7話 きれいなもの
虫が這っている。
床板の隙間から、ぞろぞろと黒い群れが這い出てくる。
私は激しく瞬きを繰り返した。ギュッと目を閉じて、違う場所へ意識を逸らす。
ここも駄目。
あそこも、駄目。
浅くなりかける呼吸をどうにか鎮めて、冷静な自分を無理やり引き出す。
大丈夫。
よく見て。
もっと見るべきところがあるはず。
意識を肉体から少し切り離して、ゲームのコントローラーを握るように自分をコントロールする。簡単なことだ。つまみを倒せば前に進み、傾ければ横に曲がる。画面の向こうのゲームと同じ。
――見つけた。
玄関にぽつんと並ぶ、大きな紳士靴。
新品なんかじゃない。よく歩いた痕跡の残る靴だ。つま先に細かい傷があるのに、革製のそれはひどく丁寧に磨かれ、綺麗にされていた。
「おばあちゃん……」
丸まった小さな背中が見えた。
寒い冬の日も、照りつける暑い夏の日も、空調の届かない薄暗い玄関で、ただ一心不乱に背中を丸めて靴を磨き続けるおばあちゃんの姿を、私は確かに「見て」いる。
目を閉じて、もう一度、開く。
今度は、男の人。がっしりとした壮年の、おじいさん。
顔は霞んでよく見えないけれど、全体の雰囲気がおばあちゃんにとてもよく似ている。
似た者夫婦だ。おじいさんも、やっぱりきちんとしている。襟のついた服を着て、腕時計をはめ、ジーンズにキャップ帽をかぶって。
ガラリと玄関が開いた。
夏だ。どこか遠くで、狂ったような蝉の鳴き声が聞こえる。
ドアの隙間から覗く景色は、ビビットな青空と、アスファルトの強い照り返し。それから、向かいの家の庭に咲く、大きなひまわり。
「行ってくるよ」
「はいよ。いってらっしゃい」
居間で洗濯物を畳んだまま、おばあちゃんがのんびりと応える。
その瞬間、私の胸が激しくそわそわとした。
見送らなきゃ。ちゃんと玄関まで行って、あの人の顔を見なきゃ。
――そうしないと、絶対に、後悔することになるから。
玄関には、あのみ掛けたカレンダーが掛かっている。8月のまま時を止めたカレンダー。その6日の数字にだけ、赤い丸がついている。
開け放たれた居間の窓から、おじいさんの快活な声が響いた。
「お前、ゴーヤでっかいのができてるよ」
窓はみずみずしいグリーンカーテンに覆われていた。夏になると、おじいさんが毎年欠かさずゴーヤを植えるのだ。今年も大豊作。次から次へと、大きなゴーヤが実をつけた。
「はいはい、後で採っておきますよ」
――ここで、終わり。
もう一度眠ったなら続きを見られるかもしれない、そんな往生際の悪い二度寝をしてしまいたいような、切なさだけが残っている。
☆☆☆
ふっと、甘いお香の香りが鼻腔をくすぐった。私は深く、深く息を吸い込む。
艶やかな黒髪と、パリッと糊の効いた黒い生地が、突然私の視界いっぱいに広がった。
「……みのる、くん?」
変なの、と思う。
なぜか稔くんが、私の身体をぎゅっと力強く抱きしめているのだ。
ここは確か、井出のおばあちゃんの家だったはず。
しかもこんな狭いお風呂場で、一体何をどうやって、こんな体勢になったのか皆目見当がつかない。
同い年の男の子とこんなに密着したことなんて、今までの人生で一度もなかった。
なのに、心臓が全然ドキドキしないのはどうしてだろう。私、稔くんの顔だけは結構タイプなのに。
「……っ!」
ゆっくりと、彼の身体が離れていった。
至近距離で稔くんの顔が見える。彼は私と視線が合うのを拒むように、斜め下へと露骨に顔を背けた。
――やっぱり、綺麗な顔。
泣いたあとなのだろう。冬のうさぎみたいに目元が赤く、大きな目がうるうるとくりっとしている。
泣いて、少し鼻の頭が赤くなっても可愛いなんて羨ましい。
「……なんで泣いてるの?」
さっきまであんなに近くにいたくせに、さっさと背中を向けてしまった稔くんは、私の質問には一切答えない。
そのままガタガタと音を立てて風呂場の窓を開けた。
どろどろとした窓サッシに触れて、彼の軍手がさらに黒く汚れていく。
そういえば、私たちは風呂蓋を片付けに来たんだった。
稔くんが、床にある何かを跨いだ。
「あれ? 板、もう縛ったんだっけ」
腐りかけていたあの重い風呂板は、すでにガムテープで頑丈に固定され、麻紐で縦横にきれいに縛り上げられていた。
稔くんは俯いたまま、ごそごそと忙しなく動き回っている。ちっとも目が合わない。
狭い風呂場でそんな風に動き回られては、私も身動きが取れなくて困る。
「ねぇ、大丈夫? 私も何か手伝いたいんだけど」
この沈黙のほうが、かえって稔くんを追い詰めてしまうような気がした。「話しかけるな」と言わんばかりの頑なな背中に、私は少しお道化たトーンで声をかける。
仕事用の鞄を背負った稔くんが、まとまった板を持ち上げて、ようやく私を振り返った。
「……板、事務所に持って帰るから」
稔くんは顔を真っ赤に染めながら、十字に縛られた麻紐の中心を掴み、一気に板を持ち上げた。
「手伝うよ、それ重いんでしょ?」
私が一歩近づくと、稔くんは弾かれたように一歩下がった。
「ちょっと、危ないって! ……分かった、近づかないから後ろ歩きしないで!」
あんな大荷物を抱えたまま、後ろにひっくり返ったら大変だ。
私は両手を小さく上げて、大人しくハンズアップした。「私は何もしませんよ」「無害ですよ」と相手に示すのに有効な、世界共通のポーズ。
稔くんはじりじりと距離を取ったあと、脱兎のごとく浴室からダッと駆け出していった。
廊下の向こうから、稔くんの背負う鞄がガッシャン、ガッシャンと大きな音を立てているのが聞こえる。
あの高そうな一眼レフカメラは無事だろうかと、少し心配になった。
私の軍手は、驚くほど綺麗なままだ。
お給料をいただくのに、これっぽっちも働かないのは、流石にバチが当たるような気がする。
半分ほど開いた風呂窓からは、燃えるような赤い夕日がお風呂場に差し込んでいた。
「……お掃除、していこうかな」
窓辺の古いカゴの中を覗くと、使い古されたスポンジとクレンザーが置いてあった。
せめて、おばあちゃんから貰ったあの1000円に見合うだけの労働をしよう。
そう心に決めて、私は床にクレンザーを大胆にぶち撒けた。あとは力任せに擦って、シャワーで一気に流せばいい。
きっと染みついた黴は落ちないけれど、あの嫌なぬめりくらいは取れるはずだ。
私はブレザーを脱ぎ捨て、人目が無いのをいいことに制服のスカートもバサッと脱いだ。
スカートの下には三分丈の黒いペチコートを履いているから、何の問題もない。ちょっと短い体操着を穿いているようなものだ。
窓から、春先の鋭い風が舞い込んでくる。
おばあちゃんの家の中に澱んでいる埃も、全部一緒に遠くへ吹き飛ばしてくれればいいのにと思う。
☆☆☆
椅子の上でぼんやりとうたた寝をしていたおばあちゃんの手を引いて、私はお風呂場へと連れてきた。
さっきあんなに仲良くお話ししたはずなのに、おばあちゃんは私の顔を見ると、まるで今初めて会った人を目の前にしたかのように、ひどく困惑した表情を浮かべた。
「おばあちゃん、お風呂場ちょっとお掃除したよ。これでもう、安心してお風呂に入れるね」
「うん……」
おばあちゃんは何かを必死に探すように、キョロキョロと周りを見渡している。
「どうかした? クレンザーとスポンジは使って元の場所に戻したけど、仕舞うのここじゃなかった?」
親切心のつもりだったけれど、勝手に掃除をしたのは不味かったのかもしれない。
おばあちゃんなりのルールがあったかもしれないし、そもそも掃除道具だっておばあちゃんの家のものだ。
けれど、焦る私に気がつくこともなく、おばあちゃんは上を見たり下を見たりと、ただ忙しなく視線を彷徨わせている。
「こんな……こんな場所だったかねぇ、この家は」
夢に浮かされたように、おばあちゃんがぽつりと寂しげな言葉を零した。
「……もう、帰ってこないのかねぇ」
まだ春なのに、また、どこかで蝉の鳴き声が聞こえた気がした。
いつか見たような夢の中のおばあちゃんは、今よりもずっと背筋が伸びていて、もっと明るい、生き生きとした表情を見せてくれていた。
――そんな瑞々しい風景が、いきなり私の脳裏を過り、胸の真ん中にぽっかりと大きな穴が空いたような、寒々しいまでの寂しさが襲いかかってくる。
これは、私の気持ちじゃない。身体の表面がひやひやと凍りつくような孤独は、宮脇ゆかりという人間のなかには存在しないものだ。
目の前には、自分が迷子になったことすら今気がついた、そんな子供のような顔をしたおばあちゃんが立っている。
「ちゃんと顔を見て、送り出してやれば良かった……」
床に頭が落っこちてしまいそうなほど、深く下を向いたおばあちゃんの手を、私はそっと両手で包み込んだ。
気落ちした様子のおばあちゃんに、何かかけるべき言葉を探してみるけれど、何一つ適切な言葉が浮かんでこない。
おばあちゃんは今、言葉を必要としていないのだと思う。
声の震え、瞳の揺れ、床に向かって垂れた髪の毛が作る影、冷たい床がおばあちゃんの体を冷やしていくのを一緒に感じていた。
「駄目だねぇ。ずっと一緒にいすぎて、ずっと一緒にいるのが、当たり前だと思っちゃって……」
あれが最後になるなら、ちゃんと顔を見て見送ればよかった。
燦々とした太陽の下で、笑っていってらっしゃいと言えばよかった。
こんなに長いこと一緒に暮らしていたのに、最後に見た緑の葉に映るあの人の影と、懐かしい声ばかりが、残って、だんだんと顔も思い出せなくなっていく。
――入れ込みすぎていると思う。
私は他人の気持ちがよく分かる方だ。でも、それは漫画の背景みたいに「この人、今ズーンとして、落ち込んでるのかな」とか「お花が飛んでるな、幸せそう」という、気持ちの表面を掬えるに過ぎない。
その人の心にある剥き出しの言葉が、思い浮かべる過去の情景が、濁流のように自分の脳内に直接流れ込んでくるなんてことはなかったのに。
おばあちゃんは落っこちそうな頭のまま、それでも最後は私を玄関で見送ってくれた。
「気をつけて帰ってねぇ」
皮膚の薄いつるつるとした、冷たい手が、私の手をきゅっと包む。
人ひとりがようやく通れるほどの小さな玄関で、おばあちゃんは深く、深く頭を下げた。
扉が閉まる。
その完全に閉まりきる一瞬の隙間に、おばあちゃんが玄関に並んだあの紳士靴に向かって、手を伸ばす影が視えた。
理由の分からない強烈な焦燥感が心臓を激しく焼き、今すぐおばあちゃんのそばに駆け寄りたくなる衝動を、私は必死に堪えていた。




