5話 手を取り合って
ひどく疲れた様子の稔くんが連れてきたのは、丁寧にお辞儀をするみたいに腰の曲がった、小さなおばあちゃんだった。
ブリキのカエルが筒を差し出しているデザインの傘立てを見て、「あら、可愛いわねぇ」と言いながら杖を差した彼女は、ゆっくりとした動作で靴を脱ぎ、這うようにして玄関へ上がった。
それから三つ指をついて、「井出純代と申します。お邪魔いたします」と深く頭を下げる。
「いえ、どうぞ」
私は慌てて膝をついて出迎えたけれど、所長と稔くんの二人は、馬鹿みたいに棒立ちでその光景を見下ろしていた。
(――気の利かない人たち)
心の中で他人にそう毒づきながらも、その実、私は丁寧な井出おばあちゃんに対して、自分も同じくらいきちんとしたお出迎えをしてあげられなかったことに、小さな悔しさを覚えていた。
「どうぞ、麦茶です」
カットの入ったガラスのコップに、まあるい氷をひとつ。
琥珀色の麦茶を八分目まで注ごうとしたけれど、おばあちゃんの手がぶるぶると震えながら杖を握っていたことを思い出し、こぼさないよう半分ほどの量に留めておく。
鮮やかなパッチワークのコースターにコップを載せて差し出すと、おばあちゃんは私の目をまっすぐ見て「ありがとう」と微笑んだ。
☆☆☆
「もう、九十になるもんだからね。お風呂の釜の蓋が割れて、下に落っこちちゃったんだけど、どうにもならなくってねぇ」
音量のつまみを回しすぎたみたいに大きな声で、所長に話しかけるおばあちゃんを、私は少し離れたところから観察していた。
耳が遠いのだろうか。補聴器はつけていないように見えたけれど、最近のものは小さくて肌色のタイプもあるから、私が見落としているだけかもしれない。
「そうですか。それは大変だ」
所長は大きな体を揺らして「うん、うん」と頷いていた。
その返事は完全に棒読みで、これっぽっちも心がこもっていなさそうなのに、おばあちゃんは嬉しそうに言葉を続けた。
「そうなのよ。腰が曲がってるからね、割れた蓋をよいしょっと、やってみたんだけど危なくってねぇ」
「それはお困りでしょうねぇ」
所長が再び大きく頷く。
なかなか本題に入らないな、と思いながら隣を見れば、稔くんはもう慣れっこだという様子でスマホゲームを始めていた。
「困っちゃってねぇ。私、もう九十になるんですよ。腕も上がらないしね。息子がいるんだけどね、ちっとも帰ってこない親不孝な息子でね。息子って言っても、もう六十になるんだけれどね」
「うん、うん」
同じところを行ったり来たり、何度も同じ話を繰り返すおばあちゃんは、ついに完全に関係のない息子の愚痴を始めてしまった。
お困りごとを解決しますよとか、そのための人材を紹介しますよって、早く言わなければいけないはずなのに。
所長は話を聞いているのかいないのか、何を言われてもただ巨体を揺らして頷くばかりだ。
「息子はね、昭典っていうんだけどね。小さい頃は泣き虫でね。でも大学はいいところへ行ったのよ。大手に勤めてねぇ」
私は我慢できなくなって座布団から腰を上げ、さも当たり前のような顔をして所長の隣に腰を下ろした。
「あの、私たちがお風呂の釜の蓋、お片付けに伺いましょうか?」
簡潔に、大きな声で、ゆっくり、はっきりと。
傍観しているより、その方がずっと話が早いと思ったから。
「……お風呂の蓋?」
きょとんと私を見上げるおばあちゃんは、自分が何を相談しに来たのか、すでに頭の中から抜け落ちてしまっているようだった。
息子の昭典さんの話で、記憶がすっかり上書きされてしまっている。
「お風呂の……いえ、釜の蓋でしたっけ。落っこちて割れちゃったんですよね」
「ああ! そうなのよ、もうね、私九十になるんだけどね、腰が曲がってるから……」
話がループしそうになったところで、私はすかさず、優しく言葉を被せた。
「お困りなんですね。その釜の蓋、私たちでお片付けしますよ」
大事な事実だけを、確かめるように言葉にする。おばあちゃんは、安心したようににこにこと笑った。
「あら、助かるわ。息子がいるんだけどね、なかなか帰ってこない息子で……」
昭典さん。いい大学を出た、なかなか帰ってこない一人息子。
とても楽しそうに話すから、聞いてあげたいような気持ちにもなるけれど、ここで阻止しなければまた一からやり直しになってしまう。
「お金、かかるんですけど。……1000円、大丈夫ですか?」
私が大きな声で「お金」と口にした瞬間、おばあちゃんがぴたりと動きを止めた。
怯えるような、ひどく警戒した顔を見せたのはなぜだろう。昨今、高齢者を狙った悪質な詐欺のニュースを嫌というほど見るからだろうか。
「……せんえん?」
少し慎重な様子で、ようやく考えるような素振りを見せた。頭の中で、言葉と状況がうまく繋がらないのかもしれない。
「うん。おばあちゃんの家の釜の蓋を片付けるのに、1000円かかるの。いい?」
出来事を要約して言葉にする。これも、ゆっくり、はっきりと。
「そう、釜の蓋がね、割れちゃったのよ」
――風呂釜の蓋が割れてしまった、という事実まではどうにか遡れるけれど、そうすると「お金を支払って他人に解決してもらう」という契約の部分が、ぽろりと抜け落ちてしまう。
なかなか難しい。
「大丈夫、片付けは私がするからね。だから、このおじさんにお金を払ってほしいの。いいかな?」
根気よく、何度も同じことを繰り返す。よく話を聞こうとしてくれているのだから、徐々に噛み砕けばちゃんと飲み込んでくれるはずだ。
玄関で靴を綺麗に揃えていたし、挨拶も丁寧だった。きっと元々は、すごくきちんとした人なのだろう。
それなのに、白髪混じりの髪は少しベタついていて、服の胸元には細かい食べこぼしの汚れが残っていた。
なんだか、胸の奥がちくりと切なくなる。
年を取るということは、色んなものが少しずつ、見えにくくなって、聞こえにくくなって、感じにくくなっていくことなのだ。
「お金? あんまり手持ちがないんだけど……」
私は所長の隣を離れ、不安そうに身を縮めるおばあちゃんの隣へと移動した。そっと寄り添うようにして、一緒に古い鞄の中を覗き込む。
「一緒に見ていい? お財布、これかな?」
綺麗にアイロンの当てられたハンカチに、革の剥げた古い長財布。
それから、がま口の小銭入れ。お薬手帳に、ボロボロのピルケース。そして、鞄の底に溜まった大量のレシート。
きちん、きちんと積み重ねてきたかつての丁寧な生活と、年齢とともにどうしても目が届かなくなってしまった現在の綻び。
その両方が、小さな鞄の中に縮図のように詰まっていた。
「1000円、あるね。――所長、領収書書いて」
私が会話に割り込んでからというもの、気配を消すように大きな体を丸めていた所長が、私の命令にビクリと肩を震わせた。
「あ、はい」
所長の肩越しに、稔くんがひんやりとした視線をこちらに寄越しているのが分かった。
何が不満なのかは知らないけれど、私は見たくないものからは綺麗に目を逸らすことにしている。
空になったコップに麦茶を入れ直そうと、私は席を立った。
鴨居はあるけれど間仕切りのないキッチンは、居間から丸見えで、ひどく生活感に溢れている。
トクトクトク……と、茶渋の染みついた冷水筒が寂しい音を立てた。
「お前、冷たいやつだな」
いつの間にか背後に忍び寄っていた稔くんが、低くそう言い捨てた。
彼はそのまま、水道の蛇口から直接コップに水を汲んで一気に飲み干す。
反論を一切認めないような頑なな背中に、私はちくりと刺さった言葉を、そっと聞こえなかったことにした。




