第二十二話:沈黙の深み
第二十二話 沈黙の深み
永禄五年の夏、駿河の野を吹き渡る風は、青葉の匂いを濃く含んでいた。富士の山肌の雪はほぼ消え、山頂近くにわずかな残雪をとどめていた。
安倍川の治水も進み、新田には青々とした早苗が波打っていた。遠江の塩田からも塩が絶えず運び込まれ、内政の充実によって今川領国は着実に富を蓄え、国境の町々にはかつての活気が戻りつつあった。
されど、その目覚ましい繁栄の裏腹に、今川家の首脳陣の胸中を覆う暗雲は、日を追うごとにその色を濃く、重くしていた。
震源地は、遥か西――尾張・清須城の奥深くに座す、あの男であった。
駿府・今川館の一室において、鍋蓋翔次は連日、机の上に広げられた東海道絵図を睨み据えていた。
行灯の煙が薄く漂う部屋の隅には、岡部元信が腕組みをして座し、床板を軋ませながら苦々しげな息を吐き出している。
「……また、同じ注進でござるか」
元信の低く唸るような声が響いた。
翔次は無言で頷き、尾張から戻ったばかりの物見頭が持ち帰った密書を指先で弾いた。
「はい。奥御殿から姿を現したとの報せはなく、軍令も清須の外へは下されておらぬとのこと。……前田利家が槍を構えて出陣を促そうと、木下藤吉郎が領地拡大の手立てを持参しようと、奥からは何の返答もないというのでございます」
「動かぬか」
「はい。……ただの一枚の軍令すら、清須の外へは下されておりませぬ」
元信は佩刀の鍔を親指で押し上げ、不気味な刃音を鳴らした。
「解せぬ。まことに解せぬな。去年の春、我が今川の大軍を退けたあの小童の武名は、今や天下に轟いておるのじゃぞ。織田の四天王とやらも血気盛んに逸り立ち、尾張北部の国人どもまでもが、我先にと信照の保護を求めて集まっておるというのに……なぜ、攻めてこぬのじゃ。なぜ、三河の境目へ兵を出そうとせぬのだ」
その問いに、翔次はすぐに答えられなかった。
奥歯を噛み締め、じっと東海道絵図の清須と岡崎の間を見つめる。
胃の腑の底で、鉛のように冷たい塊が重く疼いていた。
(……動かない。なぜだ?)
動かない理由は、一つには限られない。
大攻勢を準備しているのか。それとも、領国の整備を優先し、当面は戦を望んでいないのか。あるいは、軍を動かさずとも保護圏の拡大と商いの流れによって今川を圧迫できると見ているのか。
どの仮説にも、否定しきれぬだけの理由があった。翔次はそのいずれにも決め手を見いだせず、絵図の上に置いた指を動かせずにいた。
「元信殿」
翔次は重い口を開いた。
「太守様への言上が必要にございます。……敵の沈黙を、安眠と受け取ってはなりませぬ」
「……大攻勢の兆しか」
「可能性としては、捨てられませぬ。されど、大攻勢と決めつけて兵を集め続ければ、戦う前に我が国の力が削がれまする。まずは境川の要所を固め、物見を増やして敵の動きを探りましょう」
その日の正午、今川館の大広間において、急ぎ軍議が招集された。
上段の床几に座す今川義元の前には、翔次、元信をはじめ、三浦上総介、朝比奈泰朝ら駿遠の重臣たちが居並んでいた。
広間の空気は、夏の暑さを忘れさせるほどに張り詰めていた。
「……信照が、動かぬとな」
義元の低く、威厳に満ちた声が響いた。
白扇を膝の上に置き、細い眉を寄せる義元の顔には、先刻までの内政の喜びは微塵も残っていなかった。
「尾張北部を中心に保護圏を広げながら、一年余り、今川領へ軍勢を差し向けることもなく、ただ沈黙を守っておる……。諸将よ、この不気味なる沈黙を、いかに見る」
口を開いたのは、遠江の宿将・朝比奈泰朝であった。
「太守様。某の見立てでは、敵の小童は、我が今川の威光を恐れて竦み上がっておるのではありますまいか。尾張から我が軍が引いたとはいえ、駿河・遠江の動員力は健在。三河の境目には松平元康が鉄壁の陣を敷いておりまする。下手に手を出せば手痛い返り討ちに遭うと知るゆえに、城から出られぬのでござろう」
「否、断じてそうではありませぬ!」
進み出たのは翔次であった。
翔次は絵図の前に膝をつき、諸将を見渡した。
「泰朝殿。敵を侮ってはなりませぬ! 信照という男は、力攻めで我が軍を退けた男ではございませぬ。あの男の手腕は、常に我らの常識の裏をかき、戦わずして相手を窒息させる知謀にございました。
その男が、今、軍事的な動きを見せぬまま沈黙を守っておる……。これを恐れゆえの縮こまりと見るのは早計にございます。何か大策を練っているのかもしれませぬ。あるいは、今は攻める必要がないと判断しているのかもしれませぬ。いずれにせよ、動かぬという一事だけで、敵を侮るわけにはまいりませぬ」
「……翔次」
義元が白扇を握りしめ、低く呟いた。
「予も、そなたと同じ胸騒ぎを覚えておったところじゃ。……動かぬ敵ほど、不気味なものはない」
義元は床几から立ち上がり、諸将を見据えた。
「全軍に命ずる! 国境の守りを固め、尾張方の動きを探れ。境川の要所には守備の兵を置き、物見を増やせ!」
「ははッ!」
「太守様。ひとつ、申し上げたき儀がございます」
翔次が進み出た。
「申せ」
「警戒を強めることに異存はございませぬ。されど、兵を集め続ければ、秋の取り入れに差し障りまする。国境の要所を守る兵と、異変に備える交代要員を定め、ひと月ごとに敵の動きを見直すべきにございます。敵の動きがなければ、守りを保ちながら兵を減らして農村へ戻す。もし敵が動けば、あらかじめ定めた合図に従い、再び兵を集めまする」
義元はしばし考え、やがて頷いた。
「よかろう。備えは怠るな。されど、兵を集めることそのものを目的とするでないぞ」
「元信! そなたは精鋭を率いて掛川城へ進出せよ。遠江の兵站を整え、境川方面へ兵を送り出す備えと、西方への連絡を固めるのじゃ!
そして三河の松平元康へ早馬を送れ。『尾張と三河の境をなす境川の警戒を引き上げ、昼夜を問わず物見を放て。信照がいかなる奇策を繰り出してこようとも、一歩も退くな』とな!」
「御意にございます!」
諸将が一斉に平伏した。
その日の午後から、駿河・遠江の大地は、再び軍事動員の動きに巻き込まれていった。
郷村から召集された兵たちは、田畑を離れて陣へ戻り、甲冑の埃を払い、槍の穂先を研ぎ澄ました。
境川の要所には守備の兵が置かれ、物見と早馬の道が整えられた。
夜になれば、境川沿いの陣や遠江の街道筋に警戒の篝火がともり、物見の兵が交代で尾張の方角を見張った。
三河の岡崎城でも同様であった。
義元の厳命を受けた松平元康は、治りかけていた胃が、またしくしくと痛み始めながら、三河武士たちを境川の防衛線へと送り出し、自らも前線の指揮にあたった。
雨の日も風の日も、泥に塗れて物見を放ち、尾張の方向を睨み据え続ける。
「いつ来るか」「どこから攻めてくるか」という恐怖に苛まれ、三河の将兵たちは再び夜も眠れぬ日々へと引き戻されていった。
そして、ひと月が過ぎた。
駿府へ届いた報告にも、敵の軍勢が国境へ集結した形跡はなかった。兵糧を運ぶ荷駄の列も、街道を封じる動きも、渡河地点を探る動きも確認されていない。少なくとも、今川方の物見が捉えた範囲では、尾張勢が攻勢に出る明らかな兆しは見当たらなかった。
翔次は報告を受けると、ただちに義元へ状況を言上し、警戒態勢の見直しを求めた。
義元は、国境の守備と物見の配置を維持することを条件に、交代で前線に出ていた兵の一部を村へ帰すことを認めた。
翔次はその裁可に従い、各陣の兵数と交代の手順を改めた。
ふた月が過ぎた。
秋の風が吹き抜け、尾張の稲穂が黄金色に実る季節となった。
尾張と三河の境をなす境川の防衛線には、今川・三河合わせて要所を固める兵が配置され、部隊ごとに交代しながら警戒に当たっていた。すでに一部の兵は村へ戻していた。それでも境川の防衛線を維持するため、交代で兵を送り出す郷村には、なお人手不足の影が差していた。
だが、何一つ起こらなかった。
鉄砲の轟音も響かない。
鬨の声も上がらない。
前田利家の朱槍が姿を見せることもなく、蜂須賀小六が手配する船が川を遡ってくることもない。
尾張の街道からは、百姓たちが牛を引いてゆく姿が見えた。遠く清須の城下には人々の営みが続いているらしく、煙が幾筋も立ち昇っていた。
敵は、来ないのだ。
何一つ攻勢を仕掛けず、何一つ奇策を繰り出さない。
ただ、信照が清須城の奥で沈黙を守っているという報せだけが、間者からもたらされるばかりであった。
「……翔次殿」
境川の最前線、土塁の上に設営された幕舎の中で、岡部元信が憔悴しきった顔で翔次を見つめた。
元信の目の下には濃い隈が刻まれ、その髭面は疲労でやつれ果てていた。
「……敵は、本当に攻めてくるのか」
翔次は土塁の縁から遠く尾張の空をじっと見つめ、無言で唇を噛んだ。
「もうふた月じゃ」
元信は力なく呟いた。
「一部の兵はすでに村へ戻した。されど、国境の守備と交代要員を残すため、なお郷村からの人手は削られ、秋の取り入れに影響が出始めておる。……兵たちは皆、神経をすり減らし、見えぬ敵の影に怯えて刀の柄を握りしめたまま、疲労で倒れ伏しておる」
「……太守様に、改めて言上いたしましょう」
翔次は苦い面持ちで言った。
「前線に留め置いた大軍を解き、国境の要所を守る兵と、異変に備える交代要員を残すべきにございます」
「されど! もし敵が、我らの兵を引いた途端に攻め寄せてきたらどうするのじゃ!」
「ゆえに、守りそのものは解きませぬ。境川の要所には守備の兵を残し、物見を絶やさず、早馬の道を整えまする。敵の動きを捉えたなら、まず国境近くの守備兵を増し、近隣の郷村から必要な兵を召集する。それでも足りぬ場合には、本国から援軍を送る。その手順と合図をあらかじめ定めたうえで、前線に留め置いた大軍を村へ帰すのでございます」
翔次は静かに首を横に振った。
「ふた月もの間、敵は動きませなんだ。攻めてくる可能性は、まだ捨てられませぬ。されど、可能性だけを頼りに兵を置き続ければ、敵が一兵も動かぬうちに、我らが自ら国力を損ないまする。敵の意図は分からずとも、我らの損失は目に見えておりまする」
元信は反論しかけ、言葉を呑み込んだ。
翔次は兵の配置とこれまでの損耗、秋の取り入れへの影響をまとめ、駿府へ使者を立てた。国境の守りを維持しつつ、前線に留め置いた大軍を解くこと。その際、敵の動きに応じて兵を再び集められるよう、物見と早馬の連絡を保つこと。具体的な手立ても添え、義元の裁可を求めたのである。
数日後、駿府から義元の命が届いた。
『前線の大軍は解け。ただし、境川の守りと物見の備えは崩すな。敵に動きあらば、直ちに知らせよ。兵を退かせることと、守りを捨てることは違う。その分別を忘れるでないぞ』
義元の裁可を受け、翔次は各陣へ命を伝える手配を整えた。前線に留め置かれていた兵は順次、郷村へ戻されることとなった。
その夜、翔次は国境の物見台に立ち、一人、尾張の闇を見つめていた。
秋風が冷たく頬を撫でてゆく。遠く、清須の空には一片の雲もなく、冴え冴えとした星々が瞬いていた。
信照は、軍勢を率いて境川へ攻め寄せたわけではない。少なくとも、今川の物見が確かめる限り、清須から大軍が動いた形跡はなかった。
それでも、あの男の沈黙を前に、今川は兵を集め、国力の一部を国境へ縛りつけた。
信照がそこまで計算していたのか、それとも、ただ戦を急がなかっただけなのか。翔次には分からない。
(信照……お前は、何を考えている?)
敵の動きを見極めようとするあまり、翔次は、敵が動かぬ間にも自らの国力が削られてゆくことを、十分に見ていなかった。
兵を置けば兵糧が要る。兵を集めれば田畑から人が消える。戦に備えることと、戦う前に国を損なうことは、紙一重であった。
(次は、沈黙に怯えて兵を動かすのではない。敵の動きと、こちらが支払う代償。その両方を見極める)
翔次は深く息を吐いた。
清須の奥に座す男の考えは、いまだ見えない。されど、敵の心が読めぬからといって、己の判断まで敵に委ねるわけにはいかなかった。
信照の沈黙は、なお続く。
その沈黙の中で、何を守り、何を動かすべきか。
翔次は今度こそ、敵の姿だけではなく、自らの足元を見据えようとしていた。




