手に入らぬのですよ!
敵の狙いが、我が軍をここに縛りつけることにあるのか、それとも別の意図があるのか――今は断じられませぬ。されど、確かなことが一つございます。この村には兵を養うものがなく、守るほどに本国から兵糧を運び続けねばならぬ。敵の意図が何であれ、そのような土地に兵を留める理由はございませぬ!」
「ぐ……っ!」
元信が息を呑んだ。翔次の言葉は、急所を的確に射抜いていた。
「戦において真に尊ぶべきは、旗を立てた見栄えではなく、兵を保ち、戦を続ける力にございます。
奪うべき食糧はなく、徴発できる民もおらぬ。守るだけで本国から兵糧を運び続けねばならぬ土地など、拠点ではなく、今川の兵糧を食い潰す重荷に過ぎませぬ!
……このような土地に兵を縛り付け、補給線を引き伸ばせば、三河の守りそのものが危うくなりまする。即座に引くべきです!」
翔次の理路整然たる喝破に、上総介もぐうの音も出なかった。
勝敗の見かけに惑わされず、今川軍が補給の泥沼に足を踏み入れる前に退く。それが、この場で取り得る最善の策であった。
夜明け前、今川軍は高岡の郷から、一筋の煙も上げずに静かに撤退した。
そして――今川兵が境川の東岸へと完全に引き揚げた数刻後。
後方の山陰や間道に避難していた高岡の郷の百姓たちが、牛馬を引き、荷車を押しながら、何事もなかったかのように村へと戻ってきたという。
井戸の砂利は掻き出され、釣瓶が掛け直され、信照の白旗が再び青空に翻った。
高岡の郷における今川軍の戦死傷者――ゼロ。
織田側の戦死傷者――ゼロ。
境川から駿府へと軍を収めて帰還した数日後、今川館の奥御殿において、翔次からの検分報告書を読んだ今川義元は、畳の上に置かれた白扇をじっと見つめたまま、低く呟いた。
「……虚無の、勝利か」
義元の重厚な声が、静まり返った広間に落ちた。
「村を押さえたと喜んでおれば、得られたものは兵糧も水もない空き家ばかり。……翔次、そなたが即座に兵を引かせねば、無益な駐屯に兵糧を費やし、三河の前線をみずから苦しめるところであったな」
「滅相もございませぬ」
翔次は平伏した。
「上総介殿も悔しさを堪え、無傷で軍をまとめてくださいました。我が軍の損害は皆無。兵の消耗を避け得たことこそが、実利にございます」
「うむ。面目に惑わされず、早々に見切りをつけて兵を引き、実を取る……そなたの用兵、実に見事であった」
義元は満足げに頷いた後、ふっと冷たい笑みを漏らした。
「それにしても……信照よ。戦わずして村を明け渡し、相手に補給の負担を押し付けるとはな。……自ら退くことすら軍略に変える男か。まことに底知れぬ手を打ってくるわ」
義元の双眸には、敵の仕掛けた策の危うさを理解し、兵を保ちきった君主の冷徹な誇りが宿っていた。
その日の夕刻、今川館の物見櫓の上で、翔次は西の空を見つめていた。
夕暮れの茜雲が、尾張の平野を美しく染め上げている。
(信照……)
翔次は自らの胸元を強く押さえた。
胃の腑が、冷たい水を含んだかのように重く疼いていた。
(お前は……合戦で勝つことすら、捨てたんだな。
拠点を明け渡すこと。
住民が自ら退くこと。
その『退却の形』そのものを、相手を無血で消耗させる武器に変えてしまう男……)
自らも不敗の退却戦を指揮してきた翔次だからこそ、村人たちの退避が今川軍に与えた影響の大きさを、骨の髄まで理解できた。
村を明け渡した側には戦死者が出ず、攻め入った側にも戦死者は出ない。されど、何も得られぬまま兵を留めれば、攻め入った側だけが兵糧を費やすことになる。
勝敗という既存の概念すら軽々と飛び越えてゆく、得体の知れぬ魔王。
知恵を尽くして今川の崩壊を防ぎながらも、翔次の心には、底の見えぬ暗闇を覗き込むような深い戦慄が、静かに影を落としていた。




