第二十話:尾張の魔王、立つ
第二十話:尾張の魔王、立つ
境川の水音は、東へと遠ざかる今川軍の蹄の音を呑み込み、やがて春浅き柔らかな潮風の中に溶け去っていった。
二万の軍勢が泥濘の尾張を去り、三河の国境を越えて引き揚げたという事実は、最初、信じ難い出来事として受け止められた。だが、それはやがて大地を揺るがす歓喜となり、尾張の山河へと広がっていった。
鳴海、大高の城郭がもぬけの殻となり、沓掛城に掲げられていた今川の白旗が消え去ったその日の正午――。
萱津の郷をはじめ、尾張各地の村々から、堰を切ったように百姓たちが飛び出してきた。
手に手に掲げられた『織田十郎信照』の白布の旗が、春風の下で一斉にはためいた。
「今川が退いたぞッ!」
「二万の大軍が、三河へ引き揚げたぞッ!」
歓声は、村から村へと伝わっていった。
農民たちは泥にまみれた鋤や鍬を放り出して抱き合い、寺々の梵鐘が尾張平野に響き渡った。熱田の社や津島の湊でも、人々が酒を酌み交わし、無事を喜び合った。
血を流さずに守り抜いたのだ。
田畠を焼かれず、過酷な公事を課されず、家を追われることもなく、天下に聞こえた今川義元の二万の大軍を退かせた。
その中心にいたのは、姿を現さぬまま、ただ一言「好きにせよ」と告げ、民に旗を授けた男――織田十郎信照その人であった。
尾張北方、信照が身を置く廃屋へと続く街道には、各地から集まった荷車と人足の列ができていた。
米俵、酒樽、干魚、塩、木綿、そして商人たちが持ち寄る銭。
「今川を退けてくださった御礼に」
「信照様のお命をお支えするために」
民百姓や商人たちが、自らの意思で品々を差し出した。寄進は廃屋の周囲へと運び込まれ、入りきらぬ米俵は、建物のそばに積み上げられていった。
その場では、朱槍の男が人々を動かし、帳面を扱う者が寄進の品々を改め、影の者は風のように街道を駆け巡っていた。川を知る者たちの手勢は、木曽川の水路を行き交い、荷と人を運び続けていた。
民の熱狂と、四人の英傑の働き。
その頂点に立つ主君は、姿を見せずとも、尾張の人々の心に深く刻まれつつあった。
もはや一介の武将ではない。人々の口に上る信照の名には、畏れと敬意が入り交じり、やがて魔王という呼び名さえ伴うようになっていた。
――その頃。
三河の矢作川を渡り、東海道を東へと進む今川軍の長い列の中に、鍋蓋翔次の姿があった。
泥濘を抜け、乾いた春の街道を踏み締める軍勢の足取りは、驚くほど整然としていた。
翔次の差配した撤退戦によって、二万の将兵は大きな損害を出さず、軍の骨組みを保ったまま三河の領内へと帰還していた。
岡崎城外の宿営地では、松平元康率いる三河衆との別れの盃が交わされた。
「……翔次殿」
甲冑の草摺を解き、引き締まった表情を湛えた元康が、両手で酒杯を捧げ持ってきた。
その頬には、前線の泥沼で死人のように青ざめていた面影はない。家臣たちを一人も失わず、岡崎の地を守り抜いた若き領主の瞳には、凛とした光が宿っていた。
「某と三河の命、すべて翔次殿に救われ申した。翔次殿が陣割りを改め、退路を敷いてくださらねば、某は今頃、境川の泥の中で骨となっておりました。この御恩、三河武士は子々孫々に至るまで忘れはいたしませぬ」
「滅相もございませぬ、元康殿」
翔次は静かに杯を受け、薄い酒を喉へと流し込んだ。
「元康殿の忍耐と、三河衆の規律正しき結束あればこそ、大軍の骨組みを損なうことなく撤退を成し遂げられたのです。岡崎の城に腰を据え、まずは三河の国力を養ってくだされ。尾張の泥沼がどれほど騒がしくなろうとも、決して惑わされてはなりませぬ」
「心得ておりまする」
元康は力強く頷き、翔次の手を固く握りしめた。
「三河の地を守り、今川家の御恩にも報いる。それが今の某の務めにございます。されど、翔次殿から受けた御恩を忘れることはありませぬ。いつの日か、貴殿と肩を並べて笑える日が来ることを願っておりまする」
その言葉を聞いた瞬間、翔次の胸の奥底で、冷たい罪悪感が微かに疼いた。
元康は、魂の底からの感謝と信頼を捧げている。
その信頼を受ける自分が、いかなる因果を招いたのか。翔次には、胸を張って語ることなどできなかった。
乱世の皮肉さに唇を噛み締めながら、ただ深く頭を垂れるほかなかった。
軍勢はさらに東へと進んだ。
遠江の浜名湖を過ぎ、天竜川を渡り、掛川の城下を後にして、大井川の流れを越えてゆく。長い退却の道程にもかかわらず、軍列は乱れず、兵たちは互いに歩調を合わせて駿河を目指した。
先頭を進む太守・今川義元の乗馬の周囲には、屈強な親衛隊が隙間なく居並び、その後方に翔次と岡部元信が馬を並べていた。
「翔次殿」
元信が太刀の柄に手を置き、馬上で髭を撫でながら声をかけてきた。
「尾張を去ってからというもの、そなた、一度も笑うておらぬな。二万の兵を崩壊させることなく引き揚げさせ、駿河・遠江の家臣どもから『不敗の軍師』と称えられておるというのに、何がそれほど気に食わぬのじゃ」
「……元信殿」
翔次は手綱を握る指先に視線を落とした。
「我が軍は、確かに兵の骨組みを損なうことなく退却いたしました。討死を抑え、本国のこれ以上の疲弊を食い止め、義元公の命脈を繋いだ。されど、戦の大局において、我が軍は……敗北したのです」
元信は言葉を失い、苦々しげに前方を睨み据えた。
「……信照、か」
「はい」
翔次は絞り出すように言った。
「結局、我らは何と戦っていたのか。朱槍の男の槍か、川の者の水か、影の者の影か、人を動かす者の米か。否。我らは、信照という男が創り出した『尾張という大地の意思』そのものに弾き飛ばされたのです。
城を落とすこともできず、敵の首を挙げることもできず、ただ旗一本の前に立ち往生し、自ら兵を引かされた。今川家は生き残りました。されど、あの尾張の地では今、何者が人々の心を掴んでおるのか……」
翔次は馬首を巡らせ、遥か西の空を振り返った。
地平の彼方、春霞の向こうに霞む尾張の空には、不気味なほど濃密な、暗雲のような気配が立ち込めているように思えた。
その予感は、今川軍が駿府へ戻って数日後、恐るべき現実となって天下を揺るがすこととなった。
駿府・今川館の広大な書斎。
西国、北国、そして京の都から届いた密書を広げていた翔次の指先が、凍りついたように止まった。
――甲斐・躑躅ヶ崎館。
武田信玄は、尾張から帰還した間者の報告を聞き、愛用の軍配を膝の上で静かに回したという。
「今川治部大輔の二万が、決戦にも至らず尾張から退いた……? 相手は誰じゃ。信長の残党か。織田十郎信照? 聞いたこともない名じゃな。城を持たず、民が自ら旗を掲げて守り合い、大軍を退かせたという風聞、まことか。真偽は知れぬが、東海道に得体の知れぬ怪物が現れたことだけは確かよ。透破を放ち、その正体と尾張の動向を厳しく探れ」
信玄は直ちに尾張への調べを命じ、信照という男の動向を探るべく草の者を清須周辺へと放った。
――相模・小田原城。
北条氏康は、絵図の上に筆を置き、重臣たちを前にして腕を組んだという。
「今川が退いたか。義元ほどの者が、尾張を平らげぬまま兵を引くとは……。しかも、信照と申す織田の若者が、民の旗印ひとつで各地を結びつけておるという。真偽はまだ分からぬ。だが、尾張で何かが変わりつつあることだけは確かよ。風聞の裏を確かめよ」
――越後・春日山城。
長尾景虎の許にも、信照の噂は届いていた。
「民が自ら米を寄せ、無駄な流血を排し、大軍を退けた武将がおるという。利を追わず、義をもって民を守る男か。それとも民をたばかる妖異か。いずれ、この目で確かめてみねばなるまい」
そして――京の都。
畿内に強い影響力を持つ三好長慶や松永久秀のもとにも、その報せは疾風のごとく駆け巡っていた。
今川義元を退けた尾張の新たな旗頭、織田信照。
都の公家たちは、信照こそ東海の乱れを鎮める重石だと噂し合った。堺の豪商たちは、尾張では商いの道が守られ、関銭をめぐる煩いも少ないという風聞に目をつけ、尾張へ人を送り、商いの可能性を探らせ始めた。
尾張の魔王。
不戦の覇者。
実体の見えぬ虚像は、人々の噂と恐怖を吸い込んで巨大な怪物へと膨れ上がり、天下の諸将が息を呑んで見据える存在となりつつあった。
「……信長」
翔次は薄暗い書斎の中で、両手で顔を覆った。
乾いた笑いが、唇の端から零れ落ちた。
狂った。
歴史が、完全に狂い果てた。
翔次が知る歴史において、織田信照などという男は、織田一族の系図の片隅に名が記されているだけの、無名の異母弟に過ぎなかったはずなのだ。
信長が死んだからといって、なぜその無名の男が、これほどまでに天下を震え上がらせる魔王へと変わってしまうのか。
なぜ、かつての歴史で名を馳せるはずだった英傑たちが、信照の旗の下で一糸乱れぬ連携を見せているのか。
(俺が……信長を死なせたからだろう?)
翔次は机を強く叩いた。
信長という、強烈な個性と苛烈な破壊力を持った天才を、自分の保身の一言によって歴史の表舞台から消し去ってしまった。
その結果、歴史の暗黒の裂け目から引きずり出されたのは、信長にも劣らぬ恐ろしさと、遥かに底知れない謎を秘めた見えざる魔王であった。
力で挑んでも、受け流される。
兵糧で攻めても、民の寄進によって無力化される。
間者を放っても、煙に巻かれる。
姿を見せず、北尾張の廃屋に身を潜めながら、天下の大名たちを翻弄し、勢力を広げていく男。
(奴は……一体、何を見ているんだ? 天下を望んでいるのか? それとも、この乱世そのものを解体し、まったく新しい国を創り出すつもりなのか……?)
答えは出なかった。
どれほど記憶の底から掘り起こそうとも、そのような思想を持った武将など、日本の歴史のどこにも存在しなかったからである。
未来の知識という唯一の武器は、今や完全に粉々に砕け散り、翔次の前には、一寸先も見通せぬ未知の闇が広がっていた。
「……翔次」
静かな声が、書斎の戸口から響いた。
顔を上げると、小豆色の直垂を纏った太守・今川義元が立っていた。
駿府へ戻って以来、義元の顔には、かつての貴公子然とした余裕が戻りつつあった。尾張の泥沼から脱したことで、駿河・遠江の内政は息を吹き返し、兵たちの休養も順調に進んでいた。
「太守様……」
翔次が立ち上がろうとすると、義元は手で制し、静かに畳の上に腰を下ろした。
義元の手には、一通の巻物が握られていた。
「駿遠三の検地帳と、富士川の治水計画書じゃ。翔次、そなたの言った通りであったな。兵を引いたことで、本国の血の巡りが甦った。商人どもも安堵し、銭と米が再び駿府へと集まり始めておる」
「……何よりにございます」
「されど、そなたの眼には、いまだあの尾張の影が焼き付いて離れぬようじゃな」
義元の鋭い双眸が、翔次の青ざめた顔を射抜いた。
義元は巻物を机の上に置き、低く、重い声で言った。
「天下の噂は、予の耳にも入っておる。『今川義元を退けた尾張の魔王・信照』か。武田も北条も、信照の影に怯え、東海道の情勢を測りかねておる。世の者どもは、予が小童に敗れ、天下取りの野望を諦めたと嘲笑っておるようじゃ」
義元はふっと冷たい笑みを浮かべた。
「笑わせておけばよい。翔次、予は諦めてなどおらんぞ」
義元の双眸に、爛々たる野心の炎が燃え上がった。
「予が目指すは、駿河・遠江・三河、そして尾張を合わせた東海の大国。一度引いたのは、矢をより遠くへ射るため、弦を深く引き絞ったまでのことよ。
信照が尾張で民心を掴み、魔王と崇められようとも、所詮、奴の勢力は尾張を中心としたもの。予は駿河を富ませ、遠江を固め、三河を鉄壁の防壁とし、五年、十年をかけて、決して揺るがぬ巨大なる岩となって、再びあの尾張を押し包んでみせる」
義元は立ち上がり、翔次の肩にずっしりと重い手を置いた。
「翔次。そなたを、我が側近として軍略を担わせるつもりだ。知行は千石。予の側近くに召し抱え、駿遠三の内政と軍略について予を補佐せよ。予の頭脳となり、あの魔王を封じる策を、じっくりと練り上げるのじゃ」
「……!」
知行千石。
尾張の貧農の倅・弥八であるはずの身が、未来の記憶のみを頼りとして、名門・今川家の側近へと正式に抜擢された瞬間であった。
義元は、翔次の持つ俯瞰の眼を、己の国を支える力として認めたのだ。
翔次は畳に平伏し、両手を強く握りしめた。
「御意にございます、太守様。この鍋蓋翔次、この命に代えましても、今川の家名を、そして駿遠三の平穏を、死力を尽くしてお守り申し上げまする」
夜――。
義元が去った後、翔次は館の庭先へと出た。
駿河湾の潮騒が、遠く夜風に乗って響いてくる。
見上げれば、澄み切った満天の星空の下、霊峰・富士の雄大な稜線が、銀色の雪を冠して凛然と聳え立っていた。
冷たい風が、翔次の頬を撫でてゆく。
西の空。
果てしなき闇の向こう、尾張の空の下で、今もあの男が身を潜めている。
姿を見せぬ魔王・織田信照。
その傍らには、正体の知れぬ四人の英傑がいる。
そして、その背後で遠く噂に聞こえる、織田の姫君・お市。
歴史は狂った。
信長は死に、未来の地図は消え去った。
だが――自分は生き残った。
今川義元という偉大なる主君を生かし、松平元康というかけがえのない友を救い、今川家という巨大な船の舵を握る立場を得た。
翔次は夜空に向かって、拳を血が滲むほどに強く握りしめた。
胸の奥底から、恐怖を突き破って、滾るような闘志が湧き上がってくるのを感じていた。
(信照……)
翔次は尾張の闇を睨み据え、心の中で静かに、だが鋼の硬さをもって告げた。
(貴様がどれほどの化け物であろうと、どれほど底知れぬ魔王であろうと、俺はこの今川の知恵袋として、貴様の勢力を絶対に駿河へは通さない。
お前の創り出した泥沼を、俺の知謀の限りを尽くして干上がらせてみせる。
信照。俺とお前の、本当の戦いは、ここからだ!)




