第十九話:今川義元の撤退決断
第十九話:今川義元の撤退決断
雪解けの泥水が境川を濁らせ、冷たい雨の合間に微かな春の兆しが混じり始めた頃――。
永禄四年、二月。
あの大雨の桶狭間において織田信長が討ち死にを遂げてから、九か月近い月日が流れていた。
駿河・遠江・三河の太守・今川義元が率いる二万の大軍は、依然として尾張の東部にその巨躯を横たえていた。
沓掛、大高、鳴海の三城を結ぶ守りの構えは崩れておらず、軍師・鍋蓋翔次の差配により、正面衝突における今川将兵の討死者は驚くほど抑えられていた。
朱槍の男の突撃も、川の者どもの水運も、影の者の夜襲も、今川の本陣を直接脅かすことは叶っていない。
戦術の盤上を見る限り、今川軍は一歩も退いておらず、一度たりとも決定的な敗北を喫していなかった。
――されど。
沓掛城の本丸大広間に積み上げられた、本国・駿府から届いた収支の帳面と知行目録の山は、戦場の矢玉よりも遥かに冷酷な現実を突きつけていた。
「……また、駿河の富士川の堤防普請が止まったか」
上段の床几に座す義元の声は、冬枯れの葦原を抜ける風のように低く、かすれていた。
白粉を引いた高貴な額には隠しようのない濃い影が落ち、手にした白扇は、開かれることもなく膝の上に置かれたままである。
義元の御前に平伏しているのは、駿府の留守居を務める勘定奉行から急ぎ派遣されてきた使者であった。
「ははッ……! 遠江の塩田開発に充てるはずであった銭三千貫のうち、相当の額が尾張出兵の費えに回されております。さらに、非常時に備えて蓄えていた囲い米も、すでに少なからず蔵を出ております。本国の領民の間からは、長引く出兵への不満が日に日に高まり、この春の年貢の減免を求める声が相次いでおりまして……!」
広間の板敷きに、重苦しい沈黙が落ちた。
居並ぶ三浦上総介義就や朝比奈泰朝ら重臣たちも、今や言葉を失って俯くほかなかった。
長い陣中生活。
それは、当初今川家中が思い描いていた「信長亡き尾張を瞬く間に呑み込む短期の掃討」とは、あまりにもかけ離れた泥沼の歳月であった。
合戦はない。首級は挙がらぬ。領地は一寸たりとも増えぬ。
それにもかかわらず、境川を挟んで布陣する二万の大軍を維持するため、駿河・遠江・三河の三か国からは、おびただしい富が吸い取られ続けていた。
二万の兵そのものを食わせる米もさることながら、その二万を泥濘の尾張に留め置き続けるための人夫、馬の飼料、荷駄隊、落とされた土橋や堤防の修復、さらには荷駄を運ぶ人足の賃や、街道を警固する兵の扶持、馬具や荷車の修繕にかかる費え――兵を養う米の量以上に、軍旅を維持するためにすり減る富の総量が、日ごとに積み重なり、本国の骨肉を削り取っていたのである。
その上、過日、心身の限界を極めた松平元康率いる三河衆を前線の矢面から引き揚げさせ、後方の兵站警固へと回したことが、今川直轄軍の負担を一層重くしていた。
三河勢を後方へ回した判断に誤りがあったわけではない。されど、その穴を埋めるため、駿河と遠江の兵は夜番も荷駄の監視も、これまで以上に担わねばならなかった。
その結果、今度は今川直轄の兵たちが、神出鬼没なる織田信照の「見えざる野伏の戦」の毒気に晒され、終わりの見えぬ夜番と泥濘の労役に、心身をすり減らし始めていたのである。討死者こそ出ぬものの、夜闇の恐怖に錯乱する者や、足腰を痛めて歩行も叶わぬ者が続出し、前線からは悲鳴のような交代の訴えが相次いでいた。
前線の兵の疲れは、日ごとに目に見えていた。そこへ駿府から届いた報せが、これまで胸中に積もっていた懸念を、もはや看過できぬものへと変えた。
「……何という無駄飯を食らい続けておるのじゃ」
三浦上総介が、悔しげに太刀の鍔を鳴らして吐き捨てた。
「敵は城に籠もらず、兵を出さず、ただ布切れ一本を立てて百姓を盾にし、米を奪い、橋を落とすのみ! 合戦らしい合戦もできぬまま、なぜ我が今川が、本国の血肉を削らねばならんのじゃ!」
「上総介殿」
朝比奈泰朝が重々しく口を開いた。
「なれば、清須へ総攻めを仕掛けるか? ……行けば、萱津のように多くの村が信照の旗を掲げて立ち塞がり、我が軍は数多の民百姓を敵に回さねば進めぬぞ。そのような非道を働けば、尾張のみならず、背後の甲斐の武田、相模の北条が、隙を見せれば動かぬとも限らぬ」
「ぐ……っ!」
上総介は言葉を失い、歯噛みした。
力づくで攻めれば、民衆の海に呑まれて自滅する。
現状を維持すれば、本国が疲弊しきって自滅する。
大軍を率いながら、進めば民を敵に回し、留まれば本国を損なう。まさに進退窮まった有様であった。
重臣たちの視線は、広間の隅で静かに座す鍋蓋翔次へと、すがるように集中していた。
「……翔次」
義元の静謐な声が、凍りついた広間の空気を破った。
「そなたの見立てを聞こう。この幾月にも及ぶ戦い……予はいかにすべきか」
広間のすべての将が息を呑んだ。
翔次は膝の上に置いた両拳を静かに整え、板敷きに深く頭を垂れた。
「申し上げまする、太守様」
翔次の声は、騒然とする広間の空気を鎮めるかのように、低く、透き通っていた。
「我が今川軍、合戦において一度たりとも遅れを取っておらず、将兵の討死も極めて少なく抑えられておりまする。……されど、大局の勘定におきましては、我が軍は日ごとに血を流し続けておりまする」
翔次は顔を上げ、義元の目を真正面から見据えた。
「太守様。ここは……兵を引くべきにございます」
広間が、爆発したようにどよめいた。
「何だと……!」
「退くじゃと!? 信長を討ち果たし、尾張を目前にしながら、兵を引けと申すか!」
三浦上総介が血相を変えて立ち上がった。
「そのような真似をすれば、天下に対して今川の面目が丸潰れではないか! 尾張の小童・信照ごときに怖れをなして逃げ帰ったと、天下の群雄に嘲笑われてもよいと申すのか!」
「上総介殿」
翔次は微動だにせず、鋼のような硬さをもってその怒号を跳ね返した。
「面目と申されましたか。面目のために本国を破滅させることこそ、真の愚行にございます。……太守様、問わせていただきとうございます。我が今川家の根本とは、何でございましょうか」
翔次は机上の絵図を指し示した。
「今川家の命脈は、駿河の豊かな海と山、遠江の肥沃な平野、そして三河の武士団にございます。この三か国が盤石であってこそ、今川家は天下の巨頭たり得るのでございます。
しかるに、今、我が軍は何をしておりますか。
実体のつかめぬ信照の影を追うために、本国の富を浪費し、堤防の普請を止め、塩田の開発を遅らせ、領民の暮らしを危うくしておりまする。
尾張という一国の泥濘に執着するあまり、駿遠三の三国というかけがえのない土台を自ら削り取っている……これぞ、本末転倒というものにございませぬか!」
翔次の容赦のない舌鋒に、上総介は息を呑み、言葉を失った。
翔次は義元に向き直り、さらに言葉に熱を込めた。
「太守様。信照は、何を狙っているのか。翔次には、その答えが確かなものとして見えませぬ。されど、あの男の動きから推せば、我が軍を合戦で討ち破ることよりも、尾張を泥沼化させ、我が今川家に『維持するだけで国力をすり減らす重荷』を背負わせることを狙っているようにしか思えませぬ。
なれば――今、この地にとどまり続けることこそが、まさに敵の術中に嵌ることに他なりませぬ!」
「……敵の術中、か」
義元の瞳が、鋭く光った。
「はい。敵が我が軍を引き摺り込もうとした泥沼から、あえて自ら足を抜くのです。
尾張を力づくで平定することは、現時点においては困難。なれば、境川の国境まで兵を引き、防備を固めるのです。
兵を本国へ帰還させ、駿河の治水を再開し、遠江の塩田を広げ、三河の武士を休養させて国力を充実させる。
敵の信照が、関銭を取らず、米を施して民の心を惹きつけていると申しても、それは今川という外敵の脅威があればこその結束。我が軍が兵を引けば、尾張の村々や土豪どもは、今度は自分たちの中で主導権を争い、綻びを生じさせましょう。
退くことは、敗北ではございませぬ。
損を切りて本拠を守り、次なる好機を待つための――軍を保ちて国力を養う大略にございます!」
広間に、静寂が降りた。
松脂のはぜる音だけが響く中、重臣たちは誰一人として反論の言葉を見出せずにいた。
翔次の言葉は、単なる撤退の勧めではなかった。
今川家という巨大な国家を支え、その存続を第一に考えた、冷徹な大計の言上であったからである。
やがて――義元の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
ぱちん、と白扇が畳まれる乾いた音が響いた。
「……ふ、ふふ。見事じゃ、翔次」
義元はゆっくりと立ち上がり、広間の重臣たちを見渡した。その双眸に宿る光には、迷いを断ち切った英主の威厳があった。
「上総介。聞こえたか。予は、面目などという安っぽい飾りのために、駿遠三の民と兵を殺す気はない。……真の勇気とは、進むことのみにあらず。退くべき時を見極め、傷を最小限に抑えて軍を保つことこそ、大名の器量よ」
義元は扇を広げ、毅然と言い放った。
「全軍に命ずる。尾張より兵を引く! 沓掛、大高、鳴海の諸拠点は、兵糧と武具を残さぬよう収め、敵に利用されぬよう始末せよ。その後、各隊は定められた道筋を通り、境川の東へ退け! 三河を経て、それぞれの持ち場へ帰還せよ!」
「ははッ!!」
重臣たちが一斉に平伏した。
主戦論に凝り固まっていた諸将の迷いは消え去り、今川軍は一丸となって撤退の準備へと動き出したのである。
義元は翔次に向き直り、重々しく告げた。
「翔次。この退き口の差配、すべてそなたに任せる。敵に討ち取られる兵を最小限に抑え、兵糧を敵に渡さず、我が二万の軍勢を三河へ収容してみせよ」
「御意にございます。……必ずや、不敗のまま全軍をお連れ帰りいたしまする!」
そこからの翔次の指揮は、細部に至るまで無駄がなかった。
撤退とは、合戦の中で最も困難なる用兵である。少しでも隊列が乱れれば、敵の追撃を受けてたちまち壊乱へと転落する。
翔次はこれまでに培った知恵のすべてを注ぎ込み、各隊の出立、荷駄の移動、渡河の順を細かく定め、退路が塞がれぬよう手筈を整えた。
第一に、松平元康率いる三河衆。
すでに後方街道の警固を担っていた三河勢は、前線の過酷な任務から離れ、ある程度の休息を取っていた。翔次はこの三河勢を後方退路の確保に回し、境川の主要な渡河地点を押さえさせた。舟橋と浅瀬にはそれぞれ見張りを置き、各隊が定められた順に渡れるよう、通行を統制させた。退路が確保されているという確信が、本隊の動揺を防いだのである。
第二に、物資の搬出。
沓掛城と大高城、鳴海城に備蓄されていた兵糧と武具は、翔次の指示により、夜陰に乗じて小分けに搬出され、三日間をかけて三河本国へと運び去られた。敵にそのまま利用される形で残された兵糧や武具は、可能な限り取り除かれていた。
そして第三に、殿軍の用兵。
全軍が引き揚げた後の最後尾を預かったのは、岡部元信率いる直轄の重装部隊であった。
今川軍の陣払いを察知した織田方の追撃部隊――朱槍の男の騎馬隊と川の者どもの手勢が、勝機と見て猛然と追撃を仕掛けてきた。
「今川の雑兵どもが逃げ出すぞ! 一人残らず討ち取れッ!」
朱槍の男の咆哮が泥を跳ね上げて迫る。
だが――追撃部隊が沓掛から続く街道の狭隘な一角へ踏み込んだ瞬間、道の両脇の竹林から、伏せられていた今川の弓隊が一斉に矢の雨を降らせた。
「射ち掛けよッ!」
元信の怒号とともに放たれた矢衾が、先頭集団を的確に射すくめる。
朱槍の男が歯噛みして槍を振るい、伏兵を突破したときには、元信の手勢はすでに泥の隘路へ逆茂木を幾重にも据え、次の防備地点へと整然と後退していた。
川筋から迫った川の者どもの小舟部隊も、追撃路に架かる土橋があらかじめ落とされ、川岸には乱杭が打ち込まれていたため、思うように進むことができなかった。舟を寄せようにも、岸辺の浅瀬と障害物が行く手を阻み、追撃の勢いはそこで鈍った。
「おのれ……! 今川め、引き際まで隙がないわ……!」
悔しげな咆哮が、春浅き尾張の空に空しく響き渡った。
追撃を退けた今川軍は、隊列を乱すことなく境川へ向かった。兵たちの中には病を得た者も、殿軍の戦いで手傷を負った者もいたが、部隊の壊乱は起こらなかった。将兵は互いに支え合い、定められた順に川を渡り、三河の領内へと進んでいった。
敵に討ち取られた者は、ごく少数にとどまった。
部隊の壊乱は、皆無。
敵に奪い去られた兵糧蔵も、皆無。
病を得た者も、手傷を負った者もいた。されど、二万の軍勢は隊列を保ち、兵糧を守り、軍としての力を大きく損なうことなく本国へ収容された。戦略上は尾張平定を断念した撤退であったが、退却そのものにおいては、紛れもなく「不敗」と呼ぶに足る成果であった。
境川に架かる最後の舟橋の上で、翔次は馬を止め、振り返った。
冷たい川風が、泥に汚れた陣羽織の裾を吹き抜けてゆく。
遠く、西の空――尾張の平野を望めば、沓掛城から立ち上る微かな煙の向こうに、果てしなく広がる鉛色の雲が横たわっていた。
尾張平定の夢は、潰えた。
今川義元の野望は、ひとまずこの境川の東側へと押し戻された。
信長を死なせ、歴史を狂わせた己が、今川家を支えて戦い抜いた長い泥沼の果てに勝ち得たものは、ただ「全滅を防ぎ、仲間を生かして引き揚げた」という、一見すれば敗北にも等しい結果だけであった。
だが――翔次の胸には、不思議な静けさが満ちていた。
馬の背から見渡せば、前を行く三河の兵たちが、家族の待つ故郷へ向かって歩みを進めている。
元康が馬を寄せ、翔次に向かって深く、晴れやかな笑みを浮かべて会釈した。
本陣の義元もまた、輿の中から静かに翔次を見つめ、満足げに頷いていた。
(……これで、良かったのだ)
翔次は心の中で呟いた。
信長は死んだ。歴史は壊れた。
だが、この過酷な乱世の中で、自分は確かに、二万の軍勢が壊滅する未来を防ぎ、元康を救い、今川義元が破滅へ向かう道を断ち切ったのだ。
川の向こう、尾張の大地には、今や歓喜の声を上げる民百姓と、勝鬨を上げる四天王の姿があるはずだ。
後の世の軍記には、信照が一兵も動かさず、ただ沈黙の深謀をもって今川二万を自ら退かせたと記されることになるのかもしれない。
その見えざる巨影は、今まさに天下へと広がり始めたかのように、翔次には思えてならなかった。
永禄四年、二月。
泥濘の尾張に幻影の軍を見た不敗の軍師と、姿なき魔王の最初の死闘は、ここに静かに幕を下ろしたのであった。




