第二十五話:兵を減らすな、の波紋
第二十五話:兵を減らすな、の波紋
永禄六年の春、尾張と三河の境を吹き渡る風はまだ肌寒く、雪解け水を運ぶ境川の濁流が、両国の境界を冷ややかに切り裂いていた。
尾張北部では、信照の旗を掲げた国人たちが連判を交わし、外からの軍勢に対して共同で備える構えを固めていた。今川方も、彼らを一つずつ切り崩すことが容易でないと悟り、大軍による侵攻を見合わせていた。境川を挟んだ両軍の間では、物見や斥候同士の小競り合いが、月に数度繰り返されるばかりであった。
されど、その目立たぬ小競り合いの記録を精査していた鍋蓋翔次の目に、ある異常な数字が留まった。
駿府の今川館、その奥にある作戦部屋の机上には、三河の岡崎城から送られてきた過去半年分の「境目合戦検分帳」が広げられていた。
帳面には、境川沿岸で松平元康の先鋒が織田方の哨戒部隊と接触した記録が並んでいた。遠江の掛川城に入った岡部元信からも、国境へ派遣した手勢の報告が別便で届いている。翔次はそれらを突き合わせ、過去半年の小競り合いを一つずつ検分していた。
日付、場所、交戦時間、消費した矢玉の数、そして――双方の死傷者の数。
「……あり得ぬ」
翔次は筆を握ったまま、帳面の墨痕を食い入るように見つめ、低く呻いた。
部屋の隅で茶をすすっていた岡部元信が、怪訝そうに顔を上げた。
「何があり得ぬのじゃ、翔次殿。三河の境目で、また何か不審な動きでもあったか」
「元信殿。この帳面をご覧くだされ」
翔次は手招きし、元信を机の前へと呼んだ。
「過去半年、境川の沿岸において、我が方の物見隊と敵の部隊が槍を合わせた小競り合いが、計十四回。……そのうち十回は、あの前田利家率いる朱槍の騎馬隊、あるいは滝川一益の鉄砲隊が相手でございました」
「うむ。朱槍め、相変わらず神出鬼没に現れては、我が方の補給路を脅かしておるな。……されど、大軍での侵攻ではない。小競り合いの域を出てはおらんはずじゃが」
「問題は、その結果にございます」
翔次は帳面の一行を指先で強く叩いた。
「十四回の小競り合いにおいて、我が今川・三河方の死傷者は、軽傷者も含めて四十二名。しかるに、織田方は戦死者はおろか、動けなくなるほどの重傷者すら一人も確認されておりませぬ」
「軽傷者はおらぬのか」
「擦り傷を負った者や、馬を傷めた者はいるようです。矢玉を費やし、具足を損じた形跡もございます。されど、敵は手傷を負った者を即座に庇い、追撃を受ける前に退いております。もちろん、敵方の損害をすべて正確に数え上げられるわけではございませぬが、斥候の報告や戦場に残された痕跡を突き合わせても、織田方が決定的な打撃を受けた兆しは見当たらぬのです。損害が皆無なのではなく、命に関わる損耗を極限まで抑え込んでいる……。こちらが退路へ回り込もうとすれば、戦うこと自体を諦めて姿を消してしまいます」
元信は目を剥き、帳面を奪い取るようにして覗き込んだ。
「ば、馬鹿な! 合戦じゃぞ! たとえ数十騎の小競り合いとて、矢が飛び交い、槍を突き合わせれば、流れ矢に当たって落馬する者もあれば、馬を射倒されて討ち取られる者も出るのが道理! 十四度も槍を合わせて、致命の手傷を負った者が一人もおらぬなどということが、戦場にあってたまるものか!」
「それが、現実に起きておるのです」
翔次は立ち上がり、腕を組んで部屋の中を歩き始めた。
胃の腑の底で、冷たい塊が急速に膨張してゆくのを感じていた。
前田利家。
信長のもとで武勇を磨き、赤母衣衆の一人として知られた猛将である。槍働きによって手柄を立てることを重んじ、敵を前にすれば果敢に攻め込む男だった。
信照のもとに身を置く以前の利家は、武勇と手柄を第一とする武将として知られていた。少なくとも、今のように損害を避けるため自ら攻撃を打ち切り、退却を選ぶ姿は、かつての彼からは想像しがたいものであった。
しかるに――ここ半年の利家の戦いぶりは、かつての猛将の姿とは、似ても似つかぬものへと変貌を遂げていた。
夜陰に乗じて今川の荷駄を襲撃する際も、深追いは絶対にしない。
物見隊を奇襲し、相手が狼狽している間に物資を奪い去るが、今川方の救援部隊が駆けつけて槍衾を揃える気配を見せるや否や、利家自らが殿となって、疾風の如く後退の合図を出す。
敵を包囲し、さらに追い込める機会であっても、味方に損害が出る恐れが高まれば、利家は攻撃を打ち切った。目の前の敵を討ち取ることよりも、兵を無事に帰すことを優先し、自ら殿となって退却を指揮する。その判断に迷いはなかった。
「……逃げ上手になった、ということか」
元信が吐き捨てるように言った。
「かつての勇猛さを失い、臆病風に吹かれて、手傷を負うのを恐れておるだけではないのか。武士が命を惜しんで戦から逃げ回るなど、笑止千万の腑抜けの沙汰よ」
「否、違います」
翔次は即座に否定した。
「臆病で逃げているのであれば、十四回も今川の喉元に刃を突きつけてこられるはずがございませぬ。……あれは、臆病なのではありませぬ。
敵は……『兵を無用に死なせないこと』を、合戦の第一の目的として戦っておるのです」
「兵を、死なせない……?」
元信が怪訝そうに眉をひそめた。
「はい。武士の合戦では、敵の首を挙げて手柄を立てることが重んじられ、主君のために命を捨てることも誉れとされてきました。されど、戦に勝つためには、ある程度の犠牲もやむを得ぬとされておりました。敵を退け、目に見える戦果を挙げれば、味方に損害が出ても勝利と称えられることがある。それが、この乱世の常でございました。
しかるに、利家たちの戦い方は、その常識を完全に逆転させておりまする。
この境目の小競り合いにおいて、敵の首を無理に挙げる必要はない。領地を力ずくで奪う必要もない。
ただ、自軍の損害を極限まで抑え、物資だけを奪い、できる限り全員が無事に陣へ生還すること……それこそが、かの軍団における『勝利の定義』となっているのです」
翔次は、先日、三河の物見隊が捕らえた織田方の輜重人足の口供書を思い起こしていた。
人足は、前田利家が陣頭で下している厳命を、震える声で白状していた。
『――殿の御命令である。兵を無駄に減らすな。手柄のために敵へ突っ込み、命を捨てることを許すな。攻める時は勝つ見込みを見定め、退くべき時には、名誉を惜しまず退け。兵を救えるのに見捨てた者は、軍律に照らして厳しく咎める――』
兵を、減らすな。
無駄に、死ぬな。
その言葉が、翔次の脳裏で鐘の音のように乱打されていた。
(信照……貴様は、利家に何を吹き込んだんだ?)
あの血気盛んな荒武者に、槍働きの武勇を誇りとしていた男に、「命を惜しめ」と命じたのだ。
手柄のために死ぬことを禁じ、生き残ることこそを軍律として叩き込んだ。
その結果、前田利家の武勇は、ただ敵陣へ突き進む力から、敵の隙を突き、目的を果たせば損害を出す前に退く力へと変わりつつあった。攻める時には烈しく、退く時には迷わない。かつての勇猛さを失ったのではない。その使いどころを、信照の方針のもとで変えたのだ。
だが――翔次の頭脳を真に凍りつかせたのは、戦術の巧拙などという小手先の問題ではなかった。
(……この時代にも、兵を惜しむ将はいた。だが、ここまで徹底して軍全体の掟に据えるとは……)
戦国の世では、領地を守るために兵を失うことも、主君への奉公として討ち死にすることも、避けられぬ現実として受け止められていた。熟練した兵を失えば軍の力は衰え、領民が疲弊すれば領国の立て直しも難しくなる。それでも、戦に勝つためには犠牲を払わねばならぬという考えは、容易には覆らない。
しかるに、信照は違った。
兵の命を惜しむだけではない。無用な死傷を避けることを軍律に定め、退くべき時には手柄を捨ててでも退く。その徹底ぶりこそ、翔次の知る戦国の軍勢とは決定的に異なっていた。
(兵を育てるには、銭も時もかかる……)
翔次は、前世で学んだ軍事史の知識を思い返していた。
兵を育て、武具を整え、戦える者にするには、銭も時もかかる。熟練した兵を失えば、同じ数を集め直しても、すぐに元の力を取り戻せるわけではない。
信照は、その損耗を嫌うという考えを、将個人の慎重さに委ねてはいない。軍全体の掟とし、攻める時も退く時も、その原則を貫かせているのだ。
保護圏内の通行を妨げる関所を取り払い、交易を守る仕組みを築いたこと。
保護圏の創設。
そして、この「兵を減らすな」という人命を重んじる軍令。
すべてが、武力で奪い合う従来の合戦の理を、根底から揺さぶるための一手だというのか。
信照は、天下を望む素振りすら見せず、清須の奥に沈黙を守り、ただ「好きにせよ」「兵を減らすな」と命じるだけで、周囲の将たちを動かし、今川を翻弄している。本人がどこまでを見通しているのか、翔次にはまるで分からなかった。
あれは――この乱世の残酷さを骨の髄まで知り尽くし、人の命の儚さを誰よりも深く見据え、その上で「人間の生への執着」そのものを強力な武器へと昇華させた……底知れぬ男なのだ。
「……翔次殿」
元信が、青ざめた翔次の顔を心配そうに覗き込んだ。
「顔色が悪いぞ。……信照のその『兵を減らすな』という指図が、それほどまでに恐ろしいことなのか」
「……恐ろしい、などという言葉では足りませぬ」
翔次はかすれた声で答えた。
「元信殿。兵の命を大切にする主君であればこそ、兵はその命令を信じるのでございます。『手柄を立てて死ね』と命じる主君と、『生きて帰れ』と命じる主君。どちらの言葉が兵の心に深く届くか、考えるまでもございませぬ。信照の兵は、死を恐れて逃げているのではありませぬ。主君の命に従い、生きて帰ることまでを務めとしているのです。だからこそ、退く時にも隊伍を乱さぬ。……これほど厄介な軍勢は、そうそう崩せませぬ」
その日の夕刻。
今川館の奥御殿において、翔次からこの分析を聞かされた今川義元は、沈痛な面持ちで腕を組んだまま、長く、重い沈黙に沈んでいた。
庭の池に、夕暮れの茜雲が映っている。
義元は膝の上の白扇を静かに広げ、風を送ることなく、ただその白い地を見つめていた。
「……兵を、減らすな、か」
義元の低く重厚な声が、静まり返った広間に響いた。
「武士とは、討ち死にを誉れとし、名を惜しむ生き物。予もまた、三河や遠江の将兵に対し、『今川のために命を捨てよ』と命じることを、主君としての当然の権利と心得ておった。……されど、信照は、その命を捨てさせることを禁じたというのか」
義元は自嘲するように口元を歪めた。
「手柄を立て、主君のために討ち死にすることを誉れとする道と、生きて帰ることを務めとする信照の道……。どちらが兵の心をつかむか、予には痛いほど分かるわ。
農民も、足軽も、誰一人として死にたくて戦場へ行く者はおらぬ。誰もが、生きて故郷の家族の元へ帰りたいと願っておる。
その人間のもっとも根源的な願いを、丸ごと軍略へと変えてみせたのだな、あの小童は……」
義元の瞳に宿っていたのは、敵に対する怒りではなかった。
己が信じてきた武家社会の価値観そのものを、遥かな高みから見下ろされたかのような、深い、深い虚無感であった。
「……予には、真似できぬな」
義元は静かに扇を閉じた。
「大名たる予には、領地を守るため、兵に死を命じねばならぬ時がある。されど、信照もまた清須を押さえ、尾張に地歩を築いた身。領地を守る責めから逃れておるわけではあるまい。
それでいて、兵を無駄に死なせぬことを軍の掟とし、かえって敵を翻弄しておる。領地を持つ者ならば、いずれ兵の命を捨てねばならぬ――予は、そう考えておった。
だが、あの男は違う道を示しておる。力ずくで城を奪い、領地を広げることだけが力ではないとでも申すのか。恐ろしき男よ。今度は……武士の命のあり方そのものまでも、変えてしまうというのか」
広間を出た翔次は、夜の帳が降りた駿府の町を見下ろす高台に立っていた。
駿河湾から吹く夜風が、翔次の頬を冷たく撫でた。
西の空。
遥か彼方、尾張・清須の暗闇の中で、今もあの男が息づいている。
織田信照。
城の奥深くに沈黙を守り続ける男。
(信照……)
翔次は夜空を見上げ、震える拳を胸元に当てた。
激しい胃痛が、内臓を雑巾のように絞り上げていた。
(お前は、一体どこまで行く気なんだ?
経済の流れを変え、統治の形を揺さぶり、主従のあり方を変え……今度は、武士の死生観そのものまで、書き換えてしまうのか?)
現代の知識を持つ自分ですら、この戦国乱世の血の論理に呑まれ、兵站の整備や冷徹な防衛線の構築という、戦の仕組みの内側でしか物事を考えられずにいた。
だが、信照は――その枠組みの外側から、人間の「生きたい」という根源的な祈りを解き放ち、強固な軍団を作り上げていた。
読めない。
あの男の深淵が、どれほど目を凝らしても、一寸先すら見通せない。
底知れぬ魔王の放った波紋は、前田利家の朱槍を恐るべき用兵へと昇華させ、今川軍の心を内側から侵食しながら、さらなる未知の局面へと、静かに、確実に進み始めていたのであった。




