4話 同じ夢の中
「そう、でね。稔くんって同い年の男の子が一緒に働くことになったんだけど、あんまり仲良くなれそうにないんだよねぇ」
学校からの帰り道。「一緒に帰ろう」と約束したわけでもないけれど、いつの間にか隣を歩いていた彩に、ついつい昨日の愚痴が漏れてしまった。
昨日は本当に散々だったのだ。
秀作所長は大脳辺縁系がどうだとか、アルファ波がなんちゃらで、香りと脳の強い繋がりがどうたら、神経伝達物質と共感性がなんかなって、どうにかなると、こうなる――というような話を門限ギリギリまで熱弁し続けた。
稔くんといえば、初めの取り乱しようは何だったのかというくらいイライラした様子で、貧乏揺すりをしながらスマホゲームに熱中しているし……。
つまり、私は昨日、全くもって働いていない。業務内容すらまともに把握していないのだ。
「ひどい! 女の子にそんな態度とるなんて、アルバイト先変えたら? 一緒にファミレスでバイトしようよ」
今日は6限目に体育があった。彩の目元はアイシャドウなのか、それとも汗でにじんだマスカラなのか、少し黒く染まっている。
ガードレールのない狭い道だというのに、彩はぴたりと横に張り付いて、私の腕に自分の腕を絡ませてきた。相変わらずスキンシップの激しい子だ。
「うーん……、お世話になってる知り合いの紹介なんだよね。だから、もうちょっと頑張ってみようかなって」
そう。残念ながら辞めるわけにはいかない。そういう約束なのだ。
しかも、時給は2000円。
いつの勤務から有効なのかは分からないけれど、高校生のバイトにしては破格の待遇だ。
「ゆかりとバイトしたかったなぁ」
彩は分かりやすく肩を落とした。
今までに何度か「履歴書を書くのを手伝ってほしい」と彼女から声をかけられていたけれど、そういえば彩がどこかでバイトを始めたという話はまだ聞かない。
「彩は? バイト先、決まりそうなの?」
「駅前のお洒落なカフェ、面接したけど駄目だったの。でも、店長がなんか意地悪そうだったし、かえって良かったんだけどね」
にじんだ化粧の下で、彼女の瞳が不安そうに揺れた。
この子の、まるで薄氷の上に立っているかのような情緒の不安定さは何だろう、と思う。
常に自分を弁護していないと、自分を保っていられない。彩にはそういう側面があった。
「今は、ほら、他の高校生たちも一斉にバイトを始めたりする時期でしょ? ちょっとしたタイミングの差じゃないかな」
私の言葉に、彩はパッと顔を上げて笑った。その瞳から一瞬だけ翳りが消えたのを見て、私はひそかに胸をなでおろす。
不安定なものを見つめていると、自分まで不安に侵食されていくような気がして、私はそれがどうにも苦手だった。
「そうかなぁ……、あ」
彩が不意に足を止めた。腕を組んでいた私も、つられて立ち止まる。
「どうしたの?」
「見て、あの制服。私立の男子校の制服だよ」
道路を挟んだ向こう側のコンビニの前。彩が視線で示した先に、3人組の男の子たちが並んで歩いていた。
まだ初々しさが残る黒い学ラン。統一された、品のいい通学かばん。
「あれ……?」
――見覚えがある。
そうだ、昨日見たばかりだ。お尻に土埃をつけたまま、古い居間の座布団に気まずそうに腰を下ろしていた、あの後ろ姿。
「めっちゃ頭いい子たちが通ってるんだって。こないだ、うちの学校の先輩があそこの学校の彼氏を連れて歩いてる投稿をして、ちょっと騒ぎになってたもん」
彩は少し声を潜めながらも、興奮を隠しきれない上擦った声で私に囁いた。
(稔くん、頭いいんだ……。へぇ、そうは見えなかったけど)
私の前では、悲鳴を上げて過呼吸を起こすか、神経質そうに足を揺らしてスマホゲームに熱中している姿しか見せていないのだから、そんなエリートだと言われてもいまいちピンとこない。
けれど、私の口元は自然と緩んでいた。
別になんてことのない情報だけれど、これからの会話の糸口にするには十分すぎる。
この後、どうせあの不気味な古民家で顔を合わせるのだ。どうせなら、仲を深めるついでに小気味よく突っついてみよう。
勝手なイメージだけれど、稔くんはプライドが高そうなぶん、褒められると逆に弱そうな気がする。
私は、この手の勘をあまり外さない。
ショーウインドウのガラス越しに前髪を必死に直している彩を横目に、私はあのつれない大秀才を攻略するためのロードマップを、脳内で静かに練り始めた。
☆☆☆
「こんにちは!」
静まり返った住宅街。立て付けの悪い重い扉をガラガラと開け放つと、たちまちあの甘いお香の香りが鼻腔を満たした。
そうすると、なんだかこのボロ屋全体が、ひどく素敵な場所に思えてくるから不思議だ。
「こんにちは、ゆかりちゃん」
居間のほうから、ひょっこりと所長が顔を出した。
もさもさとした白髪交じりの頭の上に、なぜか一本のチューリップが優雅に揺れている。
三和土でローファーを脱ぎ、踵をきちんと揃えて置き直す。
軋む廊下を歩いて近づき、私は所長の頭上を見上げた。
「所長、頭にチューリップが咲いてますよ?」
「感度がいいねぇ。今日はまだお香を焚いてないのに」
所長はにやりと笑った。
いつもの半纏から漂う甘い香りが、ぐっと強くなる。それに呼応するように、頭の上のチューリップが嬉しそうに揺れた。
「やっぱりこれ、お香のせいなんですか?」
秀作所長は、特別優しそうな雰囲気をまとっているわけではない。
それなのに、私はなぜかつい気安く話しかけてしまう。そういう不思議な空気を持っている人なのだ。
――私が自然と気安い態度を取りたくなる相手というのは、つまり、相手がそういう「宮脇ゆかり」を求めているということだ、と私は思っている。
私は、そうやって他人に求められる理想の自分を用意するのが、昔から少しだけ得意だった。
「昨日教えたじゃない? ……というか、チューリップか。ゆかりちゃん、何か悪巧みしてるでしょ」
所長の言葉に、少し思い当たることがあって、私は咄嗟に言葉を返した。
「え? いや、してないですけど」
(――稔くんを懐柔しようと企んでいること、バレたのかな)
このお香が見せる幻覚には、精神分析の鍵になるような明確な法則があるのだろうか。
所長は脳みその話が大好きだから、そんな脳のバグを見抜いて、からかってきているのかもしれない。
「ふーん、そう? チューリップは不誠実だとか、隠し事の暗示なんだけどなぁ」
特にそれ以上掘り下げる様子のない所長にほっとしながら、私はここではなるべく素直でいたほうが良さそうと頭の中のノートにメモを残した。
「今日、稔くんは?」
見回した居間には、まだ誰もいなかった。
所々にレースやパッチワークの小物が飾られ、パンダの置物や、金の豚の貯金箱が並んでいるばかりだ。
そのとき、ちゃぶ台の上にぽつんと置いてある日本人形に目が留まった。
なんだか、他の家具とは見え方が違う。瞬きをしたらそのまま掻き消えてしまいそうなほど、存在感が希薄なのだ。
(あれも……お香の幻覚なのかな)
実在するものと、脳が見せている幻想。その見分けが咄嗟につかないのは、少し不便だ。
「もう来るんじゃない? 今日はお客さんを連れてきてくれることになってるからね。ゆかりちゃん、お茶の準備を一緒にやってくれる?」
部屋をじっと見渡していると、どこからが現実で、どこからがファンタジーなのか混乱してくる。けれど、それをいちいち所長に確認していては、また頭の中を覗き見られるような気がした。
「はぁい」
私は、その不自然な日本人形からそっと目を逸らした。
見なければ、あってもなくても同じことだ。




