8話 悪い夢 side稔
「いい拾いものでしょ」
奥秀作が、口元だけで薄気味悪い笑みを浮かべる。
分厚い前髪の隙間から覗くその瞳が、ちっとも笑っていないことを、この世で俺だけはよく知っていた。
宮脇ゆかりは、きっと新しいモルモットだ。
あの所長にとって、人類は皆一様に実験動物でしかないけれど、彼女には特に興味を惹かれる「何か」があるのだろう。
実際のところ、宮脇ゆかりは何の変哲もない、どこにでもいるただの女子高生だった。
しいて言うなら、俺が少し苦手なタイプだ。そつがなくて、どんな状況でも決して悪者にはならないような、立ち回りの上手い八方美人な優等生。
肩書きだけの所長をしている奥秀作は、お香の効能について、宮脇ゆかりに物知り顔で説明しようとしていた。
まだ会ったばかりの、それこそ信用の置けない相手にここまで秘密を晒すことに、俺は内心、全く心穏やかではいられなかった。
しかし、それすらも単なる実証実験に過ぎなかったらしい。
所長は、宮脇ゆかりが今のお香について何一つ理解を示さないことを最初から予測していて、その予測が正しいかどうかをただ確かめただけなのだ。
事実、どんなに言葉を尽くして説明しようとも、すべては宮脇ゆかりにとって「外側の世界の出来事」として綺麗に処理されていく。
――へぇ、そんなことがあるんだ、ふーん。
その程度の認識で、彼女が自分の中に引いている分厚い境界線を越えて、こちらの世界が彼女の精神に侵食することは決してない。
「今日は軽い顔合わせと連絡先の交換ね。稔ともLINE交換しておいてね」
差し出された宮脇ゆかりのスマホケースには、友達と撮ったらしいプリクラが挟まっていた。
馬鹿っぽくて、ひどく痛々しい。
やっぱり、こいつとはちっとも仲良くなれる気がしなかった。
そうして所長は、用は済んだとばかりに宮脇ゆかりを早々に家に帰した。
残された俺に、彼女が香で見せたあの白昼夢について、堂々と語り散らかすためだ。
「稔、ピンクの象だっけ。大きさは? ピンクの色味はどれに近い?」
所長がノートパソコンを立ち上げる。画面には、無数に分岐する複雑な精神チャートが広がっていた。
「……小さいのが沢山いた。列を成して歩いてた。色は、これ。彩度の高い、きついピンク色」
所長は人間の無意識について研究をしているらしい。あまり専門的なことは分からない。
――正確には、これ以上知り過ぎるのが恐ろしい、というのが本音だった。
あの香は、きっと合法の麻薬だ。まだ組み合わせが見つかっていないだけで、本当は非合法のヤバい代物なのかもしれない。
「うんうん、そっか。ゆかりちゃんも高校一年生だもんねぇ。上手くいってるんだろうな、学校生活。しかもバイトも始めて、順風満帆だよね」
「……どういうことだよ」
チャートにいくつかの情報を入れ込みながら、僅かな色味や造形のイメージから、所長は相手の心を容赦なく暴いていく。悪趣味極まりない。
「彩度の高いピンクはエネルギーの高まり。つまり、すごくテンションが高くて元気に溢れていた事を示してる。で、象はクリエイティブ。創造性ね。こんな変なバイトにホイホイ来ちゃうんだから、そりゃあ色々想像するよねぇ」
パソコンの画面に向かってつらつらと分析を垂れ流す所長の口元が、じわリとニヤついた。
彼が言葉に出すのは、ほんの一部だ。
あの画面の奥にはもっと深い、人間の生々しい精神構造が映し出されているに違いない。
「それにしたってポップすぎるだろ。俺はあのお香で、悪夢しか見たことないのに」
俺の精神は、とうの昔にこの男に丸裸にされている。
香を嗅ぐのは大嫌いだった。
大抵はひどく気持ち悪くて、おぞましい恐怖の塊を見るからだ。
「稔は最低の状況を想定する癖があるからね。それ直さないと、ずっと怖い夢のままだよ」
「……そんなの」
――どうしようもないだろ。
最悪の状況に備えるのは、生き延びるための、身体のまっとうな防衛反応じゃないのか。
「でもさ、ゆかりちゃん、お前とすごく相性良さそうだけどなぁ。背中さするだけで、稔、一瞬で戻ってこれたでしょ?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
あの時、俺の背中を擦った、柔い手のひらの感触が鮮明に蘇る。
身軽な足音が近づいてきて、その声を聞いて、言葉の間を感じて。
真横に膝をついたあの少女の手が俺の背中に触れた瞬間、視界に蠢いていたあの暗闇も、おぞましい虫の群れも、嘘みたいに綺麗に消え去っていたのだ。
「そもそも、あれは不意打ちで香を嗅がされたからだろ!」
「もう彼氏とかできちゃったかなぁ、ゆかりちゃん。ピンクの象だもんなぁ、残念だね、稔」
普段から所長の話を聞いていれば、嫌でも人間の無意識について少しは詳しくなる。
「ピンク」という色が示すのは、性欲や、恋愛脳が見せることが最も多い。もちろんそれだけとは限らないが。
「何がだよ! 残念なわけないだろ!」
思わず声を荒らげると、所長は再びその口元を歪に釣り上げた。
――また、観察されている。
今の俺の過剰な反応は、この男の中で何かを裏付けてしまったらしい。
心を勝手に暴かれることがとてつもなく嫌なのに、同時に、どうしようもない安心感を抱いてしまう。
全部、俺の甘ったれた心のせいだ。だから俺は、この人からどうしても離れられない。
「あーあ、僕にも共感性とロマンチシズムがあればなぁ。トリップできたかもしれないのに。……まぁ、精神分析だけでも十分心躍るけれどね」
「マッドサイエンティストめ。いつか絶対に警察に突き出してやるからな」
夢の世界に入る『鍵』は、他人に割ける瞬間的な集中力、つまりは「共感性」にあるという。
それから、夢想的な思想を持ち合わせていること。
……認めたくは、ないけれど。
俺は、心の形状を「凹凸」で言うのなら、完全に『凹』の質があると所長は言う。
誰かに暴かれること。侵略されること。それを受け入れること。
それが、どうしようもなく心地良いのだと、俺の壊れた本能が囁いている。




