第二話:桶狭間の暗雲と、狂った歯車
第二話:桶狭間の暗雲と、狂った歯車
切っ先が、夕暮れの湿った大気を切り裂き、翔次の眉間数寸に迫っていた。
「止まれと言うたのが聞こえなんだか」
地を這うような低い声には、一切の容赦がなかった。翔次は息を呑み、硬直した。心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がり、喉の奥が瞬く間に干上がっていく。
目の前に立ち塞がるのは、胴丸に身を固めた数名の武者であった。街道の風に翻る旗には、墨黒々と「丸に二引両」の紋が描かれている。足利一門たる今川家の旗印であった。
翔次は、己の失策にこの瞬間になってようやく気づいた。
清須の織田勢を目指して道を急ぐあまり、尾張へ進出していた今川軍の物見や巡邏の網へ、自ら無防備に飛び込んでしまったのだ。
「怪しき奴め。間者か」
先頭に立つ筋骨逞しい武者が、冷徹に吐き捨てた。齢は三十半ば。日に焼けた頬には古傷が刻まれ、その双眸は獲物の急所を射抜く猛禽のごとき光を放っている。
翔次には知る由もなかったが、この武者こそ、鳴海方面の軍事を預かる今川家の将、岡部五郎兵衛元信であった。
「ち、違う、俺は……!」
翔次は震える舌をもつれさせ、弁解を試みた。だが、声は掠れて形を成さない。
「織田の物見か、野伏の類いか。いずれにせよ、合戦の刻限にこの地を彷徨う者を、無闇に通すわけにはいかぬ」
元信の声に揺らぎはなかった。
「搦め捕れ。陣所にて詮議する」
配下の兵が一斉に踏み込んできた。翔次は両腕を背後へ乱暴にねじり上げられ、泥濘の中へ引き倒された。額が小石に擦れ、口中に血と土の苦い味が広がる。
「待て……! 待ってくれ、俺はただの百姓で――」
「黙れ。問答は陣所でいたせ」
荒縄が手首に食い込むほどきつく締め上げられ、翔次は引き摺られるようにして連行された。
先刻まで胸を焦がしていた全能感など、見る影もなかった。
歴史を知っている。だから負けるはずがない。
そう信じていたはずなのに、今の翔次は、目の前の武者たちに逆らうことさえできない。己が何者であるかを説明する言葉すら見つからず、ただ首を斬られる恐怖に震えていた。
歴史の知識があろうと、首を刎ねられれば終わりなのだ。
その当たり前の事実を、翔次はようやく思い知らされていた。
連れて行かれた先は、鬱蒼とした雑木林の背後に設けられた陣所であった。
かがり火の煙が立ち込める中、将兵たちが忙しく行き交い、床几を囲んだ武者たちは絵図を広げて軍議を交わしていた。泥にまみれて引き据えられた翔次は、息を潜めて周囲を窺った。
陣幕の奥、一段高き場に腰を据えている巨躯の男の姿を捉えた瞬間、翔次の全身の血が凍りついた。
年の頃は四十がらみ。公家風の優美な装いをまといながらも、その肉躯には戦場を統べる者の重厚さがあった。双眸は底知れぬ静けさを湛え、居並ぶ諸将を圧する威厳が全身から立ち昇っている。
今川治部大輔義元――。
書物の行間や古画の中で幾百遍となく見知った、東海道の巨人が、いま生身の息遣いとともに眼前に座していた。
「元信。その者は何者ぞ」
義元の低く澄んだ声が、陣幕の空気を微かに震わせた。
「街道にて捕らえし不審の者にござります。織田の間諜、あるいは野盗の類いかと」
「して、名は」
義元の視線が翔次の額を射抜いた。その冷徹な眼光に貫かれた瞬間、翔次は喉を詰まらせた。
「……」
「申せ」
「……や、弥八、と……申します……」
情けないほど掠れた声であった。
「百姓の倅か。尾張の土民が、なにゆえ合戦の最中に街道を駆け抜けておったのか。申し開きをしてみよ」
翔次は言葉を失った。
信長に会いにいく途中だった。
そんなことを口にすれば、その瞬間に首と胴が離れる。かといって、適当な嘘をつけば、目の前の男に見破られるのではないか。
重苦しい沈黙が陣幕を支配した。
義元の側近と思しき若い将が、苛立たしげに佩刀の鍔を鳴らした。
「太守様、かような者に刻限を費やすは無用にござります。織田の間者であれば、なおさら生かしておく理由はございませぬ」
鞘走る冷たい金属音が響いた。
白刃の閃光が網膜を焼いた瞬間、翔次の頭の中で理性の堤防が音を立てて決壊した。
死ぬ。
この乱世の土塊となって、名もなき百姓のまま首を斬り落とされる。
そんな結末だけは、どうしても受け入れられなかった。
「ま、待ってください……! 頼む、殺さないでくれ……!」
翔次は縄目を軋ませ、額を泥に叩きつけて叫んだ。
「俺は間者ではない……! ただ、知っているだけだ……! 雨が……大雨が来る! 今日のうちに、天が裂けるような豪雨が降り注ぐ……!」
口走った瞬間、背筋に冷水が走った。
だが、首筋に迫る死の冷気から逃れたい一心で、言葉は止まらなかった。
義元は微動だにせず、ただ静かに翔次を見下ろしていた。
「元信。天を見よ」
「はっ」
元信が幕の切れ目から空を仰ぎ、眉をひそめた。
「確かに、風が湿り気を帯び、西の空には黒雲が広がりつつございます。されど、百姓の言葉のみをもって軍を動かすわけにもまいりませぬ」
「無論じゃ」
義元は短く答え、再び翔次へ目を向けた。
「弥八とやら。今一度問う。大雨が降るとして、それが我が軍にいかなる障りをもたらす。そなたは何を怖れておる」
翔次は生唾を飲み下し、喘ぐように息を吐いた。恐怖が、さらなる禁断の知識を引きずり出していく。
「……水が集まる場所は危ない……! 低い窪地は……敵に囲まれれば逃げ場を失う……! 田楽狭間……! あそこへ入ってはならない……!」
陣幕内の空気が、瞬時に張り詰めた。
「……田楽狭間、とな」
義元の目が鋭く細められた。
「弥八。田楽狭間が休息地の候補として名に上がったのは、先刻の軍議の中でのこと。そなたのような百姓が、なぜその名を知っておる」
翔次の心臓が跳ね上がった。
しまった。
今川軍がこれからどこへ進み、どこで休息を取るかなど、一介の百姓が知るはずもない。うっかり口を滑らせたせいで、かえって疑いを深めてしまった。
「ち、違う、俺はただ……! あの窪地は雨が降れば泥濘と化し、馬の脚を取られると……! どうか信じてくれ、天を見てくれ……!」
翔次は涙と泥に顔を汚し、必死に許しを乞うた。
己の口が、歴史の歯車を音を立てて狂わせ始めたことに、まだ気づかぬまま。
義元はしばし無言のまま腕を組み、幕外の暗雲を見つめていた。
「元信。この者、いま斬るには及ばぬ。縛ったまま後陣へ留め置け」
「太守様。間者の妄言かもしれませぬぞ」
「信じたわけではない」
義元は静かに答えた。
「されど、用兵の道とは、万に一つの危うきを摘むことにある。元より、あの窪地は予も地形の閉塞を好まなんだ。雨となれば、馬の脚を奪われ、視界も塞がれよう」
義元は床几から立ち上がり、諸将へ向けて毅然たる軍令を下した。
「田楽狭間での休息は取り止める。低地を避け、周囲を見渡せる高所へ移るのじゃ。物見を増やし、林の陰にも目を配れ。不測の事態に備えよ」
「ははっ!」
諸将が慌ただしく立ち上がり、陣幕を飛び出していった。
ただ一人、岡部元信だけが、引き立てられる翔次を射殺すような冷徹な視線で見据えていた。
その眼差しを感じた瞬間、翔次の背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。
(配置が変わった……? そんなはずは……まずい、こんなはずでは……!)
刻限が移るにつれ、翔次の言った通り、天変地異のごとき豪雨が尾張の山野を叩き始めた。
天地を揺るがす雷鳴。横殴りの雨が草木をなぎ倒し、世界は白濁した泥水の中へと没していく。
縛られたまま荷駄の陰に留め置かれた翔次は、全身を叩く激しい雨に打たれながら、必死に祈っていた。
(頼む……来てくれ、織田信長……! 奇襲を……奇襲を成功させてくれ……!)
信長が勝つ。
それだけは変わらないはずだ。
義元が陣を移したところで、歴史に刻まれた桶狭間の戦いが覆るはずはない。今川軍がどこにいようと、信長は勝機をつかみ、天下への道を歩み始める。
そうでなければ、自分がこの時代へ来た意味は何なのか。
翔次は己に言い聞かせるように、幾度もその言葉を胸の中で繰り返した。
やがて、雷鳴の轟音の隙間を縫って、地を揺るがす馬蹄の響きと、凄絶な鬨の声が湧き上がった。
「掛かれェッ!」
裂帛の号令とともに、雨煙を突き破って突撃してきたのは、松明も掲げず、泥を跳ね上げて疾走する織田の軍勢であった。
先頭を行く騎馬武者の姿が、一瞬の稲光によって白銀に浮かび上がる。
――信長だ。
烏帽子もつけず、総髪を振り乱し、眼前に死神を宿したような凄まじい気迫。
その姿を目にした瞬間、翔次の胸に希望が蘇った。
やはり来た。
歴史はまだ、己の知る筋道をたどっている。
だが、その突撃の先に待っていたのは、田楽狭間で油断し切った今川の本陣ではなかった。
義元の命により移された陣は、周囲を見渡せる高所にあった。雨の中でも地形を利用して守りを固めた今川勢が、迫り来る織田軍を迎え撃つ。
「射ち掛けよッ!」
高所から放たれる弓矢が、坂を駆け上がろうとする織田勢を襲った。
「罠かッ!?」
織田方の前衛が算を乱して崩れていく。退却を促す近習の叫びを、信長の怒号が圧殺した。
「退くな! 義元の首を獲るまで進め!」
想定外の敵陣に突っ込んでもなお、信長自身が槍を振るい、前へ前へと出て戦線を維持しようとした。その鬼神のごとき武勇に、迎え撃つ今川兵からも戦慄の息が漏れる。
信長は弱くなどなかった。
勝てるはずだった戦場で、最後まで凄まじい輝きを放ち続けていた。
だが、地形を味方につけた今川勢の備えを崩すことは叶わなかった。
やがて左右の林から、伏せられていた今川の備えが動き始めた。岡部元信が率いる一隊も雨中を突いて現れ、織田勢の退路を塞ぐべく槍を構えた。
織田軍は前からの攻撃に耐えながら、背後にも敵の影を認め、次第に身動きが取れなくなっていった。
包囲。
それは、翔次が盤上で幾度となく敵に仕掛けてきた、退路を断つための陣形であった。
だが今、その陣形の内側にいるのは、彼が誰よりも敬愛してきた男だった。
阿鼻叫喚の乱戦の果て、雷鳴を引き裂いて、ひときわ高い喊声が木霊した。
「織田上総介、討ち取ったりィッ!」
その一声が夜気を貫いた瞬間、翔次は頭を金槌で打ち砕かれたかのような衝撃に襲われた。
「う、そだ……」
泥水に顔を突っ伏したまま、翔次は呻いた。
「嘘だ……誤報だ……! そんなはずは……!」
必死に現実を拒絶する翔次の視界の先で、織田方の旗指物が、一本、また一本と無残に泥の中へ倒れていった。
喚声は勝ち鬨へと変わり、やがて本陣の中央へ、血に濡れた首級が運ばれていくのが見えた。
かがり火の光の下、首実検の場に据えられたその首級の横顔を遠目に認めた刹那、翔次の心臓が凍りついた。
まぎれもなく、あの稲光の中で鬼神のごとく槍を振るっていた、織田信長その人の顔であった。
「……」
信長は、死んだのだ。
翔次は胃の腑を絞り出すように、黄色い胃液を泥の上に吐き散らした。涙が止まらなかった。
「違う……こんなの、俺の知っている歴史じゃない……!」
脳裏に刻み込まれていた幾百の合戦譜。美濃攻略、上洛の錦旗、長篠の鉄砲、安土の巨城――己が頼みとしていた未来の因果が、一陣の煙となって音を立てて瓦解していく。
(信長が死んだ……? なら……誰が尾張を取るんだ? 誰が天下を治めるんだ……!?)
答えなど、どこにもなかった。
信長が生きている未来を前提として組み上げられていた翔次の知識は、信長が死んだこの瞬間、未来を予見する力などではなく、何一つ役に立たぬ過去の知識へと成り果てたのだ。
「俺だ……。俺が雨を教えたから……俺が田楽狭間を口にしたから……俺が、信長を殺したんだ……!」
未来という唯一の武器を、己自身の浅ましい保身の一言によって、粉々に叩き折ってしまった。
信長は死んだ。
俺の知っていた未来は、ここで死んだ。
夜が白み始めた頃、翔次は再び義元の前に引き出された。
泥まみれの単衣を震わせる翔次を見下ろし、義元は静謐な声で語りかけた。
「弥八とやら。そなたの申した雨、そして窪地の危うさ。いずれも現実となった」
「……」
「そなたの言葉が、予の命を救う一助となったことは疑いない。されど、ただの百姓が、なぜあのようなことを知っておったのか。……そなた、いかなる智恵を持つ」
問われた翔次は、もはや言葉を持たなかった。
歴史を知っていたからだ。
そう答えたところで、誰が信じるだろうか。
「……分かりませぬ。ただ、天より……そのように告げられた心地がいたしました」
苦し紛れに絞り出した翔次の虚ろな答えを、義元は値踏みするように、深い眼差しで見つめた。
「天の告げ、か。真偽はいずれ知れよう」
義元は静かに言葉を継いだ。
「されど、予の命を救いし者を、無下に殺すわけにはいかぬ。しばらく我が陣中に留め置き、そなたの言葉と働きを見極める。……して、弥八とは、この地で呼ばれる名であろう。真の名は何と申す」
翔次は泥を握りしめ、掠れた声を絞り出した。
「……鍋蓋、翔次にございます」
「鍋蓋……聞かぬ名ではないが、珍しき姓よ」
義元はわずかに目を細めた。
「よかろう、鍋蓋翔次。そなたの言葉が天の告げか、あるいは人知の及ぶところか、いずれ明らかにいたそう。まずは命を惜しまず、我が問いに答えるがよい」
「……はっ」
翔次は額を地につけた。
東の空から、冷たい朝光が差し込んできた。
雨に洗われた尾張の山野には、草木の匂いとともに、生々しい血の臭気が立ち込めている。勝ち鬨を上げる今川軍の声が、朝の大気を震わせていた。
信長を殺したのは、今川義元でも、岡部元信でもない。
自分自身だ。
その罪悪感が、業火のように翔次の胸を焼き尽くしていた。
だが、拾われた命は、確かにこの手の中にある。
生きねばならぬ。
歴史という名の地図を失い、己が救ってしまった巨大な大名の掌の上で。
永禄三年五月二十日。
夜明けの尾張に、未来を失った男・鍋蓋翔次が、震える足で歩み出した。
陣幕の隅から、岡部元信が冷え切った眼差しを翔次の背中に突き刺していた。
「あの怯えようでありながら、雨を言い当て、田楽狭間の危うさまで知っていた。……あれは神仏の使いか。それとも――天下を揺るがす妖異か」




