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狂った歴史と、不敗の軍師~信長を死なせた男、今川家を支えて魔王に挑む~  作者: チャプタさん


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第二十六話:商人の旗と、交易の主

第二十六話:商人の旗と、交易の主


 永禄六年の初夏、東海道の宿場町には、初鰹の威勢の良い掛け声とともに、青嵐が吹き抜けていた。


 境川を挟む前線では、前田利家率いる織田軍が、兵を無用に死なせぬことを徹底し、今川軍の出鼻を挫き続けていた。されど、軍事的な衝突が小規模に抑えられているにもかかわらず、駿府・今川館の軍議の間には、合戦の敗報が届いた時よりも遥かに異様で、重苦しい空気が立ち込めていた。


 発端は、遠江と三河の境目、浜名湖の西岸に位置する新居の関所から届いた、一本の注進であった。


「……何と申した。もう一度、仔細を言上してみよ」


 鍋蓋翔次は、机の上に広げられた新居関所の見分書から顔を上げ、前に平伏する関所奉行・大林勘兵衛を鋭い眼差しで見据えた。


 勘兵衛は額を板敷きに擦り付け、屈辱と焦燥に肩を震わせながら答えた。


「は、ははッ……! 新居の関門の前に、西の三河街道より、荷車四十台、駄馬百匹にも及ぶ大商隊が押し寄せて参りましてございます。積荷は、遠江の木綿、駿河の塩、伊勢の麻布、さらには美濃の材木に至るまで、東海道を揺るがすほどの莫大なる物資にございました」


「商隊ならば、平素の通り関銭を徴収し、荷改めを行えば済む話ではないか」


 上座の床几に座る岡部元信が、不機嫌そうに髭を撫でた。


「密輸の類ならば荷を没収し、手代どもを捕縛せよ。それしきのことで、なぜ駿府まで早馬を走らせて参ったのじゃ」


「それが……できぬのでございます!」


 勘兵衛は顔を上げ、悲鳴のような声を上げた。


「商隊の前後左右を固めておったのは、ただの丁稚や馬借ではござりませぬ! 揃いの紺染めの陣羽織を纏い、長槍を揃え、堺で手に入れた鉄砲を携えた……百人を超える、武装した騎馬武者と歩兵からなる護衛の一団にございました!」


「何じゃと……!?」


 元信が目を剥き、佩刀の鍔を鳴らして立ち上がった。


「商人が……鉄砲と槍を持った百人もの武力を率いておるじゃと!? 野盗か! それとも、織田の正規軍が商人に化けて関所を破りに来たのか!」


「いいえ!」


 勘兵衛は激しく首を横に振った。


「織田家の武将の姿など、影も形もござりませぬ! 率いておるのは、津島、熱田、さらには堺の問屋衆が共同で雇い入れた、浪人や雑賀の鉄砲傭兵どもにございます!


 そして……その商隊の先頭、四十台の荷車のすべての旗竿に、風を孕んで翻っておりましたのは……織田の木瓜紋とともに墨黒々と記された、『織田十郎信照』の白布の旗にございました!」


 部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。


 翔次は立ち上がり、手元の帳面を強く握りしめた。


「信照の旗を掲げた……商人の、自前の護衛団だと……?」


「へえ……!」


 勘兵衛は唇を噛み締め、その時の屈辱的な対峙を語り出した。


「我が関所の番兵五十名が槍衾を作り、『武具を帯びての関所越えは相成らぬ! 荷を開け、関銭を支払え!』と一喝いたしましたところ、商隊の頭を務める津島の豪商・伊藤宗十郎が、馬前に進み出て、平然とこう言い放ちましたのでございます。


『――我らは、己の銭で護衛を雇い、街道の安全を自ら守る商人衆である。信照公の御旗は、我らがその庇護を頼みとして商いを続ける意思の表れ。


 今川家の法度に従うことを拒むつもりはない。されど、我らが自費で雇った護衛を伴う通行まで不当に妨げ、関銭を重ねて求めると申すならば、話は別にござる。


 我らが雇い入れた護衛は、鉄砲をも備えておりまする。力づくで関門を突破する覚悟もございます!』とな!」


「おのれ……! 商人風情が、武家に銃口を向けると申すか!」


 元信の怒声が部屋を揺るがした。


「不届き千万! 直ちに遠江の番勢を発し、街道でその商隊を包囲して皆殺しにいたせ! 荷を奪い、商人の首を刎ねて見せしめに晒せば済むことではないか!」


「それが……できぬのでございます、元信様!」


 勘兵衛は泣きそうな顔で畳を叩いた。


「伊藤宗十郎は、鉄砲を構えさせながら、さらにこう申し立てて参りました。


『――今川家が我らに手を出すならば、津島、熱田、堺、伊勢、京の仲間衆にも働きかけ、今川領へ向かう荷を止めることになろう。塩や油、薬種をはじめ、日々の暮らしに欠かせぬ品々が滞れば、困るのは商人だけではございますまい』とな……!」


「……荷止めを、ちらつかせたのか……!?」


 元信が息を呑み、言葉を失った。


「その上……」


 勘兵衛は項垂れ、消え入りそうな声で言った。


「街道沿いの領民や百姓どもが、その商隊を取り囲み、喝采を送っておるのでございます。護衛団は街道に出没する野盗や追剥ぎを幾度も退け、商隊の通る道筋では、以前よりも安心して荷を運べるようになったとのこと。


 百姓どもは口々に、『今川の関所役人は関銭を取るばかりだが、信照様の旗を掲げた商人衆は、己の銭で道を守ってくださる』と申しておりまする。


 力で討ち滅ぼそうとすれば商流を断たれ、民心もまた今川から離れてしまう……。関所の番兵どもは、抜いた刀を収めるほか、道がございませんでした……!」


 勘兵衛の報告が終わった後、軍議の間には、ただ重い沈黙だけが支配していた。


 行灯の油煙が揺らぎ、壁に落ちた翔次の影を長く引き伸ばす。


 翔次は額に手を当て、深く、深く息を吐き出した。


 内臓が、冷たい万力で締め上げられるような激痛を覚えていた。


(……自前の、警護団……!?)


 翔次の脳裏では、前世に学んだ歴史の知識が、次々と結びついていった。


 領主は武力をもって領内の秩序を保ち、その見返りとして年貢や関銭を徴収する。今川家が築いてきた支配の仕組みにおいて、街道の安全を守ることは、関銭を取る正当性を支える大切な柱の一つであった。


 だが――織田信照の仕掛けた手は、その柱を内側から揺さぶっていた。


 事の真相は、間者の報告によってすぐに判明した。


 尾張の街道が繁栄し、物流が激増した際、津島の豪商たちが清須城の信照の許へ陳情に参ったのだという。


『街道の荷が増え、野盗の危険が増しました。どうか、信照様の御兵を街道の警護に割いてくだされ』


 しかるに――信照の返答は、あまりにも素っ気ないものであった。


『――余は兵など出さぬ。危ないならば、自分たちで勝手に警護せよ。……好きにせよ』


 信照は、少なくとも街道の警護については、自ら兵を出して商人を守ることを拒んだのだ。


 普通であれば、領主に兵を出してもらえぬ商人は途方に暮れるはずであった。


 だが、莫大な富を握る豪商たちは、その言葉を別の意味に受け取った。


『信照公は、我らに自ら街道を守る余地を残されたのだ。ならば、こちらで銭を出し、護衛を雇えばよい』


 商人たちは即座に資金を出し合い、問屋衆のつながりを通じて浪人や鉄砲の扱いに長けた者たちを雇い入れた。


 彼らが掲げたのは、信照の家臣であることを示す旗ではない。信照の勢力圏との結びつきを示し、その名のもとで商いを続ける意思を表す旗であった。手出しをすれば、尾張や美濃、さらには畿内に至る通商網全体を敵に回しかねないという、無言の抑止力を背負わせたのだ。


(……民間による警護の仕組みだ)


 翔次は震える手で机の端を掴んだ。


 中世の都市同盟や、武装した商人組合の先駆けのような現象。


 信照は、軍費を一文も払っていない。


 街道の警備兵を一人も雇っていない。


 それにもかかわらず、商人たちが自腹で護衛を雇い、自前の警護の網を築いて東海道を行き交っている。


 その結果、何が起きたか。


 大名の関所が、関銭を徴収することの正当性を、商人たちの自衛と結束によって揺さぶられたのだ。


 自分たちで街道の安全を確保している商人たちにとって、治安維持の実を示せぬまま関銭を求める役人は、ただ通行を妨げる存在に映りかねない。


 武力で関所を守ろうとすれば、商人は自衛の武力を盾にし、荷止めの脅威をちらつかせて今川方に苦しい選択を迫る。


 今川義元が誇る東海道の関所網は、軍事的な攻撃を受けるまでもなく、商人の自衛と経済的な結束によって、その権威を揺るがされていたのである。


「……翔次殿」


 元信が、呻くように声を絞り出した。


 その顔は、怒りを通り越し、深い疲弊と当惑に染まっていた。


「どうすればよいのじゃ。……商人が鉄砲を持ち、旗を掲げて街道を行き交っておる。関銭を取ろうとすれば荷止めをちらつかされ、力でねじ伏せようとすれば民が反発する。


 今川の領内でありながら……街道の主導権が、あの小童の旗一本によって揺さぶられておるではないか……!」


 翔次は奥歯を噛み締め、思考を極限まで加速させた。


 胃の腑が焼けるように疼く。


 だが――ここで取り乱し、感情的な力押しに走れば、それこそが今川の破滅を招く。


 不敗の軍師として、組織の致命的な崩壊だけは絶対に防がねばならない。


「元信殿。……太守様への言上が必要にございます」


 翔次の声には、苦渋の底から絞り出した冷徹な光が宿っていた。


 その日の夕刻。


 今川館の御座所において、翔次からの報告を聞いた太守・今川義元は、上段の床几の上で微動だにしなかった。


 夕暮れの茜雲が障子を赤く染め、広間に静謐な影を落としている。


 白扇を膝の上に置いた義元の双眸は、底知れぬ静けさを湛えていた。


「……関門の前で、鉄砲を突きつけられたか」


 義元の低く重厚な声が、静まり返った広間に響いた。


 激昂もなければ、取り乱す色もない。東海道の覇者たる堂々たる威厳が、その声の端々に満ちていた。


「商人の銭と鉄砲に、予の敷いた掟が挑まれたというわけじゃな」


 義元は畳の上に広げられた東海道絵図を見据えた。


「予が治める駿遠三のただ中を、信照の旗を掲げた商人どもが闊歩しておる。……元信などは、直ちに兵を出して踏み潰せと息巻いておるのであろうな」


「はッ……元信殿は武力による討伐を主張しておりまする。されど――」


 翔次は進み出て、深く平伏した。


「太守様。力で商人を討てば、荷止めを招き、領内の物資の流れを大きく損なうおそれがございまする。……されど、無条件に要求を呑んで統治を放棄するわけにもまいりませぬ」


「申してみよ、翔次」


 義元が鋭い視線を翔次に向けた。


「この難局、そなたはいかに捌く」


 翔次は顔を上げ、次善の策を進言した。


「第一に、新居の関門では、今回の商隊との武力衝突を避け、通行を認めまする。関銭をめぐって争い、物資の流れそのものを止めることは避けねばなりませぬ。ただし、無制限に通すのではございませぬ。『護衛団の武具は商隊の警護に限るものとし、領内での狼藉は固く禁ずる』旨を申し渡し、今川家の法度の枠内に留め置くのでございます」


「……通行を認めつつ、暴発を防ぐ縛りをかけるか。第二の手は」


「はい。駿府や掛川の市で荷を降ろし、売り捌く商人には、市場で課す座役を一定期間、減免するのでございます。


 関門での争いで商人を遠ざけるのではなく、今川領内で商う利を増やし、荷の一部をこちらに留めるのです。すべての荷を引き留めることはできずとも、物資の流れを完全に失うよりはよほどよろしゅうございます。今は境目で意地を張るより、領国の血を絶やさぬことを優先すべきかと存じまする」


 広間に、張り詰めた沈黙が流れた。


 義元は膝の上の白扇を手に取り、ゆっくりと胸元で扇いだ。


 その唇の端に、冷徹にして不敵な笑みが浮かんだ。


「……見事じゃ、翔次」


 義元の威厳に満ちた声が響いた。


「商人ごときと境目で張り合い、意地を通して領民を飢えさせるなど、小人のやることよ。大名たる予の務めは、意地を張ることではなく、駿遠三の民を生かし、国を保つことにある」


 義元は立ち上がり、泰然自若として命を下した。


「新居の関門を開けよ。商人どもを通すがよい。……されど、ただ通して終わりにはせぬ。駿府の市場で商う者には利を与え、今川の大地へ富を呼び戻してみせる。


 信照よ。……力づくで攻め寄せる代わりに、商人の利をもって、予の領内に別の道を築くか。面白き手を打ってくる小童よな」


 義元の双眸に宿る光は、決して折れていなかった。


 信照の未知の戦略に舌を巻きつつも、為政者としての器量をもってそれを受け止め、不敗の軍師・翔次の知恵を活かして今川の命脈を保つ。東海の大太守の堂々たる決断であった。


 軍議が引けた後、翔次は一人、今川館の門櫓の上に立ち、暮れなずむ東海道の彼方を見つめていた。


 駿河湾から吹く夜風が、翔次の頬を冷たく撫でてゆく。


 街道の先、遠江の方角からは、荷車を引く牛馬の列と、護衛の傭兵たちが掲げる松明の灯が点々と連なって見えた。


 先頭を行く商隊の人々が打ち鳴らす陣太鼓の音が、風に乗って微かに響いてくる。


(信照……)


 翔次は胸元を強く押さえた。


 激しい胃痛が、内臓を雑巾のように絞り上げていた。


(お前は……軍事だけじゃない。


 統治だけでもない。


 街道の安全を民間に委ねることで、関銭の正当性を突き崩し、俺たちの統治の隙間を食い破ってくるのか……)


 商人たちとの衝突が荷止めへと発展する危機は、太守・義元の英断と自らの次善の策によって、ひとまず回避された。今川家は、今日もまた破滅の淵で踏みとどまったのだ。


 されど――信照という男は、自ら兵を差し向けることなく、ただ「好きにせよ」と告げただけで、商人たちを動かし、大名と商人、街道と治安の関係そのものを揺さぶってみせた。


 夜の闇が、駿河の大地を深く呑み込んでゆく。


 東海道の血流は、信照の生み出した巨大な引力に揺さぶられ、今川家の足元を静かに、確実に侵食し続けていた。


 そして――。


 この経済と街道を巡る暗闘の先に、今川軍をさらなる底知れぬ泥沼へと引きずり込み、敵の姿すら見えぬまま兵糧だけを失わせる「虚無の合戦」が待ち構えていることを、翔次はまだ、知る由もなかった。

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