9話 関係性
駅から歩いて二十分程度。ゆるやかな坂を登り、寂れた商店街を経て、静かな住宅街のその先まで進むと、黄色い外壁の一軒家が見えてくる。
一年ほど前から、そこが私の新しい「家」になった。
「ゆかり、おかえり!」
「ゆかり、おかえりー!」
玄関を開けると、元気な声が出迎えてくれる。
ここにいるのは、六人の女の子たち。下は小学生から、上は高校生まで。
皆、様々な事情で家にいられなくなった子どもたちが、年齢や性別、地域によって振り分けられて生活している。
世間的には、児童養護施設と呼ばれる場所だ。
「おかえりなさい、ゆかりさん」
小さい子たちの意識が私から逸れた瞬間、児童指導員の吉田さんが、張り詰めていた糸が緩んだような表情でこちらを見た。
そして彼女は、ここの最年長者である高校三年生の亜紀に、ひどく嫌われている。
すでに出来上がっている少女たちの関係性の中で、新参の「異質な大人」として馴染むことを、彼女は許されていないのだ。
「ただいま、みんな。荷物、置いてくるね」
私は吉田さんに、同情的な笑みをそっと見せた。吉田さんも、どこか俯きがちに小さく微笑む。
亜紀はもう十八歳になる。特別な措置がなければ、来年には措置解除となり、この施設を出て自立していかなければならない。
亜紀がいなくなった後、私がこの吉田さんと仲良くしておけば、ここの主導権は自然と私に移ることになるはずだ。
それは、私にとっても都合がいい。
高校生になって与えられた、小さな一人部屋。
ベッドと机だけの空間に荷物を下ろし、上着をハンガーに掛けようとしたとき、トントンと小気味よい足音が近づいてきた。
「ゆかりー! ごめん、もう上着脱いじゃった?」
私はハンガーから上着をひったくると、さっと羽織って、前のボタンを閉めた。
この家の暗黙のルールとして、「他人の部屋のドアを勝手に開けない」というものがある。
年長者になればなるほど、プライバシーの境界線として厳重に守られるルールだ。
私は上着を着たまま、自らドアを開いた。
「ううん、まだ。今、荷物置いただけだよ」
ドアの向こうには、エプロン姿の亜紀が立っていた。お玉を指先でくるくると弄ぶその佇まいは、高校三年生にして、すでに一世帯の「母親」の風格を備えている。
「お醤油買うの、すっかり忘れちゃっててさ。そこのスーパーで買ってきてくれない? 夕飯、先に準備しとくから」
手渡されたのは、生活費として共有されているお金が入った財布だ。ずしりと重いその感触から、最近中身が補充されたばかりなのだと察する。
「うん、いいよ。ついでに何か買ってくるものある?」
「あー、えっとね。豆乳と、ホットケーキミックスもお願いしていいかな。明日みんなお休みだから、小さい子たちに作ってあげたくて」
小学三年生の茉莉が乳糖不耐症で、牛乳を飲むとお腹を下しやすいため、我が家では専ら豆乳が代用品として愛用されている。
茉莉に牛乳が合わないことを見つけ出したのも、やはり亜紀だった。
「うん、全然大丈夫。はちみつは?」
子どもたちはみんな、甘いものが大好きだ。それこそこっそり舐めて、後で職員に怒られるくらいには。
「あ、いる! ゆかりは本当に気が利くねぇ。……こんなこと言っていいのか分かんないけど、ゆかりがうちに来てくれて、本当によかったよ」
亜紀が嬉しそうに笑う。
私が一年前にこの家に振り分けられたとき、最初にしたことは「彼女の絶対的な信用を得ること」だった。
まだここに来て一年。けれど、亜紀からは自分の卒業後の「引き継ぎ先」として、すでに様々なハウスルールを教え込まれている。
「私も、このユニットで本当によかったと思ってるよ。荷物持ちに、奈々子を連れていくね」
「ありがと! 助かる、よろしくね」
料理の邪魔になるであろう、最年少のいたずらっ子を外へ連れ出すという「取引」を交わすと、亜紀はさらに笑みを深めた。
☆☆☆
「奈々子、この紙に買うもの、メモしてくれる?」
小学一年生の奈々子は、私から見ればまだ「動物の野生が混じった人間」といった様子だ。
「えー、スマホに書けばいいじゃん」
白いメモ用紙の切れ端と筆箱を差し出すと、案の定、奈々子はまずごねて見せた。
ただ、これが彼女なりの可愛い「甘えのパフォーマンス」であることを、私はとっくに知っている。
「スマホ、充電がなくなっちゃったの。たまには手書きもいいでしょ?」
隣に腰を下ろし、彼女の小さな背中を優しく撫でる。困ったような顔を作って、電源を落とした真っ黒な画面をわざと見せてあげた。
「もー、しょうがないなぁ」
この子は頼られると嬉しそうに笑う。
「お醤油、豆乳、はちみつ……あと、ホットケーキの粉。うん、ありがとう。助かっちゃった」
メモを受け取ってポケットに仕舞い、奈々子に上着を着せる。「行ってきます」とリビングに声をかけ、小さな手をしっかりと繋いで外へ出た。
「なんで、ゆかりは最近帰ってくるのが遅いの?」
スーパーへ向かう道中は、大抵ふたりきりの「秘密のお喋り」の時間になる。
「バイトを始めたの」
「ばいと?」
奈々子は、話しているときにあまり相手の目を見ない。
まっすぐ前を見たまま、それでも相手の声に意識を向けているのが分かる。
悲しい声には悲しいトーンで、楽しい声には楽しげな声で。
反射的に声の周波数を相手にチューニングできる器用さが、唯一、この子の「子どもらしくない」一面だった。
「うん。カウンセラーの宍倉さんって居るでしょ? 仁美お姉さん」
週に一、二回、施設にやってくるカウンセラーの名前は、ここの子どもたちの間で完全に浸透している。
「ひとみおねえさん、知ってる! この間もお話ししたよ」
ある程度精神が安定している子は月に一度、不安定だと判断されればそれ以上の頻度で、カウンセリングの場が設けられる。
自分についてじっくりと耳を傾け、興味を持って優しく接してくれる存在を、ここの子どもたちは大抵、無条件に慕うのだ。
「そう。その仁美お姉さんがね、『ここでアルバイトをしてみたら?』っておすすめしてくれたの」
あの『シルバー人材派遣』の事務所は、彼女からの紹介だった。どうやら所長の奥秀作と、何かしらの繋がりがあるらしい。
なかなかアルバイトの許可が下りない厳しい施設において、信頼できるカウンセラーが持ってきた「許可済みの特例バイト」の提案は、私にとってあまりにも魅力的で、断る理由なんてどこにもなかった。
「ふーん」
夕方のスーパーは、ひどく混み合っていた。そろそろ、お惣菜コーナーに半額シールが貼られる時間帯だ。
騒がしい惣菜コーナーを通り過ぎ、奈々子の書いてくれたメモを頼りに、必要なものだけをカゴに放り込んでいく。
ふと、奈々子が三ツ矢サイダーのペットボトルをじっと見つめているのに気がついた。新フレーバー。春らしい爽やかなピンクのパッケージに、みずみずしい桃のイラストが描かれている。
「少しだけど、ちゃんとお給料がもらえるから。そしたら、奈々子の好きなジュース、買ってあげるね」
「やったぁ! ……あ、でも、みんなの分も買わないと駄目なんだよ。そしたら、すっごく高くなっちゃうね」
くるりと振り返った奈々子は、一瞬だけ満面の笑みを見せたけれど、すぐにその表情を曇らせた。
「大丈夫。みんなの分も余裕で買えるくらい、たくさん貰えるから。コンビニの新しい飲み物、飲んでみたいって言ってたもんね」
レジはまだ空いていた。
店員が満を持して、惣菜に半額シールを貼りに出動したようだ。
店員の後ろを、まるでカモの親子のようにお客たちがぞろぞろとついていく様子が、なんだか滑稽で面白かった。
「本当に、みんなの分もいいの?」
「うん。本当にいいよ」
買った商品をエコバッグに詰めて、家への帰路につく。エコバッグは二つ。
重い調味料は私が持ち、軽いホットケーキミックスは奈々子に持ってもらう。空いたほうの手を、私たちはぎゅっと繋いで歩いた。
☆☆☆
「ただいまぁ!」
奈々子が、勢いよく靴を脱いで家に上がる。
その時、私の頭の中に、ふっと稔くんの姿が思い浮かんだ。
――彼はまだ、靴を綺麗に揃えることができない。いつも、だらしなく脱ぎっぱなしだ。
「お醤油、これで良かった?」
エコバッグの中身をテーブルに広げ、バッグを綺麗に畳む役割を、リビングにいた小さい子にお願いする。子どもたちは「ああでもない、こうでもない」と、嬉しそうに役割を全うし始めた。
「完璧! ありがとう、ゆかり。……あ、吉田さん、これ、お醤油のレシート渡しておきますね。後のキッチン作業は私がやっておくので」
亜紀はレシートを差し出しながら、これ見よがしに壁の時計に目をやった。
そろそろ職員のシフト交代の時間であることを暗に示すようなそのトゲのある態度に、吉田さんは困ったように眉を下げてレシートを受け取った。
「ありがとう。確かに受け取りました。……そろそろ土屋さんが来るから、私、着替えてきますね。みんな、先にご飯にしてて。あ、火の扱いだけは本当に気をつけてね」
「はぁい、お疲れ様ですー」
食事が並ぶ。
「……美味しいね!」
場の不穏な空気を察した奈々子が、わざとらしいほどの無邪気さで声を張った。
「うん、美味しい。亜紀は本当に料理が上手だよね」
私はその波に、当たり前のような顔をして便乗した。この食卓が、あくまで平穏で、明るいものであるように振る舞うために。
「あきのご飯、だいすきー!」
歪で、不自然で、けれど、自分が生まれ落ちた最悪の場所よりは、ずっとマシなこの空間。
そのかりそめの平穏を、ここの全員が、少しずつ譲歩し合いながら大事に守っている。
それは、血縁や「家族」という綺麗な言葉に甘え、互いを傷つけ合う崩壊したコミュニティよりも、ずっと健全で、ずっと人間らしい機能美に満ちているのではないか。
少なくとも、私はそう思っている。




