第十八話:元康の限界と頼みの綱
第十八話:元康の限界と頼みの綱
尾張の寒気は、春の訪れを前にしてなお厳しかった。
沓掛城と鳴海城を結ぶ街道筋、尾張・三河の国境をなす境川の沿岸。その最前線に布陣する三河勢の陣屋には、篝火の爆ぜる音と、低く押し殺した呻き声だけが、雪混じりの闇の中に漂っていた。
三河武士といえば、東海道にあって「頑固一徹」「義理堅く、死を恐れぬ」と評される精強なる兵たちである。
矢玉飛び交う野戦にあっては、主君の馬前で討ち死にするを無上の誉れとし、いかなる強敵の前にも一歩も引かぬ鋼の結束を誇る。
――しかるに、今、この境目の泥土の上に蹲る三河勢の姿には、かつての勇猛さの欠片も残されてはいなかった。
「……また、夜番の若衆が一人、錯乱いたしましてござる」
陣小屋の莚の上で、三河の宿老・酒井左衛門尉忠次が、青ざめた顔で絞り出すように言った。
「丑満時の物見を務めておった者が、突如『闇の奥に信照旗が見える! 白い旗が押し寄せてくる!』と叫び出し、自らの脇差を喉に当てようといたしましたところを、間一髪で取り押さえ申した。……正気を失い、今は縛り上げて寝かせておりまする」
その言葉を聞いた松平蔵人佐元康は、膝の上に置いた両拳を震わせ、陣羽織の襟元を掻き毟るようにして前屈みになった。
「……なぜじゃ。なぜ、我が三河の若衆が、かように心を病まねばならぬのじゃ……!」
答えは、重臣たちの濁った眼差しの中に、あまりにも明瞭に浮かび上がっていた。
戦えないのだ。
命を捨てる覚悟はできている。敵の突撃があれば、喜んで槍衾を揃えて迎え撃つ気概もある。
だが――戦うべき敵の姿が、何処にも見当たらないのだ。
翔次が下した厳格な軍令――「兵を減らすな、無駄に戦うな、挑発に乗るな」。
その教えを忠実に守っているがゆえに、三河衆から討ち死にする者は一人も出ていない。敵の刃にかかって命を落とす者は皆無であった。
だが、死人が出ないということは、合戦に決着がつかないということでもあった。
昼間、境目の村へ米や薪の調達に赴けば、百姓どもは無言で『織田十郎信照』の白旗を指差し、木戸を固く閉ざして一握りの塩すら売ろうとしない。道を尋ねれば、偽りの間道へ誘導されて泥濘に馬を呑まれ、冷たい嘲笑の気配だけが竹林の奥に残される。
そして夜になれば――。
影の者が焚く偽りの合図篝が遠く揺らめき、木曽川の支流からは川の者どもの手勢が放つ不気味な指笛が四方から響き渡る。時折、闇を切り裂いて朱槍の男が前哨の柵を叩き割り、今川兵が槍を構えて駆けつけた頃には、すでに幻影のごとく霧の彼方へ消え去っている。
眠れないのだ。
いつ襲われるか分からぬ闇の重圧。
足を踏み出す先すべてが、敵か味方かも判じ得ぬ「信照の庇護を受けた地」という名の見えざる罠。
刃を交えることもなく、名乗りを上げることも許されず、ただ見えざる悪意の海の中に首まで浸からされ、一日、また一日と、正気だけを削り取られてゆく。
その上、後方の沓掛本城からは、三浦上総介ら今川譜代の重臣たちから、連日のように過酷な督戦の書状が届いていた。
『三河衆は先鋒の役目を何と心得るか』
『なぜ信照旗を掲げた村を焼き払わぬのか』
『敵の首級一つ持参できぬは、今川への忠誠を疑われても弁解の余地なきことぞ』
前線では見えざる敵に首を絞められ、後方からは主家・今川の冷酷な刃で背中を突かれる。
過日、翔次から「知らぬは恥にあらず。何をするかが主の務め」と教えを受け、元康は「もう二度と、三河の者に『ただ耐えよ』とは申しませぬ」と心に誓った。
その誓いを守ろうとした。
兵に耐えよと言わぬ代わりに、前線で受ける罵声も、夜襲の恐怖も、兵站の苦難も、すべてを元康自身が一人で両肩に背負い込み、家臣たちの前では平気な顔を取り繕い続けてきた。
しかし、終わりの見えぬ駐留の果てに、その無理が、ついに決壊の時を迎えていた。
「う……ぐっ……!」
元康の喉から、突然、獣のような苦鳴が漏れた。
「殿……! 殿ッ!」
忠次が叫んで駆け寄る。
元康は両手で自らの腹を抱え込み、敷かれた莚の上に転がり落ちて激しく身悶えした。額からは滝のような脂汗が噴き出し、青白い唇から苦い胃液を吐き、肩で荒い息をついた。
「腹が……胃の腑が、引き裂かれる……! 息が……息ができぬ……!」
「薬を! 薬湯を急げ!」
「い、いらぬ……!」
元康は忠次の腕を必死で押し返した。その瞳は血走り、正気と狂気の狭間で激しく揺らいでいた。
「薬など……効かぬわ……! 某が……某の不甲斐なさが、三河の者どもを追い詰めておるのじゃ……! 忠次……某は……某はもう、支えきれぬ……!」
三河武士の鑑たる元康の口から漏れた、痛切極まる弱音。
忠次も、傍らに控える石川数正も、ただ唇を噛み締め、涙を落とすほかなかった。
合戦の傷ではない。
誰一人死なせまいと一人で重圧を抱え込み続けた結果、松平元康という男の魂そのものが、内側から音を立てて砕け散ろうとしていた。
激しい発作がようやく治まり、荒い息を吐きながら身を起こした元康は、泥のついた小袖を掻き合わせ、かすれた声で呟いた。
「……翔次殿の陣へ参る」
「は……? 翔次殿のところへでございますか?」
数正が怪訝そうに問い返した。
「この雪の夜更けに……しかも、本城の重臣たちに見咎められれば、何を言われるか――」
「構わぬ」
元康の双眸に、溺れる者が藁を掴むかのような、切実なる光が宿った。
「あのお方しかおらぬのじゃ。……某の苦しみを、三河の地獄を、真に解してくださる御仁は……あの陣中に、翔次殿ただ一人しかおらぬのじゃ……!」
丑満時を過ぎた頃。
沓掛城の東の曲輪、馬防柵のすぐ脇に建てられた、粗末な板敷きの陣屋。
行灯の微かな油煙の匂いが漂う室内で、鍋蓋翔次は一人、木札の勘定と筆を握りしめたまま、机上の兵糧出納帳を見つめていた。
障子を叩く雪の音が、時折、ぱらぱらと乾いた音を立てる。
翔次の顔にも、深い疲労が刻まれていた。
萱津に端を発した「信照の庇護地」の増殖を止められず、絵図に線を引くこともできず、今川軍の前進は完全に止まっている。前世の知識をいくら振り絞ろうとも、敵の実体がつかめぬ以上、打つべき手立てが見つからない。
胃の腑の奥が、重く冷たく引き絞られるような痛みを覚えていた。
トントントン、と。
障子の桟を、遠慮がちに叩く音がした。
「……誰だ」
翔次が短刀の柄に手をかけると、外から雪混じりの吐息とともに、消え入りそうな声が返ってきた。
「……某でござる。松平蔵人佐……」
翔次は息を呑み、即座に立ち上がって障子を開けた。
寒風とともに吹き込んできた雪煙の向こうに、頭巾を目深に被り、泥だらけの蓑を纏った元康が立っていた。供回りは石川数正ただ一人。
頭巾の下から覗く元康の顔は、頬がこけ、眼差しには疲労が濃く刻まれていた。今にも倒れ伏しそうに揺れている。
「元康殿……! いかがなされました、このような雪の夜に!」
翔次は咄嗟に元康の両腕を抱き止め、室内へと招き入れた。
部屋の隅の囲炉裏端に元康を座らせ、濡れた蓑を剥ぎ取る。元康の身体は、氷のように冷え切っていた。
「数正殿、早く火の側へ。……今、白湯を沸かしまする」
「す、すまぬ……翔次殿……。夜分に……押しかけ申して……」
元康は膝を抱え、小刻みに震えていた。
翔次は鉄瓶から沸き立つ湯を茶碗に注ぎ、懐から取り出した甘草と熊の胆の粉末を溶かし入れると、元康の両手の中にそっと収めた。
「これを。胃の腑を温めてくだされ」
元康は震える両手で茶碗を持ち上げ、一口、二口と啜った。
湯気が冷え切った顔を包み、喉を通る温もりに、元康の瞳から、ぷつりと糸が切れたように大粒の涙が零れ落ちた。
「……翔次殿」
元康の声は、嗚咽に震えていた。
「某は……もう、限界にござる」
数正が障子の前で深々と平伏し、背中を震わせている。
元康は茶碗を畳の上に置くと、床に両手をつき、翔次に向かって額を擦り付けた。
「我が三河衆が……心を壊してゆくのでござる……! 合戦で討ち死にするのではない! 夜の闇に怯え、百姓の冷たい目に怯え、眠れぬ夜を重ね……正気を失い、己の喉に刃を当てようとする者まで出申した! ……境川の前線は、生き地獄でござる! 敵の姿は見えず、どこを撃てばよいかも分からず……されど今川の本陣からは、前へ出よ、首を獲ってこいと、毎日のように罵声が飛んで参る……!」
元康は畳の目を爪で掻き毟った。
「某は……『もう耐えよとは言わぬ』と家臣に誓い申した。なればこそ、三河の苦しみはすべて某が背負わねばならぬと、一人で歯を食いしばってまいり申した! されど……この尾張の泥沼は、あまりにも底が知れぬ! 信照という男は……戦いもせず、ただ我らを泥の底へ引きずり込み、三河の魂を根こそぎ腐らせようとしておる! ……某一人では、もう……支えきれぬのでござる……!」
慟哭であった。
十八歳の若者が、一国の運命と家臣の命を背負わされ、逃げ場のない暗闇の中で吐き出した、血を吐くような魂の叫びであった。
家臣たちの前では主君であり続けなければならなかった元康が、同じく戦の重荷に苦しむ翔次の前でだけ、一時、鎧を脱いだのだ。
その姿を見つめる翔次の胸中に、凄まじい激痛が走った。
――罪悪感。
かつてないほど濃密な、地獄の業火のような罪悪感が、翔次の内臓を焼き焦がした。
(俺のせいだ……)
翔次は拳を強く握りしめ、自らの膝を見つめた。
(俺が……桶狭間で信長を死なせ、義元を生かしたからだ)
かつての記憶が、鮮やかに蘇る。
本来であれば――。
桶狭間の戦いで義元が討ち死にし、大混乱に陥った今川軍から解き放たれ、元康は岡崎城へと奇跡の帰還を果たすはずであった。
そこで信長と同盟を結び、「徳川家康」と名を改め、三河を平定し、やがて天下の主へと駆け上がっていく――それが、この男を待っていたはずの道筋であったのだ。
だが、翔次が己の保身のため、死にたくないがために放った「田楽狭間に信長の奇襲が来る」というたった一言が、その未来を破壊してしまった。
義元は生き残り、今川の支配は揺るがず、元康は岡崎へ帰る機会を失った。
そして今、信照という正体不明の怪物が創り出した泥沼の最前線に張り付けられ、精神を擦り減らし、胃を爛れさせ、狂気の一歩手前まで追い詰められている。
(俺が……この男の未来を奪い、この地獄へ突き落としたんだ……!)
だが、その激しい痛みの底から、翔次の胸に別の熱い感情が湧き上がってきた。
目の前の青年は、翔次が知識として知っていた松平元康ではない。
自分の前で泥に額を擦り付け、涙を流して苦しみを打ち明けている、かけがえのない生身の人間なのだ。
そして――今川の陣中にあって、未来を失った罪悪感に苛まれ、誰にも本音を明かせずに胃を痛めている翔次にとってもまた、この元康こそが、唯一無二の理解者であり、魂を繋ぎ止めてくれる「頼みの綱」ではなかったか。
翔次は唇を噛み締め、元康の前に進み出ると、板敷きの上に両膝をついた。
そして、震える元康の肩を、両手でしっかりと抱き起こした。
「……元康殿。顔をお上げくだされ」
元康がおずおずと顔を上げる。
その濡れた瞳を、翔次は真っ直ぐに見据えた。
「元康殿。貴殿一人で、三河のすべてを背負う必要などござりませぬ」
「翔次殿……?」
「貴殿が一人で抱え込み、倒れてしまえば、それこそ三河の者たちは路頭に迷いまする。……もう、境川の前線で苦しむ必要はございませぬ」
「な……!?」
数正が息を呑み、元康が目を見開いた。
「引き揚げられると申されるのか……? されど、三浦殿や朝比奈殿が、そのようなことを許すはずが――」
「許させまする」
翔次の声には、かつてない冷徹な、そして揺るぎない覚悟が宿っていた。
「三浦殿らの怒声など、恐るるに足りませぬ。それがしが明日、太守様に直接言上し、全軍の陣割りを根本から改めまする」
翔次は立ち上がり、机の上から一枚の白紙を引き寄せると、筆を執って素早く陣割りの絵図を描き始めた。
「元康殿、御覧くだされ。敵の信照が狙っておるのは、我が軍の補給路の寸断にございます。前線の境川で睨み合いを続けている間にも、後方の沓掛から三河本国へ至る兵糧の道が、川の者どもや影の者によって脅かされておりまする」
翔次は筆先で、沓掛から東へ伸びる街道筋を指し示した。
「今の陣割りでは、三河勢が最前線に張りつき、後方の荷駄は今川の兵が守っておりまする。されど、三河勢を前線から退かせたとて、ただ休ませるだけでは太守様も首を縦には振られますまい」
翔次は筆先を後方の街道へ移した。
「そこで、三河勢には兵糧の中継所と街道の守りを担っていただく。敵の襲撃に備えて守備を固め、輸送の折には護衛をつける。ただし、元康殿が一人で采配を執るのではござらぬ。酒井殿、石川殿らに役目を分け、貴殿は全体を見届けるにとどめるのです」
「……某が、すべてを指図せずともよいと?」
「左様。主君の務めは、何もかも一人で抱え込むことではござりませぬ。家臣を信じ、任せることもまた、主君の務めにござる」
元康は、しばらく言葉を失った。
翔次はさらに続けた。
「心身を損なった者は、三河へ戻して休ませまする。残る者にも交代の暇を与え、前線の守りは今川直轄の諸将に担っていただく。三河勢を捨て置くのではござらぬ。三河勢にしか守れぬものを守っていただくのです」
「されど、三浦殿らは……」
「太守様には、兵糧の損失と前線の疲弊を申し上げまする。兵が疲れ果てて槍を握れぬようになれば、どれほどの大軍も役には立ちませぬ。今、三河勢を立て直すことこそ、今川全軍のためにござる」
翔次は筆を置いた。
「元康殿。貴殿も、兵とともに休まれよ。三河の者を守るために、貴殿自身が倒れてはなりませぬ」
「翔次殿……ッ!」
元康の口から、堰を切ったように嗚咽が漏れた。
元康は畳の上に崩れ落ち、翔次の膝に額を押し当てて、子供のように声を上げて泣いた。
「かたじけない……! かたじけのうござる……! 某は……某は、今川の陣中にあって、誰も頼る者がおらなんだ……! 誰もが三河を軽んじ、捨て駒としか見ておらなんだ……! それを……翔次殿だけが……某の苦しみを、三河の命を、いつも救ってくださる……!」
元康の熱い涙が、翔次の小袖を濡らしていった。
背後で平伏する石川数正もまた、肩を震わせて号泣していた。
「翔次殿……! 松平蔵人佐元康、たとえ天が崩れ、地が裂けようとも、貴殿の御恩を忘れはいたしませぬ……!」
若き当主が、一人の軍師の前に魂を投げ出して涙を流している。
翔次は静かに元康の背中に手を置き、優しくその震えを撫でた。
(元康殿……。俺にとっても、貴殿こそが頼みの綱なのだ)
翔次は心の中で静かに呟いた。
歴史を変えてしまった罪。
未来を壊してしまった暗い重圧。
その孤独の中で、己の知恵を必要とし、一個の人間として信じてくれるこの青年がいなければ、翔次自身もとうに発狂していただろう。
互いが互いの痛みを支え合うことで、辛うじてこの戦国の泥濘に踏みとどまっているのだ。
「……元康殿。少し酒を、酌み交わしましょう」
翔次は微笑み、棚の奥から一本の濁酒の徳利を取り出した。
「三河の未来のために。……今宵は、心ゆくまで、身体を休めてくだされ」
「……は、はい……!」
元康は涙を拭い、少年のように顔を綻ばせた。
雪の降る夜、二人は小さな囲炉裏を囲み、温めた酒を静かに酌み交わした。
胃痛の苦しみを語り合い、故郷の風景を語り合い、戦のない世の夢を語り合う。
身分も、出自も、時代すらも超えた二人の男の間に結ばれた絆は、いかなる金銀や盟約よりも固く、暗い乱世の闇を照らす一筋の灯火となっていた。
――されど。
この夜の密談と、三河勢の前線からの後退が、やがて大名・今川義元の心中に、決定的な亀裂を生じさせることになる。
翌朝、翔次の献策を受け入れた義元は、三河勢の後方配置転換を命じた。
兵糧の損失、前線の疲弊、戦力低下――合理を解する名君は、その根拠を認めた。
だが、その結果として、今川直轄軍は最前線の負担を一層引き受けることとなり、今川家の兵站と財政は、破綻へと近づく危機にさらされていった。
尾張の泥沼は、今川という巨人の最後の一歩を、冷酷に飲み込もうとしていた。




