第一話:鍋蓋翔次、暗雲の尾張に立つ
第一話:鍋蓋翔次、暗雲の尾張に立つ
鍋蓋翔次という名を、彼は生涯にわたって呪い続けてきた。
学級の名簿が読み上げられる一瞬、教室を満たすかすかな忍び笑い。背後からその名を呼ばれるたび、胸の底を走った冷たい疼き。誰もが深い悪意をもって嘲笑ったわけではあるまい。だが、受け手にとっては、悪意のない嘲りほど心を深く削るものもなかった。
鍋の蓋。
台所の隅に転がり、煤け、地味で、およそ武功や栄華とは縁遠い道具。翔次は己の生まれ持った姓をそのように卑しみ、いつしか世人との間に厚い氷の膜を張って生きるようになった。
人の群れを嫌い、朋輩との交わりを避け、四畳半の自室に籠もっては、誰にも侵されぬ孤独な城砦を築き上げる。それこそが、彼の身につけた唯一の処世であった。
そんな暗がりの中で、翔次が貪るように読み耽ったものがある。
古今の戦史。そして、戦乱の世を模した盤上の闘争であった。
卓上に盤を広げ、駒を並べるとき、翔次は己の分身たる武将に必ず「鍋蓋」と名づけた。智勇の器量も、兵を率いる武威も、ことごとく凡庸以下に定める。それが翔次なりの、世間に対する頑なな意趣返しであった。
ある夜のこと。
盤上の城を守る兵はわずか八百。対する敵は五千を数えた。まともに城を守れば、落城は火を見るより明らかである。
だが、翔次は城兵をむやみに動かさなかった。
夜陰と泥濘を利用して敵の先鋒を空振りさせ、背後に回した少数の兵に敵の兵糧庫を焼かせる。天を焦がす炎。途絶える兵站。飢えに耐えかねた五千の敵軍が、ついに総崩れとなって退却を始めた刹那、翔次は伏兵をもってその退路を押さえた。
敵は戦わずして疲れ、食を失い、帰る道さえ危うくなった。ついには降伏を申し出るほかなかった。
「勝つ必要などない。負けぬ道を敷けば、敵は勝手に自滅するのだ」
翔次は暗い部屋で、ひとり呟いた。
外交を用いて外堀を埋め、偽報で敵の主力を誘い出し、補給線を断ち切って喉元を締める。持たざる者だからこそ、相手の強大さそのものを逆手に取り、罠へ落とす。
兵書を繰り、古地図の地形を指でなぞる時間だけが、翔次に生の実感を与えてくれた。
だが、盤上の勝敗だけでは、彼の乾いた渇望は満たされなかった。
翔次がやがて魂の底まで沈み込ませていったのは、東海道の一国、尾張の地を揺るがした永禄三年の合戦――桶狭間であった。
大学の史学演習で、翔次は担当の老教授と激しく論争したことがある。
「信長が豪雨に乗じて奇襲を成功させたのは、単なる天運ではありません。丸根、鷲津の失陥を受け入れ、今川義元の進軍と休息地点を、田楽狭間の窪地に至るまで読み切っていたからこそです」
教授は眼鏡の縁に指を当て、冷ややかに目を細めた。
「君の論には、常に『あらかじめすべてを知っていた』という前提の臭いがつきまとうな」
翔次は唇を噛み、黙然と頷いた。
知っていたのだ。
己が古文書の行間から読み解き、脳裏の盤上で幾百遍となく再現した軌跡の通りに、あの若き織田信長は動いたはずだった。
地図を広げれば、清須より熱田を経て鳴海へ至る道筋が浮かぶ。善照寺、中島、大高。砦の位置も、軍勢が移動するのに要する刻限も、網膜の裏に鮮やかに焼きついていた。
翔次にとって織田信長は、遠い過去の英雄ではなかった。
尾張の地に根を張る弱小勢力の身でありながら、知謀と胆力を頼みに天下の運命をねじ伏せた、唯一無二の魂の同胞であった。
学友もおらず、酒席にも呼ばれず、書物の山に埋もれて生きる孤独な青年を、その影だけが支え続けていたのである。
事故の前夜、翔次は安普請の天井を見つめながら、果てしない夢想に耽っていた。
もし、この身が知識を保ったまま、永禄三年の尾張に立つことができたなら。
信長という器量を誰よりも早く見抜き、その幕下に参じることができたならば、己は決して一介の雑兵で終わるはずがない。桶狭間の勝機を説き、美濃攻略の策を授け、木下藤吉郎や竹中重治よりも先に、天下の軍師として名を馳せる。
歴史の因果を知る己には、敵の次の一手も、諸国の興亡も、掌を指すように見えている。敗北の余地などない。正解の記された帳面を懐にして、合戦という大試験に臨むようなものだ。
その傲岸なまでの確信は、いつしか翔次の中で、冷めやらぬ狂気へと変じていた。
翌日、昼過ぎ。
梅雨入りを間近に控えた湿った風が、街路を行き交う人々の間を吹き抜けていた。
横断歩道の前で、翔次はいつものように俯き、路面を睨んでいた。他人の視線を避けるように歩を進めた、その刹那である。
裂帛の悲鳴が響いた。
振り返る暇すらなかった。視界を埋め尽くす鉄の巨塊。制動を失った車輪が舗装路を削る凄まじい絶叫。翔次の意識は、そこで断ち切られた。
痛みはなかった。
ただ、鉛を飲まされたように冷たく重い水底へ、果てしなく沈んでいく感覚だけがあった。
鼻腔を衝いたのは、湿った黒土と青臭い下草の匂いであった。
硬い。
背中を押し上げるのは、現代の舗装路の冷徹な平面ではない。凹凸に満ちた、生々しい大地であった。
翔次は荒い息を吐きながら、辛うじて上半身を起こそうとした。
――動かない。
いや、動く。だが、己の肉体でありながら、骨組みの重みも、筋肉の張りも、重心の位置すらまるで異なっていた。
泥に突いた両手を見る。
節くれ立ち、爪の間には垢と土がこびりつき、日に焼けて荒れた、見知らぬ男の手であった。
口元に指を当てれば、歯並びが違う。頭髪を撫でれば、ざんばらの無骨な毛束が掌に触れた。身にまとっているのは背広などではない。黄ばみ、擦り切れた麻の単衣に、腰を荒縄で括っただけの野良着であった。
「……何だ、これは」
喉から漏れ出たのは、己のものとは思えぬ低く嗄れた声であった。
呆然と周囲を見渡す。
雑木林の木々が重苦しい葉擦れの音を立てている。視界の先には、どこまでも続く未舗装の畦道と、鬱蒼とした丘陵が連なっていた。
遠くの空には、黒々とした狼煙が一本、また一本と立ち上っている。
焦げた臭気が風に運ばれてきた。民家が焼かれたときに立ちのぼる、藁や木材の煙に、何かが焼ける生々しい臭いが混じっていた。
翔次は立ち上がり、覚束ぬ足取りで土手を這い上がった。
眼下に開けた風景を凝視した瞬間、彼の心臓が早鐘のように打った。
なだらかな丘陵に挟まれた、細長い窪地。雑木林の切れ目に沿って走る、泥濘の街道。
幾百、幾千もの古地図を読み込み、地誌と照らし合わせて頭の奥に焼きつけた、あの地形の骨格が、眼前に横たわっていた。
「……桶狭間、なのか……?」
現代の測量技術で作られた地図とは、細部が異なっていた。木々の生い茂り方も、沼地の広がりも、記憶の中の地形と完全に同じではない。
それでも、この大地のうねり、この風の抜け方は、間違いなく尾張の地であった。
草叢を掻き分ける足音が響き、翔次は我に返った。
「逃げろ! 駿河勢じゃ! 丸根が落ちた! 大高へ兵糧が入ったぞ!」
荷車を捨て、幼子の手を引いて転げるように走ってくる百姓の男がいた。背後では女の泣き叫ぶ声が上がり、遠くから馬の嘶きが風に乗って響いてくる。
翔次は反射的に男の前へ立ち塞がり、その肩を掴んだ。
「待て! ここは尾張の何処だ! 今は永禄なのか、何年だ!」
男は血走った眼で翔次を睨みつけ、振り払おうとした。
「何をたわけたことを抜かしておるか、弥八! 今川の太守様が大軍を率いて押し寄せてこられたのじゃ! 丸根も鷲津も煙を上げたわ! 田植えも放り出して逃げねば、首を撥ねられるぞ!」
弥八。
男は確かに、この肉体をそう呼んだ。
尾張の土を耕す、名もなき百姓。それが、この躯の主の名であったらしい。
だが、翔次の脳髄を撃ち抜いたのは、己の卑小な身分ではなかった。
五月。田植えの時季。丸根砦の落城。大高城への兵糧搬入。そして、駿河の太守、今川義元。
すべてが合致していた。
歴史の歯車が、寸分の狂いもなく噛み合っている。
「永禄三年……五月十九日……」
呟いた翔次の唇が、歓喜と戦慄に震えた。
まさに今日、この後、豪雨が降り注ぐ。織田信長は田楽狭間の窪地で休息を取る今川義元の本陣へ突撃を敢行する。
戦国史を揺るがした、あの奇跡の合戦。その幕が切って落とされる直前の刻限に、自分は立っているのだ。
弥八という泥臭い名など、どうでもよかった。
己の魂は、鍋蓋翔次だ。古今の軍書を読み、歴史の流れを知り尽くした、未来の知識を持つ男である。
この乱世において、誰が勝ち、誰が滅びるのか。己だけが結末を知っている。
信長がこの後いかなる軌跡を描いて天下へ駆け上がるのか、その道筋が我が頭脳の中に刻まれているのだ。
負けるはずがない。
歴史という名の巨大な解答用紙を握りしめて、今まさに試験の場に立ったのだ。
「織田だ……急いで信長の軍勢へ合流しなくてはならない」
翔次は地を蹴った。
逃げ惑う村人たちとは逆の方向へ、泥を跳ね上げながら街道を北へと走る。
この歴史の知識を信長に献じ、桶狭間の勝利を確かなものとして見せれば、一介の百姓とて、たちまち重臣への道が開けるはずだ。
現代では誰からも顧みられず、鍋の蓋と蔑まれた己の人生が、この乱世の只中で、天下を動かす軍師として劇的に反転する。
生温い風が、にわかに突風となって吹き荒れ始めた。
空を覆う雲は見る間に紫黒の色を帯び、天が底知れぬ咆哮を上げようとしている。
雨が来る。
信長を勝利へ導く、あの歴史的な豪雨の先触れであった。
「待っててくれ、信長……! この鍋蓋翔次が、あんたの覇道を真の天下へと導いてやる!」
翔次は口元に笑みを浮かべ、確信に満ちた足取りで坂道を駆け上がった。
その時であった。
街道の屈曲の向こう、立ち込める土煙の奥から、整然と隊列を組んで前進してくる一団の兵が現れた。
風に翻る白布の旗指物。
そこに墨黒々と描かれていたのは、織田の木瓜紋ではなかった。
丸に二引両。
足利名門の血を引く駿河の太守、今川家の先鋒を示す旗印であった。
「――曲者か! 止まれ、動けば射殺すぞ!」
鋭い喚声とともに、数条の朱柄の槍が翔次の胸元へ切っ先を揃えて突きつけられた。
翔次の足が止まった。
歴史を知っている。だから負けるはずがない。
つい先ほどまで、そう信じて疑わなかった。
だが、目の前にあるのは盤上の駒でも、古地図の上に引かれた線でもない。己の命を容易く奪い得る、乱世の現実であった。
歴史という名の盤上が、自らの意志を持ち、嘲笑うかのように軋み始めている。
そのことに、鍋蓋翔次はまだ気づいてはいなかった。




