第二十三話:寄進の嵐
第二十三話:寄進の嵐
駿河の富士川から駿府を経て、遠江の浜名湖へと続く東海道に、初冬の木枯らしが吹き抜け始めた頃であった。
境川の最前線に置いていた警戒兵を引き揚げ、内政と治水に再び軸足を戻した今川家の領国には、表向き、穏やかな平穏が戻ったかに見えていた。昨秋の新田の刈り入れは滞りなく終わり、駿府の館下の町々には蓄えられた新米の香りが満ち、味噌を仕込む家々から湯気が立ち上っていた。
されど、その繁栄の血流の奥底で、誰も気づかぬうちに、看過しがたい「出血」が始まっていた。
「……また、清水の湊から出た塩船三艘が、尾張へ向かったというのか」
今川館の奥、勘定方の一室において、鍋蓋翔次は手元の出納帳を睨みつけ、冷たい声を絞り出した。
部屋の隅には、遠江の塩田を預かる役人と、駿府の町方を取り仕切る役人が二人、額に脂汗を浮かべたまま平伏していた。
「は、ははッ……。陸路で運べば目立つほどの大量の塩を、清水湊から船に積み込み、遠州灘を下って渥美半島沖を回り、伊勢湾へ運び、尾張の湊に荷揚げしていたことが判明いたしました。さらに、遠江の白須賀や新居の塩田にて焼き上げました塩までもが、陸路で夜陰に乗じ、荷車に積まれて西へと運び去られております。車力や馬借どもの足取りを追わせましたところ、境川を越え、尾張の津島や熱田へと流れ込んでおりました……」
「塩だけではござりませぬ!」
町方の役人が、悔しげに膝を叩いて言上した。
「駿府の鍛冶町で打たれました鍬や鎌、包丁の類、さらには三河から運ばれる木綿布や遠江の茶に至るまで……商人たちは、より高く、より早く売れる尾張へと荷を運んでおりまする! 駿府の市場では鉄器が品薄となり、日用雑器の値もじわじわと上がっておりまする!」
翔次は無言で帳面を繰った。
出納帳の数字を追えば追うほど、背筋に冷たい水が流れ落ちてゆくのが分かった。
物資が流出しているのだ。
今川領内で生産された塩、木綿、茶、鉄器、さらには余剰の兵糧米に至るまでが、今川家の関所の目を逃れ、西――織田信照の勢力圏へと流れ込んでいた。
――なぜだ。
翔次は眉間を強く揉みほぐした。
先の大警戒の折、本来は間者の往来を防ぐために街道筋へ設けられた臨時の番所は、平時に戻った後も荷駄の検分や関銭の徴収を担うようになっていた。今川家としては、これによって物資の流出を抑え、領国の財政を潤す手立てとする腹積もりであったのだ。
それにもかかわらず、商人たちは関銭を避けて間道を抜け、夜陰に乗じて境川を渡り、競うようにして尾張へと荷を運んでいる。
「……商人どもは何と申しておる」
翔次が問いかけると、町方の役人は困惑の色を隠せぬまま、口ごもりながら答えた。
「それ、それが……。商人どもの間では、奇妙極まりない噂が、合言葉のように囁かれておりましてございます」
「噂?」
「へえ……。『駿河の関所を通れば銭を毟り取られ、荷を改められて半日足止めを食らう。されど、尾張の信照街道へ一歩足を踏み入れれば……関銭を取る関所も見当たらず、野盗の被害も少ない』と……」
「関銭を取らぬ、だと……?」
翔次は息を呑んだ。
「左様にございます。信照様の保護圏を結ぶ街道筋では、関銭を取る関所が置かれておらず、野盗の被害も少ないと申します。それどころか、商人が荷車を引いて街道を行けば、前田利家の手勢や地侍どもが護衛に付き、辻々では旅人に粥を振る舞うこともあるとか。
荷が傷むこともなく、余計な銭を取られることも少ない。安心して売り買いができる……。商人どもは口々に、『信照様の保護の及ぶ地こそ、真の商人の都じゃ』と称え合っておる由にございます……!」
役人の言葉を聞いた瞬間、翔次は頭を鉄鎚で殴られたような衝撃を覚えた。
――自由なる通商。
――保護圏を結ぶ街道では、関所を置かず、商人の往来を妨げぬ。
それは、翔次が前世の歴史知識において知る、後世の織田信長による関所撤廃や楽市の思想を思わせるものであった。無論、ここで信長がその政策を実現したわけではない。翔次が知る歴史の記憶と目の前の仕組みが、思いがけず重なったのである。
中世の領主たちは、街道に関所を設けて往来する商人から関銭を取り、商いや市の営みにもさまざまな負担を求めて、領国の財源としていた。今川義元もまた、その例外ではない。関所を構えて流通を統制し、商人の往来から収入を得ることも、領国経営の一つの手立てとしていた。
だが、信照はその常識に風穴を開けているのだ。
信照は、少なくとも自らの影響が及ぶ街道筋では、通行税という目先の銭を手放し、商人が自由に往来できる環境を整え始めていた。
その結果、何が起きたか。
近隣諸国の商人たちは、関所で余計な費用と時間を取られる街道を避け、信照の保護圏を結ぶ、関銭を取らぬ街道筋へと次第に足を向け始めたのだ。
関銭を取らぬがゆえに物資が集まり、物資が集まるがゆえに、市場はさらに豊かになる。荷を売り、必要な品を仕入れ、帰り荷まで整えられるとなれば、商人たちはますます尾張へと足を向ける。
もちろん、売買の代金までが一方的に尾張へ消え去っているわけではない。今川領の商人も、荷を売れば相応の銭を手にする。されど、その銭を再び尾張での仕入れや取引に回すようになれば、商いの中心も、利益を生み出す機会も、少しずつ西へと傾いてゆくのだ。
今川家が築いたはずの流通統制は、信照が敷いた「関銭なき自由の磁場」によって、内側から揺さぶられ始めていたのである。
「……翔次殿」
襖が開き、岡部元信が重い足取りで入ってきた。その顔には、合戦の直前のような殺気が張り付いていた。
「聞いたぞ。駿河の塩や木綿が、尾張へ流れ込んでおるそうだな。……直ちに関所の番兵を増やし、関銭を逃れて荷を運ぶ商人どもを捕らえ、厳しく取り締まるべきじゃ! 首を二、三人刎ねて見せしめに晒せば、商人どもも肝を冷やして関銭逃れを止めるはずじゃ!」
「なりませぬ、元信殿!」
翔次は即座に立ち上がり、強く首を横に振った。
「力で商人を縛ってはなりませぬ! それをやれば、駿府の市そのものが衰えてしまいまする!」
「何故じゃ! 敵に塩や鉄を吸い取られておるのじゃぞ! このまま見過ごせば、いざ戦となった折、我らが必要とする物資まで不足しかねぬ!」
「商人を処刑し、関所を厳しくすればどうなるか!」
翔次は元信の瞳を射抜くように見据えた。
「商人は、水と同じにございます。堰き止めようとすれば、わずかな岩の割れ目を探して地下へ潜り、さらに遠くへと逃げてゆくだけ。
今川領の商人を締め上げれば、彼らは駿府を見限り、店を畳んで尾張へ移る者も出てまいりましょう。そうなれば、駿府の町では物資の流通が滞り、商いが細るにつれて、今川家が期待する関所の実入りも減ってゆく。領民の暮らしにも、その影響が及びかねませぬ!
……敵は、武力で奪いに来ているのではありませぬ。ただ『商売のしやすい場』を設けるだけで、我が今川の商業の主導権を、民の欲望ごと吸い寄せておるのです!」
「ぐ……っ!」
元信は言葉に詰まり、太刀の柄を軋ませた。
武力だけでは防ぎきれない。
関所を固めれば商人はさらに別の道を探し、厳しい取り締まりを行えば市そのものが衰える。かといって放置すれば、今川領の市場から商人の足が遠のきかねぬ。
またしても、信照という怪物が仕掛けた「目に見えぬ罠」の前に、今川の重臣たちは容易に手を打てずにいた。
その日の午後、翔次は一人、駿府館下の蔵屋敷が立ち並ぶ河原町へと視察に向かった。
かつては活気に満ちていた米問屋や塩問屋の軒先には、どこか寂しげな空気が漂っていた。荷を積んだ荷車の姿は疎らであり、店先に座る番頭たちの顔には、隠しきれぬ陰りがあった。
翔次は、今川家御用達を務める津島出身の老商人・升屋宗兵衛の屋敷を訪れた。
奥の座敷に通された宗兵衛は、翔次の質素な軍師姿を見るや、深々と平伏した。
「……翔次様。このようなむさ苦しい所へ、わざわざのお運び、恐縮に存じまする」
「宗兵衛殿」
翔次は単刀直入に切り出した。
「隠さずに申してくだされ。そなたの店からも、尾張へ荷が流れておるな。……駿河の塩、遠江の茶が、そなたの手を経て津島へ送られておることを、それがしは掴んでおる」
宗兵衛の身体が、微かに強張った。
老商人はしばらく畳を見つめていたが、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。その濁った瞳には、処刑を恐れる怯えではなく、生き馬の目を抜く商人の執念が宿っていた。
「……お咎めとあらば、この老いぼれの首、いかようにもお刎ねくだされ。されど、翔次様……商人の本音をお聞き届けいただけますなら、申し上げまする」
「申すがよい。罪を問うために来たのではない。実態を知りたいのだ」
宗兵衛は深く息を吐き、静かに語り出した。
「……尾張へ荷を運ぶのは、今川様を裏切るためではござりませぬ。商売が、成り立つからにございまする」
「成り立つ……?」
「へえ。清須の城におわす、あの木下藤吉郎様という御仁……。あのお方の差配は、神仙の業としか思えませぬ。
わたくしどもが駿河の塩や木綿を尾張へ運び込みますると、木下様は決して買いたたかず、ことに品不足の品であれば、相場より一割も高い銭を即座に金銀で払ってくださるのでございます」
翔次の眉が動いた。
「相場より高く……? 買い占めを行っているのか」
「買い占めなどではござりませぬ。木下様は、買い取った物資を倉に眠らせるのではなく、直ちに尾張や美濃の村々へ適正な値で再配分しておられまする。
そして……わたくしども商人が帰り荷を求めますると、蜂須賀小六様が整えた木曽川の水運を通じて、美濃の良質な木材が届きます。さらに、伊勢の干鰯や、堺から商人たちが運び込んだ南蛮渡来の珍品までも、尾張の市で手に入るのでございます」
宗兵衛は両手を合わせるようにして言った。
「行き荷で儲かり、帰り荷でさらに儲かる。保護圏を結ぶ街道筋では関銭を取られることがなく、野盗の被害も少ない。銭の支払いは一日たりとも滞らぬ。……商人にとりまして、これほどありがたい場所が、日の本の何処にござりましょうや。
駿河の町で銭を寝かせておくくらいなら、尾張へ荷を走らせ、一度でも多く荷を回したい……。それが、商人の業というものにございます」
「……」
翔次は言葉を失った。
見事な流通の循環。
木下藤吉郎という男の、恐るべき経済手腕。
だが、翔次の頭脳を真に凍りつかせたのは、その先の一言であった。
「それに……翔次様」
宗兵衛は声を潜め、畏敬の念を込めて言った。
「信照様の清須の城には今、近隣の国人や百姓、さらには堺の豪商までもが、『信照様の保護圏を守るため』と称して、米俵や銭を寄進として運び込んでおる由にございます。遠国にも信照様の評判は広がり、寄進を申し出る者が現れ始めておるとか。
もっとも、木下様とてすべての荷をむやみに高く買い、安く売り続けておられるわけではござりませぬ。不足する品を厚遇して呼び寄せ、余剰の品は相場を崩さぬよう売り先を分散させる。……寄進された米や銭も、ただ蔵に積み上げておるだけではありますまい。買い付けの差額や街道の補修に回し、商いが軌道に乗るまでの呼び水として用いておるのではないかと、わたくしどもは見ておりまする。
……税を取らぬのに、寄進が集まる。寄進が商いを呼び、商いがさらに物資を集める。
信照様は……銭と米を使って、戦わずして東海道の商いの流れを己の側へ引き寄せておられるのでございます……!」
宗兵衛の屋敷を出た翔次は、冬の冷たい風が吹き付ける安倍川の河原に立ち尽くしていた。
胃の腑が、熱い油を流し込まれたかのように激しく痛んだ。
(……寄進の、嵐だ)
翔次は前世で学んだ経済の知見を、必死で脳裏に呼び起こしていた。
自由な商いを促し、寄進された米と銭を街道の補修や不足品の買い付けに回し、商人の利益を次の取引へとつなげてゆく。信照は、この十六世紀の戦国乱世において、商人の選択と寄進の再投資を結びつけ、一つの経済圏を動かし始めていた。
信照は、武力で今川を侵略していない。
軍勢を進めず、ただ城の奥で沈黙を守っている。
だが、その背後で木下藤吉郎を働かせ、「保護圏を結ぶ街道での関銭撤廃」と「寄進の循環」という名の経済の引力を作り出していた。
今川軍がいくら新田を開発し、いくら治水を行って駿河を富ませようとも、商人の足と取引の機会は、街道を通じて少しずつ信照の保護圏へと傾いてゆくのだ。
(あいつは……軍事だけでなく、経済においても、俺の先を歩んでいるというのか……!?)
翔次は自らの手のひらを見つめた。
指先が、怒りと恐怖で小刻みに震えていた。
現代の知識を持つ自分が、この時代の男に、経済の理を実際の仕組みとして動かす手腕で後れを取っている。
信照という怪物は、軍師としての翔次の自負を、根底から揺さぶっていた。
その日の夕刻、今川館の御座所において、翔次の報告を聞いた今川義元は、床几の上で深いため息をついた。
白扇を握る義元の手には、静かな力がこもっていた。
「……軍勢で攻め込まれるよりも、恐ろしいな」
義元の低く掠れた声が、静まり返った広間に落ちた。
「城を囲まれたならば、槍を合わせて戦うこともできよう。砦を奪われたならば、奪い返すこともできよう。……されど、商いの中心が西へ傾き、我が領内で生まれる利益と関銭の収入が細ってゆくのを、ただ見ていることしかできぬとはな……」
義元は畳の上に置かれた収支帳を見つめた。
数字の上では、駿河の田畑は実りをもたらしている。
だが、その実りが生み出すべき市場の賑わいと関所の実入りが、尾張の引力によって少しずつ損なわれ、今川領の経済は確実に揺さぶられつつあった。
「翔次。……関所の役目を、骨抜きにされたな」
「……はい」
翔次は深く平伏した。
「我が方の流通統制は、商人の選択によって大きく揺らいでおりまする。敵は、武力を用いず、富の引力をもって我が軍を包囲しておりまする……」
「化物め」
義元は苦い笑みを浮かべ、天を仰いだ。
「戦わずして勝ち、奪わずして富む。……信照。貴様は、予の領国を、骨の髄まで吸い尽くすつもりか……」
広間を出た翔次は、夜の闇に沈む駿府の街並みを見下ろした。
星一つない冬の夜空。
西の地平の彼方、清須の城で、今もあの男が座している。
沈黙を守りながら、寄進を集め、東海道の商いの流れを己の側へ引き寄せる魔王。
武力でも勝てず、沈黙にも惑わされ、今や経済の面においてすら、押し込まれている。
(信照……貴様は、一体どこまでこの国を壊せば気が済むんだ……!?)
翔次は夜風の中で、激痛の走る胃の腑を抱え込みながら、固く拳を握りしめた。
信照は、まだ動いていない。
されど、今川の足元では、確かに何かが崩れ始めていた。




