6話 ほのかに香る
直情的な子なんだな、と思う。
気まずそうに俯いて、私の後ろからついてくる稔くんに向かって「今から二人でお仕事なの分かってて、あんな物言いしたんだ?」と、意地の悪い自分が耳元で囁く。
私は、結構な「根に持つタイプ」だ。
そう。自分では忘れたつもりでも、他人にされた嫌なことは、心の奥底でいつまでもじっと根に持つ質である。
ごめんね、陰険な女で。心の中で、これっぽっちも思っていない謝罪をしてみる。
「ごめんねぇ、歩くのゆっくりで」
「いいえ! 全然大丈夫ですよ。足元、気をつけてくださいね」
井出のおばあちゃんは、杖をつきながらゆっくり、ゆっくりと、自分の自宅へと私たちを案内してくれている。
ご近所に住んでいるらしいと分かって、事務所からすぐに向かうことになったのだ。
「事態は急を要するし、板を繋げたような古い風呂蓋だとしても、若者が二人いれば十分まとめられるでしょ」
それが、他人事のように気軽に言い放った所長の意向だった。
☆☆☆
「散らかってますけど、どうぞ、お上がりになって」
おばあちゃんの家は、小さな二階建ての一軒家だった。
小さな庭にはコンクリートが敷き詰められていて、雑草まみれということもなければ、外壁に目立つひび割れも見当たらない。
古いけれど、綺麗な家だ。うちの事務所なんかより、ずっとまともに見える。
「お邪魔します」
わずかに土埃の溜まった玄関には、きちんと揃えられた大きな紳士靴と、井出のおばあちゃんが今しがた脱いだ婦人靴が並んで置いてあった。
その玄関の壁に掛けられたカレンダーを見たとき、妙な違和感を覚えて、わずかな間、私は動きを止めた。
――あ、わかった。年号が違うんだ。
だから、日付も違う。現在の曜日と数字が合わないから、なんだか変な感じがしたのだ。
「お茶を出しましょうかねぇ。二人とも、お煎餅は好き?」
自宅に着いた途端、動きが二倍速くらい早くなったおばあちゃんは、生き生きと家の中を探り始めた。水を得た魚、なんて言葉が頭に浮かぶ。
「いえいえ、お構いなく」
靴を揃えながら、おばあちゃんを見て答えた。
これは社交辞令だ。別に喉は渇いていないけれど、お茶くらいなら貰っておいたほうが喜ぶのだから、貰ってもいいかな、という算段。
おばあちゃんの手には、すでに来客用らしいガラスのコップが二つ用意されていた。
「そういうの、貰うの駄目なんで」
ズバッと言い放ったのは、稔くんだ。
しかも、彼はまた自分の靴を適当に散らかしたまま上がっている。
頭の良い学校に行っているらしいけれど、こういう人として大事なマナーを、もっと勉強したほうがいいんじゃないだろうか。
その上、人には「冷たいやつ」なんて言い捨てておいて、随分と不作法だ。
私は稔くんの靴を無言で揃えながら、カッカッと熱くなる頭を振った。
私の頭の中には色んな自分がいて「どうでもいいじゃん、稔くんなんて」と言い捨てる自分と「いきなり冷たいやつだななんて言うことなくない!?」と怒る根に持つタイプの自分が激しく対立している。
「あら、そう……」
下がった眉。捨てられた犬がクゥンと鳴くような、ひどく落ち込んだおばあちゃんの声に、私の脳内ディベートが一時停止する。
「お気持ちだけ! お気持ちだけ貰っておきますね! あーあ、残念だなぁ」
失礼な稔くんの言葉をかき消すように、私はわざと大きな声を張った。
おばあちゃんが再びコップを食器棚に戻す後ろ姿を見守っているうちに、稔くんは、ごそごそと所長から渡された仕事用の鞄を漁り始めている。
「作業の記録用にカメラ回しますけど、いいですか?」
稔くんは、お客様をおもてなしできずに落ち着かない様子で椅子に腰を下ろしたおばあちゃんを、見もしないで尋ねた。
「かめら?」
首を傾げたおばあちゃんに、稔くんが一眼レフのような本格的なカメラを持って歩み寄る。
「これ。このボタン押すと記録できるやつ。作業するところ撮るけど大丈夫ですか」
なぜか操作方法まで丁寧に教えようとする稔くんに、おばあちゃんは嬉しそうにして、カメラをその小さな手でベタベタと触った。
「凄いわねぇ。でも、こんな汚いお家、映すの?」
「家を映すのが目的じゃないし。なんか、隠しておきたいものがあったら避けていいけど」
不安そうにするおばあちゃんに、稔くんは気休めの安心を与えるわけでもなく、ただ事実を淡々と説明する。
けれど、その遠慮のないぶっきらぼうさを、おばあちゃんは全く気にする様子もなかった。
なんなら、その飾りのなさが、却って二人をひどく親密に見せている。
「見られて困るものはないけどねぇ。凄いわねぇ、これ。ええと……」
「カメラ」
「そう! かめらね。持ってみていい?」
「重いし、別に面白いものでもないけど」
カメラを手にして無邪気に「まぁ! 重いのねぇ」と笑うおばあちゃんに、稔くんは「そう言ってるし」と小さく返した。
和気藹々とした二人の空気に、なんだか胸の奥がモヤつく。
……なんだろう、この感情は。言葉にできない。
私は、その言語化できない感情を丸めて、心の奥の箱の中にそっと閉じ込めた。
忘れるのとも違う。いつか自分のなかで、この感情に名前をつけられる日が来るまで、とっておくのだ。
生きていれば、ふとした瞬間に答え合わせができる時がやってくる。
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「お風呂場、失礼しますね」
おばあちゃんに一声かけてから、お風呂場に足を踏み入れた。
キッチンの真横という少し珍しい配置にあるお風呂場は、特有の黴の臭いがするけれど、見た目自体は新しい。
なんでも、五年前に息子さんが帰ってきたときに「ゆにっとばす」に替えてもらったそうで、おばあちゃんにとってはそれがとても使い勝手が悪いのだという。
風呂蓋の板は、壁に立てかけてあったものが倒れた拍子に割れたのか、それとも腐って崩れたことで倒れたのか。数枚の分厚い木板が、床に無惨に散乱していた。
「うわぁ、カビカビ……。しかもこの板、結構重そう」
木の表面を指でなぞれば、嫌なぬめりが指先についた。
床も、壁のパッキンも真っ黒だ。風呂椅子の裏や、窓のサッシをまじまじと見ないように、何度も激しく瞬きをしながら意識をそこから反らす。
生活の匂いが鼻につかないように、口呼吸に切り替えた。
「軍手しろよ。縄とか出すから、先にまとめといて」
「はぁい」
稔くんが背後から投げてよこした軍手をはめると、目の前の状況が、とたんに「解決すべき作業のタスク」へと変わった。
黴からも、手垢からも、生活や生身の人間から出た排出物という生々しさを感じ取ってしまうから、気分が悪くなるのだ。
軍手は、ある意味で私の心の中に、現実との大きな境界線を張ってくれる。
「ねえ、バイトの時給は2000円なのに、今回の報酬は1000円だけど」
……いいのかな?
――そんな疑問が浮かんで振り向いたけれど、そこに稔くんの姿はなかった。
不審に思って、お風呂場のドアの向こうを覗き見る。
油汚れのこびりついたキッチン。未開封の洗剤で溢れかえった洗濯機周り。醤油やソースが飛び散った冷蔵庫。
何も変わらないはずなのに、どうしようもない違和感が拭えない。
「稔くん……?」
今度は、居間を覗き込んだ。
テーブルには口の汚れた調味料の瓶が並んでいて、新聞紙で折ったごみ入れがぽつんと置いてある。
新聞のごみ入れ。折り方、なんだっけな。昔教わったのに忘れてしまった。
「おばあちゃん……?」
誰もいない。
世界から、自分以外の人間が突然消え失せてしまったみたいだ、と思った。
目がチカチカする。
色んなものが、急に「見えすぎる」から。
例えば、おばあちゃんの手の届かないキッチンラックに重なった、古い計りの箱。
埃を白く溜め込んだミキサー。
床に、なぜか何枚も敷き詰められている新聞紙。
――そして、その新聞紙の隙間から覗く、床のどす黒い染み。
ゾク、と寒気が背筋を走った。
汚い。嫌だ。そう激しく拒絶するのに、なぜか足がすくんで身動きが取れない。
この家全体の「汚れ」が、まるで時を留めたまま、生々しくそこに存在している。
私はそのことを、暴力的なまでの確信を持って強く肌で感じていた。




