第二十一話:駿河の平穏と、忍び寄る影
第二十一話 駿河の平穏と、忍び寄る影
永禄五年の春。
永禄四年春の尾張撤退劇から、ほぼ一年が過ぎていた。東海道の宿駅には、うららかな陽光が降り注いでいた。
駿河府中――今川館を中心に広がる屋敷町の西には安倍川が流れ、南アルプスの山々から流れ下る雪解け水が、川底の石を洗いながら勢いよく下っていた。駿河湾から吹く潮風は、郊外の茶畑に萌え始めた若芽を心地よく揺らしている。
尾張からの撤退から、ほぼ一年――。
諸国の武将たちが「今川は小童・信照に敗れて牙を抜かれた」と嘲笑い、都の公家たちが東国の行く末を面白おかしく噂し合う間にも、この駿河の都には、合戦の硝煙とは無縁の、静かで力強い息吹が満ちていた。
その繁栄の中心に、知行千石の直属軍師として今川義元の側近に列した鍋蓋翔次の姿があった。
「杭をもっと深く打ち込め! 川底の玉石を掘り起こし、角材を三角形に組み上げて噛み合わせるのじゃ! 水の勢いを正面から受け止めるな、斜めに受け流して勢いを削げ!」
安倍川の下流、度重なる氾濫で広大な砂利原と化していた河原において、翔次は泥まみれの麻の小袖の裾を端折り、数百人の人足たちの先頭に立って指図を飛ばしていた。
その手には、自ら墨で引いた治水の設計図が握られている。
かつて歴史と土木、地誌の記録を読み耽っていた頃に記憶の奥底へ刻み込んだ知恵――後世に甲斐の釜無川などで用いられることになる、霞堤や聖牛といった流水の減衰工法であった。
堤防を一本の堅牢な壁として築くだけでは、ひとたび想定を超える大水が出た際、決壊によって大惨事を招く恐れがある。
されど、堤防にあえて切れ目を設け、洪水の一部を逃がして本流へ戻しやすくするとともに、川筋の要所に木組みを据えて水勢を削ぎ落とせば、堤防にかかる負担を大きく減らすことができる。
水と戦うのではなく、水を受け流す――それは、尾張の泥沼で翔次が体現した「不敗の撤退」の理を、そのまま大地への治水へと転じたものであった。
「……翔次様! 御覧くだされ!」
泥だらけの顔を綻ばせ、駆け寄ってきたのは、駿河の川奉行を務める老臣・鈴木甚兵衛であった。
「先日の春の長雨におきましても、工事を施した区間では水勢が抑えられ、下流の田畑への被害も大きく減じましてございます! 新田の苗も、ひとまず無事に持ちこたえましたぞ!」
「そうか……よかった」
翔次は手拭いで額の泥汗を拭い、川風に目を細めた。
翔次の差配は、治水工事だけにとどまらなかった。
尾張での出兵によって底をつきかけていた駿遠三の国力を立て直すため、翔次は前世の農芸化学と経済史の知見を惜しみなく注ぎ込んでいた。
駿河湾の湊に水揚げされる鰯を干し固めた「干鰯」や、菜種油を絞った後の「油粕」を、ただの廃棄物とせず、金肥として内陸の農村へ行き渡らせる仕組みを整えた。
さらに、田を深く耕す「深耕」を奨励し、冬の間に裏作として麦や菜種を植え付ける「二毛作」の技術を、各村の名主たちを集めて丁寧に手ほどきした。
天候に大きく左右されていた農業に、合理的な土作りの知恵が持ち込まれたのだ。
その結果、駿河と遠江の穀倉地帯では、米の収穫高が着実に増える兆しを見せていた。沿岸の塩田からの産出も無駄なく集約され、富士川沿いや安倍川下流域では、新たな美田の開拓が着々と進められていった。
農民たちは、かつて自分たちと同じ泥にまみれ、親身になって鍬の入れ方を教えてくれるこの若い軍師を「生き仏の如きお方」と崇めた。
珍名ゆえに孤独に生きていた現代の青年が、今や多くの領民の命を支え、飢えを救う実務の達人として、大地の上に確かな根を張っていたのである。
「……翔次」
その日の夕刻。
今川館の奥御殿、白砂と苔が美しく調和した枯山水の庭を臨む広間において、太守・今川義元が端座していた。
朱塗りの机の上には、駿河・遠江・三河の三国から集められた検地帳と、土木・治水の功績を記した巻物が幾重にも積み上げられている。
義元は薄紅色の小袖を優雅に揺らし、茶筅を置いて翔次を見つめた。
その双眸に宿る光は、一年前に尾張の泥沼で苦悶していた頃の痛々しさを完全に拭い去り、東海道の覇者たる威厳と、満ち足りた静謐を湛えていた。
「この帳面を見たぞ。……この一年、そなたが進めた治水と開墾によって、新田から見込まれる収穫高は数千石に達する見込みじゃ。干鰯と深耕を取り入れた田畑も、着実に実りを増し始めておる。さらには、塩と茶の流通を整え、座や商人との取引から得られる運上によって、今川の蔵には着実に富が蓄えられておるではないか」
義元は扇を手に取り、感嘆の吐息とともに首を振った。
「尾張から軍を引いた折には、家中の者どもが『今川の落日』と騒ぎ立てたものよ。されど、見よ。軍役を解かれた兵が田畑へ戻り、翔次の授けた知恵によって国を耕した結果……我が今川家の国力は、出兵の前よりも豊かになりつつある。揺るぎなき岩盤を築く、その道筋が見えてきたのじゃ」
「太守様の大英断あればこそにございます」
翔次は平伏した。
「あの泥沼の尾張にとどまり続けておれば、この実りはすべて軍費の煙となって消え去っておりました。兵を引いて本国を富ませる――太守様がその大戦略を信じてくださったからこそ、駿河の大地は応えてくれたのでございます」
「そなたの謙譲は好ましいがな、翔次」
義元はふっと破顔し、扇の要で机の端をトンと叩いた。
「予は、古今東西の軍書を読み漁ってきた。呉子、孫子、六韜三略、あるいは唐土の興亡の記録までな。……されど、戦場において大軍の損害を最小限に抑え、骨組みを損なうことなく退かせる『不敗の退却戦』を指揮し、城に戻れば民の飢えを救い、川を鎮め、富を生み出す知恵を湯水の如く湧き出させる男など、ただの一人も見たことがない」
義元の眼差しが、畏怖にも似た深い光を帯びた。
「翔次。……そなたは、ただの知恵者ではないな。戦の勝ち負けを越え、国を富ませ、民を潤す……まさに『国を創る神』の如き眼を持っておる。……予は、そなたを拾ったあの日、己の生涯において最大の果報を掴んだと、今にして心から思うぞ」
主君からの、これ以上ない極上の賛辞。
翔次の胸の奥底に、熱いものが込み上げてきた。
歴史オタクとして現代社会の片隅で燻り、誰からも必要とされずに生きていた自分が、今、戦国屈指の大名から、唯一無二の右腕として全幅の信頼を置かれている。
自分が信長を死なせてしまったという消えぬ罪の意識は、依然として胸の奥底に棘のように刺さっていたが、少なくとも、この駿河の平穏を守り、命を育む営みの中に、己がこの時代に生きる確かな意味を見出しつつあった。
「もったいなきお言葉にございます、太守様」
翔次は深々と頭を垂れた。
「三河の岡崎城におわす松平元康殿からも、先達て書状が届きましてございます。三河衆も岡崎の農政に励み、今川家への忠誠を日々新たに誓っておるとのこと。……駿河、遠江、三河の三国は今、かつてない結束を誇っておりまする」
「うむ。まことに重畳じゃ」
義元は満足げに頷き、茶碗を取り上げた。
「甲斐の武田信玄も、相模の北条氏康も、我が領国のこの急速なる繁栄を見せつけられ、おいそれとは手出しができぬと見て、三国同盟の誓詞を改めて確かめてきた。……東海道は、予の手の中に盤石じゃ。翔次、予の目指す『東海巨大独立国家』の国造りは、今まさに、その確固たる基礎を築きつつあるのじゃ」
駿河の平穏。
豊かな実りと、民の笑顔。
これこそが、翔次が前世の知識を総動員して作り上げたかった、血の流れない理想の領国の姿であった。
このまま、駿河が富み、三河が栄え、平和な独立国家として歴史の荒波を乗り切ることができれば――信長を死なせた己の過ちも、あるいは許されるのではないか。
翔次は庭の青葉を見つめながら、淡い安堵の光に心を委ねかけていた。
だが、乱世の暗雲は、その平穏をいつまでも許してはくれなかった。
バタバタと、渡り廊下を激しく軋ませる足音が近づいてきた。
襖が乱暴に引き開けられ、血相を変えた岡部元信が姿を現した。甲冑こそ着けていないものの、その手には一本の封書が握りしめられ、その顔は怒りと、言葉にできぬ戦慄によって歪んでいた。
「……元信か。いかがいたした。茶の湯の席に、無作法であるぞ」
義元が眉をひそめると、元信は広間に飛び込むように平伏し、封書を畳の上に差し出した。
「太守様! 翔次殿! ……尾張より、間者の急報にございます!」
その言葉が出た瞬間、広間の空気が一変した。
翔次の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
尾張。
あの一年前の泥沼の記憶が、冷たい水のように背筋を駆け下りる。
「……信照の動きか」
義元の声が、低く沈んだ。
「あの地で、何が起きておる。我が軍が兵を引いてから、ほぼ一年……奴らは何を企んでおるのじゃ」
「それが……!」
元信は額に青筋を立て、絞り出すように言った。
「敵は、企むどころか……城から一歩も出ておりませぬ! 我が軍が尾張を退いた後、清須城を守っておった佐脇藤右衛門ら旧臣どもが、信照の武名と織田の血筋、お市の方を救い出した義挙、そして尾張各地へ広がる保護圏の勢いを認め、信照を清須城へ迎え入れ、主として推戴したのでございます!」
「佐脇が……城を明け渡しただと?」
義元が目を細めた。
「清須城は信長亡き後、あの留守居役どもが頑なに守っておったはず。それを、あの小童に託したというのか」
「左様にございます!」
元信は畳を強く叩いた。
「旧臣どもは信照を主として清須城へ迎え入れました。そして……信照は入城するや、これまで得体の知れぬ野武士や川者と見なされておったあの手勢どもを、正式に軍配を預かる重臣・将として取り立てたのでございます!」
元信は息を荒げ、封書から取り出した帳面を読み上げた。
「あの戦で我が軍を散々に苦しめた者たちの名が、今や尾張の表舞台に名を連ねておりまする!
あの縦横無尽に突撃を繰り返した朱槍の男は、前田又左衛門利家!
兵糧を奪い、民へ米を配った人心掌握の巧者は、木下藤吉郎!
我が軍の背後に偽りの報せを流した影の者は、滝川久助一益!
そして、水路を塞ぎ舟運を断ち切った川の者は、蜂須賀小六正勝!
信照はこの四人を己の右腕たる『四天王』として正式に将に任命し、尾張の軍事、兵糧、調略、水運のすべてを統括させておりまする!」
「前田利家……木下藤吉郎……滝川一益、蜂須賀小六……!」
翔次の喉から、かすれた声が漏れ出た。
背筋に、氷柱を突き立てられたような寒気が走る。
前世の歴史において、信長の覇道を支え、天下を統一へと導いたはずの者たち――後の豊臣秀吉となる男までもが、今や信照という謎の怪物の手によって、正式な武将団として組織され、清須城の屋根の下に勢揃いしてしまったのだ。
「さらに恐るべきは、その用兵の連動にございます!」
元信は声を震わせた。
「これまでは各地に散らばり、個々に動いているかに見えたあの曲者どもが、今や清須城の一つの命令のもとに組み込まれ、軍事・兵站・調略・水運を緊密に分担して連動しておるのでございます!
その四天王が号令を発したことで、尾張各地に広がった『信照旗』の勢いは止まるどころか……今や、尾張北部の春日井郡、丹羽郡、葉栗郡の村々までもが、雪崩を打って保護を求めておりまする!
かつて信長に従っていた豪族も、斎藤義龍と通じていた土豪たちも、我先にと清須へ使者を送り、信照の保護を求め、自らの村を『保護圏』に加えようとしておりまする!」
「……寄せ集めの野武士どもなどではなかった」
翔次は蒼白な唇を震わせた。
「信照は……荒れ屋敷に潜みながら機を窺い、今川が引いた後、旧臣たちに迎えられて清須城へ入り、あの異能の四人を正式な将として配下に組み込んだのか……! 旧臣たちを従え、四つの機能を一つの指揮系統に束ね、盤石な体制を築き始めている……!」
「経済の侵食も凄まじきものにございます!」
元信は報告を重ねた。
「木下藤吉郎の差配により、信照の勢力圏では街道の荷駄に対する不当な運上が禁じられておりまする!
その結果……美濃や伊勢の商人をはじめ、近江や堺へと商品を運ぶ商人たちまでもが、関所での荷改めや関銭の徴収を嫌い、『安全にして煩いのなき信照街道』へと次第に荷駄を向け始めておりまする!
尾張の物資が津島や熱田へ流れ……実数は定かではありませぬが、日ごとに数千俵もの米や、相当な額の金銀が集まるとも噂され、荷駄の列が途切れる気配はない由にございます!」
「……止まらぬのか」
義元の顔から、先刻までの血色が急速に引いていった。
「予が兵を引けば、共通の敵を失った尾張の民の結束は緩むはずであった。……それなのに、なぜじゃ。清須城に入り、四天王を従えた小童の許へ、なぜこれほどまでに民が集まるのじゃ……!」
「さらに恐るべきは、城内の信照の動静にございます!」
元信は悔しげに奥歯を噛み締めた。
「利家ら四天王は、連日のように軍議を開き、『今川を退けた今こそ、三河、駿河へと攻め入る好機』と息巻いておるという。……しかるに、主君たる信照だけは、奥の間にこもって一切の出陣を許さず、ただ静かに沈黙を守っておる……」
「沈黙……」
翔次は喉を鳴らした。
「出陣を唱える四天王を、信照が抑えているというのか……?」
「左様にございます!」
元信は声を絞り出した。
「間者の見立てでは……信照は、駿河へ攻め入る時機を待っておるのじゃ。我が今川が国力を回復させ、油断したその瞬間を狙い澄まし、一撃で東海道を呑み込むための策を、あの清須城の奥で練り上げておるに相違ない……と!」
広間を、真冬の湖底のような冷気が支配した。
庭の小鳥の囀りも、川のせせらぎも、一瞬にして遠い幻の如く消え去った。
清須城に入り、旧臣を束ね、異能の四天王を将に据えながら――城から一歩も出ず、兵を動かさず、ただ座っている。
それだけで、尾張各地に影響が及び、天下の商人が集まり、寄進の山が築かれ、猛将たちの手綱が締め直されている。
そして、その「動かない」という沈黙そのものが、今川家の喉元に突きつけられた、抜き身の刃となって威圧してくるのだ。
「……化物め」
義元が、震える手で茶碗を机の上に置いた。
カチャリと、乾いた陶器の音が響いた。
「予が一年をかけ、泥にまみれて駿河を富ませておる間に……奴は、指一本動かさず、清須の城を押さえ、尾張各地に己の影響を広げてみせたというのか。……信照。貴様の底は、いまだ見えぬというのか……!」
義元の唇が、苦渋によって白く乾いていた。
せっかく取り戻しかけた「東海独立国家」への自信が、西の魔王の沈黙の影によって、再び冷酷に塗り潰されようとしていた。
広間を出た翔次は、眩しい春の光が降り注ぐ中庭の回廊に佇んでいた。
遠く、青空に聳え立つ霊峰・富士。
その白銀の頂は、泰然自若として美しかった。
されど、翔次の胃の腑には、かつて尾張の泥沼で味わったあの焼けつくような痛みが、再び鋭い針となって蘇っていた。
(信照……)
翔次は西の空を見つめた。
富士の稜線の彼方、清須城の奥深くに、今もあの男が座っている。
(佐脇ら旧臣を従え、四天王を将に据え、なおも城の奥で沈黙を守る……。次の一手を、熟考しているのか?
俺が駿河を富ませ、三河を固めていることすら……お前は、最初から見抜いているというのか……?)
現代の知識を総動員して成し遂げた、駿河の繁栄。
それすらも、あの男の「沈黙の統治」の前には、ただの子供の砂遊びのように思えてくる。
姿を見せぬ魔王の深淵。
その見えざる影は、平穏を取り戻したはずの駿河の大地へと、音もなく、確実にその冷たい指を伸ばし始めていた。
知恵と知恵、合理と異能の暗闘は、舞台を東海全土へと広げながら、さらに深く、さらに巨大な迷走の渦へと、今川家を呑み込もうとしていた。




